吉川元春とは? わかりやすく解説

きっかわ‐もとはる〔キツかは‐〕【吉川元春】


吉川元春(きっかわ もとはる) 1530~1586


吉川元春

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/12/07 09:08 UTC 版)

 
吉川 元春
吉川元春像(早稲田大学図書館蔵)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 享禄3年(1530年
死没 天正14年11月15日1586年12月25日
改名 毛利元春→吉川元春
別名 通称:少輔次郎
戒名 随浪院殿前駿州太守四品拾遺海翁正恵大居士
墓所 海応寺跡広島県山県郡北広島町志路原)
妙心寺京都府京都市右京区[要出典]
官位 従四位下治部少輔|駿河守従四位上
主君 毛利元就隆元輝元
氏族 大江姓毛利氏藤原南家工藤流吉川氏
父母 父:毛利元就、母:妙玖吉川国経の娘)
養父:吉川興経
兄弟 見室了性、毛利隆元五龍局宍戸隆家室)、元春小早川隆景、三女、穂井田元清毛利元秋出羽元倶天野元政末次元康芳林春香上原元将室)、小早川秀包
正室:新庄局熊谷信直の娘)
元長繁沢元氏、華屋宗栄(益田元祥室)、
広家松寿丸、雪岩秀梅(吉見元頼室)
特記
事項
二宮就辰井上就勝を毛利元就の落胤とする説があり、それに従うと両名は元春の異母弟にあたる。
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吉川 元春(きっかわ もとはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将安芸国国人戦国大名である毛利元就の次男。母は吉川国経の娘・妙玖。同母の兄弟として兄の毛利隆元と弟の小早川隆景がおり、その他に多くの異母弟がいる。

父・元就によって藤原南家の流れを汲む安芸国の名門・吉川氏に養子として送り込まれ、家督を乗っ取る形で相続した。以後、毛利両川の一人として、弟の隆景と共に毛利家発展の基礎を築き上げ、主に山陰地方の司令官として貢献した。

生涯

幼少時

享禄3年(1530年)、毛利元就の次男として安芸国高田郡吉田吉田郡山城で生まれる。幼名は不明。

天文9年(1540年)、出雲国尼子晴久が侵攻した際に行なわれた吉田郡山城の戦いにおいて、元服前ながら父の反対を押し切って出陣し、見事に初陣を飾った。

吉川氏相続

天文11年(1542年)から天文12年(1543年)にかけて行われた大内義隆出雲遠征(第一次月山富田城の戦い)において吉川氏当主の吉川興経が大内氏から離反した。

天文12年(1543年8月18日、出雲国から撤退して周防国に帰国した大内義隆は、吉川興経の離反を受けて、毛利元就に対して吉川領を与える旨の宛行状を発給した[1][2]。しかし、大内氏を離反した吉川興経がこの宛行状に従って自らの所領を毛利氏に引き渡すはずもなく、かといって吉川氏の背後には尼子氏が控えていることから毛利氏単独での吉川領奪取も難しいため、宛行状が実効性に乏しいことは明白だった[2]。そのため、吉川興経の叔母にあたる妙玖を正室とするなど吉川氏と縁戚関係にある元就が吉川氏に同調することを警戒した大内義隆が、吉川領を与える旨の宛行状を元就に発給することで毛利氏と吉川氏が争うように仕向ける狙いがあったと推測されている[2]。一方で、元就は吉川氏との係争地の解決を通じて尼子氏との関係修復を望んでおり、吉川興経も毛利氏との和解に積極的であったが、尼子氏が毛利氏との和解に消極的だったことから、毛利氏と吉川氏の和解も実現しなかった[3]

そのような状況の同年8月30日、兄・毛利隆元の加冠状を受けて14歳で元服し、「元」の偏諱を与えられて毛利少輔次郎元春と名乗った[4]

天文13年(1544年12月20日には元就の異母弟である北就勝に子がいなかったことから、元春を北就勝の養子として就勝が領有していた高橋氏旧領の一部を譲渡する契約を行っている[5][6][7]が、先述の通り尼子氏に和解を拒否されたことで元就は吉川興経との融和方針を改め、吉川氏の先々代当主・吉川国経の外孫かつ吉川興経の従弟にあたる元春を吉川氏へ入嗣させることに決めた[3]

以前に吉川領を元就に与えることを約束していた大内義隆も元春の吉川氏相続を後押ししたと考えられており、元就は大内義隆の承認のもとで元春の吉川氏入嗣のために吉川氏家中の調略に取り掛かった[3]。その結果、吉川氏家中は森脇祐有ら興経派(親尼子派)と吉川経世ら反興経派(親毛利派)に分かれたが、天文15年(1546年)7月には興経派も含めた吉川氏重臣の協議で元春の吉川氏入嗣にあたっての条件[注釈 1]を提示していることから、この頃までに両派の対立は収束に向かっており、元春が吉川氏に入嗣することはほぼ決定事項となっている[3][8]

その後、元春が吉川氏に入嗣する交渉がまとまったので、天文16年(1547年2月21日に吉川興経は吉川経世、森脇祐有、境春通を使者として元就、隆元、元春のもとに派遣し、を進呈して賀辞を述べさせた[8]。次いで毛利隆元も赤川元保を使者として興経のもとに派遣し、答礼させている[8]

同年7月19日には吉川興経が元就、隆元、元春に対して血判起請文[9]を送り、元春と養子縁組をした際に興経は毛利領内に居住し、興経の子の千法師の身上を保証すれば、以後は元春、隆元、元就に対して異心を抱かないことを誓約したことで元春の吉川氏相続が正式に決定した[3]。一方の元就も同じく7月に興経の隠居領を毛利領内に設けて将来は興経の子である千法師に隠居領を継承させること、吉川興経の身柄を周防国備後国へは出さず大内氏へ引き渡さないこと等を約束する起請文[10]を提出した[11]。また、同年閏7月22日には反興経派の吉川経世、吉川経好(後の市川経好)今田経高の親子3人が元春に対して起請文を提出して興経と元春の養子契約が成立したことを慶び、元就、隆元、元春に対して悪心を抱かないことを誓約しており[12]、閏7月25日には元就、隆元、元春が連署起請文を返している[13]

この時点ではまだ興経の隠居領を毛利領内のどこにするかが決まっていなかったため、吉川氏の本拠地である日山城からの吉川興経の退去と元春の入城は実現していないが、閏7月からは元就の後見のもとで知行の安堵や宛行といった吉川氏当主としての元春の活動が開始している[5]

婚姻

元春の吉川氏相続が決まった天文16年(1547年)に熊谷信直の娘である新庄局と婚姻した。しかし、初めは元春が元就に無断で新庄局との婚姻の申し出を信直にしていたことが元就から信直に宛てた書状に記されており、元就はこの時の元春のことを「幾度申し候ても、犬の様に候」と評し、面目を失ったと述べているが、信直に対し元春への扶助を依頼している[14]。この婚姻により熊谷氏は毛利氏との関係をより強化し、一門衆として扱われるようになった。

そして、翌天文17年(1548年)には嫡男の鶴寿丸(後の吉川元長)が生まれている。

日山城入城

天文17年(1548年)には元春単独での感状発給が行われているが、未だに元春の日山城への入城は実現していない[5]。この点について、吉川興経が自らの形勢不利を見て一度は元春への家督譲渡に同意したものの、日山城に居座ることで尼子氏の支援による形勢逆転、あるいは、興経と元春の両派並立を狙っていた可能性が指摘されている[5]

この状況に対して元就は大内氏の権威によって元春の日山城入城を実現しようと考え、天文18年(1549年4月22日に元春は大内義隆から吉川氏相続を認められると共に、吉川興経が称していた官途である「治部少輔」の官途を与えられた[5][15][16][17]

さらに同年8月に元就は大内義隆に対して日山城の受け取りにあたって大内氏の軍勢の派遣を要請し、9月9日には小原隆言青景隆著陶隆満から笠井帯刀左衛門尉らを派遣する旨の回答を得ている[18]など、毛利氏側は大内氏からの積極的な支援を取り付けることに成功しているが、吉川興経に対して尼子氏からの支援があった形跡は見られず、これ以上興経が日山城に居座り続けることは困難となった[5][19]

天文19年(1550年)1月頃に元春が日山城へ入城し、北就勝から継承した高橋氏旧領の一部に加えて吉川氏を継承したことで、高橋氏と吉川氏が有していた安芸国と石見国にまたがる多くの関係や情報を獲得した[5]。このことが毛利氏の戦国大名化に大きく寄与することになったと評価されている[5]。また、小早川氏を相続した弟の小早川隆景と共に、後に「毛利両川」と称され、元春は主に山陰方面の政治や軍事を担当することとなる。

一方の吉川興経の日山城からの退城時期は明確ではないものの、元春の日山城入城から大きく遡ることはないと見られている[5]。日山城を退城した吉川興経には毛利領内で隠居領を与えられたが、天文15年(1546年)7月時点で森脇祐有ら興経派が要望していた吉川領に隣接する山県郡有田与谷などではなく、安北郡深川と定められた[5]。これは吉川興経の動向を警戒する元就が、興経と旧臣との連携を阻止すると共に、監視しやすい場所に興経を置いておこうとしたための場所選定と考えられている[19]が、興経は幽閉されたわけではなく、子の千法師やある程度の家臣達を引き連れて深川に移り住んだ[5][20]

なお、かつて興経派の筆頭であった森脇祐有ら側近衆はこの時興経に従って深川へ同行することはなく、吉川元春に対して起請文を提出し、元春も天文19年(1550年)3月3日付けで森脇祐有に対する起請文を提出している[20]。元春の起請文によると、元春に背く者がいた場合はもし兄弟や子であっても決して協力しない旨を森脇祐有が誓約したと記されており、もし興経が毛利氏に反逆を企てたとしても従わない意思を示したと考えられている[20]。さらに元春の起請文の追伸に「もし他人が森脇祐有について告げ口したとしても、その動向を勝手に邪推することなく祐有に直接尋ねる」と記されていることから、尼子氏からの働きかけを念頭に置いて、尼子氏が再び興経を擁立して吉川氏を尼子方に組み込むことを懸念していたと推測されている[20]

さらに同年7月12日から7月13日にかけて元就によって安芸井上氏が粛清された後の不穏な空気の中で吉川興経についての雑説も世間に出回ったようで、興経は8月17日に元就に書状を送って少しの他意も無い旨を表明すると共に、もし興経について告げ口する者がいたなら直ちに興経に尋ねてほしいと伝えているように[21]、興経自身も元就から疑念を抱かれていることは認識していた[20]

以上のように、興経派であった森脇祐有ら側近衆でさえ離れてしまっている状況の吉川興経が元就に歯向かうことは困難であったとみられるが、それでも興経の存在自体を危険視した元就は元春の舅となった熊谷信直天野隆重に興経の隠居所襲撃を命じ、天文19年(1550年)9月27日に興経は子の千法師らと共に殺害された[22][23]。これにより本来の吉川氏の嫡流は断絶することとなった[22][23]

防長経略と石見出兵

弘治元年(1555年)、厳島の戦いにおいては吉川軍を率いて小早川軍と協力し、陶晴賢率いる大内軍を撃滅した。

弘治2年(1556年)3月、毛利氏による周防国玖珂郡の制圧がほぼ完了したため[24]、尼子方の小笠原長雄と尼子氏に挟まれた佐波興連の状況を鑑みて、防長経略を円滑に進めるために[25]尼子氏の進攻に備えて側背の脅威を除く必要に迫られた毛利元就は、元春を石見国に派遣することを決定[26]3月18日に元春、宍戸隆家口羽通良桂元忠らが兵を率いて石見国邑智郡阿須那に進出し[27]、その旨を元就は3月20日に熊谷信直へ返書で報じている[28]。元春らは先に確保した都賀城や用路城に加えて、石見国邑智郡布施村に新たに山南城を築いて防備を固め、佐波興連との連携を強化した[24][28]3月25日に元就は元春、宍戸隆家、口羽通良、桂元忠に宛てて書状を送り、邇摩郡方面で必要になれば出陣する旨を伝えている[29][30]

元就は5月2日付けの元春と宍戸隆家への返書において、尼子氏と石見小笠原氏への対応は佐波興連や刺賀長信とよく相談して軽挙に及ばないようにすることを命じ[31][32][33]5月7日に元就は元春と宍戸隆家が元就の命に従って佐波の在陣衆と相談の上で佐波興連と刺賀長信と連絡を取り合ったのは良いことであると伝えている[34][35]。以上のように毛利元就は防長経略と並行して石見国で大きな問題が発生することを極力回避しようとしていた[31]が、5月上旬から尼子晴久石見銀山方面への進攻を開始[24][36]。この時の尼子軍の進攻は元春、宍戸隆家、口羽通良らが防ぎ、尼子軍を撃退することに成功したため、元就は5月11日に元春、宍戸隆家、口羽通良の3人に対して書状を送り、尼子軍を撃退したことは大慶であり、とりわけ御内衆の働きは比類なきものであるとその武功を讃えている[24][34][37][36]

同年7月に尼子晴久は更なる大軍を率いて再び石見国に進攻して[24]安濃郡大田に陣を進め、大田の南方約1里にある安濃郡川合に先鋒を派遣して山吹城と毛利軍との糧道と連絡路を遮断した[38]。その対応のために毛利軍も軍を進め、7月29日頃に川合の南方約1里にある邇摩郡忍原において尼子軍と合戦に及んだが、毛利軍は吉川家臣の岡崎七郎次郎、宍戸隆家家臣の宍戸大蔵、山内隆通家臣の須沢某をはじめとして死傷者数百人を出す敗戦となった(忍原崩れ[39]7月29日に周防国玖珂郡岩国から石見国に出陣する元就は、翌日に石見国邑智郡阿須那へ出陣するので急ぎ同道するように山県就相に出陣を命じている[40][41]が、忍原にて毛利軍が尼子軍に敗北したとの報せがその日の夜中に元就のもとに届けられたため、翌7月30日に元就は安芸国高田郡生田に軍を進めて元春らに助力する旨の書状を桂元澄に宛てて送っている[42][43]

7月末の忍原における合戦で毛利軍を破った尼子晴久は続けて石見銀山まで攻め寄せ、8月初旬には刺賀長信と高畠遠言が籠もる山吹城を攻めるための付城として矢筈城、三ツ子城、三久須城を築いて山吹城を攻撃したが、元春が山吹城の後詰として出陣し、佐波興連も佐波にいた毛利軍の一部と共に西進して山吹城の救援に向かったため、尼子晴久は矢筈城、三ツ子城、三久須城を放棄して一時撤退[38]。撤退する尼子軍の追撃のために山吹城の兵も打って出て、尼子軍を多数討ち取り[38][44][45][46]8月8日に毛利軍と佐波軍は安濃郡池田を奪取した[38][45][46]

8月30日に元春は石見国那賀郡周布郷の国人・周布氏の一門である周布兼遠からの邇摩郡福光についての申し出を了解したとして50貫を与えると伝えると共に、尼子軍が武略を講じているが油断しなければ問題無いと伝えている[47][48][49]。さらに翌9月1日に元就は周布氏当主の周布千寿丸(後の周布元兼)に所領を安堵し[50][51][52]、周布氏重臣の周布兼遠、吉地右衛門尉、松武大蔵少輔に佐波氏への支援や大内氏に属する那賀郡三隅の三隅氏への対応を求めている[31][53][54]

弘治3年(1557年)4月に防長経略を完了させた元就は、永禄2年(1559年)2月に同盟相手である備中国三村家親を助けるために隆元、元春、隆景らと共に備中国に出陣し、尼子氏の後ろ盾を得て三村家親と対立した庄為資を降伏させ、備中国をほぼ平定した[55][56]

尼子氏との戦い

永禄5年(1562年)、元春は胸部や腹部の激痛を伴う積聚の病(いわゆる)にかかり、毛利元就は則阿や少林寺楊井武盛といった専従医ではない、領内の医師を動員して元春の治療にあたらせ、さらに京都の医師・大和晴元を新荘火ノ山城へ往診に向かわせ元春の治療にあたらせた[57]

永禄8年(1565年)、第二次月山富田城の戦いでは主力として参戦して武功を挙げ、永禄9年(1566年)に尼子義久を降伏せしめている。

永禄10年(1567年9月4日、同年2月に元服したばかりの毛利輝元が元春に起請文を提出し、毛利隆元の代と同様に無二の馳走を元春に求めると共に、輝元と元春を離間しようとする虚言があった時には直接内談することを決めている[58][59]。その4日後の9月8日には元春から輝元に起請文を提出して隆元の代と変わらずに輝元に対して無二の奉公をすると述べ、輝元が讒言に対して直接元春に尋ねる姿勢を見せた事に対し忝く安堵したと伝えている[58][60]。この起請文のやり取りから、輝元と元春の離間を図る人間の存在が窺われ、何か不穏な動きがあった可能性がある[61]。また、一概には言えないが、このような起請文のやり取りでは下位者が先に上位者に対して起請文を提出するものである点を考えると、輝元が自ら辞を低くして元春に接しているといえる[61]

また、永禄12年(1569年12月10日にも輝元が元春へ血判起請文を提出し[62]、その後に元春から輝元に血判起請文が提出された上、内容も輝元の方が遜った内容になっている[63][64]。一方で前年の永禄11年(1568年)に元春の異母弟である毛利元秋と輝元が起請文を交わす際には元秋が先に提出していると見られる[65]ことから、輝元の元春や隆景に対する態度の特殊性が指摘されている[63]

永禄12年(1569年)からは尼子氏再興を願う尼子家旧臣の山中幸盛ら率いる尼子再興軍と戦うことになる。布部山の戦いで尼子再興軍を撃破するも、同年には毛利家と敵対する大友宗麟の下に寄食していた大内氏の一族・大内輝弘周防国に侵攻してくる。これに対して軍権を与えられていた元春は、大友家の援軍が十分に集っていないうちに輝弘を攻めて自害に追い込んだ。(大内輝弘の乱

元亀2年(1571年)には謀略を用いて尼子勝久の籠る末石城を攻撃。山中幸盛を捕虜とし、勝久を敗走させたのである(その後、幸盛は謀略を用いて脱走)。

織田信長との戦い

元亀2年(1571年)、父・元就が死去すると、その跡を継いだ甥・毛利輝元(隆元の嫡男)を弟の隆景と共に補佐する役目を担った。

しかし元春に敗れた尼子勝久らは、中央で勢力を拡大していた織田信長を頼り、その援助を背景にして抵抗を続けるようになる。また、天正4年(1576年)に最後の室町幕府将軍である足利義昭が毛利氏を頼って備後国に下向すると、織田氏との対立は決定的となる。天正5年(1577年)からは織田信長の命を受けた織田氏の重臣・羽柴秀吉率いる中国遠征軍が播磨国に侵攻する。元春はこれを迎撃し、天正6年(1578年)には尼子勝久や山中幸盛が籠る上月城を攻撃し、尼子勝久らは降伏し自刃。宿敵・山中幸盛も処刑され、尼子再興軍の動きを止めた(上月城の戦い)。

天正7年(1579年)6月頃に備前国宇喜多直家が毛利氏を離反して織田氏に属し、同年9月には伯耆国南条元続も毛利氏を離反して織田氏に属したことで、毛利氏と織田氏との戦況は毛利氏の不利な方向に転換した[66]。同年11月に元春は、宇喜多直家と南条元続の離反を踏まえて「備前国で宇喜多直家が離反した状況で戦争に突入すると、十中八九、敗北が決定的である。以前に備後国の江田隆連や安芸国の野間隆実が離反した時とは異なり、容易に勝利することはできない。ましてや織田氏からの援軍が到来して戦争になった場合は宇喜多直家を倒すことは尋常な尽力では成し遂げることはできない。そして戦争が長引けば、味方から離反者が出るだろう」との戦況分析を述べており、毛利氏が国人領主連合の盟主に過ぎないという弱点を元春が認識していたことが分かる[67]

その後も元春は織田軍と各地で戦い続けたが、天正8年(1580年)には三木城が落城し、城主の別所長治は自害。そして宇喜多直家や南条元続の毛利氏からの離反に乗じて、豊後国からは大友宗麟が織田信長と呼応して毛利領に侵攻。天正9年(1581年)には因幡鳥取城で吉川一族の吉川経家が自刃するなど、毛利家は次第に劣勢となる。

天正10年(1582年)、清水宗治らが立て籠る備中高松城が羽柴秀吉に攻撃されたため、元春は輝元・隆景らと共に救援に赴いた(備中高松城の戦い)。しかし、秀吉の水攻めによって積極的な行動に出ることができず、また秀吉も元春らと戦うことで被害が拡大することを恐れて迎撃しなかったため、戦線は膠着状態となる。

そのような中、6月2日に織田信長が明智光秀の謀反で死亡した(本能寺の変)。羽柴秀吉は本能寺の変を毛利側に隠しつつ、「毛利家の武将のほとんどが調略を受けている」と毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に知らせる。これで毛利側は疑心暗鬼に陥り、和睦を受諾せざるを得なかった[68]。結果、備中高松城は開城し、清水宗治らは切腹。織田軍は備中国から撤退した。なお本能寺の変を伝える報せが毛利方にもたらされたのは秀吉撤退の日の翌日で、紀伊雑賀衆からの情報であったことが、吉川広家の覚書(案文)から確認できる[69]

川角太閤記』によれば、元春はこの際追撃を主張したが、隆景に制止されたという。一方で、『吉川家文書』では、両名が追撃は無謀であり、失敗すれば毛利は次こそ滅ぼされると懸念し、光秀討伐に引き返してゆく秀吉を見逃したと記述されている。

隠居

天正10年(1582年)末、家督を嫡男の元長に譲って隠居した。これは、秀吉に仕えることを嫌ってのことであるとされている。ただし、この隠居の逸話に関しては、年時[注釈 2]を含めて『陰徳太平記』による脚色の可能性も指摘されており、家臣に対する発給文書の名義などから、元春の隠居は天正11年(1583年)9月以降とする説があり[71]、遅くても翌天正12年(1584年)6月には未完成の隠居館(後述)に移っていることから、実際の隠居はこの期間のことと推定されている[72]。その後、毛利氏は秀吉の天下取りに協力することとなる。

そして、吉川氏一族である石氏が治めていた地を譲り受け、隠居館の建設を開始した。この館は後に「吉川元春館」と呼ばれたが、元春の存命中に完成することはなかった。

九州出兵

天正12年(1584年3月24日沖田畷の戦い島津家久によって父の龍造寺隆信を討たれた龍造寺政家は、同年9月21日秋月種実を通じて肥後国を割譲することを条件として島津氏と和睦した[73]龍造寺氏と和睦した島津氏は九州統一のために次の標的を大友義統に定め、大友氏を討つためには毛利氏と呼応する必要があると判断し、天正13年(1585年4月16日島津忠平(後の島津義弘)が元春に対して島津氏と龍造寺氏の和睦を報じると共に、輝元が島津氏と入魂であるため今後も特に申し談じたい旨を伝えた[73][74]。これに対し、元春は島津氏当主である島津義久に書状を送って島津氏の肥前平定を祝し、島津義久は伊集院忠棟を使者として4月26日に元春の祝辞に対する感謝の意を示して青の緞子1端を贈って毛利氏と島津氏の修好の祝儀とした[73][75]

天正13年(1585年)に行われた豊臣秀吉の四国征伐において、隆景は自ら参加したが、吉川軍は元長が総大将として出陣し、隠居の身である元春は出陣しなかった[76]

天正14年(1586年)4月、豊臣秀吉は九州統一を目前とした島津義久に対して大友義統との和睦を勧告したが、島津義久はこれを拒否したため、輝元は島津義久との関係を断つと共に大友義統に対して援軍70騎を派遣する対応をとった[注釈 3][78]。毛利氏の対応に満足した秀吉は4月10日に輝元に朱印状を送って九州出兵の準備を命じた[79]。さらに秀吉は元春・元長父子と隆景の3人にも別途朱印状を送って、九州出兵の準備として輝元と相談して毛利氏が支配する諸城を堅固に守り、北九州の諸将からとった人質は検使を務める黒田孝高に渡すように命じた[80]

同年6月に秀吉の勧告を無視した島津氏が九州北部への攻撃を開始したため、秀吉は7月に九州への出兵を決定した[81]。輝元は島津氏との旧交を鑑みて、島津義久のもとに使僧の日向入道露月を派遣して大友義統と和睦するように説得すると共に、長門国下関豊前国門司の警戒を強めるに留めていたが、最終的に説得は不首尾に終わった[82]

7月下旬頃には筑前国の立花統虎(後の立花宗茂)高橋鎮種が島津軍の来襲を秀吉に報じて救援を求めたため、8月3日に秀吉は立花統虎と高橋鎮種からの注進状を元春と隆景に転送し、毛利軍の九州出兵を要求した[83]。さらに、秀吉は8月5日にも隆景と安国寺恵瓊に対して、何があっても関門海峡を確保して大友氏との連絡を絶たれないように努め、毛利軍の出征においては油断や遅れの無いことを求めると共に、九州への出兵は天下のためであると共に毛利氏の面目であり、毛利氏領国の側面を安全にするものであるとして、毛利氏の九州出兵を促した[84]。また、同日に秀吉は毛利氏への検使を務める安国寺恵瓊、黒田孝高、宮木宗賦に朱印状を与えて様々な指示を与えているが、その中で元春に関することとして、下関付近の渡し口まで元春か隆景のいずれかが単騎ででも急行するならば毛利軍も油断せず敵への覚えも然るべきであること、毛利・吉川・小早川の三家でもし兵糧や鉄砲・弾薬が不足するなら遠慮なく申し越されたいこと、忠節の者がいれば輝元および元春・隆景の申し出次第に褒美として国郡を与えること等が記されている[84]

8月6日には黒田孝高と宮木宗賦が安芸国吉田に到着して、輝元に秀吉の命を伝えて九州出兵を促したため、輝元は8月10日に毛利軍の先陣が出陣し、8月16日に輝元が出陣することを決定した[85]。黒田孝高と宮木宗賦から毛利軍出兵の報を受けた秀吉は、8月14日の立花統虎、8月15日松浦鎮信をはじめとする島津軍の攻勢を受ける九州北部の諸将に近日輝元、元春、隆景ら毛利軍が出陣することを伝えて士気を鼓舞した[86]

しかし、輝元と元春は出兵準備に手間取り、出陣予定日を8月16日から8月17日に変更したが、8月17日にも出陣できなかった[87]。さらに、隆景も領国である伊予国の仕置で多忙であったために出陣を延期した[87]。この事態に大いに憤った黒田孝高は隆景に対して、「こうなっては秀吉の怒りに触れるであろうから、自分は安国寺恵瓊や渡辺長と共に8月30日9月1日に安芸国を出発して九州へ向かう。それ以前に隆景は輝元に供奉して周防国の富田防府まで下向しなければならない」と重ねて説いたため、8月22日に隆景は8月28日を新たな出陣予定日と定め、それまでに輝元が転陣しなければ児玉就英が在城する安芸草津城に入城して輝元へ出陣を促し、筑前立花城が危機に瀕すれば昼夜兼行で下関に下向することを児玉就英に伝えた[87]

一方の元春は既に隠居していたため、8月29日に代わりに長男の元長を新庄から輝元のもとへ出陣させた[87]9月5日に黒田孝高が安芸国を発って9月9日に下関に到着すると、輝元、隆景、元長らも安芸国吉田を出発し、周防国防府を経由して長門国下関に着陣した[87]

しかし、元春が出陣していないことを知った秀吉が輝元を介して頻りに元春の出陣を要請したため、最終的には元春も出陣を了承して隠居所の安芸国山県郡新庄吉野原を出陣し、9月22日に長門国一宮住吉神社9月24日に下関に着陣[87]。元春の下関着陣を受けて、輝元、隆景、黒田孝高は元春と共に九州出兵の作戦を協議した[87]。当時、豊前香春岳城主の高橋元種が島津氏に属して毛利氏に抵抗しており、香春岳城の支城で、門司城の西南3里に位置する小倉城の城兵が毎日のように門司城を攻撃していたことから、小倉城を攻め落とせば北九州の平定は容易であり、秋月種実や龍造寺政家も毛利方に味方するだろうと元春は判断し、輝元もこれに同調した[88]

10月1日に輝元は黒田孝高に検使の口羽通平と防長衆を付けて関門海峡を渡った門司城に入城させ、門司城の城将であった仁保元豊には口羽通平と相談して黒田孝高の指示に従うように命じた[89]。さらに輝元、元春・元長父子、隆景は10月3日に関門海峡を渡って九州へ上陸し、翌10月4日に揃って小倉城を攻囲して降伏させた[90]。小倉城には輝元と黒田孝高が入り、元春・元長父子と隆景は小倉城の南方1里に位置する牛房原に在陣した[88]。小倉城陥落の勝報に接した秀吉は10月14日に元春・元長父子と隆景に対して戦勝を祝し、「この勢いで進撃すれば筑前国の平定も思いのままであろう。自分は来春の出陣で島津軍を撃滅するつもりであったが、毛利軍が早く九州諸国を平定すればより一層の手柄であるので、吉報を待つ」と伝えている[88]。小倉城陥落により毛利軍へ抵抗できないと判断した高橋元種は降伏した[88]が、高橋元種の家臣である稲津見羽右衛門が一揆を率いて小倉城の東南3里に位置する宮山城に立て籠って毛利軍に抵抗したため、元春が軍を派遣して攻め落とし、輝元は福原就直に宮山城の守備を命じている[91]

10月中旬には、島津義久が大友氏を攻撃するための先鋒として肥後国から島津義珍(後の島津義弘)日向国から島津家久を出陣させて、自らは10月18日には薩摩国を出て日向国臼杵郡塩見に着陣した(豊薩合戦[92]。島津軍の動きにより豊後朝日嶽城主の柴田紹安らをはじめとして島津軍に投降する大友氏家臣が現れはじめ、北上した島津軍が大友氏の本拠である府内城に迫る形勢となったことで、一度は毛利氏に降伏した高橋元種も再び島津方に転じて香春岳城に籠城した[92]。高橋元種は家臣の賀来与次郎、賀来新右衛門、賀来久盛らに香春岳城の出城として宇留津城を守らせ、香春岳城を援護させると共に豊前国と豊後国の連絡を遮断した[92]

高橋元種の再度の離反を受けて毛利輝元は、小早川隆景、吉川元長、吉川経言(後の吉川広家)小早川元総(後の小早川秀包)らに黒田孝高を同行させて高橋元種攻撃に向かわせたが、この時元春は癰瘡の病により出陣せず、輝元と共に小倉城に在陣することとなる[92]

最期

小倉城を進発した毛利軍は豊前松山城に着陣して宇留津城に降伏を勧告したが、城将の賀来与次郎らが降伏勧告を拒絶したため、宇留津城攻撃を決定した[92]。しかし、小倉城に残った元春の病状が悪化したとの報せが入ったため、吉川元長・経言兄弟は宮庄春真を名代として残し、元春の見舞いと看病のために小倉城に帰還した[92][93]。小早川隆景は小早川元総(秀包)や黒田孝高らと共に11月7日に宇留津城への攻撃を開始して同日未の刻には攻め落とし、11月9日に豊前松山城へ戻った[92]。宇留津城陥落により、それまで形勢を静観していた龍造寺政家が11月11日に島津氏を離反して毛利方へと味方しており[94]、続いて隆景らは11月15日に高橋元種の支城である障子岳城を攻略し、高橋元種の本拠である香春岳城を包囲している[94]

一方、小倉城に帰還した元長は元春の病気平癒の祈願のために家臣の小林五郎右衛門を名代として星祭を命じ、吉川一門の中には寺社で祈祷修法を行い、元春の病気平癒の祈願を行う者も少なくなかったが、幸いにも元春の病状はやや快方に向かった[95]湯原春綱の慰問を受けた元長は、11月13日の返書において、元春が快方に向かっているため元長も香春岳城攻撃に参加する意向を示している[95][96]

しかし、11月15日に元春の容態が急変したため、元長は直ちに隆景へ元春の容態急変を報じたが、隆景は高橋元種の支城である障子岳城攻略の最中であったために陣を離れるわけにはいかなかったため、近臣を1人小倉城に派遣して元春の病状を詳しく報告させることを岡景忠に伝えている[94][97][98]。さらに輝元が派遣した外科医の大家徳琳が元春の治療に手を尽くしたが回復するには至らず、同日に元春は小倉城二の丸の陣中において病死した[94][97]。享年57[94][97]

没後

11月15日に元春が死去したことで、元長は同日に安芸国山県郡新庄の西禅寺の僧侶である周伯恵雍に対して書状を送り、元春の死を伝えている[99]。また、同書状において元長は、元春の師であった周防国長穂の龍文寺の雲庵東堂、またはその弟子を呼び寄せて元春への引導を委嘱すると共に、後日の捻香等の導師を周伯恵雍に依頼している[100][101]

岡景忠から元春死去の報告を受けた隆景は、11月16日に岡景忠に対して「元春死去の報せを受けた。まことに是非も無く言い表しようがないことであり、一身に満ちる悲しみとはこの事である」(元春御遠行之通申越候、寔無是非次第言語道断候、一身之朦気此事候、謹言)との短文の書状を送り、哀悼の意を伝えた[102][103]

吉川元長・経言兄弟は元春の死によって喪に服していたが、隆景らが香春岳城攻撃を継続している状況であったため、小倉城を出陣して香春岳城攻撃に合流し、11月23日には香春岳城の三の丸を奪取した[94][104]。元長は引き続き二の丸への攻撃に参加したが、経言は小倉城に戻って元春の葬儀の準備を担当することとなった[104]。経言は周防国山口瑠璃光寺から華翁圭岳を小倉に招いて、共に元春の遺体を吉川氏の本拠である新庄に護送し、海応寺の境内に埋葬した[104]

元春死去の報を受けて大いに驚いた秀吉は、同年12月3日に吉川元長・経言兄弟に対して元春に対する丁重な弔文を記した朱印状を送り、「元春が死去したことについては言い表しようもないことである。国元において養生などをすべきであった所を、殊更に寒天の時分の陣中でこのような事になってしまったが、これは殿下に対する忠節である」と伝えている[105]。さらに翌12月4日には小早川隆景にも同様の弔文を記した朱印状を送っている[106]

12月19日、元長が周伯恵雍に書状を送り、元春の位牌と寺号の選定方針について指示を出している[102]

逸話

元春の嫁取り

元春は熊谷信直の娘(新庄局)を正室に娶り、生涯側室を置かず4男2女の子宝に恵まれた。

この正室の新庄局は不美人であったという逸話がある。宣阿の『陰徳太平記』巻十六「元春娶熊谷信直之女事」によると、児玉就忠が縁談を薦めた際に不美人と評判だった熊谷信直の娘を元春は自ら望み、驚いた就忠が確認すると、「信直の娘は醜く誰も結婚しようとはしないので、もし元春が娶れば信直は喜び、元春のために命がけで尽くすだろう」と話したとある。この嫁取りは勇猛で知られる熊谷信直の勢力を味方につけるための政略結婚であろうが、その一方で自らを女色に溺れさせないように戒める意味もあったとされている。

また、別の説によると、新庄局は疱瘡を病んだせいで顔が醜くなり、信直はこれを理由に婚約を辞退しようとしたが、元春の側がそのような理由で約束を違えるのを潔しとせず、結婚したとも言う。

一方で元春の妻が不美人であったとの説は後世の創作とする説もある。吉川広家が存命中に成立した可能性がある『安西軍策』には元春の妻が不美人であったの記述はない。不美人説は香川正矩の『陰徳記』に「器量が悪い」との記述が現われ、『陰徳太平記』に継承されている。

また、新庄局の叔母にあたる信直の妹は武田光和に嫁いだが、絶世の美人であったとされる[注釈 4]

なお、不美人と結婚した伝説は他の歴史上の人物にもしばしば見られる。あえて不美人を娶った逸話としては諸葛孔明が、同時代の史料に容貌の記述が無く後年の作品で不細工とされた例には龐統が、病による容貌の悪化を承知で娶った逸話としては明智光秀高橋紹運がある。元春の妻についても、同様の伝説の可能性がある。

しかし、上記のような逸話はともかく、元春と新庄局の間には4男2女が生まれており夫婦仲は円満だったようだ。また、息子である吉川広家を度々諌める際には夫婦連名で書状を送るなど、新庄局は吉川家中でそれなりの地位にあったようである。

吉川本太平記

『太平記』は南北朝期の争乱を描いた軍記物語で、戦国時代の武人にも広く愛読された。

尼子氏討伐の陣中で元春は『太平記』40巻を書写し、これは現在に『吉川本』として伝わっている。吉川本太平記は元春自身が書写したもので、現在は財団法人吉川報效会の所有となっており、岩国市吉川史料館が保管している。太平記本文はカタカナ交じりで、古い形式を良く伝えている。

奥書の朱筆によれば、吉川元春が第1冊を永禄6年(1563年)閏12月に筆を下し、その後各巻の書写を行って、永禄8年(1565年)8月に第40冊の書写を完成したとしている[107]。別に自筆の太平記目録1冊もある。

太平記には多少の異本の存在が認められ、そのうち最も原作に近いと認められていたのは神田太平記であったが、神田本には14巻の欠失があった。吉川本は神田本に近い内容を有し、しかもほぼ全巻を完備していることから、古典文学研究上きわめて貴重な資料とされる。昭和34年(1959年)12月18日、国の重要文化財(書蹟)に指定された。

居館跡の調査

吉川元春館跡は居城・日野山城西南の麓に所在し、志路原川の河岸段丘上の緩斜面に築造されていた。川が堀の役割を果たしており、西側の山に菩提寺の海応寺跡がある。

これまで、石垣土塁掘立柱建物を中心とする屋敷、庭園を確認している。屋敷からは建物のほかトイレ遺構2基が検出されている。また、大溝からは金隠しと「蝿打たんが為これを造る者也」と墨書された木の札、遺構外からは「こほりさたう」と墨書され氷砂糖の容器と考えられる円形の木の蓋、「かかいさまへ(おかあ様へ)」と書かれていることから元春の妻に宛てられたであろうと考えられる木製の荷札などが出土している。

昭和61年(1986年)8月28日に吉川氏居館跡として小倉山城、駿河丸城、日野山城とともに国の史跡に指定された。屋敷や庭園は一部復元がなされている。

官歴

※日付は旧暦(明治5年(1872年)12月2日まで適用)

系譜

偏諱を与えた人物

関連作品

小説
  • 浜野卓也『吉川元春 毛利を支えた勇将』(PHP文庫、1997年)
  • 南条範夫『関白に頭を下げなかった男-吉川治部少輔元春』(文春文庫・『おのれ筑前、我敗れたり』収録、2002年)
テレビドラマ
漫画
ゲーム
芸能

脚注

注釈

  1. ^ この時提示された条件は以下の通り。①吉川氏の本拠である日山城を元春に譲る事には異存は無いが、元春が日山城に入らず番衆等を置いて吉川氏家臣と番衆の間で喧嘩等が起こった場合、吉川家を渡すと言いながら実は城から興経が追い出されたのだろうと世人は噂するであろうから十分に気を付けること。②興経に隠居領として吉川領の隣接地域である山県郡有田を与えること。また城も与える場合は同じく山県郡の与谷城への在城分の隠居領も与えること。③興経の子の千法師についての処置は元春が引き受けること。④元春に男子が誕生し、興経に女子が生まれた場合は縁組を行うこと。⑤先の吉川家中の内紛によって山県郡の寺原に退いた者らを帰還させ、森脇祐有の進退についても早々に申し付けること[8]
  2. ^ 元春の吉川氏相続の際には大内義隆の裁許状及び養父・吉川興経との起請文が、経言(広家)の吉川氏相続の際には毛利輝元・小早川隆景の書状が残されているが、元長の吉川氏相続の際に出された文書は現存していない[70]
  3. ^ 大友義統は毛利軍の援軍の内50騎を豊後国日向国との国境の守備兵に加え、残り20騎を筑前国の立花山城の援兵とした[77]
  4. ^ この妹と安芸武田氏の離縁も熊谷氏が安芸武田氏から離反する原因となっている。
  5. ^ 口宣案上卿中納言勧修寺晴右、奉者は蔵人頭左中弁勧修寺晴豊

出典

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  2. ^ a b c 光成準治 2025, p. 90.
  3. ^ a b c d e 光成準治 2025, p. 95.
  4. ^ 『吉川家文書』第409号、天文12年(1543年)8月30日付け、少輔次郎(毛利元春)殿宛て(毛利)隆元加冠状。
  5. ^ a b c d e f g h i j k 光成準治 2025, p. 96.
  6. ^ 『吉川家文書』第416号、天文13年(1544年)12月20日付け、少輔次郎(吉川元春)殿宛て、(北)式部少輔就勝契状。
  7. ^ 『吉川家文書』第417号、天文13年(1544年)12月20日付け、式部少輔(北就勝)殿宛て、(毛利)少輔二郎元春自筆契状案。
  8. ^ a b c d 毛利元就卿伝 1984, p. 135.
  9. ^ 『吉川家文書』第424号、天文16年(1547年)7月19日付け、毛利右馬頭(元就)殿・吉川少輔次郎(元春)殿・毛利少輔太郎(隆元)殿宛て、吉川治部少輔興經自筆血判起請文。
  10. ^ 『吉川家文書』第425号、天文16年(1547年)7月日付け、吉川治部少輔(興経)殿宛て、(吉川)元春・(毛利)隆元・(毛利)元就連署起請文。
  11. ^ 光成準治 2025, pp. 95–96.
  12. ^ 『吉川家文書』第426号、天文16年(1547年)閏7月22日付け、(吉川)元春様宛て、吉川伊豆守經世・同式部少輔經好・今田孫四郎經高連署血判起請文。
  13. ^ 『吉川家文書』第427号、天文16年(1547年)閏7月25日付け、吉川伊豆守(経世)殿・同式部少輔(経好)殿・今田孫四郎(経高)殿宛て、(吉川)元春・(毛利)隆元・(毛利)元就連署起請文案。
  14. ^ 『熊谷家文書』第126号、年不詳7月10日付け、熊兵(熊谷信直)宛て右馬元就(毛利右馬頭元就)自筆書状。
  15. ^ a b 『吉川家文書』第410号、天文18年(1549年)4月22日付け、吉川少輔次郎(元春)殿宛て、大内義隆官途吹挙状。
  16. ^ 『吉川家文書』第430号、天文18年(1549年)4月22日付け、大内義隆裁許状。
  17. ^ 『吉川家文書』第431号、天文18年(1549年)比定4月22日付け、吉河治部少輔(元春)殿宛て、(青景)隆著奉書。
  18. ^ 『吉川家文書』第429号、天正18年(1549年)比定9月9日付け、毛利右馬頭(元就)殿宛て、(小原)隆言・(青景)隆著・(陶)隆滿連署状。
  19. ^ a b 光成準治 2023, p. 288.
  20. ^ a b c d e 光成準治 2023, p. 289.
  21. ^ 『吉川家文書』第428号、天文19年(1550年)比定8月17日付け、(毛利)元就宛て、吉川治部少輔興經自筆書状。
  22. ^ a b 光成準治 2023, p. 290.
  23. ^ a b 光成準治 2025, pp. 96–97.
  24. ^ a b c d e 山本浩樹 2007, p. 98.
  25. ^ 山本浩樹 2007, p. 100.
  26. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 332.
  27. ^ 光成準治 2025, p. 116.
  28. ^ a b 『熊谷家文書』第131号、弘治2年(1556年)比定3月20日付け、兵庫頭(熊谷信直)殿宛て、(毛利)右馬頭元就書状案。
  29. ^ 中世大田・石見銀山関係史料集 2019, p. 280.
  30. ^ 毛利博物館蔵諸家文書』、弘治2年(1556年)比定3月25日付け、(宍戸)隆家・刑太(志道刑部大輔通良)・左太(桂左衛門大夫元忠)・(吉川)元春宛て、右馬元就(毛利右馬頭元就)書状。
  31. ^ a b c 毛利元就卿伝 1984, p. 333.
  32. ^ 中世大田・石見銀山関係史料集 2019, p. 281.
  33. ^ 『譜録・刺賀治部左衛門信続』、弘治2年(1557年)比定5月2日付け、(宍戸)隆家・(吉川)元春宛て、(毛利)元就書状写。
  34. ^ a b 中世大田・石見銀山関係史料集 2019, p. 282.
  35. ^ 『閥閲録』巻5「毛利宇右衛門」第5号、(宍戸)隆家・(吉川)元春宛て、(毛利)元就書状写。
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  37. ^ 『宍戸家文書』、弘治2年(1556年)比定5月11日付け、(宍戸)隆家・刑太(志道刑部大輔通良)・(吉川)元春宛て、(毛利)元就書状。
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  49. ^ 『閥閲録』巻121「周布吉兵衛」第181号、弘治2年(1556年)比定8月30日付け、周布下総守(兼遠)殿・吉地右衛門尉殿宛て、吉川元春書状写。
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  72. ^ 木村信幸「吉川元長の家督相続」『広島県文化財ニュース』225号、2015年。 
  73. ^ a b c 毛利輝元卿伝 1982, p. 340.
  74. ^ 『吉川家文書』第72号、天正13年(1585年)比定4月16日付け、吉川駿河守(元春)殿宛て、(島津)兵庫頭忠平書状。
  75. ^ 『吉川家文書』田雄73号、天正13年(1585年)比定4月26日付け、吉川駿河守(元春)殿宛て、(島津)義久書状。
  76. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 329.
  77. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 345.
  78. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 344–345.
  79. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 345–346.
  80. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 346.
  81. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 346–347.
  82. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 348.
  83. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 350.
  84. ^ a b 毛利輝元卿伝 1982, p. 351.
  85. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 352.
  86. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 353–354.
  87. ^ a b c d e f g 毛利輝元卿伝 1982, p. 354.
  88. ^ a b c d 毛利輝元卿伝 1982, p. 357.
  89. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 356.
  90. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 356–357.
  91. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 358.
  92. ^ a b c d e f g 毛利輝元卿伝 1982, p. 359.
  93. ^ 瀬川秀雄 1985, p. 437.
  94. ^ a b c d e f 毛利輝元卿伝 1982, p. 360.
  95. ^ a b 瀬川秀雄 1944, p. 437.
  96. ^ 『閥閲録』巻115「湯原文左衛門」第172号、天正14年(1586年)比定11月13日付け、湯原弾正忠(春綱)殿宛て、(吉川)治部少輔元長書状。
  97. ^ a b c 瀬川秀雄 1944, p. 438.
  98. ^ 『閥閲録』巻145「岡与左衛門」第7号、天正14年(1586年)比定11月15日付け、岡与三左(岡与三左衛門尉景忠)宛て、(小早川)隆景書状。
  99. ^ 瀬川秀雄 1944, p. 439.
  100. ^ 瀬川秀雄 1944, pp. 439–440.
  101. ^ 『吉川家文書別集』「西禅永興両寺旧蔵文書」第141号、天正14年(1586年)比定11月15日付け、西禅寺(周伯恵雍)宛て、治部元長(吉川治部少輔元長)書状。
  102. ^ a b 瀬川秀雄 1944, p. 440.
  103. ^ 『閥閲録』巻145「岡与左衛門」第8号、天正14年(1586年)比定11月16日付け、岡与三左(岡与三左衛門尉景忠)宛て、(小早川)隆景書状。
  104. ^ a b c 瀬川秀雄 1944, p. 441.
  105. ^ 『吉川家文書』第104号、天正14年(1586年)比定12月3日付け、吉川治部少輔(元長)との・吉川藏人(経言)との宛て、豊臣秀吉朱印状。
  106. ^ 『吉川家文書』第104号、天正14年(1586年)比定12月4日付け、小早川左衛門佐(隆景)との宛て、豊臣秀吉朱印状。
  107. ^ 瀬川秀雄 1944, pp. 478–481.
  108. ^ 『吉川家文書』第411号、永禄3年(1560年)比定2月20日付け、吉川治部少輔(元春)との宛て、足利義輝御内書。
  109. ^ 『吉川家文書』第66号、元亀3年(1572年)3月27日付け、正親町天皇口宣案。
  110. ^ 『吉川家文書別集』第120号、天正14年(1586年)比定9月24日付け、何有尊老(周伯恵雍か)宛て、(吉川)黙然斎元長自筆書状。
  111. ^ a b 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 41.
  112. ^ 広島県の文化財 - 南条おどりホットライン教育ひろしま
  113. ^ 湯本南条踊一般社団法人山口県観光連盟

参考文献

史料

論文・書籍

関連項目

外部リンク


吉川元春(きっかわ もとはる)

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センゴク」の記事における「吉川元春(きっかわ もとはる)」の解説

通称駿河守毛利元就次男毛利家最強武将若年のころは猛将として鳴らしたが、長じては父と同様に紳士的物静か部下に対して丁寧な口調身につける

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