とばん【吐蕃】
吐蕃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/01/02 11:04 UTC 版)
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吐蕃(とばん、拼音:TŭbōまたはTŭfān、チベット語: བོད་ཆེན་པོ、ワイリー転写:Bod chen po)は、7世紀初めから9世紀中ごろにかけてチベットにあった統一王国である。
名称
チベット語の བོད་ཆེན་པོ(Bod chen po)は、「チベット」( བོད、Bod)と「偉大な」( ཆེན་པོ、chen po)から構成されており、「偉大なチベット」という意味を持つ。
中国では、唐代以降、17世紀中ごろまでチベットの総称として「吐蕃」という呼称が使用され続けた。
日本では、中国名の「吐蕃」を王朝名としたほか、吐蕃王国、吐蕃帝国などの呼称が用いられるが、呼称は定まっていない。
概要
7世紀初めのソンツェン・ガンポによる統一以後[1]、吐蕃は唐と、東部では吐谷渾の帰属、南東部では南詔、北方では西域の東西通商路の支配権を巡って度々戦った。唐王室より公主(皇族の女性)を迎え和平を結ぶこともあったが[2]、唐とはたびたび和平と抗争を繰り返した。安史の乱以降は唐に対して軍事的優位を保ち、河西、隴右地区とシルクロードの大部分を支配するに至った[1]。
9世紀になるとティソン・デツェン王が仏教を国教とする方針を立て(791年、サムイェー寺の宗論)、やがて仏教指導者が国政を行うようになり、大蔵経の訳出などが実施された[3]。822年には唐との間で、対等・平等の形式で国境画定と和平を定めた条約を締結した[4]。しかしその後ほどなく、国内で仏教をめぐって対立が起こり、また王位継承問題から南北に分裂し、やがて滅亡に至った。
歴史
チベット高原の統一と建国
吐蕃王室の起源については諸説ある。仏教書には釈迦一族の末裔とする神話が描かれているが、中国の史書『旧唐書』は、中国遼東地方から移住した鮮卑拓跋部出身の王家であると記す。後世の史書にはチベットの波窩地方出身とする記述も多いが、信憑性は薄いとされる。吐蕃時代の金石文では、例外なく初代王を「天の子」としている。
ナムリ・ソンツェン王はラサ南東のヤルルン渓谷(ロカ地方、波窩地方)を拠点に勢力を拡大した。近隣のセンポやタボ、東部の小部族を征服しラサ地方へ進出した。630年に反逆者によって毒殺された後、子のソンツェン・ガンポ王(在位:630年 - 650年)が即位した。633年、ソンツェン・ガンポ王は父王の死後を起きた蘇毗族(スムパ[5])、センポ族、タボ族、大羊の反乱を平定し、都をラサに定めた。また、史書によれば、インドへ人を遣って文字を学ばせ、トンミ・サンボータが数名のインドの仏教僧とともにチベット文字を創成したとされる。
ソンツェン・ガンポ王の領土拡張
634年、ソンツェン・ガンポ王は唐へ相互に使臣を遣わし、礼物を贈りあった。さらに王国の南に位置するネパールのリッチャヴィ朝にも使者を遣わし、前王アンシュ・ヴァルマー(在位: 605年 - 629年)の娘、ティツン王女(ブリクティ、ペルサ)を妃に迎えた。仏教国であったネパールの影響により仏教が広まったとされる。
636年、唐の太宗のもとへ妃を迎えるため使者を遣わしたが、太宗に拒絶された。同年、王は20万の兵を率いて唐の強い影響下にあった青海の吐谷渾に出兵し、白蘭などの羌族の部落を攻め落とし、松州(現四川省松潘県)に迫った(松州の戦い)。しかし、唐に敗れた。その後、再び太宗のもとへ求婚の使者を送り、さらにガル・トンツェンユルスン(チベット語: མགར་སྟོང་བཙན་ཡུལ་སྲུང༌ ngar stong btsan yul srung、別名:祿東贊 ガル・トンツェン)を遣わし、金五千両を結納として贈った。
638年、ソンツェン・ガンポの息子グンソン・グンツェンが吐蕃の王に即位した。これらの外交が実り、641年に唐王室の娘である文成公主をグンソン・グンツェンの妃として迎えた。グンソン・グンツェン王は、文成公主が赭面 (しゃめん) (=顔に赤土を塗る)の風習を嫌ったためこれを禁じるなど、公主を丁重に扱った。文成公主は、唐から連れてきた工匠たちにラモチェ寺を建立させ、釈迦牟尼像を祀り、ティツン王女(赤尊公主)のラモチェ寺(ジョカン寺)建立を手伝った。このように文成公主との結婚(唐では降嫁と呼んだ)により唐との結びつきを強めた。さらに王は貴族の子弟を唐の都、長安へ留学させ、唐を参考にして吐蕃の軍事・行政制度を整えた。
643年にグンソン・グンツェン王が23歳で死去し[6]、ソンツェン・ガンポが王位に就いた。同年、シャンシュン王国を併合し、ナレーンドラ・デーヴァ(Narendradeva、在位:643年頃 - 679年頃)をリッチャヴィ朝の君主に据えている。
646年、ソンツェン・ガンポ王は太宗の高句麗遠征(唐の高句麗出兵)勝利の祝賀に大論ガル・トンツェンを遣わした。
647年、ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナ(戒日王)が没した。混乱したヴァルダナ朝へ派兵し、政権を簒奪したアラナシュ(阿羅那順)を捕らえ、ヴァルダナ国を属国とした。この時、唐の使者王玄策を保護している。さらに大軍を率い、当時分裂状態に陥っていたガンジス川北岸の小国を幾つか帰服させ、年賦金を課した後、中部インドのマガダ国まで侵攻した。大した抵抗に出遭うことも無く仏教寺院を略奪して多くの聖遺物を奪い、ガンジス川北岸一帯を支配下に置いて帰還した。
649年、唐の太宗が死去し、高宗が即位した。王は馬都尉(公主の夫が受ける官位)、西海郡王の官位、多数の礼物を受けた。さらに太宗の霊前に十五種の金銀珠玉を供え、さらに賓王の位と礼物を贈られた。
また、唐の優れた工芸技術(蚕種、酒造、製紙、製墨)を取り入れるため、唐から工匠の派遣を得た。ソンツェン・ガンポ王は、吐蕃を発展させたが、晩年は功臣の処刑が続いた。スムパ族(蘇毗)平定に大功のあったニャン・マンポジェシャンナン(チベット語: མྱང་མང་པོ་རེང་ཞང་སྣང་ nyang mang po rje shang snang、中: 娘·芒布傑尚嚢)や、蔵蕃を帰順へ導いた謀臣のキュンポプンサ(チベット語: ཁྱུང་པོ་ཕྲུང་སད khyung po spung sad、中: 瓊波·邦色)を粛清した。
ソンツェン・ガンポ王は、649年末、病のため死去した。
ガル一族の執権と唐との戦争
ソンツェン・ガンポ王が死去すると、その子グンソン・グンツェンと文成公主の子であるマンソン・マンツェン[6](在位:650年 - 676年)が8歳で即位し、大論(宰相)ガル・トンツェン(在任:652年 - 667年)が国政を執った。 663年、吐谷渾の大臣が吐蕃に投降したのを機に、ガル・トンツェンは兵を率いて吐谷渾を征圧した。さらに唐の制度を参考に、吐蕃の行政・軍事・租税登録・徴発制度を改めて整備した。
667年にガル・トンツェンが死去すると、長子のガル・ツェンニャドムプ(チベット語: མགར་བཙན་སྙ་ལྡོབ་བུ)が大論の位を継いだ。弟のガル・ティンリン(チベット語: མགར་ཁྲིང་འབྲིང་བཙན་བྲོད་)は積極的に唐の西域で軍事行動を行い、670年、唐の安西都護府管轄の安西四鎮(亀茲、焉耆、于闐、疏勒)を攻め落とし、天山南路を遮断した。唐は10万の大軍を率いて反撃に出たが、ガル・ティンリンは40万の大軍を用いて、青海湖南の大非川で唐軍を大いに打ち破った(大非川の戦い)。しかし、吐蕃は天山南路の諸都市を統治せず撤退し、東部での戦争を始めた。唐はこの戦争で痛手を受けた上、新羅が反乱を起こした(唐・新羅戦争)。
676年、マンソン・マンツェン王が死去し、ティドゥ・ソンツェン(ཁྲི༌འདུསསྲོང༌བཙན)[7]王が即位すると、大羊と熱桑部が背くも短期間のうちに鎮圧された。唐はこの間に再び新羅を冊封して東方を固め、678年に中書令の李敬玄が18万の兵で青海へ侵攻してきたが、ガル・ティンリンはこれを撃退した。このとき、唐の前軍の将が捕虜となっている。
680年、唐と吐番の友好に尽力した文成公主が40年の滞在を経て吐蕃にて死去した。唐より使者が遣わされ弔意を表している。
683年、現四川省の柘州・翼州で略奪を働いて迎撃に出た唐軍を打ち破り、また隴右に転戦して藩鎮の河源軍を破っている。翌684年にも吐谷渾の騒乱を収拾するなど、ガル・ティンリンの威勢は東部に於いて王に警戒[注釈 1]されるほどとなった。
692年、唐は軍を起こして西域へ侵攻し、安西四鎮は陥落した。696年、唐に対して勝利を収めた。
699年、ティドゥ・ソンツェン王は東部に割拠して国政を王と二分していたガル一族の排斥を目論み、軍を率いてガル氏の拠点を襲撃し大論のガル・ティンリンを自殺に追い込んだ。この粛清劇により、ガル氏は表舞台から消えた。
この頃、吐蕃に茶葉と喫茶の習慣がもたらされ、陶器が造られるようになった。
唐との講和と南詔の冊封
704年、ティドゥ・ソンツェン王が南詔親征中に戦死すると継承争いが起きた。712年、ティデ・ツクツェン[6](在位:704年 - 755年、別名:メー・アクツォム)が即位し、祖母(チマル)方のブロ[8]氏が政権を掌握した。しかし政権は安定せず、デレンパノナンジャ(チベット語: ལྡེག་རེན་པའ་མནོནསྣང་གྲགས ldeg ren pah mnonsnang rjags、中: 岱仁巴農嚢扎)やケガドナン(チベット語: ཁེ་རྒད་མདོ་སྣང་ khe rgad mdo snang、中: 開桂多嚢)が反乱を起こし、吐蕃王族が国王に就いていた属国のネパールも背いた。
チマルは乱を鎮圧し、吐蕃は唐の則天武后に妃として公主を求めた。唐はこれに応じ、吐蕃は710年に中宗の養女である金城公主を迎えた。大臣シャン・ツェントレレジン(チベット語: ཞང༌བཙན༌ཏོ༌རེ༌ལྷས༌བྱིན shang btsan to re lhas byin、中: 尚賛咄)が公主を迎えに長安へ赴いた際、宮中で馬球試合が行われたという。
チマルの没後、712年に大論バー・クリジシャンネン(チベット語: དབའས་ཁྲི་གཟིགས་ཞང་ཉེན dbavs khri gsigs shang nyen、中: 韋·乞力徐尚年)が任命され摂政したが、国威は振るわなかった。713年には以前から要請していた河西九曲の地(現:青海省東南部黄河曲部、同仁県周辺)を金城公主の斎戒沐浴地として唐から贈られた。
722年、吐蕃はギルギット(現:パキスタン)を占領した。710〜730年代は連年唐の蕭嵩と戦うも、反間の計に掛かり歴戦の大論バー・タクラ・コンロェ(チベット語: དབའས་སྟག་སྒྲ་ཁོང་ལོད dbavs stag sgra khong lod、中: 韋·達扎恭略、通称:中: 悉諾邏恭禄)を処刑した事もあって、東部の諸城を落とされるなど軍事的劣勢が続き、度々唐と講和した。739年、金城公主は吐蕃にて死去した。
吐蕃・唐の内乱と唐の弱体化
751年、トゥーラーンの支配権を巡り、唐は前年のザーブ河畔の戦いに勝利して誕生したばかりのアッバース朝とタラス河畔の戦いを行なった。しかし、カルルクがアッバース軍に寝返ったため、敗れた唐は中央アジアの覇権を失った。
同年、唐の剣南節度使である鮮于仲通が南詔に大敗した。752年、唐に攻められた南詔国王の閣羅鳳は吐蕃に助けを求めた。吐蕃の王は閣羅鳳を王弟として冊封する。754年に唐の楊国忠が派遣した姚州都督・侍御史の李宓が南詔を攻撃した際、兵を送り南詔と共に唐軍を破った。
ティデ・ツクツェン王の時代、唐や西域から仏僧を拉致あるいは招き、また寺院の建造が度々行われるなど積極的に仏教が布教されていた。しかし、754年に大論(宰相)であった功臣のラン・ニェーシク(チベット語: ལང་མྱེསཟིགས lang myes zigs、中: 朗梅色)とバル・ケサン・ドンツァブ(チベット語: འབལ་སྐྱེས་ཟང་སྡོང་ཚབ vbal skyes zang ldong tshab、中: 末東則布)が謀反し、755年にティデ・ツクツェン王が近衛兵によって殺害された。スムパ族(蘇毗)も反乱を起こしている。
ティデ・ツクツェンの子ティソン・デツェン[6](在位:755年 - 797年)は乱を鎮圧し、蘇毗族も滅ぼして王位を継ぐ。しかし、実権は大論のシャン・マシャン・ドムパ・ケ(チベット語: ཞང་མ་ཞང་གྲོམ་པ་སྐྱེས zhang ma zhang grom pa skyes、中: 瑪祥仲巴傑)を筆頭とする外戚[注釈 2]が握っていた。外戚は仏教を崇拝していた前君の横死を理由に外国人の高僧を国外へ追放し、仏教を法律で禁じた。
唐との戦争とサムイェー寺の宗論
755年に唐で安史の乱が起こると、唐朝廷へ支援を申し出る使者に内情を探らせると共に、連年唐の領土で略奪を繰り返していた。しかし、761年にティソン・デツェン王は外戚の専横を抑制して親政を始め、仏教禁令を解いた。今度はインドから高僧を招き、四川から北宗禅僧の金和尚を招聘した。後にこの両派は対立し、サムイェー寺の宗論を起こす。
763年にNganlam Takdra Lukhongが大軍を率いて本格的に唐領へ軍を進めると、大した抵抗を受けることなく唐西部の河西、隴右地区(現:青海省東部および甘粛省)の6州の降伏を受け占領した。同年、唐の首都長安へ兵を進め、ここでも戦闘を交えることなく長安を占領した。
763年10月、吐蕃は唐の長安を占領し、金城公主の兄弟・李承宏を帝位に据えた。しかし、陣中に疫病が流行り、唐が反撃に出ると、半月後に長安から撤退した(この戦役を記念するために「ゾルの外の碑」が建てられた)。これ以降、吐蕃は西域で唐に対して優勢を保った。
774年、王はインドから高僧シャーンタラクシタとパドマサンバヴァを招いて仏教を復興させた。779年、吐蕃と属国の南詔の異牟尋(在位:779年 - 808年)は20万の大軍をもって四川の成都に侵攻したが、統制を回復していた唐軍に撃退された。同年、修行寺院であるサムイェー寺が落成し、経典解説や説法などの活動が開始され、多くの仏典が翻訳された。
王は、等級に応じて僧侶に食物や生活用品を支給した。さらに王子、后妃、臣民の前で永遠に仏法を行うことを誓約し、王子たちには仏法を学ぶことが義務づけられたことで、仏教が厚く保護された。
781年から長年にわたる沙州(敦煌)包囲の末、786年に占領に成功し、その地の高僧摩訶衍を吐蕃に招聘した。787年にシャーンタラクシタが死去すると、インド仏教系の僧と中国系仏教の禅宗との関係が悪化。禅宗を禁教にさせることに成功した。
790年、ジュンガル盆地の白突厥やカルルク、南シベリアのキルギス部を誘い、唐・ウイグル連合軍のいる北庭都護府を占拠したことで、ウイグル・唐連合軍との50年に渡る戦争に突入した。791年、摩訶衍が皇后(没盧氏)を出家させると、792年に摩訶衍はティソン・デツェン王の勅命によって、チベットの地での布教を許可された。また、禅の信徒の抵抗で794年に禁教も解除された。
これに危機感を募らせたインド系仏教はインドから高僧カマラシーラを招聘した。王は摩訶衍とカマラシーラに命じて、サムイェー寺で“悟り”について法論を闘わせた(サムイェー寺の宗論、792年 - 794年)。その結果、敗れた中国系仏教の禅宗頓門派の教えが禁じられた。797年頃、摩訶衍は敦煌へ放逐された。
仏教の国教化を巡る対立と廃仏令
797年、ティソン・デツェン王が死去し、その子であるムネ・ツェンポ[9]が即位した。ムネ・ツェンポ王は、臣民に対しボン教寺院と僧侶への布施を命じ、貧富の平均化を図るも、在位二年足らずで死去した。この背景には、母妃ツェパン・サ・マギャルドンカ(チベット語: ཚེས་པང་ཟམོ་རྒྱལ་ལྡོང་སྐར tse spang ma rgyal ldong skar、中: 蔡邦·瑪加東格)による毒殺があったとされる。
798年、ムネ・ツェンポ王の死後、その弟のティデ・ソンツェン[10](別名:セナレク)が王位を継承した。
810年頃、ティデ・ソンツェン王は仏教に篤く、王妃や同盟小国の王子、大臣たちを召集した。子々孫々仏法を奉ずることを誓わせ、今後娶る王妃には仏教信仰を誓約させることを定めた。さらに、僧侶の中からタンボという僧官を選び寺院管理を任せ、高僧ニャンティンエシン(チベット語: མྱང་ཏིང་ངེ་འཛིན་、中: 娘·定埃增)をバンチェンポ(チベット語: བང་ཆེན་པོ་、中: 缽闡布)として大論(宰相)の上に置き、国政を司らせた。
ヤアクービーの伝えるところによれば、この頃、吐蕃はトランスオクシアナの中心都市サマルカンドを占領した。
811年、ウイグル・唐軍による2度目の北庭都護府奪還とジュンガル盆地制圧を受け、カルルクはウイグルに服属し、次第に旗色が悪くなった。トルキスタン (現在のアルタイ山脈パミール高原以西、アム河以北の中央アジア東部)を支配していた吐蕃から、アッバース朝のカリフ・マアムーンに黄金の贈り物が送られ、後にメッカのカアバに奉納された[11]。
814年、ティデ・ソンツェン王はインド、西域、漢土から仏教の高僧を招き、仏典を翻訳させ、訳語の統一を図った。そして、チベット語の語句を整理し、「声明学に合致すべきこと、仏教経典の意味に合致すべきこと、吐蕃人にとって理解しやすいこと」という仏典翻訳の三大原則を定めた。
815年、ティデ・ソンツェン王は死去した。その後、ティツク・デツェン[10](別名:レルパチェン)が王位を継承した。
821年、吐蕃は長安に使節を派遣し、唐の大臣らと和解の盟約(長慶会盟)を結んだ。翌年、唐の使節劉元鼎がラサに到り、吐蕃の大論(宰相)らと盟約を結んだ。そのまた翌年には、ラサのトゥルナン寺の前に唐蕃会盟碑が建立され、これによって吐藩と唐の間で和解が成立した。
このころ、チベットは仏教を国教とする動きが本格化し、828年、ティツク・デツェン王の命により大蔵経 (一切経)のチベット語翻訳・編纂を始められた。これらの大蔵経の目録はサムイェー寺やパンタンなどに保存されており、これがチベット語での仏教経典の収集整理の端緒となった。さらに、七戸の民で僧侶一人を養い、僧に不敬を働く者を厳罰に処す命令を下した。しかし、これは民衆の不満を引き起こした。
840年頃には、河西・隴右・西域の全域を奪還され、ウイグルとは講和したが、吐蕃の支配層に内紛が発生した。841年、ティツク・デツェン王は大論(宰相)バー・ギャルトレ(チベット語: དབས་རྒྱལ་ཏོ་རེ dbavs rgyal to re、中: 韋・甲多熱、別名:結都那 ウェイダナジェン)らに絞殺され、その兄弟のラン・ダルマ王が即位した。
843年、ラン・ダルマ王は仏教に反対する大論ウェイダナジェンに扇動され廃仏令を下し、仏寺や仏像を封鎖破壊し僧に還俗を迫り、反抗する高僧を殺害、経典や文物を焼却した。これに対し、仏教を信仰する人々は不満を高めた。
842年(846年?)、ラン・ダルマ王は、変装して近づいた仏僧のラルン・パルギ・ドルジェに胸を矢で射られて暗殺された。
南北分裂と民衆蜂起
その後、王の子であるユムテン[12]とウースン[12]の間で王位継承争い(チベット語: དབུ་གཡོར་འབྲུག་པ、伍約の戦い)が勃発し、国は南北に分裂した。これを見た唐軍はチベットに対し軍を進め安史の乱時に吐蕃が占領した河西、隴右各地を唐に奪回された。
851年、沙州(敦煌)で張議潮による民衆軍、帰義軍の反乱が起き、吐蕃の駐留軍が追い出された。これにより瓜州、沙州、伊州、粛州など11州が唐に復帰し、唐は張議潮を帰義軍政権の節度使に封じた。
869年、吐蕃の地方貴族と平民たちが支配層に対する叛乱(チベット語: འབངས་ཀྱི་ཁེང་ལོག་རྣམས་རིམ་བར་བྱང、中: 各種屬民奴隸起義)を起こし、877年には叛乱勢力がロカ地方(波窩地方)のヤルルン渓谷を占領し、吐蕃は滅亡した。チョンギェー地方の歴代王陵は荒らされ、王家の後裔は四散した(吐蕃の崩壊)。
歴代ツェンポ
*佐藤長「王統表並に宰相表」[13]および山口瑞鳳「吐蕃王家」[14]による。チベット統一時期以前の伝説時期も含めたヤルルン王家の歴代については吐蕃王朝の国王一覧を参照。吐蕃の王は自称としては姓を持たなかった。
| 代数 |
名前(Wylie式) | 生没年 | 在位 | 新旧『唐書』の表記 | カナ表記(佐藤)[16] | カナ表記(山口)[17] | カナ表記(岩尾)[18] |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| - | gnam ri srong btsan | ??–630 | ??-630 | 南日松賛 | ナムリソンツェン[19] | ||
| I | srong btsan sgam po | 581?,617?–649 | 594?,630?–649 | 棄宗弄讃 | ソンツェンガムポ[20] | ソンツェン・ガムポ[21] | ティソンツェン,ソンツェンガムポ[22] |
| -- | gung srong gung btsan | – | 638–643[6] | – | グンソングンツェン[23] | グンソン・グンツェン[9] | グンソングンツェン[6] |
| II | mang srong mang btsan | – | 649–647[24] | – | マンソンマンツェン[25] | マンルン・マンツェン[9] | マンソンマンツェン[26] |
| III | 'dus srong mang po rje | – | 676–704[24] | 器弩悉弄 | チドゥソン[25] | ティ・ドゥーソン[9] | ティドゥーソン[6] |
| -- | lha bal po | – | 704–704[6] | – | – | – | ラペルボ[6] |
| IV | khri lde gtsug btsan | – | 705頃–755頃[6] | 棄隸蹜賛、尺帯珠丹[27] | チデツクツェン[28] | ティデ・ツクツェン[9] | ティデツクツェン[6] |
| V | khri srong lde btsan | – | 755頃–797 | 乞黎蘇籠猟賛、娑悉籠猟賛[27] | チソンデツェン[29] | ティソン・デツェン[9] | ティソンデツェン[30] |
| VI | mu ne btsan po | – | 796頃–798[31] | – | ムネツェンポ[32] | ムネ・ツェンポ[9] | ムネツェンポ[31] |
| VII | khri lde srong btsan | – | 798–815 | 墀松徳賛 | チデソンツェン[32] | ティデ・ソンツェン[9] | ティデソンツェン[33] |
| VIII | khri gtsug lde btsan | – | 815–841 | – | チツクデツェン、レーパチェン[32] | ティツク・デツェン[9] | レルパチェン、ティツクデツェン[33] |
| IX | glang dar ma 'u dum btsan | – | 841–842 | 達磨[34] | ダルマ、ラン・ダルマ・ウドゥムツェン[35] | ダルマ・ウドゥムツェン[9] | ウドゥムツェン,ダルマ,ランタルマ[36] |
史跡
- チョンギェー地方には、ソンツェンガムポ王をはじめとする吐蕃の歴代王陵墓が残されており、王家の最初のユムブラカン宮殿も現存する。
- ラサのトゥルナン寺(大昭寺)の門前には、822年に中国との間で締結された講和条約と、両国の全権代表の名をチベット文、漢文の両言語で記した唐蕃会盟碑がある。
脚注
注釈
出典
- ^ a b “序章 吐藩王国のチベット統一”. 人民中国. 2017年12月12日閲覧。
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- ^ a b 佐藤長 1958, p. 300.
- ^ 岩尾,2010,p.
- ^ a b 旧唐書・通鑑。佐藤 1958, p. 20
- ^ 佐藤長 1958, p. 389.
- ^ 佐藤長 1958, pp. 391, 497.
- ^ 岩尾,2010,p.20
- ^ a b 岩尾,2010,p.34
- ^ a b c 佐藤長 1959, p. 576.
- ^ a b 岩尾,2010,p.35
- ^ 新唐書。佐藤 1959, p. 697
- ^ 佐藤長 1959, pp. 696–697.
- ^ 岩尾,2010,pp.40-41
参考文献
- 沖本克己編『新アジア仏教史09 須弥山の仏教世界』佼成出版社、2010年、岩尾一史「古代王朝時代の諸相」16-43頁。
- 佐藤長『古代チベット史研究』 上、京都大学文学部東洋史研究会〈東洋史研究叢刊〉、1958年。
- 佐藤長『古代チベット史研究』 下、京都大学文学部東洋史研究会〈東洋史研究叢刊〉、1959年。
- ロラン・デエ 著、今枝由郎 訳『チベット史』春秋社、2005年。ISBN 978-4-393-11803-0。
- 山口瑞鳳『チベット』 下、東京大学出版会、1988年。 ISBN 4-13-013034-X。
- 山口瑞鳳『チベット』 下(改訂)、東京大学出版会、2004年。 ISBN 978-4130130493。
- 才讓『吐蕃史稿』人民出版社、2010年。 ISBN 9787010087283。
関連項目
吐蕃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 10:16 UTC 版)
詳細は「吐蕃」を参照 7世紀にチベット高原を統一した吐蕃王朝には、ヤルルン王朝時代という建国神話があるが、多くのチベットの歴史家の間では、第33代の王ソンツェン・ガンポが誕生した617年がチベットの歴史の始まりとして考えられている。吐蕃王朝の成立を契機として、高原の住人たちに「チベット国」、「チベット人」の観念が共有されるようになった。7世紀から9世紀まで、吐蕃は婚姻による外交と征服戦争によって、南はネパールやシャンシュンを支配し、北でシルクロードのオアシス都市を巡ってウイグル人、テュルク人など多くの民族と覇を競った。中でも中国の唐と、断続的に交戦・停戦/和平を繰り返しつつ交際した。640年には仏教初伝伝説の一つとなっている文成公主の降嫁が行われ、822年-823年には、対等・平等の立場で講和や国境の確定、使節の往来などをとりきめた長慶会盟の締結に成功した。 多くの民族と接触したチベットには異民族の文化が流入した。ソンツェン・ガンポ時代の635年にグプタ文字を基にチベット文字が作られ、サンスクリット語の仏教経典の翻訳が行われるようになる。仏教は王宮を中心に信仰されたが、ティソン・デツェンの代に急激に盛んとなり、791年に正式な国家宗教となった。仏教が定着する一方で反発も生じ、王宮ではインド仏教と中国仏教、ボン教を支持する政治勢力との間に亀裂が生じた。794年にサムイェー寺の宗論が行われ、インド仏教への意思統一が図られたが、宗教問題を背景とした政争や暗殺はその後も頻発し、842年のラン・ダルマ王の暗殺によって吐蕃王朝は崩壊した。 吐蕃王朝の崩壊以後は、地方の領主が特定の宗派と結びつく氏族教団(教団領主)が各地に成立した。842年には、吐蕃の王族の一部が西チベットでグゲ王国(古格王国)を建国した(1630年滅亡)。ほか、青唐王国(1032年 - 1104年)がある。
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