< 寿司として登場してきたのは1938年 昭和13年のことらしいです 最初から助六って呼ばれたのかどうかはナゾですけど >
「ランチ難民」なんていうのが取り沙汰されていたのは2010年ごろがピークだったでしょうか。
昼間と夜間の人口の差が、品川区で1.4倍、港区で4.5倍、千代田区にいたっては14倍っていわれていましたからね、街自体のキャパシティに飲食インフラが追いついていなかったってことだったんでしょうね。
飲食店ビルなんてのありましたけど、ランチ営業している店の数が少ないですから、客が回転するのを待って並んでいたら昼休みの時間があっというまに過ぎちゃうんですよね。
コンビニ弁当に群がる人数もちっとも進まない弁当ピックアップ行列、レジ行列が出来てしまうような、オーバーフロー状況でした。
行列に並んで、ようやくお弁当の棚、パンの棚の前にたどり着くころには何も残っていない。補充する店員さんが店舗の中を歩けない、とかそんな感じ。
並んでいる人数のほとんどが日本人でしたから、今どきSNSで騒がれているようなパニックとかにはなりませんでしたけどね。
会社ごと、あるいはオフィスビルごとに昼休みの時間をセクションごとに分けたりとか工夫はしていたんですけど、まあ、絶対的なキャパシティが足りていないわけですから、自然に「ランチ難民」が急増することになっていたんです。
自宅でお手製弁当を作って対処するっていうマメな男女もいましたが、やがてみんなが当たり前にやりだした方法は、朝、通勤時に駅からオフィスに向かう途中にあるコンビニでお昼に食べるものを買ってくるっていう方法でした。
朝からコンビニに行列ができるってこともありましたけど、ま、たいてい無事にゲット出来ました。
コンビニ側の対処も早くって、朝からたくさん並べられていました。おにぎり、サンドイッチ、各種のお弁当。
飲み物は社員割引の効いている自販機のお茶、ウーロン茶、って人もまた多かったです。コンビニでは飲み物を買わない。
オフィスの4割ぐらいの男女がそんな感じでした。お昼は自席でコンビニ食。ちと侘しいものがありましたね。
そんな環境の中で、ある40代半ばの女性が隣りのデスクだったんですが、その女性は決まって「助六寿司」だったんでした。
ホントいつもなんです。
よっぽど好きなんだね、って聞いてみますと、にっこり笑ってこう言いました。
「子供のころね、運動会とか、特別な時に、家で作ってくれたのがお稲荷さんだったんですよ。お稲荷さんって、なんか特別な御馳走って感じがするんですよね。そのお稲荷さんに太巻きまで付いちゃって、なんかね、仕事場の机の上で食べるのなんてホントはイヤなんですけど、この助六寿司だと特別感があって、美味しく食べられるんです。だって、お寿司ですよ、これ」
ふうむ。なるほどな話なのでありました。大いに賛同いたしますです。お寿司は御馳走ですもんね。
ま、わたしも好きですけどね「助六寿司」

改めて考えますと不思議な名前ですよね。「助六」ってなんなんでしょ?
ちょっと調べてみるとすぐ出てきました。
「助六寿司」の「助六」とは、歌舞伎の人気演目、その主人公から持ってきている、ってことなんですね。
歌舞伎っていうの、全然知らないので、イチカラ、調べてみました。
歌舞伎には家ごとの看板があって「屋号」っていう呼び名があるんですね。
市川團十郎家が成田屋。
尾上菊五郎家、坂東彦三郎家が音羽屋。
松本幸四郎家が高麗屋。
中村勘三郎家が中村屋。
だとか、どれも聞いたことがありますよね。これ以外にもいくつかありま。代々襲名しているんですよね。
そういえば花火も屋号で掛け声かけたりしますよね。「たまや~」とか「かぎや~」とかね。これも江戸文化なんでしょうかね。
歌舞伎の話でした。
歌舞伎の演目の数は、なにせ江戸時代からの歴史がありますからね、ざっと4000以上あるんだそうですが、今現在上演され続けているのは300演目ぐらいだそうです。300ってかなりの数ですけどね。
その中で「歌舞伎十八番」っていう、特別に選定された18の演目があるんだそうです。
江戸時代の天保年間っていいますから1830年から1844年ころ、もう末期に差し掛かっていますけど、成田屋の七代目市川團十郎が市川宗家のお家芸として選んだ18の演目。
その中で観客の人気を得て圧倒的に上演回数の多い演目が「助六」なんだそうです。
今現在上演されている「助六」の正式名称は「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」
演目自体の人気がとっても高いので成田家以外の家が違った演出で上演することもあるそうです。
そんな歌舞伎演目定番中の定番って言えそうな「助六」ですが、最初から今のような上演じゃなくって、かなりの変遷があったようなんです。
庶民の耳目を集めるような事件事故が発生すると、すぐに取り込んで浄瑠璃や歌舞伎芝居になるっていうのが江戸時代の演芸の特徴ですが、「助六」の最初は1699年に京都で起きた心中事件を題材とした「心中もの」だったそうです。
この心中事件はすぐに舞台を大阪に移して「大阪千日寺心中物語」として浄瑠璃、歌舞伎で上演されて「助六心中」って呼ばれて大流行したそうです。
「大阪千日寺心中物語」の主人公こそが、豪商「万屋(よろずや)」の息子「助六」だったんですね。
ってことで「助六」っていうのは人の名前だったっていうことは分かりましたが、だからといって「助六寿司」に結びつく感じはしないですね。
もう少し「大阪千日寺心中物語」を調べてみます。
「助六」と心中したのは島原の「総角(あげまき)」っていう太夫です。
え? 島原の太夫? って思っちゃいますよね。わざわざ九州島原から男と心中しに京都まで出て来たってことなんでしょうか。
そしたらですね、当然ながら、そうじゃないんでした。
島原っていうのは当時の京都に実在した京都唯一で日本最古とも言われる公許遊郭の名前。現在の京都市下京区辺りにあったんだそうです。
土地の名前としては西新屋敷っていうらしいんですが、通称は島原。
なんでかっていうと、1640年、寛永17年に六条三筋町から移転してきた際の大規模造成工事のにぎわいが、1637年の島原の乱の騒動と似ていたから島原って呼ぶようになった、っていう説明を見つけましたけど、なんだかよく分かりませんね。
島原の乱に兵を出したのは主に九州の大名なんですけど、忍藩、三河深溝藩だとかからも出兵しているみたいですから、そういう兵隊たちが京都を通る時の騒動がかなりのものだったってことなんでしょうか。
マナーの悪い軍隊が通る時の騒動っていうのはないでもない気もしますけど、そういう騒動と、大規模遊郭を造成する時の騒動って、まったく別ものなんじゃないですかねえ。よく分かりません。
それとも、日本史上最大の一揆っていわれる島原の乱ですから、3年前の鎮圧にいたるまでの騒動が噂として知れ渡っていて、遊郭造成の工事のにぎわいが、島原の乱もかくやって感じられた、ってことなんでしょうか。
ま、なんにしても大規模遊郭の太夫だったっていう「総角」さんなんですが、この「総角」っていう漢字で「あげまき」って読むんですねえ。
江戸の「花魁(おいらん)」に対して関西では「太夫(たゆう)」ですから、歌舞音曲 、茶道、和歌、俳諧、っていう当時の教養を身につけた相当ハイカルチャーな人だったんでしょう。
花魁、太夫って、そういう女性ですもんね。
「助六」と「総角」の心中歌舞伎「大阪千日寺心中物語」は上方で大流行りを続けていたんですが、そこに目を付けたのが初の千両役者って言われた江戸歌舞伎の「2代目市川團十郎」です。
1713年、独自のアレンジを加えた「花館愛護桜(はなやかたあいごのさくら)」として山村座にかけて、自ら「助六」を演じて大当たりをとったそうです。
「2代目市川團十郎」の「助六」は万屋の息子じゃなくって「花川戸助六」っていう伊達男。元々の2代目團十郎の人気もあって江戸中で評判となったそうです。江戸歌舞伎ではもう心中ものじゃないんですね。
時代とともにアレンジは進んでいって、やがて今の「助六由縁江戸桜」ってことになります。
伊達男の「助六」は、実は蘇我五郎が身をやつしているっていう設定。
蘇我ものっていうのも歌舞伎の人気演目で、蘇我五郎はすでに歌舞伎界のヒーローだったわけですから、「助六」の人気に拍車がかかるってなもんです。
「助六由縁江戸桜」
実は蘇我五郎である「助六」は、盗まれた源氏の宝刀「友切丸」を奪い返すっていう目的をもって、なんでだか吉原にいるんですね。
吉原の花魁「揚巻」をめぐって「助六」と争う相手が、吉原で大盤振る舞いをしている御大尽「髭の意休(いきゅう)」
「助六」は吉原で遊んでいる男にケンカを吹っかけて刀を抜かせて「友切丸」を見つけようっていう魂胆なんですが、なんと「友切丸」を持っていたのは恋敵の「髭の意休」だったっていうストーリーです。
2人の争いが見どころの「助六由縁江戸桜」なんですが、結局「助六」は「揚巻」の助けを借りながら「意休」を成敗して、めでたく「友切丸」を取り戻すんであります。
で、この花魁の「揚巻」
そうなんです。「あげまき」なんです。あの「総角」から当て字だけ代えてあるヒロインですね。
上方の「総角」が江戸に来て「揚巻」になったんですが、これなんです、この「揚巻」が「助六寿司」なんです。
「揚巻」です。「揚げ」です。油揚げで「お稲荷さん」です。
「揚巻」です。「巻き」です。海苔巻きです。太巻きです。
「揚巻」といえば「助六」です。
ってわけで、お稲荷さんと海苔巻き、太巻きの組み合わせを「助六」っていうようになったのであります。
っていうことみたいですよ。
そしてなんとなくだいぶ昔からあるように思っていた「助六寿司」なんですけど、実は歴史は浅いんでした。
ま、お稲荷さんと巻き寿司を一緒に食べるっていうことは、昔からあったのかもしれないんですけど、一緒にして「助六寿司」っていう名前が確認できるのは1938年、昭和13年のことだそうです。
売り出したのは群馬県の「おぎのや」
ん? って思った人も多いかもしれません。
群馬県の「おぎのや」っていえば「峠の釜めし」で知られていますよね。あの「おぎのや」なんです。

「峠の釜めし」の販売は1958年、昭和33年からだそうですから「助六寿司」はだいぶ先輩になるんですね。
でも、おぎのやのホームページに「助六寿司」についての言及はありません。
「峠の釜めし」登場までの主力商品だった「助六寿司」は商品名としては「御寿司」だったそうで、
干瓢と椎茸煮の太巻寿司(3個)
きゅうりのしば漬けを巻いた太巻寿司(2個)
いなり寿司(4個)
っていう構成。けっこうなボリュームです。
「助六寿司」っていう名前が「おぎのや」が売り出した時に生まれたのか、ずっと昔からあったのか、そこはナゾなのでありました。
でも「総角」 ⇒ 「揚巻」 ⇒ 「お稲荷さんと巻き寿司」ってシャレ、面白いです。
そもそも旨いですしねえ。
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