千村氏とは? わかりやすく解説

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千村氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/02/04 08:11 UTC 版)

千村氏
本姓 木曾氏
家祖 千村家重
種別 武家
交代寄合
尾張藩大年寄
士族
主な根拠地 美濃国可児郡久々利村
著名な人物 千村良重
凡例 / Category:日本の氏族

千村氏(ちむらし)は、木曾氏の支族で重臣であった武家。

関ヶ原の戦いの前に徳川氏の家臣となり、山村氏馬場氏三尾氏原氏とともに木曾衆と呼ばれた。

概要

木曽義仲の子孫で六代目の家村が足利尊氏の配下となり、領地を与えられ木曾讃岐守家村と称した。

家村は、五人の子に領地を分けて支配させ、五男の家重は上野国千村郷を支配し千村五郎家重と称して千村氏の祖となった。

その後、戦国の世の千村政直までの十代は明らかでない。千村平右衛門良重は、その後裔である。

千村政直は宗家木曾義昌とともに甲斐の武田信玄に属していたが、信玄の死後武田勝頼長篠の戦いで大敗すると義昌と共に織田信長に属した。

やがて家康が信濃に勢力を伸ばすと義昌は家康に接近していった。

木曾氏に従い下総に移る

天正18年(1590年)の小田原征伐では徳川軍に加わり、小田原城が落城すると信濃諸大名は関東各地に封ぜられ、義昌は木曽から下総国網戸(阿知戸・芦戸)へ一万石で移封され千村氏も義昌に従った。

主家の木曾義昌は、家康の関東移封に伴って下総国の網戸(阿知戸・芦戸)に移封することとなり、同年下総国三川村に到着、東園寺に居住し、芦戸地域を整備し、天正19年(1591年)3月、芦戸城(阿知戸)に入った。

12月には、千村氏・山村氏・馬場氏ら木曾氏の重臣も移住し、芦戸城の西南には千村良重と馬場昌次の屋敷が、東南には山村良勝の屋敷が配置され、城の南には市場を開けるように町作りが計画された。

天正18年(1590年)12月12日、良重は、下総国 十日市・蛇園700石の知行と箕広66貫文の代官職を宛行われた[1]

木曾氏が改易され浪人となる

義昌の没後は木曾義利に仕えたが、木曽義利が叔父の上松義豊を惨殺するなどの不行状によって、慶長5年(1600年)に木曾氏改易されると、千村氏・山村氏・馬場氏は浪人となり、下総の佐倉で暮らした。

関ヶ原の戦いの前哨戦の東濃の戦いで東軍に加わる

慶長5年(1600年) 徳川家康木曾義利を不行状の理由により改易し、その領地1万石を没収した。

そのため木曾氏の一族・家臣達は所領を失ってしまったが、同年に家康が会津征伐を行う際に下野国小山山村良勝千村良重馬場昌次を召し出し、木曾氏の旧領地を与えることを示したうえで、西軍に就いた木曽の太閤蔵入地の代官で、尾張犬山城主も兼務していた石川貞清から木曽谷を奪還するように命じた。

山村良勝と千村良重は、下野国小山で東軍に加わり中山道を先導する時には、数十人に過ぎなかったので、木曾氏が改易された後に甲斐信濃に潜んでいた木曾氏の遺臣に檄を飛ばして東軍に加わるよう呼びかけた。

塩尻松本城石川康長の許にあった山村良勝の弟の山村八郎左衛門が加わり、甲斐の浅野長政の許にいた良勝の弟の山村清兵衛が馳せつけた。

8月12日に、木曽の太閤蔵入地の代官で、尾張犬山城主も兼務していた石川貞清の家臣となって、贅川の砦の中に居た千村次郎右衛門・原図書助・三尾将監長次が内応してきたので、良勝・良重の軍勢は、ほとんど抵抗を受けることなしに贅川の砦を突破し、中山道を通って西へ向けて進軍し、山村良勝は妻籠城に入って城を修築した。

その時、家康の意を受けた大久保長安から軍令状が届き、美濃へ進んで西軍が籠る城の攻略を命じられ、遠山友政遠山利景らに加勢して苗木城岩村城を西軍からの奪還に協力した。(東濃の戦い)

家康は、関ヶ原の戦いで勝利した2週間後の10月2日に、山村良勝の父の山村良候(道祐)を木曾代官に任命した。

家康は、木曾衆木曽谷知行所として与えようとしたが、山村良候(道祐)が、「木曽谷には幹線である中山道が通り、良質な木材の産地でもあるから、私共が領すべきではない」と上申した。

山村良侯の廉直な志に感動した家康は、木曾衆に6,200石を加増した上で、慶長6年(1601年)2月3日、木曽谷の代わりとして美濃国内に知行所を与えた。そのため木曾衆の知行地の合計は、16,200石8斗3升となった。

木曾衆が徳川家康から与えられた時点の石高

  • 千村平右衛門良重      4,600石
  • 千村藤右衛門政利(良重の弟)  300石
  • 千村助右衛門重次(良重の従弟) 700石
  • 千村次郎衛門重照(良重のはとこ)600石
  • 山村甚兵衛良勝       4,600石
  • 山村道祐良候(良勝の父)   1,300石
  • 山村清兵衛道休(良勝の弟)   700石
  • 山村八郎左衛門一成(良勝の弟) 500石
  • 原図書助政重         800石
  • 三尾将監長次         500石
  • 馬場半左衛門昌次      1,600石

合計             16,200石余

大坂の陣

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、千村重次、千村重親(重照の子)、千村政利、千村重秀、馬場昌次・利重の父子、山村三親、山村一成、三尾重安、原于祭(原政重の子)、原貞武の11名は、中山道妻籠の関所を守り、信濃飯田城の守備を務め、山村良勝・良安の父子は同心と共に贄川番所を守った。千村良重は知久則直や宮崎安重と共に信濃伊那郡の浪合関所を守った。

しかし徳川方の本多正純安藤直次成瀬正成から千村重長(良重の子)・山村良勝に大坂へ参陣するように奉書が届いたため、二条城に赴き家康と秀忠に謁見し陣中を勤めた[2]

元和元年(1615年)の大坂夏の陣には、山村良勝・良安父子、千村良重・重長父子、山村三親、千村重親、三尾重安、原于祭、山村一成、千村政利、千村重秀、原貞武に、先鋒は馬場昌次、しんがりは千村重次が勤め木曾衆が揃って従軍した。

千村父子と山村父子は、共に二条城で家康に謁見し、次いで伏見桃山城で秀忠に拝謁した。その時に秀忠より上意があり、美濃衆の組頭であった[3]岩村藩主の松平乗寿と共に河内国枚方口を守るように命じられた。

しかし木曾衆一同は先陣で徳川家への忠節を尽くしたい願い出たことから、家康と秀忠はそれを許し、尾張藩主の徳川義直に属して天王寺口の戦いに参戦し義直の先鋒を勤めた。

5月7日に大坂城が落城し、8日には城の検分を行い、9日には京都で家康と秀忠との謁見を済ませ帰陣した[2]

千村平右衛門家

(系譜) 良重―重長―基寛―仲興―仲成(養子)―政成―政武―頼久―頼房―仲雄―仲泰―仲展―

江戸幕府の交代寄合となる

千村良重は関ヶ原の戦いの前哨戦である東濃の戦いでの戦功により、幕府の交代寄合となった。子孫は代々、千村平右衛門と称した。

美濃国内の美濃国恵那郡土岐郡可児郡における4,600石を知行地として給された。

美濃国久々利村に千村陣屋を構える

慶長6年(1601年)2月、美濃国可児郡久々利村に移され、千村陣屋を構えた。

久々利村には家臣の屋敷が70軒ほどあり、他の久々利九人衆の家臣の屋敷が50軒ほどあって、さながら小さな城下町的な雰囲気であった。

江戸と名古屋に屋敷を与えられる

また江戸の金杉(芝の将監橋)と、名古屋では武平町筋北端に屋敷を与えられた。

美濃国恵那郡における知行所

  • 落合村 480石4斗1升(千村平右衛門 240石2斗5合・山村甚兵衛 240石2斗5合)
  • 駒場村 772石(千村平右衛門 772石)
  • 千旦林村 552石6斗2升
    • 本郷(千村平右衛門 100石・山村甚兵衛 100石・山村八郎左衛門 300石)
    • 辻原(千村平右衛門 26石3斗1升・山村甚兵衛 26石3斗1升)    
  • 茄子川村 1,368石6升(千村平右衛門 125石・釜戸馬場氏 275石[4]山村甚兵衛 350石・・原図書助十郎兵衛 156石6斗・千村助右衛門 145石・山村清兵衛一学 130石・千村次郎右衛門 119石・三尾将監左京 86石)
  • 正家村 873石2斗7升(千村平右衛門 400石・山村甚兵衛 200石・三尾将監左京 300石)

美濃国土岐郡における知行所

  • 日吉村 1,472石8升5斗
    • 深沢 (千村平右衛門 150石・山村甚兵衛 101石2斗2升1合)
    • 田髙戸(千村平右衛門 9石5斗・山村甚兵衛 9石5斗)
    • 志月 (千村平右衛門 4石・山村甚兵衛 4石)
  • 大湫村 109石8斗2升(千村平右衛門 54石9斗1升・山村甚兵衛 54石9斗1升)
  • 寺河戸村
    • 一日市場 50石2斗(千村平右衛門 25石1斗・山村甚兵衛 25石1斗)

美濃国可児郡における知行所

  • 御嵩上之郷 2,411石3升
    • 小和沢(千村平右衛門 56石)
    • 宿   (千村平右衛門 222石)
    • 中切 (千村平右衛門 491石5斗4升)
    • 綱木 (千村平右衛門 65石4斗1升2合)
  • 久々利村 1,720石9斗3升
    • 久々利(千村平右衛門 400石・山村甚兵衛 400石)
  • 比衣村 469石1斗(千村平右衛門 469石1斗)
  • 大森村 848石7斗8升(千村平右衛門 848石7斗8升)
  • 伊岐津志村 786石1斗8升 (千村平右衛門 150石・山村甚兵衛 200石・山村清兵衛一学 50石・千村次郎右衛門 300石・山村八郎左衛門 100石)

信濃国伊那郡の預地

慶長8年(1603年)、千村平右衛門良重は、家康から信濃伊那郡幕府領であった、上伊那の榑木[5]買納め5ヶ村(小野村、中坪村、野口村、八手村、上穂村の一部)と、下伊那の榑木割納め6ヶ村(大河原村、鹿塩村、清内路村、加々須村、南山村、小川村の一部)の合計6,197石を預地として支配を委任され、幕府から手数料を受け取るようになった。

これら信州伊那郡の預地支配するために、箕瀬羽場(長野県飯田市箕瀬町・羽場町)に陣屋を置いた。

  • 小野村 1030石3斗0升5合0勺5才4撮
  • 中坪村 580石4斗3升7合0勺1才2撮
  • 野口村 899石8斗6升6合0勺2才8撮
  • 八手村 398石5斗7升9合9勺8才7撮
  • 大河原村 479石5斗7升2合9勺9才8撮
  • 鹿塩村 450石5斗5升2合0勺0才2撮
  • 清内路村 154石9斗4升4合0勺0才0撮
  • 加々須村 178石7斗0升5合9勺9才4撮
  • 南山村 656石2斗1升0合9勺9才9撮
  • 小川村 1251石0斗0升0合9勺7才7撮
  • 上穂村 207石6斗5升3合0勺0才0撮

遠州奥の山榑木奉行

伊那谷でバラ狩された榑木は、そのまま天竜川を流して遠江国豊田郡船明村日明村の間に張られた綱で堰き止められて榑山に棚積されたり、あるいは河口の掛塚村まで筏下げされた。

また遠州奥の山榑木奉行と、西手領[6]の代官にも任じられた[7]が、榑木の管理は千村平右衛門家だけではなく、中泉代官の秋鹿氏との立会で行われた。

千村平右衛門家管轄下の村々は、鐚成で1,043貫文余で、榑木番役の村としては、船明・大薗・日明・伊砂(伊須賀)の4箇村の計390石余を預かった。

  • 船明村 128石2斗9升7合3勺0才2撮
  • 大薗村 27石1斗6升0合9勺9才9撮   
  • 日明村 37石1斗9升5合0勺0才0撮 
  • 伊砂村 46石1斗1升0合0勺0才1撮

尾張藩附属となる

元和元年(1615年)、大坂の陣終結後に江戸城への帰途、名古屋城に立寄った家康は、千村平右衛門良重と、山村甚兵衛良勝を召し出し、木曽を尾張藩に加封する旨を申し渡した。

千村平右衛門良重は、木曽と隔たった信濃伊那谷と遠江国北部にも所管地を有するため、尾張藩の専属になることをなかなか承知しなかった。

尾張藩初代藩主の徳川義直は同家が木曾衆を代表する家柄だけに、なんとしてでも尾張藩専属を果たそうとして。兄の将軍徳川秀忠に対して、尾張藩に属するよう命じられたいと談判に及んだ。

結局、元和5年(1619年)、徳川秀忠の命令で幕府直臣(表交代寄合並)・信州伊那郡の幕府領の預地6,197石の支配と、遠江国の奥の山榑木奉行と、船明・大薗・日明・伊砂(伊須賀)の4箇村と西手領の代官を命じ、390石余預かりのままで尾張藩の大年寄となった。

千村平右衛門良重は信州と遠州預地管理をどうするか、老中を通して将軍に伺いを立てた。

これに対し、今後も支配するようにとの上意が下された。そこで、千村平右衛門良重は信濃伊那郡の預地は従来どおりとし、遠州奥の山を返上する代りに、同国の豊田郡船明村の榑木改役を務めたいと願い許可されて、船明村に御榑木屋敷を設置し、在地の渥美氏を下役に任用した。

明暦3年(1657年)信州伊那郡の預地を支配するために、箕瀬羽場(長野県飯田市箕瀬町・羽場町)に置いていた陣屋を、当時の飯田藩主の脇坂安元と協議し、土地交換を公儀に願い出て、飯田城下の荒町(長野県飯田市中央通り2丁目)に移転した。荒町陣屋または千村氏陣屋と呼ばれ、面積は1,900坪あった[8]

尾張藩附属の千村平右衛門家となった、同時に幕府の役職も兼ねたため、実質的には幕府と尾張藩の両属的な立場であった。

子孫は代々、尾張藩の重臣として廃藩置県に至り、木曾姓に改姓した。

菩提寺

岐阜県可児市久々利にある東禅寺に歴代の墓がある。

久々利九人衆の千村氏

その他の7家は、元和3年(1617年)尾張藩の給人とされ、中寄合の下並寄合の上座に配され、美濃国可児郡久々利村に屋敷を与えられ、美濃国内の尾張藩領の数ヶ村を知行地として、可児郡錦織村にあった材木御用などを月交代で務めた。

寛永2年(1625年)9月に尾張藩主の徳川義直が、鷹狩にて久々利村を訪れた時に、山村甚兵衛家と千村平右衛門家の両家から200石ずつを割いて千村九右衛門(千村助右衛門の子)と原藤兵衛(原図書助の子)の両人に与えた。

そのことにより、千村助右衛門家、千村次郎衛門家、千村藤右衛門家、千村九右衛門家、山村清兵衛家、山村八郎左衛門家、原十郎兵衛家、原新五兵衛家、三尾惣右衛門家の9家となった。

これら9家を「久々利九人衆」という。

寛永2年(1625年)の久々利九人衆の石高

  • 千村助右衛門      700石
  • 千村次郎衛門重照    600石
  • 千村藤右衛門      300石
  • 千村九右衛門重秀    200石
  • 山村清兵衛三得     700石
  • 山村八郎左衛門一成   500石
  • 原図書助        800石
  • 原藤兵衛貞武      200石
  • 三尾将監長次      500石

合計           4,500石余

久々利九人衆の抵抗

寛文5年(1665年)3月、幕府は島原の乱以後、キリシタン禁制を厳重にし宗門改めを始めた。

尾張藩領でも、寺社奉行から各家臣に対し「今度宗門改めに付 頭(組頭)有之者ハ其頭ヘ 支配人有之者ハ 其支配人ヘ 宗門手形を差出す様」にと御触が廻った。

尾張藩は、久々利九人衆に対して山村甚兵衛家、千村平右衛門家に対して手形差出すようにとの指示を出した。

尾張藩によって美濃国可児郡久々利村に屋敷を与えられていた久々利九人衆は、尾張藩に以下の内容を陳情した[9]

親、祖父の頃より、この両家の組下に仰付けられたことは聞いた事がない、今度手形を両家に差出すにおいては 山村甚兵衛、千村平右衛門の組下となることであって迷惑である。私共(九人衆)の親、祖父が権現様(家康)への忠義によって取立てられた者であるから、今度の手形は 直接寺社奉行へ提出をお願いしたい、もしそれが叶わない場合は 名古屋城中にて何れの組下 或ハ御支配へなりと 所属を変えていただきたい、ただ甚兵衛、平右衛門両人宛に手形を差出す事ハ 御免願いたい

九人衆一同が相談するに「当時こそ先祖の武を まのあたり聞き知る人も多くいて、家々の規模も立つが年月が過ぎるにつれて、千石に足らぬ悲しさで、両家(山村甚兵衛家と千村平右衛門家)の支配のようになってしまう恐れは多分にある。そうなっては両家に知行を減少される事もあるかもしれない、それでは先祖の名を汚し、家の名折れである。

そこで尾張(名古屋)へ出て勤めようではないか、その勤めの功、不功によって領知が増減するかもしれないが、それは仕方がない、もし加増すれば家の大きな幸いだし、尾張藩領の御蔵入(蔵入地)となれば一統の並とみられるし、その上次男、庶子が勤める願いを出すにも 名古屋にいてこそうまくいくというものであろう。こうなれば家内繁昌の基ともなる」と一決して、寛文7年(1667年)春、ひそかに尾張藩へ内達した。

これについて、「山村甚兵衛留帳」には「九人衆は両所(山村甚兵衛家と千村平右衛門家)ヘ手形差出候ハバ 組之者の様に有之云々」と言っているが、彼等は組下ではないが「前々より支配人にハ 相究候処に 左無之様に申立候」と言っている。

このことにより山村甚兵衛・千村平右衛門の両家と不和となった久々利九人衆は、寛文7年(1667年)、久々利村の在所屋敷を残して、名古屋城下へ転住し、尾張藩の普請組寄合となった。

千村九右衛門家

寛永2年(1625年)9月に尾張藩主の徳川義直が、鷹狩にて久々利村を訪れた時に、千村平右衛門家から200石を割いて千村九右衛門(千村助右衛門の子)に与えた。

名古屋移転の翌年の寛文8年(1668年)、千村九右衛門正古が隠居を願い出たところ、尾張藩ではこれを新規召抱同様と見なして、「無勤功の輩は減ずる」の例を適用して、高200石の内、150石のみ悴の小十郎正任に与えた。

隠居仰付けられた千村九右衛門正古は「御朱印地で減ぜられるべきものでないのに」と嘆き、我らばかり一族の中で減ぜられては面目がないと言って、父子共に退去してしまった。

その翌年尾張藩は、同族の千村助右衛門重佐に命じて政秀寺に父子共にいるのを尋ね出し御預けとなり、知行屋敷共に召上げられてしまったが、後に復活し100石を給せらた。

美濃国可児郡における知行所
  • 我田 (千村九右衛門 90石・千村藤右衛門又八郎 6石)
  • 謡坂 (千村九右衛門 110石) 
計 200石→100石

千村次郎右衛門家

初代の千村次郎衛門重照は、千村平右衛門良重のはとこである。

寛文8年5月24日、千村次郎右衛門宅へ山村清兵衛が来て、話すうちに争いとなり、千村次郎右衛門が山村清兵衛を切り伏せ、千村次郎右衛門自身は自害した。

これによって両人が居た屋敷・知行・久々利に残っていた在所屋敷等は召上げられた。

この両人争いの原因については記録が無いから分からないが、察するに名古屋移転が彼らが初めに考えたことと相違した尾張藩の待遇であったからではなかろうか。これについて「岐蘇古今沿革志」は次のように記している。

寛文八年 九人衆の内二家(清兵衛、次郎右衛門)断絶 慶長五年 八月朔日 東照公[10]御朱印 木曽諸奉公人[11]中へ被下たり 此御朱印 先年 平右衛門様へ 被遣之戻り不申 久々里に有之候 右之御朱印有之に付(九人衆は)尾州にて千石以上 中寄合之格式 木曾[12]久々里[13]御出勤の節は 被罷出御両所様[14]の次に 並居殿様[15]より御言葉も有之由 御暇も万事 御両所様に 相つづ出申候 其上知行所に引籠られ 無役勤は無之 御子息達 善悪の訳 無之手足さへ付き候へば 御両所様へ御頼み 家督譲り まことに天下無双の楽人にて候処 人男は又十分は 欠く申ごとく 大分の御知行 先祖の餘慶 自然の冥加も限りあり 誠は天之通也と申如し 尾州御老中 成瀬主計殿と 申御出頭有之候 山村清兵衛殿 千村道止老へ 至極御懇意ニ付 右の御朱印 被懸御目候処 とかく尾州へ出勤候ハバ 外□且は立身も可被成と 色々だまされ 不残罷出 夫より段々不仕合つづき 数年 我ままも不相成 山村清兵衛殿 千村二郎右衛門殿 喧嘩以来 只今九人衆うろたへ申候 -以下略- 右両人の喧嘩は 寛文八年 五月二四日にて 両家断絶という。

以上の二事件で分かるように、名古屋へ出た九人衆は子孫繁栄とはいかなかったようである。

これに対して本家格の山村甚兵衛家や千村平右衛門家は勝手に行ったことだからと見放していたかというと、そうではなく、それなりに一族として手を尽くしている。

次にその例として、山村甚兵衛家八代目の(良啓(たかひら)の口上覚を、中津川日記(山村家日記)から略記すると、以下の様に記されている。

同名清兵衛儀の先祖は 久々利九人之内にて、私先祖と同様 木曾に於て忠功の者に御座いますが、今の清兵衛の祖父の代に 同格の千村次郎右衛門と喧嘩仕り 両家とも断絶しました。次郎右衛門は手出しをした方であるが、其後御願して仕合能く知行を下され 現に寄合役を勤めて居ります。当清兵衛は別紙の通り(書付なし)未だ御扶持米(何程か不明)で相勤めて罷居りますが、出来得れば先祖の勤功を以て 減知の内 只今頂戴して居ります 御扶持給高程知行に 御振替候様に 私から御願申呉れとの事で 御座居ます 六ケ敷い事とは存じますが 別紙認□を御目にかけますから 御内覧成し下さいます様、御願申上げます

山村清兵衛家と千村次郎右衛門家は両家断絶後、年月不明であるけれども両家とも復活したが、千村次郎右衛門方は先に手出ししたにかかわらず知行を貰っている(旧知の内100石)が、清兵衛方は切米取の身分であるから、これを知行に振替える。即ち家格を元の知行取の身分にして戴きたいと願ったもので、たとえ禄高は少くても元の知行取となって由緒ある家柄の回復をと、本家格の甚兵衛良啓より御伺を出したものである。

美濃国恵那郡における知行所
  • 茄子川村 1,368石6升(千村次郎右衛門 119石・釜戸馬場氏 275石[1]・山村甚兵衛 350石・千村平右衛門 125石・原図書助十郎兵衛 156石6斗・千村助右衛門 145石・山村清兵衛一学 130石・三尾将監左京 86石)
美濃国土岐郡における知行所
  • 半原村 181石(千村次郎右衛門 111石)
美濃国可児郡における知行所
  • 伊岐津志村 786石1斗8升 (千村次郎右衛門 300石・山村甚兵衛 200石・千村平右衛門 150石・山村清兵衛一学 50石・山村八郎左衛門 100石)

計 600石→100石

千村助右衛門家

初代の千村助右衛門重次は、千村平右衛門良重の従弟である。

美濃国恵那郡における知行所

  • 茄子川村 1,368石6升(千村助右衛門 145石・釜戸馬場氏 275石・山村甚兵衛 350石・千村平右衛門 125石・原図書助十郎兵衛 156石6斗・山村清兵衛一学 130石・千村次郎右衛門 119石・三尾将監左京 86石) 

美濃国土岐郡における知行所

  • 日吉村
    • 南垣外(千村助右衛門 385石→311石2斗9升9合)

美濃国可児郡における知行所

  • 久々利村
    • 酒井 (千村助右衛門 60石)
    • 原見 (千村助右衛門 110石)     

計 700石→626石2斗9升9合

千村藤右衛門家

初代の千村藤右衛門政利は、千村平右衛門良重の弟である。

美濃国土岐郡における知行所

  • 日吉村
    • 松野 (千村藤右衛門又八郎 8石2斗4升1合→6石6斗6升2合)

美濃国可児郡における知行所

  • 御嵩上之郷
    • 宿(千村藤右衛門又八郎 133石)
    • 小原 (千村藤右衛門又八郎 126石7斗5升9合)
    • 樋ヶ洞(千村藤右衛門又八郎 26石)
  • 久々利村
    • 我田 (千村藤右衛門又八郎 6石・千村九右衛門 90石)

計 300石→298石4斗2升4合2勺

脚注

  1. ^ 『旭市史 第一巻通史編・近代史料編』、1980年、54頁
  2. ^ a b 千村氏並九人記の中の先祖書
  3. ^ 当時の木曽谷は美濃国恵那郡の一部と認識されていた。
  4. ^ 明暦3年(1657年)11月25日、茄子川馬場氏に分知された。
  5. ^ 単に榑とも言われ、桧(ひのき)・杉・椹(さわら)などから製した上質材のこと。江戸時代中期になると、短榑は2尺3寸。年貢榑や役榑には、この屋根板のための椹(さわら)の榑木が指定された。そのため榑木というと、椹・ヒノキ・鹽地(しおぢ)で割りたてた屋根板のことであり、屋根板でない榑木(長さ3尺~6尺5寸)は「雑榑」と呼ばれた。
  6. ^ 静岡県浜松市天竜区の天竜川以東の、浦川横山
  7. ^ 秘深木曾家古記録
  8. ^ 伊那温地集
  9. ^ (千村家伝集・寛文五年三月一三日)
  10. ^ 家康
  11. ^ 木曾衆を指す
  12. ^ 山村甚兵衛
  13. ^ 平右衛門
  14. ^ 甚兵衛・平右衛門
  15. ^ 尾張徳川家

 

参考文献

  • 『図説・木曽の歴史 (長野県の歴史シリーズ ; 19)』 59~60P
  • 『木曽福島町史 上巻』 第四章 豊臣時代 第四節 関ヶ原の前戦(山村氏木曾攻略) p178~p184 木曽福島町史編纂委員会 1954年
  • 『西筑摩郡誌』 後篇 木曾人物史  p574~ p582 長野県西筑摩郡役所 1915年
  • 『大桑村の歴史と民話』 第四章 尾張藩領下の民治と村人の生活 第一節 木曽、尾張藩領となる p105~p108  志波英夫 1978年
  • 『山口村誌 上巻』(自然環境・原始古代・中世・近世)第四章 近世 第一節 関ヶ原の戦いと木曽 p393~p405 山口村誌編纂委員会 1995年
  • 『山口村誌 上巻』(自然環境・原始古代・中世・近世)第四章 近世 第二節 尾張藩の成立と木曽 p406~p433 山口村誌編纂委員会 1995年
  • 『恵那郡史』 第七篇 江戶時代(近世「領主時代」)第二十八章 諸藩分治 其三 国外藩 【尾張附属】 p242~p244 恵那郡教育会 1926年
  • 『中津川市史 上巻』  第五編 中世 第四章 安土桃山時代 四 木曾衆中津川を知行 p659~p663 中津川市 1968年
  • 『中津川市史 中巻Ⅰ』 第五編 近世(一) 第一章 支配体制と村のしくみ 第一節 関ヶ原戦後の領主 p1 ~ p20 中津川市 1988年
  • 『中津川市史 中巻Ⅰ』 第五編 近世(一) 第一章 支配体制と村のしくみ 第二節 領地所属の変遷 p24 ~p40 中津川市 1988年
  • 『恵那市史 通史編 第2巻』 第二章 諸領主の成立と系譜 第二節 正家村と木曽衆 p97~p117 恵那市史編纂委員会 1989年
  • 『瑞浪市史 歴史編』 第六編 近世 第一章 村々と支配 第一節 郷土と支配者 二 市内の支配体制 p500~p525 瑞浪市 昭和49年(1974年)
  • 『土岐市史 2 (江戸時代~幕末)』第十三編 近世封建社会 第三章 江戸時代の領主 ■木曾衆・■福島の山村氏・■久々利の千村氏・■木曾衆の領地と格式・■木曾衆馬場氏 p35~p39 土岐市史編纂委員会 1971年
  • 『御嵩町史 通史編上』 5 第一章 近世の御嵩 第一節 御嵩町域内の領有 木曽旧臣 p264~p267 1992年
  • 『可児町史 史料編』 第二部 近世 一 支配 三七 千村家関係 千村家先祖書 p41~p51 可児町 1978年
  • 『可児町史 史料編』 第二部 近世 一 支配 三八 千村・山村両家並九人衆高等覚書 p51~p60 可児町 1978年
  • 『可児市史 第2巻 (通史編 古代・中世・近世)』 第三章 千村氏と山村氏 p219~p303 2010年
  • 『久々利村史』 第一章 沿革 第六節 千村氏 p7~p27 昭和10年
  • 『八百津町 通史編』 第六章 近世社会 第一節 領主 千村・山村氏 p147~p153 八百津町史編纂委員会 1976年
  • 『美濃古戦記史考』 : 六古記原文とその注釈 五、木曾衆由緒留記 p179~p203 渡辺俊典  瑞浪市郷土史研究会 1969年
  • 『寛政重修諸家譜 第2 新訂』 卷第百十七 千村 四篇 p398~p403 堀田正敦 等 続群書類従完成会 1964年
  • 『天竜市史 上巻』 第一章 幕藩制確立期の天竜市域 第一節 政治情勢 慶長の支配関係 p341~p345 天竜市 1981年
  • 『清内路村誌 上巻』 第三章 近世 第一節 支配制度と村の運営 一 天領と代官 1 千村氏 p232~238 清内路村誌刊行会 1982年

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