カルルクとは? わかりやすく解説

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カルルク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/12/29 02:30 UTC 版)

カルルク古テュルク語: [注釈 1]: Qarluq)とは、7世紀から12世紀にわたってジュンガル盆地イリ地方に存在したテュルク系遊牧民。中国史書では歌邏禄葛邏禄葛禄と記し、ペルシャ語では خَلُّخ(Khallokh)、アラビア語では قارلوق(Qarluq)と記された。

名称

カルルクの存在は東西史料の両方に記されており、さまざまな記名がある。

構成部族

新唐書』回鶻伝下によると、歌邏禄(カルルク)には3つの部族がおり、北庭都護府(現在の昌吉回族自治州ジムサル県)の西北、金山(アルタイ山脈)の西に住んでいたという。顕慶2年(657年)、によってそれぞれに都督府が置かれた[1]

  • 謀落(謀剌、Bulāq)部→陰山都督府
  • 熾俟(婆匐、Čigil)部→大漠都督府/金附州
  • 踏実力部→玄池都督府

また、これら三部族を三姓歌邏禄(ウチュ・カルルク、Üč Qarluq)とも呼んだ[1]

歴史

西突厥の支配

初めは西突厥の構成種族として現れ、歌邏禄(カルルク)の他に咄陸(都陸)・弩失畢・処月・処密・姑蘇などがいた[1]

貞観元年(627年)、西突厥の統葉護可汗(在位:619年頃 - 628年)は自国が強盛であるのを自負し、支配下の国々に対する恩賞を与えなかったため、諸部の衆は怨みを抱き始め、遂に 歌邏禄 カルルク種の多くがこれに離反した[1]

貞観13年(639年)、西突厥の乙毘咄陸可汗(在位:638年 - 653年)は阿史那賀魯を葉護(ヤブグ:官名)に任命し、怛邏斯川(タラス川)に住まわせた。これによって阿史那賀魯は処密・処月・姑蘇・ 歌邏禄 カルルク・弩失畢の五姓の衆を統べることとなる[1]

貞観20年(646年)頃、東突厥の阿史那斛勃が乙注車鼻可汗と称して羈縻(きび)支配から自立すると、西の 歌邏禄 カルルクは北の 結骨 クルグズとともに車鼻可汗に附いた[1]

貞観23年(649年)、太宗は右驍衛郎将の高侃に命じて 迴紇 ウイグル部・ 僕骨 ボクトゥ部などの兵を招き寄せて車鼻可汗を襲撃させると、 歌邏禄 カルルク部の泥孰 闕俟利発 キョル・イルテベル(部族長)や抜塞匐部・処木昆部の 莫賀咄俟斤 バガテュル・イルキン(部族長)らが部落を率いて車鼻可汗に背き、相次いでに投降してきた。その後、唐は阿史那賀魯の部落を賀魯州とし、 歌邏禄 カルルクと挹怛(エフタル)の2部を併せて葛邏州とし、雲中都督府に属させた[1]

永徽元年(650年)9月、車鼻可汗が高侃によって捕えられると、唐はその余衆と 歌邏禄 カルルクの左廂を鬱督軍山(ウテュケン山)に移住させて渾河州とし、渾河州刺史に統領させ、 歌邏禄 カルルクの右廂を狼山都督府とし、狼山都督に統領させた[注釈 2]。唐はこの後、単于都護府と瀚海都護府を設置した[1]

こうして 歌邏禄 カルルクの部衆はモンゴル高原 鬱督軍 ウテュケン山に移住したが、アルタイ山脈の西に残った 歌邏禄 カルルクもいた。顕慶元年(656年)、彼らは処密・処月・姑蘇・弩失畢らとともに西突厥の阿史那賀魯に附いて反乱を起こした。8月、左衛大将軍の程知節は阿史那賀魯の所部である 歌邏禄 カルルクの獲剌頡発および処月の預支 俟斤 イルキンらと楡幕谷で戦い、これを破した[1]

回紇との同盟と独立

8世紀後半の周辺国。

天宝の初め(742年頃)、 抜悉蜜 バシュミル部・ 回紇 ウイグル部・ 歌邏禄 カルルク(葛邏禄)部の3部族は東突厥(第二可汗国)に叛き、 抜悉蜜 バシュミル部の部族長である阿史那施を推して 頡跌伊施可汗 イルティリシュ・カガンとし、 回紇 ウイグル部の部族長である 骨力裴羅 クトゥルグ・ボイラ 歌邏禄 カルルク部の部族長はそれぞれ左葉護(左ヤブグ)・右葉護(右ヤブグ)と称した[1]

天宝3載(744年)8月、 抜悉蜜 バシュミル部・ 回紇 ウイグル部・ 葛邏禄 カルルク部の3部族は東突厥の 烏蘇米施可汗 オズミシュカガンを殺し、その首を唐の京師に伝え、太廟に献上した。東突厥では烏蘇米施可汗の弟である白眉 特勤 テギンの鶻隴匐が即位して白眉可汗となり、 抜悉蜜 バシュミル 頡跌伊施可汗 イルティリシュ・カガンと対立した。その後、 回紇 ウイグル部と 葛邏禄 カルルク部は 頡跌伊施可汗 イルティリシュ・カガンを殺し、 回紇 ウイグル部の 骨力裴羅 クトゥルグ・ボイラを奉じて 骨咄禄毘伽闕可汗 クトゥルグ・ビルゲ・キョル・カガンとした。その後、 骨力裴羅 クトゥルグ・ボイラはふたたび唐に遣使を送って入朝したため、懐仁可汗の称号を拝命した[1]

葛邏禄 カルルク 鬱督軍 ウテュケン山を拠点とする 回紇 ウイグルに臣従する一方、金山(アルタイ山脈)と北庭都護府(ビシュバリク)においては 葉護 ヤブグとして自立し、唐にも毎年朝貢した。 葛邏禄 カルルク 葉護頓毘伽 ヤブグ・トン・ビルゲは東突厥の西葉護(西ヤブグ)である阿布思を捕縛した功により、金山郡王に封ぜられた。天宝の間は5回入朝した[1]

天宝10載(751年)、ズィヤード・イブン・サーリフの率いるアッバース朝軍と高仙芝率いる唐軍が、天山山脈の西北麓のタラス河畔で衝突した(タラス河畔の戦い)。この時、 歌邏禄 カルルクがアッバース軍に寝返ったために唐軍は壊滅し、大敗を喫した[1]

至徳756年 - 758年)の後、 歌邏禄 カルルクは強盛となって回紇と双璧をなし、十姓可汗(オンオク・カガン:西突厥可汗)の故地(イリ地方)に移って 碎葉 スイアブ 怛邏斯 タラスの諸城を占拠した。これ以降、 歌邏禄 カルルクは唐に入朝しなくなった[1]

大暦年間(766年779年)の後、西突厥を受け継いだ黄姓と黒姓の 突騎施 テュルギシュ二姓は次第に衰退していったため、多くは 歌邏禄 カルルク 回鶻 ウイグルに附き、一部はチュイ川上流に逃れた[1]

カルルク国とカラハン朝

9世紀後半、回鶻可汗国崩壊後の周辺国。

766年にイリ地方を占領したカルルクは、その後もモンゴル高原ウイグル可汗国(回鶻)と敵対しながら勢力を保ったが、あくまでヤブグ(Yabγu)の称号を帯びてカガン(Qaγan)号を用いなかった。それはウイグルを宗主国と見做したためと思われ、『カラ・バルガスン碑文』には、「ウイグルが征西した際、フェルガナでカルルクのヤブグをカルルク王に冊立した」ことが書かれている。しかし、カルルクとウイグルが東西で対立していたことは確かであり、それは『シネ・ウス碑文』(Šine-Usu Inscription)によってわかる。

840年、ウイグル可汗国は内乱の最中に北方のキルギズの大軍に襲撃され、ウイグルの可汗が殺された。これによってモンゴル高原のウイグル可汗国は崩壊し、その残党が西へ移動して天山山脈の北東麓に落ち着いた。これが天山ウイグル王国であり、別の一部はさらに西へ移動してベラサグンに至り、カルルクと合流した。この以前に、熾俟(Čigil)部がカルルクから独立している。

その後のカルルクの歴史は不明であるが、940年頃にカルルク国内で最初のテュルク系イスラム国家カラハン朝が生まれたとされるが定かではない[2]

西遼の侵攻

1125年によって滅ぼされると、その一部を率いた耶律大石モンゴル高原において可汗を称したが、1130年にまた金の攻撃を受けて中央アジアに逃れてきた。耶律大石はまずビシュバリクを拠点とする天山ウイグル王国を臣従させ、1132年には天祐皇帝に即位して西遼を建国した。この頃にカルルクも西遼の支配下に入ったものと思われる。

1134年、カルルクはカンクリとともに反乱を起こしたが、耶律大石によって鎮圧された。耶律大石はこの地の北辺を西遼の直轄地と定め、ベラサグンへ遷都し、ベラサグンをグズオルドと改称した。以降も、カルルクは西遼(カラ・キタイ)の属国となる。

チンギス・カンとカルルク

1211年頃、カルルクの首長およびカヤリク[注釈 3]の王であるアルスラーン・カンは、第3次タングート遠征を終えたモンゴルチンギス・カンに朝貢をした[3]。その際、アルスラーン・カンはチンギス・カン家の一公主と結婚し、チンギス・カンの娘であるアルトゥン・ベギをウイグル王(天山ウイグル王)と結婚させる約束をした[3]

居住地

西突厥に属していた頃のカルルクは、「北庭都護府(現在の昌吉回族自治州ジムサル県)の西北、金山(アルタイ山脈)の西に在り、僕固振水をまたがって多怛嶺を包み、車鼻部と接した」とあるようにジュンガル盆地の北西部に住んでおり、その後アルタイ山脈の西麓に残る者もあれば、モンゴル高原に移住させられた者もあった。

766年以降のカルルクは、北宋期の史書『新唐書』に「十姓可汗の故地に移った」とあり、Farighunid朝(現在の北アフガニスタン)の地理書『ハッダード・アッ=アーラム英語版』(: حدود العالم)では、チュイ川(スイ川)やタラス川の一帯からシル・ダリヤ上流域の北岸を中心に東イリ盆地・イシク・クル地方・フェルガナからカシュガルまでを領していたとある。

『集史』の記述

オグズが(自分の民と共に)グールとガルチスターンの地方から自分の古い宿営地に戻る時、彼らは帰途、大きな山のそばに来たという。大雪が降り、数家族がこの降雪のために遅れたという。誰であれ遅れることは許されていなかったので、(このことは)オグズの気に入らず、「降雪のために誰が遅れて良いだって?!」と彼は言ったという。そしてこの数家族に彼は「雪を持つ者、雪に覆われた」ことを意味する「カルルク」という名を与えた。カルルクの諸部族は、これらの人々から出ている。 — ラシードゥッディーン『集史』部族篇

[4]

脚注

注釈

  1. ^ 右から左へ読む。
  2. ^ 史料によっては左廂と右廂が逆の場合がある。いずれにせよ唐がカルルクをアルタイ山脈の西からウテュケン山ハンガイ山脈)に移住させたのは、薛延陀部の南下を防ぐ目的があったためと思われる。
  3. ^ バルハシ湖東南のコパル地方(タルディ・クルガン市の東)にあたる。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『旧唐書』『新唐書』
  2. ^ 小松 2000, p. 163.
  3. ^ a b 佐口 1976, p. 97.
  4. ^ 金山 2022, p. 79.

参考資料

関連項目

外部リンク




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