ホン・サンス監督、キム・ミニ主演の韓国映画『小川のほとり』を解説。大学講師ジョニムの日常に潜む感情の揺らぎと、観る者の想像力を喚起する演出を丁寧に読み解く。
ホン・サンス監督の映画『小川のほとり』は、一見すると穏やかで何事も起こらない作品だ。だが、その静けさの内側には、いつ表に出てもおかしくない感情の揺らぎが、かすかな緊張として流れている。
キム・ミニが演じる大学講師ジョニムは、仕事も人間関係も順調に見える人物だ。しかし物語が進むにつれ、彼女の表情や振る舞いの端々から、説明しきれない違和感が立ち上がってくる。本作は、見える出来事よりも、見えない感情を観る者に想像させる作品と言えるだろう。
目次
韓国映画『小川のほとりで』作品基本情報

邦題:小川のほとりで
原題:수유천 (英題:By the Stream)
ジャンル:ヒューマンドラマ
監督・脚本・撮影・製作・編集・音楽:ホン・サンス
製作国:韓国
製作年:2024年
上映時間:111分
キャスト: キム・ミニ、クォン・ヘヒョ、チョ・ユニ、ハ・ソングク、カン・ソイ、パク・ミソ
賞:第77回ロカルノ国際映画祭(2024)最優秀演技賞受賞(キム・ミニ)
映画『小川のほとりで』あらすじ

ソウルの女子大学で講師を務めるテキスタイルアーティスト、ジョニムは、小川のほとりで水彩画を描く穏やかな日常を送っている。ある日、大学の演劇祭で演出予定だった学生が辞めたことをきっかけに、彼女は元俳優で演出家でもある叔父シオンに助けを求める。江陵で書店を営むシオンはその依頼を快諾し、大学に関わることになる。
学生たちと対面する叔父、学部長との交流、そして叔父と学部長の距離が次第に縮まっていく様子を見つめながら、ジョニムの心には言葉にならない感情が芽生えていく。大きな事件は起こらないまま、それでも確かに何かが揺れ動いている――『小川のほとり』は、その微細な感情の動きを静かに描き出す作品だ。
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韓国映画『小川のほとりで』感想とレビュー

映画『小川のほとり』は感情の映画だ。というのも、キム・ミニ扮するテキスタイルアーティストでソウルの有名女子大の講師を務めているジョニムの感情がまるで時限爆弾のようにいつか爆発してしまうのではないかという不穏さが、全編に漂っているからだ。
映画はジョニムが小川のそばで水彩画に取り組んでいる場面から始まる。ホン・サンス監督はその様子を監督作品には珍しい引きの構図で撮っている。
次いで彼女は大学の正門前で叔父のシオン(クォン・ヘヒョ)と十年ぶりに合う。その時の彼女は屈託のない晴れやかな笑顔を見せており、物語はいたって平穏にスタートする。
叔父は有名な元俳優兼演出家で、現在はソウルから車で3時間ほどの沿岸都市・江陵で書店を経営している。二人の話から推測するに、叔父は過去に権力者に異議を唱えたせいで干され、役者の仕事を失ったらしい。
ジョニムは大学の演劇祭で演出をする予定だった男子学生が辞めてしまったため、急遽、叔父に演出を頼むことを思いつき、連絡を受けた叔父は快諾し江陵からやって来たのだ。大学内に入るには許可書が必要であり、ジョニムが一緒でないと入れないため、彼らは大学のすぐ前で待ち合わせたのだ。
実は男子学生が辞めたのには理由があった。彼は3人の女子学生と同時に付き合っていたことがわかり、クビになったのだ。その3人も芝居から離れてしまい、残ったのは4人だけ。期間も10日間しかない中、なんとか芝居を作り上げなければならない。
学生たちとの対面のあと、ジョニムは、シオンの大ファンであるという彼女の恩師であるチョン学部長(チョ・ユニ、クォンの実生活の配偶者)にシオンを紹介する。
ジョニムは万事うまくいっているようだ。パートナーはいないが、今が一番いい、幸せだとシオンとチョンに向かって言う。
夜、ジョニムが真っ暗なキャンパス内で敷物を敷いて横になると、3人の女子学生が現れ、彼女たちは並んで横になり、近況を報告する。彼女たちは演出家の男性と付き合っていた3人だ。彼女たちの心の傷はまだ完全には癒えていないようだ。そんな3人を励ますジョニム。チョンがシオンに、ジョニムは学生たちにとって頼れるお姉さん的存在だと紹介した言葉に間違いはないようだ。
また、仕事面でも、彼女は漢江をモチーフにした美しい機織り作品を制作しており、その充実ぶりが伺える。小川のスケッチも仕事の一環なのだ。
だが、物語が進むに連れ、観る者は妙な緊迫感を覚えることになる。ホン・サンス監督の2018年の作品『草の葉』でキム・ミニが演じた女性は、弟から恋人を紹介され、初めはいい雰囲気で会話がすすんでいたにも関わらず、突然激高し始める。あの時のように、今作でも、いつか彼女が癇癪を起すのではないか、という不安が付き纏う。
彼女が気を悪くする原因になるようなものはとりたてて、具体的には見当たらない。唯一、3人の女性と付き合っていた男子学生がジョニムのところにやって来て、自分は悪いことはしていない、人を好きになっただけだ、だから演出をもう一度やらせてほしいと談判してきた際、自説を曲げようとしない彼に対して「警備員を呼ぶ」と言って追い返したシーンが思い出されるが、ここでの彼女の言動は、教員として学生を護るための常識的な行動を取ったに過ぎない。
にも拘わらず、ジョニムが今にも爆発しそうに見えるのはなぜだろうか。ホン・サンス映画におけるキム・ミニは大概、何を考えているかよくわからない存在で、本作に関してもこれといったはっきりした理由はない。だが、叔父と自分を可愛がってくれる学部長が親しくなっていくにつれ、不穏さが増していくように感じられる。
ジョニムは、当初、二人が親しくなるのを望んでいたし、その橋渡し的なこともしている。彼女は自分が尊敬する二人が親しくなったらきっと素敵だろうと思っていたはずだ。だが、思っていた以上に、二人が親しくなりすぎて、取り残されたように感じたのだろうか。あるいは、ふたりを紹介したのは私なのにまるで昔からの友人のように仲良くなって、私が紹介したことなどなかったかのようになっているではないかと憤ったのだろうか。
こうしたことは往々にして日常生活にありがちなことで、気持ちがわからないでもないが、それを「嫉妬」や「孤独」といった言葉で単純化すると、また何か違った感じがする。
私がいないと大学構内にも入れなかった叔父が、すっかり大学に馴染んでしまっている=彼が境界を破りやすやすと侵入しているという思いがあったのかもしれない(そういう点では、あの男子学生に対してもっとも彼女が反応したのは、大学に入る許可書を彼が返却していなかったことだ)。
だが、それらは全て推測に過ぎない。映画は見えるものだけを描いており、彼女の感情が爆発しそうだというのも当方の単なる勘違いなのかもしれない。それでも終盤、学部長から今、叔父さんと鰻を食べているので、あなたもいらっしゃいと誘われた際、彼女はすぐに駆け付けず、あえて(?)ラーメンを食べている。複雑な感情が見え隠れしている。
叔父の寸劇が総長の逆鱗に触れ、学部長が呼び出され、さらに、ジョニムにも呼び出しがかかる。彼女は総長の部屋に行く途中、紅葉した大きな落ち葉を拾い、手を挙げて振り始める。これまでほとんどかからなかった劇半が静かに流れだし、それは優雅なダンスのようだ。本作でもっとも洒落た愛らしいシーンだろう。だが、このあと、総長から小言を言われることをジョニムは承知している。
寸劇を終えたシオンと、四人の学生が、焼酎で乾杯して打ち上げを行っているシーンはこの映画のハイライトのひとつだろう。
「どんな人になりたいですか?」とシオンは学生に訪ね、詩を作ってみようと提案する。カメラは学生ひとり、ひとりにゆっくり近づき、彼女たちに言葉を促す。彼女たちから発せられる言葉は、飾り気もない、心の底から出て来たものに聞こえる。彼女たちは皆、涙ぐみ始める。もしかしたら、この部分だけはあらかじめシナリオで指定された台詞ではなく、彼女たちのアドリブ、直の声なのではないか。ほんの脇役でしかないと彼女たちのことを観ていた自分が恥ずかしくなる。ひとりひとりが、人知れず葛藤や悩みを抱えていることに気づかされ、この作品が感情の作品であることを改めて感じさせるのだ。
結局、ジョニムは、少し叔父と言い争いをする以外は、大きな爆発もなく、平穏なままで映画は終わる。だが、それは彼女が気持ちを抑える努力をしたからだ。叔父を車で送らなくてはいけないのに、彼女は鰻屋で酒を飲み、喫煙所から川にそって歩いて行き見えなくなる。彼女のことを心配した叔父が彼女の名前を何度も呼ぶと、彼女は姿を見せ、「何かあった?」と尋ねられ、「何もありません。本当に何もありません」と笑顔で戻って来る。
彼女はこの時、逃走を試みたのではないか。叔父と学部長の元から離れたいと。だがその道からはどこにも行けそうにない。そのわずかな時間で、彼女は笑顔を作り、何事もなかったように振る舞い、苛立ちや複雑な思いを封印し、二人の元に戻るのだ。それは状況は違えど、誰しもが経験したことのある感情であり、判断ではないだろうか。自分でもはっきりしない苛立ちに任せて、これまで築いて来た良好な関係を台無しにするわけにはいかないのだ。
勿論、これもただの憶測にすぎない。この時、スクリーンに映っていたのはジョニム以外の二人だったのだから。だが、この作品は、その時、姿の見えなかったジョニムの気持ちをありありと想像させる。あくまでもこれは筆者の「想像」である。どんな感情を想像するのかは、観る人によって変わるだろう。
『小川のほとり』は観えるもの以外を感じさせ、想像させる映画である。