拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

『キリスト』と『無』

先日、スイスドイツ語圏 ‐Solothurn‐ へ行った話をしたけれど、その時に訪ねた教会のイエス・キリストの絵画を見た時、キリストの身体が十字架にうなだれている姿を観て、私の家の寝室にここ何年も掛けられている細長い書『無欲一切足』の崩した書体の『無』に観えてしまった。

まさに『観自在』といえば聞こえはいいが、キリスト教関係の方から顰蹙(ひんしゅく)を買いそうな馬骨の妄想的現象は、昨日のキリスト誕生を祝う『クリスマス日』に頂点に達し…

  

   

このような、絵面になってしまった。

(これはAIによる作図ではなく、強いて言えば馬骨論であるHI(般若智)の作図による図)

 

そもそも、三十数年前に初めてヨーロッパに来て、十字架のキリスト像を観た瞬間、『公案=禅問答』と私は解釈したが、公案は、人をして『無』に向かわしめる『問』であることを思えば、今回そのように観えたとしても一向に問題ないわけなのだが…(禅者としての私には)

キリスト教と仏教とでは、信仰の向いているベクトルが正反対で、互いに相容れる余地はないのでは・・・と思いっていた私に、案外この『無』という時空の交差点で通ずるモノがあるように思えたことは、私にとって『良いクリスマス』になった気がする。メリークリスマス!!

 

 

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