一柳頼欽
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| 時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
| 生誕 | 宝暦3年7月27日(1753年8月25日) |
| 死没 | 寛政8年8月15日(1796年9月16日)[1] または同年8月19日(同年9月20日)[2] |
| 改名 | 頼恭(初名)[2]、頼欽 |
| 別名 | 慶次郎、兵庫[2] |
| 戒名 | 勇義軒殿英山宗俊大居士 |
| 墓所 | 愛媛県西条市の仏心寺山 |
| 官位 | 従五位下、美濃守、兵部少輔 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川家治→家斉 |
| 藩 | 伊予小松藩主 |
| 氏族 | 一柳氏 |
| 父母 | 父:一柳頼寿、母:堅性院 |
| 兄弟 | 頼忠、頼欽、寿厚、土屋昌寿、村越成芳、寿重、一柳直里室、神尾元喬室、間直瀬恒幸室ら |
| 妻 | 牧野惟成の娘 琴松院(一柳末栄の娘) 謙光院 |
| 子 | 頼親、戸田光一正室ら3男5女 |
一柳 頼欽(ひとつやなぎ よりよし)は、江戸時代中期から後期の大名。伊予国小松藩6代藩主。
生涯
宝暦3年(1753年)、第5代藩主・一柳頼寿の次男として生まれる。母は堅性院。
長兄の一柳頼忠が早世したため、明和7年(1770年)閏6月に世子となった[2]。頼欽の教育のため、竹鼻正脩が侍講に任じられている[3]。
安永8年(1779年)8月7日、父の隠居により跡を継ぎ[2]、同年12月に叙任する[2]。
藩政においては、その治世中にたびたび火災に見舞われるという災難が続いた。
寛政8年(1796年)8月15日(または8月19日)、江戸で死去し、跡を長男・頼親が継いだ。
系譜
はじめ牧野惟成の娘を正室に迎えるが離縁[2]。ついで、同族である小野藩主一柳末栄の娘を正室として迎えた[2]。
脚注
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』巻第六百四
外部リンク
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