
「痛み」を直視する作家
現代日本文学において、川上未映子ほど、「痛み」そのものを真正面から描き出すことに誠実な作家がいるだろうか。
彼女の言葉は、オブラートに包まれた比喩や、心地よいロマンティシズムを潔(いさぎよ)しとしない。それは、私たちが日常で目を背け、社会というシステムが巧妙に隠蔽(いんぺい)する「痛み」や「醜さ」の核心を、一切の躊躇(ちゅうちょ)なく掴み出し、読者の眼前に突きつける。
村上春樹が、同じく「孤独」や「喪失」を描きながらも、それをしばしば「井戸」や「壁抜け」といった形而上学的な「虚無」の風景へと昇華させてみせたのとは、対照的だ。川上未映子は、その「虚無」の正体が、観念ではなく「身体」に刻まれた具体的な「痛み」であり、社会という「体系」が個人に加える冷徹な「暴力」であることを、決して忘れさせない。
特に、その「体系」と「個」の戦いを鮮烈に描き出した『ヘヴン』と、その「痛み」を引き受けた「個」が「都市」という孤独の中で他者と出会い直す『すべて真夜中の恋人たち』。この二作品は、私たちが生きるこの世界の「真実」を、容赦なく暴き出している。
『ヘヴン』 「暴力の体系」と「意味」の探求
『ヘヴン』が描くのは、「いじめ」という名の、閉鎖空間における完璧な「暴力の体系」だ。 主人公の「僕」は、「斜視」という身体的特徴を理由に、絶対的な「悪意」の標的にされる。この小説が恐ろしいのは、その暴力が「理由なきもの」としてではなく、加害者側の「論理(体系)」によって、冷徹に「実行」される点にある。
ここで登場するのが、同じく「いじめ」の対象である「コジマ」だ。彼女は、自らの「貧しさ」と「不潔さ」を理由に、暴力に晒されている。しかし彼女は、「僕」とは異なる方法で、その「痛み」と対峙する。 彼女は、自らの「痛み」に、**「意味」**を与えようと試みる。
彼女が提示する論理――「私たちは、この苦しみに耐え、それを乗り越えるために『選ばれた』のだ」――は、一見すると宗教的であり、自己救済的だ。だが、これは「暴力」という理不尽な「体系」に対し、個人が「精神」においていかに勝利(あるいは敗北)しうるかという、根源的な問いである。
『ヘヴン』のクライマックスで、「僕」とコジマが下す結論は、分かれる。コジマは「意味」を見出し、「体系」を(内面において)受け入れようとする。対して「僕」は、その「体系」そのものの「理不尽さ」を、ただ、その身に刻み込み、拒絶する。
川上未映子は、ここで安易な「救済」を描かない。彼女は、この「暴力の体系」の前で、人間が取りうる二つの態度(「意味付け」と「拒絶」)を鮮烈に対比させ、「あなたならどうするのか」と読者に突きつける。
村上春樹がしばしば描く「システムの暴力」(例えば『1Q84』のリトル・ピープル)が、どこか抽象的で「神話的」な敵であったのに対し、『ヘヴン』の「暴力」は、教室という具体的な場所で、生身の「身体」に加えられる、あまりにも現実的な「痛み」として存在する。川上未映子は、「痛み」を観念から身体へと引き戻したのだ。
『すべて真夜中の恋人たち』 「都市」という孤独と「他者」の発見
『ヘヴン』が「暴力の体系」との対決であったならば、『すべて真夜中の恋人たち』は、その「痛み」を抱えたまま「大人」になった個人が、「都市」という名の、一見「自由」だが「孤独」なシステムの中で、いかに他者と繋がるかを描いた物語だ。
主人公の「冬子」は、フリーランスの「校正者」である。 この設定が、すでに批評的だ。彼女の仕事は、他者が書いた「言葉(システム)」が、その「体系」から「逸脱(ズレ)」していないかを監視し、「修正」することである。彼女は、世界の「体系」の門番でありながら、その「体系」の「中心」にはいない。
彼女は、人とのコミュニケーションに「痛み」を感じ、アルコールに逃げ込み、「孤独」の中にいる。 村上春樹の主人公たちが、その「孤独」を、ジャズやパスタ、アイロンがけといったクールな「ライフスタイル」によって、ある種の「スタイル」として処理してみせたのとは対照的だ。 冬子の「孤独」は「スタイル」になどなり得ない。それは、アルコールという「身体的」な手段によってしか、一時的に紛らわせることのできない、処理不可能な「痛み」として描かれる。
彼女が出会うのが、「聖(ひじり)」という、自分とは対照的な女性だ。 聖は、冬子が「体系」の中で言葉を「修正」するのに対し、自らの「言葉」で「体系」そのもの(=社会通念、常識)に異議を申し立て、自由奔放に生きているように見える。
この二人の女性の関係性は、単なる「友情」ではない。 彼女たちは、互いを「鏡」とし、自らの「孤独」と「痛み」を照射し合う。冬子は聖に「憧れ」と「恐れ」を抱き、聖もまた、冬子の「純粋さ」に自らの「失ったもの」を見る。
村上春樹との「対話」虚無から「身体」へ
ここで、村上春樹の存在が重要になる。 川上未映子が村上春樹と行った長大な対談(『みみずくは黄昏に飛びたつ』)は、単なるインタビューではなかった。あれは、川上未映子という「新しい問い」が、村上春樹という「巨大な体系(20世紀の物語)」に、「あなたは、その『痛み』をどう処理したのですか?」と問い詰める、「批評的対決」の場であった。
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「虚無」の処理: 村上春樹が描く「孤独」や「喪失」は、しばしば洗練されたライフスタイルや美しい比喩といった「文体」によって「処理」される。読者は、その「虚無」を、一種の「スタイル」として安全に消費できる。
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「痛み」の直視: 川上未映子は、その「処理」を拒否する。『ヘヴン』の「僕」の「痛み」は、「スタイル」になど決してならない。『すべて真夜中の恋人たち』の冬子の「孤独」は、生々しい「身体」の感覚として描かれる。
村上春樹が「20世紀の体系」が生み出した「心の虚無」を描いた作家だとすれば、川上未映子は、「21世紀のシステム」がもたらす「身体の痛み」を描く作家だ。
彼女は、村上春樹が「失った」あるいは「回避した」かもしれない、生々しい「痛み」の「現場」に、あえて立ち返ろうとする。
「新しい世界」はどこにあるのか
では、川上未映子が描く「new world(新しい世界)」はどこにあるのか?
それは「外側」にはない。 『ヘヴン』において、「僕」は「体系」に敗北したかに見える。しかし、彼は最後に、自らの「痛み」を「引き受ける」ことを決意する。 『すべて真夜中の恋人たち』において、冬子は「孤独」の果てに、「わからない」他者と、それでも関係を持とうと一歩を踏み出す。
川上未映子が提示する「new world」とは、「システム」の外にあるユートピアではない。 それは、「暴力の体系」や「都市の孤独」の「ただ中」にいながらにして、自らの「身体」の「痛み」だけを唯一の手がかりとして、「他者」と出会い直そうとする、その「決意」そのものだ。
彼女は、「体系」を「超越」するのではなく、「体系」の中でいかに「個」の尊厳を回復するかを問い続ける。 村上春樹が「20世紀の虚無」を引き受けたように、川上未映子は、21世紀の「痛み」を引き受ける。その誠実さこそが、彼女の文学の核心なのである。