一柳頼欽とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 一柳頼欽の意味・解説 

一柳頼欽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/01/10 06:43 UTC 版)

 
一柳頼欽
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦3年7月27日1753年8月25日
死没 寛政8年8月15日1796年9月16日[1]
または同年8月19日(同年9月20日[2]
改名 頼恭(初名)[2]、頼欽
別名 慶次郎、兵庫[2]
戒名 勇義軒殿英山宗俊大居士
墓所 愛媛県西条市の仏心寺山
官位 従五位下美濃守兵部少輔
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
伊予小松藩
氏族 一柳氏
父母 父:一柳頼寿、母:堅性院
兄弟 頼忠頼欽、寿厚、土屋昌寿、村越成芳、寿重、一柳直里室、神尾元喬室、間直瀬恒幸室ら
牧野惟成の娘
琴松院一柳末栄の娘)
謙光院
頼親、戸田光一正室ら3男5女
テンプレートを表示

一柳 頼欽(ひとつやなぎ よりよし)は、江戸時代中期から後期の大名伊予国小松藩6代藩主。

生涯

宝暦3年(1753年)、第5代藩主・一柳頼寿の次男として生まれる。母は堅性院。

長兄の一柳頼忠が早世したため、明和7年(1770年)閏6月に世子となった[2]。頼欽の教育のため、竹鼻正脩が侍講に任じられている[3]

安永8年(1779年)8月7日、父の隠居により跡を継ぎ[2]、同年12月に叙任する[2]

藩政においては、その治世中にたびたび火災に見舞われるという災難が続いた。

寛政8年(1796年)8月15日(または8月19日)、江戸で死去し、跡を長男・頼親が継いだ。

系譜

寛政重修諸家譜』によれば子女は3男5女[2]

はじめ牧野惟成の娘を正室に迎えるが離縁[2]。ついで、同族である小野藩一柳末栄の娘を正室として迎えた[2]

脚注

  1. ^ 『小松町誌』小松町、1992年、p.1668。
  2. ^ a b c d e f g h i 『寛政重修諸家譜』巻第六百四
  3. ^ 一柳頼寿”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2014年4月13日閲覧。

参考文献

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「一柳頼欽」の関連用語

一柳頼欽のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



一柳頼欽のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの一柳頼欽 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2026 GRAS Group, Inc.RSS