同蒲線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/01/11 05:47 UTC 版)
| 同蒲線 | |
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芦荘駅付近を走行する4616次列車
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| 基本情報 | |
| 起点 | 大同駅 |
| 終点 | 孟塬駅(中国語版) |
| 開業 | 1951年8月(全通) |
| 運営者 | 太原鉄路局・西安鉄路局 |
| 路線諸元 | |
| 路線距離 | 865 km |
| 軌間 | 1,435 mm |
| 電化方式 | 交流25kV 50Hz |
| 最高速度 | 120 km/h |
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同蒲線(どうほせん、中文表記: 同蒲铁路)は、山西省大同市の大同駅を起点に、朔州市、忻州市、太原市、晋中市、臨汾市、運城市を経由し、陝西省渭南市の孟塬駅(中国語版)に至る、中国国家鉄路集団の鉄道路線である。大同-太原間は北同蒲線、太原-孟塬間は南同蒲線とも呼ばれる。起点の大同駅で京包線、終点の孟塬駅で隴海線に接続する。
歴史
同蒲線は、1912年に成立した中華民国の山西軍政府大都督に任命されていた閻錫山の政権下で建設が開始された[1]。閻は当初、中華民国中央政府に鉄道建設のための資金援助を求めたが、1928年に拒絶されたため、ドイツ人の測量士らを雇って独自の建設計画を推進した[2]。
1930年の中原大戦により閻が権力を失うと建設計画は中断したものの、1932年に権力を回復させると、閻は兵士らを建設に駆り出し、ドイツ人技術者が提案した762mm軌間を採用した上で建設を再開させた。1933年5月には北同蒲線と南同蒲線双方の建設が開始され、1935年8月には北同蒲線の原平-太原間が開通、同年12月には南同蒲線の全線が開通した[3]。北同蒲線は1937年8月までに大同駅まで残り8kmの地点まで開通したが、日中戦争に伴う大同の陥落により、建設は再び中断された。一帯を掌握した日本軍は1939年に住民らを強制労働に駆り出し、残りの区間を開通させたが、設備は荒廃しており、25-35km/hの速度しか出すことができなかった[2]。
第二次世界大戦が終結すると、閻は一時権力を回復させるも、国共内戦により北同蒲線の設備は破壊され、閻は中華民国政府と共に台湾へ逃れた。その後、中華人民共和国成立後の1949年11月より復旧作業及び改軌が進められ、1951年8月には標準軌の路線として全区間が復旧した[2]。
主要駅
大同駅 - 懐仁駅(中国語版) - 朔州駅(中国語版) - 原平駅 - 忻州駅(中国語版) - 太原駅 - 太原南駅 - 楡次駅 - 介休駅(中国語版) - 霍州駅(中国語版) - 臨汾駅(中国語版) - 侯馬駅(中国語版) - 運城駅(中国語版) - 永済駅(中国語版) - 孟塬駅(中国語版)
関連項目
脚注
- ^ (中国語) 从修筑同蒲铁路看阎锡山其人 Last Accessed 2011-08-12
- ^ a b c (中国語) 同蒲铁路简介 Archived 2013-02-21 at Archive.is Last Accessed 2011-08-12
- ^ “同蒲铁路往事”. 运城日报 (2023年11月28日). 2026年1月1日閲覧。
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| 注1:太字は高速鉄道。斜体は旧称・通称または未成線。打ち消し線があるものは廃止。 | |
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