拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

佛理覚的『慈面』2026

皆様、あけましてあけましておめでとうございま〜す。

 

私が住んでいる現地(スイスフランス語圏)では

Bonne année (良い年を〜)!と正月に挨拶しますが、日本語の『あけまして』が『開ける・明ける』というニュアンスが『重ね合わせ・もつれ』になった感があり、本当に新たな新年を、清浄な新年を迎えま〜す・・・といった雰囲気にさせてくれます。

駄洒落好きな禅オヤジとしては、これに『空けまして、おめでとう!』の洒落が通じる人と出会えれば本当に、ダルマさんに『眼』を入れるほど『目出度い』のですが。

 

今年の干支は『馬』ということで、そんな『干支』があったっけ??なんて思った間抜けな私ですが、私自身の干支は『龍』で、星座が『牛』、そして数年前に私自身が名付けた私の居士名が『馬骨』という、他愛もない縁で『馬』という干支が、まるで私の年でもあるような大いなる勘違いで始まる年のようです。

 

『馬』というと、『疾走』とか『飛躍』とか動的ダイナミズムをイメージした時、私の愚脳は『此岸から彼岸への飛躍』・・・つまり私が昨年来提唱している『HI(般若智の完成)』の図を思い浮かべました。

ついでに『ギャーテーギャーテー波羅ギャーテー、波羅僧ギャーテー、ボジソワカ〜般若心経〜』・・・と、般若心経の呪文まで唱えてしまいましたが、その時、ふと『飛躍』するには蹴り上げる『地面』が必要だよなぁ…と思ったとき、『慈面』という馬骨流新『佛語』が出てきました。

確かに、飛躍するには物理学的には『地面』が、佛理覚的には『慈面』が必要・・・という『佛語漢字方程式』でいうところの、エンタングルメント『重ね合わせ・もつれ』現象の発見となったわけです。

考えてみれば、私たちは簡単に『飛躍』と言っているわけですが、『蹴り上げる』土台が何なのかという認識することなしに、『飛躍』はありえないことを思えば、禅の言うところの『脚下照顧』や『看脚下』という禅語が示す、最も肝心な『土台の認識』が腑に落ちます。

 

私の『道産子』弁がつい出てしまいましたが、そういえばこの『書』、道産子という北海道産の短足な馬の様子がウマく表現されています。本年もどうぞ、宜しくお願い申し上げます。

 

 

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失われた『記憶』求めて…

毎日が日曜日…のような私にも、いよいよ年末も残すところあと二日となった。

 

一般的にヨーロッパ人よりも日本人は『年末・年始』の意識が強いように思う。

日本人は、師走だ!忘年会だ!大掃除!とかなんとか言って、自分等を年末にむかって追い込む文化があるように思う。

そういえば禅寺での臘八接心(ろうはつせっしん)という12月の坐禅修行は、まるでこれが人生最後の接心(修行)・・・ぐらいの切羽詰まったより深刻な面持ちで修行に追い込む雰囲気があった。

そして、それの結果はどうであれ、各修行者に何らかの爪痕を残したことは、私のようなボンクラ修行者であっても、今思えば確かに『爪痕・・・What else?』と三十数年の歳月を超えて響いているのだから、その効果やいかに・・・。

 

その追い詰められた、結果?であろうか、どこかで聞いたことのある文句が今日のブログ・タイトルとなった。

『悟りは郷理(さとり)』・・・という、いかにもオヤジ・ギャグな馬骨論を提唱しているが、そのあたりを自分なりに徘徊していると、『郷理』とはつまるところ、『生命の根源』を意味しているようで・・・と、そこまで考えた時、我々人間は2、3歳ぐらいの幼少時の『記憶が無い』よなぁ…となったのだ。

そして不思議なことに、誰もその事を問題にしていない!・・・

まぁ、理屈で言えば『脳がまだ出来上がっていない、記憶を定着する言葉をまだマスターしていない』などなどあって、赤ん坊時期の記憶が無いのは、当たり前ということで、誰もが済ましてしまっている現状が現状なのだ。

 

『赤ん坊』は、一人では何にも出来ない、生物としては最弱の存在でありながら、人々に『希望と勇気』を与える存在で、それは般若心経が何度も繰り返し主張する『心無罣礙・無羅礙故(心に何も思い煩うことが無い故)無有恐怖・遠離一切顛倒夢想(何の恐れもないし、何の疑いも無い・・・)』というような所に帰着する。

自分自身が、そのような『存在』であった幼少期の記憶に帰着する事こそが、『悟りであり、郷理(さとり)』であるのに、誰もそこに意識を向けない・・・、いや、釈尊はそこに眼を向けた最初の人間であり、禅こそは『直指人心・見性成仏』といって、その一点に注視した一群ではなかったか・・・と私は思う。

坐禅で『無』に向き合う・・・というのは、人々が忘れ失っている『記憶』の覚醒のために違いない、『悟り』ということを表すのに『覚り』とも言うが、記憶の奥底で覚えているのが『心無罣礙(シンムケゲ)』の郷理なのだと思う。

 

      

SNSを始めた時、私は無意識に自分の幼少期の写真を使ったが、今思うとそれは偶然ではなかつた。それは私にとって『失われた記憶』の探究の象徴だったのだ。

 

 

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『キリスト』と『無』

先日、スイスドイツ語圏 ‐Solothurn‐ へ行った話をしたけれど、その時に訪ねた教会のイエス・キリストの絵画を見た時、キリストの身体が十字架にうなだれている姿を観て、私の家の寝室にここ何年も掛けられている細長い書『無欲一切足』の崩した書体の『無』に観えてしまった。

まさに『観自在』といえば聞こえはいいが、キリスト教関係の方から顰蹙(ひんしゅく)を買いそうな馬骨の妄想的現象は、昨日のキリスト誕生を祝う『クリスマス日』に頂点に達し…

  

   

このような、絵面になってしまった。

(これはAIによる作図ではなく、強いて言えば馬骨論であるHI(般若智)の作図による図)

 

そもそも、三十数年前に初めてヨーロッパに来て、十字架のキリスト像を観た瞬間、『公案=禅問答』と私は解釈したが、公案は、人をして『無』に向かわしめる『問』であることを思えば、今回そのように観えたとしても一向に問題ないわけなのだが…(禅者としての私には)

キリスト教と仏教とでは、信仰の向いているベクトルが正反対で、互いに相容れる余地はないのでは・・・と思いっていた私に、案外この『無』という時空の交差点で通ずるモノがあるように思えたことは、私にとって『良いクリスマス』になった気がする。メリークリスマス!!

 

 

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悟りの郷

 昨日、相方の姉の家に集まり、クリスマス会をした。

姉の娘の息子3歳を中心に、この年末の無事を7人が集って、お祝いした。

昨年、一昨年と続いて相方の両親が他界したこともあったが、三十数年前のクリスマス会は相方の父方のファミリーが30人ぐらい集ったことを思い出すと、その過ぎ去った歳月をふと思う。

子供のいない我々夫婦としては、本当に久かたぶりに三歳児なる生き物を身近に観たが、貰ったプレゼントは自分のモノであると・・・主張し、大人が『ちょっとそのプレゼントを見せてよ』と言って手を出すと、頑なに拒否する様子が可愛い。型にハマったように、無意識に自我を主張する幼児。すでに『自ずから示される道』というところに進んでいる。

 

その『自ずから示される道』というのは、『自我から無我』へと開かれているものの、『無我』である彼岸へ渡るには『自ら歩む』という意識が伴う・・・という大問題が横たわっている。 

一般的にこの『無我の彼岸』に渡ることを『悟り』というが、この言葉『悟り』がまた問題で、ここに引っかかっている人が大半で、ここで挫折というか、無視というか、人間にとって最も大切な行為『悟り』に対して無関心を装う世間が非常に残念に思う。

老師と呼ばれる禅僧にしても、『アナタは悟っていますか?』なんて子供に聞かれるのが、苦手である・・・と告白しているのを見聞すると、なんか違う気がするのは私だけだろうか?

私は釈尊が29歳で出家し、6年の苦行の末、悟りに至った・・・という物語を何度か聞いているうちに、『何故、釈尊は悟ることを諦めなかったのか?』という疑問をずーっと持ち続けていたが、その疑問が『郷里』の『郷』の字の解字が      

この絵の様子が漢字になっていることを知り、

駄洒落半分に『悟り=郷里』という言葉遊びから、臨済禅師のいう『無位の真人』との出会いが『郷』なのではないか・・・と推測したわけであるが、その『郷』が『音』と合わさって『響』という字を形作り、それが私には『観音』と響いたところから、私にとって『悟り=郷理』は確信となっていった。

それはやがて私のなかで『佛語漢字方程式』というモノになり、その方式には意味の『重ね合わせ・もつれ』・・・と、いま流行りの量子力学的な発想と結果的に響鳴してしまったのだ。

 

釈尊にしても、私のような情けない者の修行にしても、『悟りを諦めなかった』理由は、『郷理』というモノが根本的な『生命の場』として、自己の中にあることを感じていたからではないだろうか・・・。

『悟り』と『郷理』は、『悟郷不二』のモノで、自己の意思だけで到達するものではなく、『自ずから然り』というHomeとなる『郷里』へ回帰する生命力に自己を委ねることなのだと思う。

先日、『クリスマス市』を訪ねようと、電車で1時間半のスイスドイツ語圏の街Solothurnへいくと、駅と旧市街へいく途中で大きな『星の王子様』像にであって一撮パチリの図

 

『星の王子様』は原語はフランス語で、フランス語の書籍としては、聖書に続いて世界中で翻訳されている本だそうだが、それって『郷理』の物語だからではないだろうか。

 

 

 

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人生の究極プレゼント 〜 禅問答

73歳という、自己の人生を省みることができる年齢まで生かされてみて思うのは、生まれた瞬間から『私は何のために生きるのか?』という『問』を探し出す為に懸命に生きてきたように思う。

『答』というのが、『問答』という言葉のように表裏一体になっていて、その正体が『郷理・さとり』であることは、直感的にウッスラと解っていても、そこに至る『問』が何なのか私には解らなかったし、まして『問答』というものが、『重ね合わせ・もつれ』現象の関係にある…とは想像もしていなかったその昔、実際には『問』があまりにも巨大過ぎて、自分の視界から完全にはみ出し、まったく観えていなかった・・・というべきであろう。

 

巨大な『問』が、人生と共に等身大の大きさに観えるまでに、『答』である『郷理』に向かう『道』に、それこそ導かれるように、私の場合は、最終的に円覚寺の門を叩いていたわけだ。

 

『問』など無い・・・と思い込んでいた私に、禅は私に『問答』を真正面から突きつけ、『無』になることで、様々な雑念を徹底的に取り除いたその先に『問』は『答』と表裏一体の円相として鳴り響いていたのだ・・・。

 

自ずから示される道(郷理)は、自ら歩むことで至る道(悟り)・・・というのが私の『郷理』で、私の人生の中で、禅が与えてくれた『問答』は究極のプレゼントであったと思う。

 

この季節になると、スイスの各街で催される『クリスマス市』で、人は親しい人々へのクリスマス・プレゼントを詮索する。そういった風景にふれて、ふと『プレゼント』について考え、 ホットワインで『喫茶去』の真似事をする馬骨の図。

 

 

 

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馬骨『 般若智=HI 』試論… "漢字ビット"

昨日、Youtube動画で『PIVOT TALK SCIENCE〜ゼロから学ぶ量子コンピュータ』と題した、量子コンピュータでは日本の第一人者、大阪大学の藤井啓祐教授の話を拝聴していた。

 

私は本来、無学であるから『量子コンピュータ』というか『量子力学』については何も知らないので、チンプンカンプンであるはずが、適当に私が試論している『HI=般若智』に当てはめて聞いていたので、それこそ『自分なり』にではあるが、頷きながら教授の話を聞いている自分が笑止千万であった。

教授は難しい話を、解りやすいように話して下さっているものの、話はどんどん前に進み、よく消化できないうちにテーマが変わったりして解ったような、わからないような・・・しかしそれが、『量子力学』の一般的な理解ということになっているらしい。

 

『AI』に対して、私は『HI=般若智』という『人間本来の智慧』を想定しているが、『HI』はまた『閃きの智慧』とも言えるわけで、

その時教授が言った『量子ビット』の特徴として

① トンネル効果(壁などの障碍を超えてしまう現象)

② 重ね合わせ

③ もつれ ・・・など3っの特徴があると話しているのを聞いて

それは、人間の『閃き』の特徴でもあり、また馬骨が言っている『考えるな、漢字ろ!』で言うところの、『佛語漢字方程式』で言うところの特徴でもあるのではないかと考えた時

『漢字ビット』という単語を思いついた。

 

アインシュタインを代表とする19世紀の錚々たる学者がたどり着いた『量子力学』のこの3っの特徴というものが、仏教の『般若智』というようなものが取り沙汰され、中国に渡った時期(6〜7世紀?)に、当時のトップ知的頭脳集団であったであろう、僧侶らが、インドのサンスクリット語『Prajñā (プラジュニャー)=般若智』を解読し翻訳する際に『漢字』という文字にこの3っの特徴を情報として織り込んだ、つまり『漢字ビット』として後世に残した・・・のではないかという馬骨妄想『般若智=HI』試論なのだ。

 

それにしても『般若心経』の正式名『摩訶般若波羅蜜多心経』の訳が『偉大なる到彼岸(完成した)智慧』とした時の『般若』と音写した文字が『彼岸に渡る船』で『若=右脳』に行き着く・・・という解釈をした時、『般若智』の恐ろしいほど深い叡智に私は驚嘆する・・・。

 

私の『考えるな、漢字ろ!』は、『佛語漢字方程式』からさらに『漢字ビット』へと展開し、科学の『物理学』は般若の『佛理覚』へと響鳴する今日此の頃の図 

 

 

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『坐』= 精神と時の部屋

 いまやどこの国でも『分断』が流行っている。

かつて鳴りをひそめていた『分断』が、まるで火山噴火のように地球上のいたるところで噴出し、あわや第三次世界大戦が起きるのでは・・・と、感じさせるところまで来ているような…

 

インターネットが普及したころは、世界中がネットワークで繋がり互いのコミュニケーションが活発になって、平和な時代が来るのではないかと思ったものだが、まるで『AI』の発展と反比例するように至るところで『分断』が起こり、収集がつかない状態にまでなってしまった。

 

科学が『AI』を産んで、人間以上に賢い『人工知能』を世に輩出したものの、世の中は良くなるどころか、それ以前以上に人間の『愚かさ』が露呈し、盲目的に『分断』が分断を呼び社会の不協和音に歯止めが効かなくなっているようだ。

 

この現象って、一重に『人間の叡智』の欠如・・・にある、と言うのは簡単だが、実際本物の『人間の叡智』を覚醒する観境(つまり教育)を形成するのに長い歳月を要し、そこに眼を据えて真剣に取り組もうとする人間が増えなければ、なかなか実現するものではないのか?

 

何事もスピード時代、悪い事もこれまで以上のスピードで広がるだろう。

 

そんな時に、ノンビリ『坐禅』・・・! というのが、ミソで、そこが『坐禅』の面白いところで、『急がば回れ』・・・というのが、非常に人間臭い所でもある。

 

写真は私が33歳のとき、ニューヨークはハーレムの一室で撮ったモノ。部屋の壁にピラミッド状の三角が描かれていて、私はそれを背景に写真を撮りたいと思ったが、その頃はすでに『坐』がドラゴンボールの『精神と時の部屋』的なものであることを意識していた。

私の考える『坐』には時間がなく、時間が無いところには、『恐れ』も無い・・・と思っていたかどうか? この旅は、私を本格的”禅修行”の動機に向かわせた。

 

 

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