
こんな重荷を持ち上げるには
シジフよ 君の心臓が要る
理想めざして精進すれど
芸術は長く 時は短い
隠れなき偉人の墓地を遠ざかり
荒れ果てた 名もなき者の墓場へと
わが胸は 布にくるんだ大太鼓
葬送曲を打ち鳴らしゆく
封印の解けぬ秘宝の数々は
鶴嘴も 測深器具も届かない
地下の深みに 埋もれて眠る
人知れず咲いた妖花の数々は
荒涼を極めた土地に 秘め事を
もらすがごとく 薫りを放つ
*『悪の華』11。原文はこちら。

アルフレッド・テニスンの作品からは、私は彼をこの世に生まれたもっとも高貴な詩人であると、心から見なしているにもかかわらず、今はごく短いサンプルをご紹介する時間しか残されておりません。私が彼をもっとも高貴な詩人と呼び、またそう考えるのは、彼の産み出す印象が常にもっとも深刻であるからではなく――彼が引き起こす詩的興奮が常にもっとも激越であるからでもなくて――それが常にもっとも非世俗的で、言い換えれば、もっとも高揚感に満ち、もっとも純粋だからであります。彼ほど通俗からかけ離れた詩人はいません。私がこれから読もうとするのは、彼の最新長編詩『王女』(1847年)に挿入された一篇です。
涙よ わけもない涙よ…
以上、はなはだ粗略かつ不完全ではございますが、「詩の原理」に関する私の考えを、皆さんにお伝えしようと努めてまいりました。私が申し上げたかったのは、この「原理」は厳密かつシンプルに申せば、天上の美に対する人間のあこがれに端を発するものである一方、その地上的顕現は、常に魂の高揚感をともなう興奮のうちに見出だされるのであって、それは心情の陶酔であるところの情熱とも、理性の満足であるところの真実ともまったく無関係なのだということです。情熱について申せば、悲しいかな、情熱は魂を高揚させるどころか、かえってこれの品位を下落させる傾向があるのであります。これに対して恋愛――真正にして神聖なるエロス――すなわちディオネのヴィーナスとは截然と区別されるところのウラニアのヴィーナス――これこそはあらゆる詩的テーマのうち、もっとも純粋にして真実なものに違いありません。そして真実について言えば、もし真実に到達することで、われわれがそれまで気づかなかった調和に気づくなら、われわれはそこから直接、詩的効果を体験するでありましょう。とはいえこの効果は調和にのみ由来するものであり、単にこの調和を闡明する上で役に立っただけの真実とは、何の関係もありません。
しかしながら、われわれは詩人のうちに詩的効果を引き起こすいくつかのシンプルな要素エレメントに言及するだけで、真の詩とは何かという明確な概念に、より直接に到達することができるでしょう。詩人は空に輝く天体から、渦巻き状の花から、群生する低木から、風にゆれる穀物畑から、東洋の樹木の屈曲から、青く霞むはるかな山並みから、群れ集う雲から、なかば隠れた小川のきらめきから、滔々と流れる大河の輝きから、人里離れた湖のやすらぎから、その水面に星影を宿す寂しい井戸の深みから、自身の詩魂を養う神的栄養の認識を得ます。彼は鳥のさえずりに、風神の竪琴に、夜風の音に、森のざわめきに、打ち寄せる波の音に、新緑の薫りに、菫の花の薫りに、ヒアシンスの肉感的な薫りに――そしてまた、たそがれどき、果てしない海を越えて、はるかなる未知の島々から彼を訪れる不思議な薫りのうちに、詩を感じます。彼はあらゆる高貴な思想に、あらゆる非世俗的な動機に、あらゆる聖なる衝動に、あらゆる騎士道的な、無私無欲の、自己犠牲的な行為のうちに、詩を感じます。彼は女性の美に、その優雅な足取りに、その目の輝きに、その美声に、その優しい笑い声やその溜息に、その上着の衣ずれの音に、詩を感じます。彼は女性の愛情表現に、その熱狂に、その慈しみに、その健気で献身的な忍耐に、詩を感じます。そして何よりも女性の愛の誠実、純粋、力強さ、またその聖なる荘厳に、彼は詩を深く感じ、これに跪座礼拝するものであります。
もう一篇だけ短い詩を読んでおしまいにしたいと思いますが、これはこれまでご紹介した詩とはまったく趣きを異にするもので、マザーウェルの「騎士の歌(The Song of the Cavalier)」と申すものです。戦争は不信心であるとか馬鹿げているとかいった当世風の、とはいえ理にかなった考え方は、ここでは暫く措かないと、われわれはこの詩に共感し、この詩の素晴らしさを理解する上で、適切な状態にあるとは言えません。これを充分に鑑賞するには、われわれは心の中で、昔の騎士の魂に、みずからを一致合体させなければなりません。
馬に乗れ 馬にまたがれ すべての勇敢な騎士たちよ
そして急いで兜を着けよ
「死」の使いなる「名誉」と「栄光」とが
われらをふたたび戦場へと呼んでいる
剣の柄に手をかけたなら
もはや目に涙は浮かぶまい
われらは潔く出陣する わが国一の美女に対する
一切の未練を断ち切って
おしゃべりな人間や臆病な人間は
泣くがいい 女々しい奴は泣くがいい
われらの務めは男らしく戦い
英雄らしく死ぬことだ!

トマス・ムーアには空想力はあるが、想像力がない、などと評するのが近年の習わしです。この区分はコールリッジが言い出したものですが、実を申せば、コールリッジほど、ムーアの偉大な力量を知り尽くした者はいないのであります。事実はこうです。ムーアの空想力は、彼の他のすべての能力を上回ると同時に、他のすべての詩人の空想力をも上回っていた。ために彼は空想力だけの詩人と見なされた。しかしこれほど大きな誤解はなく、これほど真の詩人の名誉をはなはだしく損なう評はありません。およそ英語で書かれた詩のうちで、このトマス・ムーアの「私は今あの暗い湖のほとりにいたいのに(I would I were by that dim lake)」で始まる詩ほど、奥が深くて、最良の意味で想像力に富んだ詩を、私は他に知りません。その詩を暗唱していないことを、私は残念に思います。
現代におけるもっとも高貴な詩人の一人――そして空想力について言うなら、奇妙なほど空想力に恵まれた詩人の一人――それはトマス・フッドでした。彼の「麗しのアイネス(Fair Ines)」は、私にはいつも言い知れぬ魅力があったものです。
君たちは麗しのアイネスを知っているか
彼女は西へと旅立った
日が沈んだ後も 光を放つことで
万人の眠りを奪うために
彼女は持ち去った 太陽の輝きを
僕らが一番好きだった笑顔を
その頬を染めたあけぼのの紅い色とともに
その胸を飾った真珠のきらめきとともに
帰っておいで 麗しのアイネスよ
夜が来ないうちに
月ばかりが光り輝き
星ばかりがまたたく夜が来ないうちに
何という幸せ者だろう
星空の下を君と歩いて
僕がいま書きあらわせないほど尊い
愛の誓いを君にささやく男は
麗しのアイネスよ もしもこの僕が
君とならんで馬を駆って
君のかたわらに寄り添って愛をささやく
あのかっこいい騎士であったならば!
もしもこの地に一人の美女もおらず
一人の純情な男もいなければ
あの男はわざわざ海を渡って
僕らのアイドルを奪いには来なかったであろうに
麗しのアイネスよ 僕は君が
海岸に沿って歩くのを見た
いくつもの旗が振られるうしろを
ぞろぞろついていく貴人たちとともに
しとやかな少年たちや はしゃぐ少女たちは
真っ白な羽根飾りを着けていた
それはそれだけで終わっていたならば
美しい夢に過ぎなかっただろうに
ああ 麗しのアイネスよ
彼女は行ってしまった 歌とともに
彼女の足取りを軽やかにする音楽とともに
群衆の歓呼の声とともに
だが中には悲しくてたまらない者もいたのだ
彼らは音楽の悪だけを感じた
彼らの耳には それは長年恋した女に
さよなら さよならと歌っているように聴こえた
さよなら さよなら 麗しのアイネスよ
あの船は かつて一度も
あのように美しい女を甲板に乗せたことはなく
小躍りするように船出したこともない
今よろこびは海上にあり
港には悲しみがある
一人の男を幸せ者にしたその笑顔は
何と多くの男の胸を引き裂いたことか!
同じ作者による「幽霊屋敷(The Haunted House)」という詩は、これまでに書かれた詩のうちでもっとも真実な詩――テーマにおいても実作においても、もっとも真実で、もっとも完璧で、徹頭徹尾もっとも芸術的な詩のうちの一つです。あまつさえ、きわめて非世俗的で、想像性に富んでおります。残念ながら、その詩は今ご紹介するには長すぎるので、その代わりとして、人口に膾炙している「溜息橋(The Bridge of Sighs)」の方を、ここで朗読したいと思います。
また一人 幸薄き者が…
この詩の力強さは、その悲壮感と同様に素晴らしい。韻律構成は、奇想をして怪談ぎりぎりにまで激化せしめながらも、この詩のテーマであるところの自殺者の狂気と、見事に合致しております。

叙事詩狂、すなわち価値のある詩は長くなければならないという考え方は、すでに申し上げた通り、それ自体が矛盾をはらんでいるところから、ここ数年のうちに、巷間における勢いを失ってきたかのごとくですが、これと入れ替わるかたちで、長く許容されるにはあまりにも馬鹿馬鹿しい邪説が現れて、これがすでに経過した短期間のうちに、他の天敵がことごとく一丸となった以上の魔力をもって、わが国の詩壇を破壊してしまいました。私は教訓詩の邪説のことを申すのであります。すべての詩の究極の目的は真実であるとの説が、陰に日向に、直接あるいは間接に、当然のごとく主張されております。いわく、あらゆる詩はすべからく社会倫理に寄与するものでなければならず、この倫理性が、詩を判断する上での美点と評価されるのだ。われわれアメリカ人はこのおめでたい説にとりわけ肩入れしており、分けてもわれわれボストン人は、これを最大限に流布させた、まさに張本人です。われわれの頭脳はこのような偏見にあまりにも汚染されてしまったので、詩を書くのはもっぱら詩のためであり、それのみがわれわれの意図するところなのだと認めることは、あたかも真の詩人としての品位も力量もまったく持ち合わせておりませんと告白するかのごとくであります。だが事実は違います。もしわれわれが虚心坦懐にみずからの魂を顧みるならば、本来の詩、詩そのもの、詩以外の何ものでもない詩、もっぱら詩のためにだけ書かれた詩以上に品位ある、気高い詩などこの世には存在しないし、存在するわけもないことが直ちに了解されるのであります。
真なるものについて、私はこれを万人に劣らず深く尊重しながらも、これを広める様態をある程度にまで制限いたしましょう。私はこれを強化するために制限するのであって、乱用によって減衰させたくないのです。「真実」の要求には厳格なものがあります。「真実」は快楽に対して何の親和性もありません。「歌」において必要なもののすべては、まさに「真実」の与り知らぬものばかりです。「真実」を花や宝石で飾り立てることは、「真実」を見苦しい晒し者とするだけです。「真実」を述べるにあたって、われわれに求められるのは、美しい言葉ではなくて、厳密な用語です。われわれは単純で、正確で、簡潔でなければなりません。冷静で、沈着で、無感情でなければなりません。一言にして申せば、可能な限り、詩的状態とは正反対の状態になければならないのです。この真なるものの教化と、詩的なものの感化との間の極端な、断絶的な差異が認識できない人はいないでしょう。このような差異にもかかわらず、この「詩」と「真実」という、水と油とを混ぜ合わせるような行為を試みる人は、度し難い空想家だと私は思います。
精神の世界を、截然と区別できる三つの領域に分けるとすれば、それは「純粋知性」「美意識」「倫理観」となります。「美意識」が中央に来るのは。これが精神の世界において、まさに中央に位置しているからであります。「美意識」は「純粋知性」とも「倫理観」とも密接な関係を有しております。特に「倫理観」との区分はあいまいなので、ためにアリストテレスは「美意識」の作用のうちのいくつかを、美徳のうちに数えるのに躊躇しなかったほどであります。とはいえ、この三人組の仕事にはそれぞれ明確な区別があります。すなわち「知性」は「真理」にかかわり、「美意識」は「美」をわれわれに告げ、「倫理観」はわれわれに「義務」を教えます。「徳」について言えば、「良心」は恩義を、「理性」は便宜を、それぞれ説くのに対して、「美意識」は「徳行」の美的側面をわれわれに提示します。「美意識」が「悪徳」に対して戦いを挑むのは、もっぱらそのフィット感、適切性、調和性――ひと言で言えば「美」――と対立する違和感、不釣り合い、不整合のゆえであります。
われわれの精神のうちに深くひそんでいる不死の魂の本性が、この「美意識」であることは自ずと明らかです。「美意識」は人を取り巻くさまざまな形態や、音響や、香気や、情緒を通して、人によろこびを与えます。そして湖水に映る白百合のごとく、あるいは鏡に映るアマリリスのごとく、単なる話し言葉や書き言葉によるこれらの形態や、音響や、色彩や、香気や、情緒の再現再生もまた、よろこびの二重化された源には違いありません。とはいえ単なる再現は「詩」ではありません。ただ単に歌をうたう者――それはいかなる熱狂をもって、いかに真に迫った描写力をもって、誰にでもひとしく魅力的な景色や、音や、香りや、色や、情緒といったものを歌い上げようとも――ただ単に歌うだけでは、彼はまだ「詩人」という神聖なる称号には値しないのであります。そこには彼がまだ到達することのできていない何ものかが、はるかかなたに存在します。われわれはいまだ癒やしがたい渇きを覚えており、彼はまだこれを癒やすべき泉を提示してくれてはおりませぬ。この渇きは人間の不死性に属するものです。これこそ人間の不死の命の帰結であり、指標なのです。それは星影にあこがれる蛾の欲望であります。それはただ単にわれわれの目の前にある美の知覚ではなくして、天上の美に達せんとする狂おしい悪足掻きなのであります。死後の世界の栄光を、エクスタシーとともに予見しながら、われわれは時間の中にあるもろもろの事物や思想のさまざまな組み合わせによって、その構成要素はまさに永遠にのみ属するがごとき美の一端に到達せんとして、悪戦苦闘するのであります。そうして詩によって、あるいはもっとも恍惚たる詩的状態であるところの音楽によって、われわれが不覚の涙を流す時、それは決してグラヴィナ先生が言うように「よろこびの過剰」からではなくて*1、われわれが詩、あるいは音楽を通して、束の間の、不確かな一瞥にしか達し得ないあの聖なるエクスタシーを、この下界においては、直ちにわがものとすることができないばかりか、永遠に手に入れることができない、そのたまらない焦れったさから、われわれは涙を流すのであります。この天上の美を捕えようとする戦いは、それにふさわしく熟練した魂たちの戦いですが、この戦いが、世界に対して、万人が直ちに詩的であると感じ、理解するすべてのものを付与してきたのです。
詩的情緒と申すものは、言うまでもなく、さまざまな様態を取ることができます。絵画や、彫刻や、建築や、舞踊や――とりわけ音楽ですが、視野を広げれば、きわめて特異な例として、造園術にもそれは展開され得ます。とはいえわれわれの目下のテーマは、もっぱらこれの言葉による実現ですね。ここでひと言だけ、韻律について述べさせて下さい。歩格や、韻律や、脚韻など、さまざまな様態をまとった音楽は、詩において、これを斥けることは無謀と思われるほど重要だと確信するこの私――これが死活に関わるほど重要な装飾であるがゆえに、これの助力を仰がない詩人は駄目だと確信するこの私は、詩には音楽性が絶対に必要不可欠だと、ためらうことなく主張します。詩的情緒に触発された魂が、天上の美の創造という偉大なゴールにもっとも近づくのは、おそらく音楽を通じてだからです。この荘厳なるゴールは、時として、本当に達成されることがあります。われわれはしばしば、下界の竪琴から発せられる天界の調べに、感激をもって聴き入るのです。このように、普通の意味での詩と音楽との融合のうちに、詩の発展のもっとも広大な領域が見出されるであろうことは、疑いの余地がありません。昔の吟遊詩人たちや騎士歌人たちは、今のわれわれが持ち合わせていない強みを持っていたわけです。とはいえ現代においても、たとえばトマス・ムーアは、自作の詩を歌謡化することによって、もっとも正統的な方法で詩を完成させております。
まとめと致しまして、私は詩というものを、簡潔に、韻律による美の創造と定義したいと思います。その唯一の審判者は美意識です。詩は知性とも良心とも付随的な関係しか持っておりません。何か偶発的な事情がない限り、詩は義務とも真実とも、一切関係がありません。
ここで少し補足します。もっとも純粋で、もっとも高揚的で、もっとも激越な快感は、美しいものを静かに思うことから直に得られます。美の観照によってのみ、われわれは詩的情緒とはっきり感得できるところのあの魂の快い興奮、もしくは高揚感に達することができるので、それは理性の満足であるところの真実や、心情の興奮であるところの情熱とは本質的に異なるものです。それゆえ私は美を――ここでは「荘厳なるもの」をも含めて美と呼びます――私はこの美というものを詩の本分と致します。これは原因と結果とは可能な限り直結していなければならないという、芸術の自明な掟に従ったまでで、なぜなら件の特異な高揚感が、少なくとももっとも容易に達成されるのは詩によってであり、さすがにこれを否定するほど愚かな者はいまだ世に現れてはいないからであります。だからといって、情熱の鼓舞や、義務の戒めや、真実の教訓さえも、詩のうちに導入して何の益もないというのではない。それらは時と場合によっては、さまざまな面から、詩の主たる目的に貢献してくれるかも知れないからです。とはいえ真の芸術家は、詩の雰囲気であり、詩の本当の精髄であるところの美に対して適切に従属するよう、これらをいつも巧みにトーンダウンさせるものなのです。
*1:ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・グラヴィナ『詩的理性について』第一巻。

この「詩の原理」と題されたエッセイ風の文章は、エドガー・アラン・ポーが最晩年の1848年12月から1849年9月にかけて、アメリカ合衆国東部の数ヶ所で行なった講演の原稿と思しきもので、ポーの死後、遺稿が発見され、公表されました。1848年2月に行なわれた宇宙論「ユリイカ」の講演では、聴衆の数も少なく、世評もさんざんで、ポーはさぞかし無念だったでしょうが、この「詩の原理」の講演では、比較的多くの人が集まり、反応も概して好意的だったようで、(最期の時が刻々と近づいていた)詩人はいささか溜飲を下げたことであろうと察せられます。四回に分けて訳出します。原文はこちら。
「詩の原理」についてお話しするにあたって、私は綿密であろうとも、深遠であろうとも意図してはおりませぬ。われわれが「詩」と呼ぶものの本質について、思いつくままにお話ししながら、私の主たる目的は、私自身の好みにぴったりと合った、あるいは私自身の心にきわめて強い印象を残した、そんな英米の小詩篇のいくつかを、ご参考までにご紹介することであります。今「小詩篇」と申しましたが、これは言うまでもなく、短い詩のことです。ここで、まだお話は始まったばかりですが、私自身が詩を評価する上で、正しいにせよ正しくないにせよ、常に影響を与えてきたある特異な原則について、ひと言述べさせて下さい。私は「長い詩」というものは存在しないと思います。「長い詩」という言い回しには、言葉の使い方自体に矛盾が含まれているように思うのです。
一篇の詩が「詩」の名に値するのは、それが魂を興奮させ、高揚させる限りにおいてであることは、申すまでもありますまい。詩の価値はこの高揚感に比例するのであります。だがすべての興奮は、心理的必然により、一時的なものです。一篇の詩を「詩」たらしめる興奮の程度は、長時間にわたる読書を通じて、とても維持できるものではありません。三十分も経って、興奮が絶頂を過ぎてしまえば、あとは下り坂で、やがて反動が生じますので、その時点でこの詩篇なるものは効果の点でも、事実としても、「詩」とは呼べないものとなります。
たとえばミルトンの『失楽園』について、これが最初から最後まで絶賛されるべきだとする定説と、この定説が要求するような熱狂の総量を、これを読んでいる間じゅう維持することのまったくの不可能性。この二つの折り合いをつけるにはどうしたらいいか、疑問に感じた人は少なくないでしょう。この大作は、実を言えば、あらゆる芸術作品における死活に関わる必須要素、すなわち首尾一貫性というものを度外視して、ただ単に小詩篇の一連作と解した場合にのみ、「詩」と見なし得るものなのであります。もしこの首尾一貫性――作品の効果あるいは印象における統一性――を保持すべく、この作品を(要求どおり)一気に読み終えたとするならば、その結果は気分の高まりと落ち込みとの絶え間ない入れ替わりに過ぎなくなります。われわれが真の「詩」を感じる一節の後には、必然的に、「定説」が何を前もって吹き込もうと、われわれにはとても感心できない平板な一節が続くのであります。ところが、一度全巻を読み終えてから、これを第一巻を飛ばして、第二巻から再読してごらんなさい。われわれは、前につまらないと思った箇所に感動し、前に感動した箇所に何ら心動かされないことで、びっくりさせられるでありましょう。ここから以下のことが結論できます。すなわち、この世における最大の叙事詩といえども、その詩的効果を合算した総合計は、突き詰めて言えば、ゼロに等しい。これが紛れもない事実なのです。
『イリアス』に関しては、われわれはこれを叙事詩ではなく、抒情歌の連作として創作されたと信ずべき確たる証拠、とまではいかなくとも、少なくとも充分な根拠があります。とはいえ、そこに叙事詩的意図を認めるなら、これは芸術に対する未熟な考え方を基礎とした作品だと言わざるを得ません。近代の叙事詩はといえば、こちらは想像上の古代の叙事詩をモデルにしたもので、上っ面だけの、浅はかな模造品に過ぎません。しかしこのような芸術的変則の時代は終わりました。もしもかつて、いつの世にか、本当に長い詩が流行した時代があったとしても(それは疑わしいが)、少なくとも、そんな時代がもう二度と来ないことは明らかです。
その反面、詩が短すぎてもいけないことは当然ですね。不当に短い詩は単なるエピグラムに堕してしまう。あまりにも短い詩は、時として強烈で衝撃的な効果を上げることもあるけれども、深刻かつ持続的な効果を産み出すことは決してない。蝋印はしっかりと捺さなければなりません。ド・ベランジェは、刺激的で気の利いた短詩を数多く物しましたが、それらは概して読者の心に深く残るには軽すぎて、あたかも空想のおびただしい羽毛のごとく、流れる風に舞い上がり、吹き飛ばされてしまったのであります。
これから読む美しい小夜曲は、不当な短さが、いかに詩の価値を下げ、これを一般の評価外とするかの著しい例を提供してくれるものです。
私はあなたの夢から目覚める…
この詩をご存じの方は少ないだろうと思いますが、作者は誰あろう、あのシェリーなのであります。ここに表現された熱烈にして繊細な恍惚感は、万人に理解可能でしょうが、これを完全に鑑賞できるのは、やはり実際に恋人の夢から覚めて、南国のかぐわしい夜気の中を歩いた経験のある方だけでしょうね。