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「運」/芥川龍之介

作品概要・所感

若い侍と陶器師の翁が会話している。翁曰く、かつてこんな話があったのだという――。

貧しさに苦しむある女が、観音様に「どうぞ一生安楽に暮らせますように」と祈願する。すると観音様は「この後云いよる男がいるから、その男の云う通りにしなさい」とお告げを下す。やがて男が現れ、女を八坂寺の塔へ連れ込んで一夜を共にし、絹を渡して妻にする。翌日、男が出かけた隙に塔の内部を探索した女は、この男が盗人であることに気づく。そこで女は絹を持って脱出を試みるが、見張りの婆さんと激しく揉み合ううちに、婆さんを殺してしまう。なんとか逃げ出した女は知人を頼って身を寄せ、男から貰った絹を元手に生活を立て直すことに成功する。そうして知人の家から、盗人の男が検非違使に捕まる様子を眺めるのだった…。

話し終えた後、翁は「こんな運はまっぴら」だと言い、若い侍は「私なら、二つ返事で、授けて頂くがね」と言う…!

こんな風に書いてみても、なかなか掴みどころのない作品である。これは要するにいったいどういう話なのか。

「運の善し悪し」とは何か、誰が決めるのか

翁がひとしきり物語を語った後、若侍と翁は、この女の「運」について論じ合う。

「神仏の御考えなどと申すものは、貴方がた位の御年では、中々わからないものでございますよ」
「それはわからなかろうさ。わからないから、お爺さんに聞くんだあね」「いやさ、神仏が運をお授けになる、ならないと云う事じゃございません。そのお授けになる運の善し悪しと云う事が」
「だって、授けて貰えばわかるじゃないか。善い運だとか、悪い運だとか」
「それが、どうも貴方がたには、ちとおわかりになり兼ねましょうて」
「私には運の善し悪しより、そう云う理屈の方が、わからなそうだね」(p.60)

若侍からすれば、結果的に「一生安楽に暮らす」ことができるようになったのだから、それは「善い運」だったに決まっているじゃないか、ということだろう。一方、翁が言っているのは、たとえ結果的に財産を得て安楽に暮らせたとしても、その過程で盗人の妻になり、人を殺してしまうような「運」を、手放しで「善い」とは呼べない、ということであるようだ。若侍は結果を重視し、翁はプロセスの道徳性を重視する。ふたりの価値観は根本的に異なっているので、会話は平行線を辿っていくことになる。

また、「運」を授けてもらう、「運」に身を委ねるということは、つまり自分の主体性を、自身によるコントロールを手放すということでもあるだろう。手放してしまったが最後、その「運」がもたらすことになる結果――価値観や考えようによって、善いとも悪いとも言える、いわば善し悪しが混在した結果――を、まるごと受け入れる以外の選択肢がなくなってしまう。だから、翁が「こんな運はまっぴら」と言うのは、この点にも関わっているのかもしれない。自分ではコントロールできない「運」に身を委ねてしまえば、殺人や汚れまで背負わされかねない、そのような不確実性には耐えられない、というような。

そのように考えていくと、この短編で扱われているのは、「運」という曖昧な言葉を巡る価値観や認識のズレだということはできそうだ。結果さえよければ「善い運」なのか、それとも、その過程までも含めて「善し悪し」を判断すべきなのか。その後の運命を受け止められるかどうかもわからないのに、「運」に身を委ねてしまってもよいものなのか…。こういった疑問について、何かしらの答えを出そうというのではなく、ただ問いを投げかけるだけに留めることで、本作はどこかすっきりと割り切れない、宙吊りのような読後感を残す作品になっている。