令狐楚とは? わかりやすく解説

令狐楚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/21 02:36 UTC 版)

令狐 楚(れいこ そ、766年 - 837年)は、唐代官僚文人政治家は愨士[1][2]本貫敦煌郡效穀県。一族は早くに宜州華原県に移り住んでいたので、華原の人とも言う。

経歴

代々の儒者の家に生まれ、幼いころから学問して、文章を作った。貞元7年(791年)、進士に及第した。桂管都防禦観察使の王拱にその才能を愛されて桂州に召し出された。父に孝養を尽くすため、太原に帰った。李説厳綬・鄭儋が相次いで太原府に駐屯すると、令狐楚はいずれも召し出されて、従事をつとめた。掌書記から節度判官となり、殿中侍御史に任じられた[1][2]

徳宗は文章を好み、太原府から上奏文が届くたびに、令狐楚の文章を称賛した。貞元17年(801年)、鄭儋が突然死すると、太原府の軍中で変乱が起こり、令狐楚は諸将に迫られて遺表を起草した。令狐楚は白刃の間で文章を書き上げて、三軍に読んで示すと、みな感泣して、軍情は安定した。父が死去したため、令狐楚は辞職して喪に服した。喪が明けると、令狐楚は右拾遺に任じられ、太常寺博士・礼部員外郎に転じた。母が死去したため、令狐楚は辞職して喪に服した。喪が明けると、令狐楚は刑部員外郎として召し出され、職方員外郎・知制誥に転じた[3][4]

元和9年(814年)、令狐楚は同期の進士である皇甫鎛の推薦を受けて、翰林学士となり、職方郎中・中書舎人を歴任した。元和12年(817年)、李逢吉が宰相から退任すると、令狐楚も翰林学士から退任し、中書舎人のみとなった[5][6]

元和13年(818年)4月、令狐楚は華州刺史として出向した。10月、皇甫鎛が宰相となると、令狐楚は懐州刺史・河陽三城懐州節度使となった。元和14年(819年)7月、皇甫鎛の推薦を受けて入朝し、朝議郎から朝議大夫・中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)に任じられた[5][6]

元和15年(820年)1月、憲宗が死去すると、令狐楚は山陵使をつとめ、哀冊文を書いた。6月、令狐楚と親しい官吏が汚職を告発され、令狐楚は宣州刺史・宣歙観察使として出向した。さらに衡州刺史に左遷された[7][6]

長慶元年(821年)4月、令狐楚は郢州刺史に移された。ほどなく太子賓客・分司東都に転じた。長慶2年(822年)11月、陝州大都督府長史・陝虢都防禦観察使に任じられ、御史大夫を兼ねた。陝州に着任すること1日で、再び太子賓客に任じられ、洛陽に帰った。長慶4年(824年)、敬宗が即位し、李逢吉が李紳を追放すると、ほどなく令狐楚は河南尹に任用され、御史大夫を兼ねた。9月、令狐楚は検校礼部尚書汴州刺史・宣武軍節度・汴宋亳潁観察等使に転じた[8][6]

大和2年(828年)9月、令狐楚は長安に召還されて戸部尚書となった。大和3年(829年)3月、検校兵部尚書・東都留守・東都畿汝州都防禦使として出向した。11月、検校尚書右僕射・鄆州刺史・天平軍節度・鄆曹濮観察等使に転じた。もとの東平県を天平県と改めるよう上奏した。旱魃が起こったが、令狐楚が富を貧しい者に恵み与えたため流亡する者が出なかった。大和6年(832年)2月、太原尹・北都留守・河東節度使となった。大和7年(833年)6月、検校尚書右僕射のまま、入朝して吏部尚書となった。大和9年(835年)6月、太常寺卿に転じた。10月、尚書左僕射となり、彭陽郡開国公に封じられた。11月、李訓らが甘露の変を起こして敗死すると、文宗は令狐楚を宰相として任用しようとしたが、令狐楚は王涯賈餗が冤罪で死んだことを訴えたため、宦官の仇士良らに憎まれ、宰相の任命は李石に下った。令狐楚は本官のまま塩鉄転運等使を領知した[9][10]

開成元年(836年3月3日文宗が曲江の宴を開くと、令狐楚は大臣を殺したばかりで、宴を開くのはよろしくないと、ひとり病と称して赴かなかった。権力が宦官に集まっていることを憂慮して、宦官の使者の任務を解くよう重ねて上疏した。4月、検校尚書左僕射・興元尹・山南西道節度使として出向した。開成2年(837年)11月、興元府で死去した。享年は72。司空の位を追贈された。は文といった。のちに子の令狐綯が顕位に昇ると、重ねて太尉の位を贈られた。文集100巻があり、当時に通行した[11][10]

家族

令狐徳棻の末裔を自称していた。

  • 祖父:令狐崇亮(昌明県令)
  • 父:令狐承簡(太原府功曹参軍)[1]
  • 弟:令狐定(字は履常、職方員外郎・弘文館直学士・検校右散騎常侍・桂州刺史・桂管都防禦観察使)
  • 子:令狐緒(随州刺史・寿州刺史・汝州刺史)[12][13]
  • 子:令狐綯[14][15]

脚注

  1. ^ a b c 旧唐書 1975, p. 4459.
  2. ^ a b 新唐書 1975, p. 5098.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 4459–4460.
  4. ^ 新唐書 1975, pp. 5098–5099.
  5. ^ a b 旧唐書 1975, p. 4460.
  6. ^ a b c d 新唐書 1975, p. 5099.
  7. ^ 旧唐書 1975, pp. 4460–4461.
  8. ^ 旧唐書 1975, p. 4461.
  9. ^ 旧唐書 1975, p. 4462.
  10. ^ a b 新唐書 1975, p. 5100.
  11. ^ 旧唐書 1975, pp. 4464–4465.
  12. ^ 旧唐書 1975, p. 4465.
  13. ^ 新唐書 1975, p. 5101.
  14. ^ 旧唐書 1975, pp. 4465–4466.
  15. ^ 新唐書 1975, pp. 5101–5102.

伝記資料

参考文献





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