劉玘
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劉 玘(りゅう き、生年不詳 - 927年)は、唐末から五代十国時代にかけての軍人。本貫は汴州雍丘県[1][2]。
経歴
代々汴州の牙将をつとめた家に生まれた。若くして壮烈な節操を自負した。朱全忠が宣武軍節度使となると、劉玘は試用を求めて、隊長に任じられた。朱全忠の征戦に従って、いたるところで功績を挙げ、牙将となった。滑州・徐州・襄州の都指揮使を歴任した。後梁の開平3年(909年)、襄州節度使の王班が部下に殺害されると、劉玘は反乱軍に推されて襄州節度留後とされた。劉玘は偽ってその場は受け、翌日に兵士を集めると、反乱軍の将を全て斬り殺させた。功により復州刺史と亳州刺史を歴任した。召還されて侍衛都将となり、安州刺史として出向した[3][2]。貞明3年(917年)、晋州観察留後となった[4]。龍徳元年(921年)、検校太保・晋州節度使に進んだ[5]。
同光元年(923年)、後唐の荘宗が開封府を占領して後梁を滅ぼすと、劉玘は入朝して後唐に帰順した。安遠軍節度使に転じた。天成元年(926年)、史敬鎔と交代し、洛陽に召還された。武勝軍節度使に転じた[6][2]。天成2年(927年)1月16日[7]、鄧州に赴任する道中に病没した。侍中の位を追贈された[2]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧五代史』中華書局、1976年。ISBN 7-101-00321-4。
- 『新五代史』中華書局、1974年。 ISBN 7-101-00322-2。
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