呂イン
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呂 諲(りょ いん、712年 - 762年)は、唐代の官僚・政治家。本貫は蒲州河東県[1]。
経歴
志と行いを修め整え、学業につとめた。幼くして父を失って貧しく、自立することができなかった。同郷の富豪である程楚賓の娘を妻に迎え、長安で遊学した。天宝初年、進士に及第し、寧陵県尉に任じられた。河南道採訪使の韋陟に才能を認められ、召し出されて採訪支使をつとめた。隴右河西節度使の哥舒翰の下で度支判官をつとめ、太子通事舎人を兼ねた。職務に謹厳につとめて、哥舒翰に信任され、虞部員外郎・侍御史を兼任した[1][2]。
至徳元載(756年)、粛宗が霊武で即位すると、呂諲は行在に駆けつけた。宦官の朱光輝と李遵驟にその才能を推薦され、御史中丞に抜擢された。かれの上奏は聞き入れられないことがなかった。至徳2載(757年)、粛宗が鳳翔府に移ると、呂諲は兵部侍郎に転じた。長安と洛陽が奪回されると、呂諲は勅命を受けて三司官とともに安禄山の官を受けた陳希烈以下数百人の罪の軽重を定めた[3][4]。
乾元2年(759年)3月、呂諲は本官のまま同中書門下平章事(宰相)・知門下省事となった。7月、母が死去したため、呂諲は辞職して喪に服した。10月、復帰してもとの官に任じられ、度支使を兼ねた。門下侍郎に転じた。上元元年(760年)1月、同中書門下三品を加えられた。銀青光禄大夫の位を加えられ、東平県男に封じられた[3][4]。
呂諲は宰相となると、妻の父の程楚賓を衛尉寺少卿に任用し、その子の程震を員外郎とした。また呂諲は宦官の馬上言と昵懇であった。ある人が馬上言に賄賂を贈って藍田県尉の位を猟官すると、事が漏れて馬上言は笞打たれて死んだ。呂諲は連座して太子賓客に降格された[3][4]。
7月、呂諲は荊州大都督府長史・荊澧朗忠硤五州節度観察処置等使に任じられ、御史大夫を兼ねた。荊州に着任すると、荊州に南都を置くよう請願した。9月、勅命により荊州は江陵府に改められた、永平軍団練3000人を置いて呉や蜀の抑えとし、江陵県を分割して長寧県を置いた。また潭州・衡州・連州・道州・邵州・柳州・涪州など7州を江陵府に帰属させた。また衡州の首長の陳希昂が江陵府に立ち寄ったときに、呂諲は伏兵で襲撃して殺害した。潭州刺史の龐承鼎が李輔国に誣告され、粛宗が江陵府に調査を命じると、呂諲は判官の厳郢に調べさせ、その無罪を上奏した。また呂諲は李揆を弾劾して袁州長史に左遷させた[5][6]。
宝応元年(762年)4月、呂諲は死去した。享年は51。吏部尚書の位を追贈された。諡は粛といった[7][8]。
家族
- 玄祖父:呂珪
- 高祖父:呂休
- 曾祖父:呂徽
- 祖父:呂貴成
- 父:呂蔵元
- 兄:呂懐俊
- 弟:呂儀
- 妻:程氏(程楚賓の娘)
- 継妻:顧氏(顧況の妹)
- 子:呂仁本
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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