昭和天皇の長女で、昭和36(1961)年に、35歳の若さで亡くなった東久邇成子(ひがしくにしげこ)さんは大正14(1925)年12月6日生まれ。生誕から100年、令和8年は没後65年を迎える。皇女として育ち、皇族の東久邇宮家に嫁ぐも皇籍離脱で市井の主婦となった成子さんは、戦後の混乱期にやりくりしながら子育てをする暮らしぶりを雑誌に寄稿するなど、当時の皇室と国民の〝架け橋〟となった。「国民の中へ」という姿勢は令和の皇室にも継承されている。専門家とともに記録に残る昭和のプリンセスの素顔を振り返る。
呉竹寮での成長
成子さんは35年の人生をどう生きたのか。その歩みや人柄は、夫の東久邇盛厚(もりひろ)氏が1周忌に作った追悼文集「紅梅」や、「紅梅」をもとに昭和48年に発行された書籍「皇女照宮」(秋元書房)に詳しい。多くの学友や身の回りの世話をした側近、恩師らが在りし日の成子さんの「横顔」をつづっている。
成子さんは昭和天皇の第一皇女として生まれた。ご称号は照宮。昭和天皇と香淳皇后は他家で育てる宮中の慣習を見直し、幼年期まで手元で育てた。その後、成子さんは学習院初等科入学を機に皇居内に設けられた寄宿舎「呉竹(くれたけ)寮」で暮らす。
皇室の近現代史に詳しい静岡福祉大名誉教授の小田部雄次さんは「呉竹寮での生活は内親王としての〝帝王学〟を身に付けさせる意味があった」と話す。
小田部さんが注目したのは、後に福岡学芸大(現・福岡教育大)学長となった教育者で、呉竹寮の最高責任者となり成子さんを養育した藤井種太郎氏の追悼文だ。

