シットコム「実験室」|東湖|話紡庵

文化系にふりきれた、いかれた高校生たちを中心とした、実験型シットコム。東湖は、作家・千早亭小倉とAI(ジェニ美)との共同ペンネーム。

コントここあん高校|ミュージカル「解像度のデュエリスト」|東湖

東京都豊島区に隣接するとかしないとか、謎多き「ここあん村」唯一の私立高校、それが鳥瞰学園ここあん高校。今日も、ここあん高校のいかれた連中による舞台の幕が開く。

【登場人物】

リリカ(B組):シニカルな「冷たい最強」。数学の問題集を解いている。

ギオンオノマトペ王子):元文芸部。感覚派。「至高のオノマトペ」を探す男。

ギタイ(擬態語の求道者):ギオンの双子の兄弟(新キャラ)。「音のしない状態」にこそ真実がある、と信じる男。

氷上 静:ブックカフェ「シズカ」オーナー。冷静な観察者。

【場所】 夜、ここあん村湖畔のブックカフェ「シズカ」。窓際の席で、リリカが相変わらず弟太陽の算数の問題(旅人算)を解いている。カウンター席では、ギオンが店主の氷上静を相手に、切迫した様子で何事かを訴えている。

【コント開始】

ギオン:静さん、違うんです! この店の、この夜の「静けさ」……! これはただの「しーん」じゃない。「しーん」という言葉は、真空の「無」を示唆しすぎる!

氷上静:……(無言で、古い洋書(ハードカバー)のページをゆっくりとめくっている)。

ギオン:この空間には「音」がある! 無音の音……そう、たとえば……埃が光に照らされて、ゆっくりと落ちる、あの…… 。

ギタイ:(音もなく、ギオンの背後に立っている)……兄さん。

ギオン:(ビクッと振り返り)ギタイ! いつからそこに!?

ギタイ:兄さんが「しーん」という言葉を口にした、その瞬間。「静けさ」を「音」で捉えようとするとは……愚かだ。

ギオン:なにを!

ギタイ:埃が落ちるのは「音」か? それは「状態」だろう。光に照らされ、その輪郭が「きらり」と浮かび、重力に従って「ふわり」と落ちる。そこに「音」はない!

ギオン:否、ある! 魂の耳で聴けば! 埃が床に到達する、その瞬間……「(小声で)こつ……」という微かな着地音が!

ギタイ:詭弁だ! 兄さんはは「擬音語」の呪縛に囚われている! この店の本質は「状態」だ。古い紙が湿度を吸い、棚が重みに耐え……この空間全体の「ずっしり」、その「状態」こそが静寂だ!

(リリカが、ギタイの「ずっしり」に一瞬反応するが、何も言わず、旅人算との格闘を再開する)

ギオン:「ずっしり」だと!? それは「田舎から送られてくる荷物」の密度だ! この静けさはもっと鋭利だ! ガラスが冷える「ぴりり」とした……。

ギタイ:おいおい、兄さんしっかりしてくれ。「ぴりり」は痛覚だ! 「擬音語」ですらない! 兄さんは、いまこの瞬間に、「感覚の越境」という禁忌を犯した!

ギオン:それが芸術だ!

ギタイ:それは傲慢だ!

(二人が掴みかからんばかりに睨み合う)

リリカ:(問題集のページを手のひらで「バン!」と叩き、二人を睨む)……うーる、さいっ!

ギオン・ギタイ:((ハッ))

リリカ:さっきから「ずっしり」だの「ぴりり」だの……。あなたたちのその「哲学ごっこ」、弟の太陽が毎晩やってる「最強の恐竜の鳴き声ランキング、かっこ想像」と、どう違うのかしら。

ギタイ:大違いだ! これは世界の「解像度」を問う戦いだ!

リリカ:解像度、ね。結構なこと。でも、あなたたちのその「擬音」だか「擬態」だか、所詮は単語の羅列でしょ。

ギオン:むむむ! (小声で)擬態語のような名前のくせに、生意気な。

リリカ:そう、所詮は記号遊びよ。そんな「こつ」「ふわり」なんてものを並べたところで、一行の詩にもなりはしない。人の心を動かす「音楽」になんて、到底なれないわ。

(リリカの言葉が、二人の核心を突いた……はずだが、ギオン・ギタイ兄弟は意外にも涼しい顔)

ギオン:……弟よ。

ギタイ:……ああ、兄さん。 (二人の目が合う)

ギオン:俺たちの「オノマトペ道」が。

ギタイ:単なる「記号遊び」だと?

ギオン・ギタイ:「侮辱……(兄)するなぁ!、(弟)しないでぇ!(ハモる)」

リリカ:ふん、馬鹿らしい(……と鼻で笑い、問題集に視線を戻す)だったら、証明してごらんなさいよ、その「音」と「状態」とやらで。

ギオンとギタイ、リリカを睨み返し、そしてカウンターの隅へ移動する。 異様な集中力で、ある一点を見つめる。まるで、その挑戦を待っていたかのように。 カウンターの向こうで、氷上静が、読んでいた洋書を「ぱたん」と閉じる。そして、自分だけのために、白磁の茶碗を取り出した)

ギオン:(息を詰め)……始まる(半分歌になっている)。

ギタイ:(喉を鳴らし)……静の、アリアが(こちらはまだ歌ではない。かすれ声)。

(二人の視線が、スポットライトのように静の手元に集中する。 静が、ポットから湯を注ぎ、茶碗を温め……)

 

【ミュージカル・アリア「Te(a)・Duo」開始】

(♪〜 前奏)

ギオン:(湯気が立つ音に、そっと声を乗せ)……しゅっ。

ギタイ:(光を反射する、濡れた白磁)……きらっ。

(静、漆塗りのなつめの蓋を、そっと開く。現れた鮮やかな緑の抹茶を、茶杓で二匙、茶碗へ移す)

ギオン:(茶杓が棗の縁に触れる、微かな音)……こ。

ギタイ:(柔らかく落ちる粉の様子)……ふさ。

ギオン:(次の一匙)……とん。

ギタイ:(重なる緑)……さら。

(静、鉄瓶を持ち上げ、湯を注ぐ。ギオンとギタイ、息が揃い始める)

ギオン:(湯が落ちる、始まりの音)……とく……とく。

ギタイ:(緑と湯が出会う、結合の様子)……じわ。

(静、茶筅を手に取る。二人のデュエットが、静の動きに合わせてテンポを上げていく)

ギオン:(リズミカルに!)シャカ、シャカ、シャカ、シャカ!

ギタイ:(ギオンの音に重なり、滑らかに!)くる、くる、ふわ、ふわ!

ギオン:(泡立てる音、クレッシェンド!)シャッ、シャッ、シャッ!

ギタイ:(泡が満ちる様子、高らかに!)もこ、もこ、もこ!

(静、手首の動きを止め、茶筅で「の」の字を書き、静かに引き抜く。二人の声も、ぴたりと止まる)

ギオン:(泡の表面が弾ける、極小の音)……ぷつ。

ギタイ:(静かに盛り上がる泡)……ぷっくり。

(静、茶碗を両手で包み込むように持ち上げる。二人は、その所作に胸を押さえる)

ギオン:(息を飲む音)……こくり。

ギタイ:(熱が伝わる手のひら)……じん。

(静、口元へ運び、一口、含む。目を閉じ、香りと味を確かめる)

ギオン:(喉を通る、命の音)……(無音)。

ギタイ:(満たされていく、心の状態)……しみじみ。

(静、ゆっくりと目を開け、茶碗をカウンターに置く。そして、小さく、小さく息をつく)

ギオン:(吐息の音)……はぁ。

ギタイ:(安らぎの状態)……ほぅ。

(デュエットを歌い切ったギオンとギタイ。恍惚とした表情で、互いを見ずに、そっと手を握り合う。一瞬の静寂。静は、二人の熱い視線に気づいていたかのように、カウンターに置いた茶碗の縁を、指先で「す……」と、愛おしそうに撫でる)

:(二人にだけ聞こえる声で、微笑み)……おいしく、なりました。

(静の微笑みに、スポットライトが静かに絞られていく)

ギオン・ギタイ:((ドヤ顔))

リリカ:(こめかみを押さえ、心底うんざりしたように)……ばっかじゃないの。静さんまで一緒になって。

:(リリカを見て、悪戯っぽく微笑み)ふふっ……日本文学も、捨てたもんじゃないわね。

おしまい

作・東湖
※本作はフィクションです。

コントここあん高校|旅人算とクリシェの現在地

東京都豊島区に隣接するとかしないとか、謎多き「ここあん村」唯一の私立高校、それが鳥瞰学園ここあん高校。今日も、ここあん高校のいかれた連中による舞台の幕が開く。

【登場人物】

黒崎 文(A組):文芸部部長。「魂」と「エスプリ」にこだわる「熱い最強」。

堂島 巧(A組):文芸部員。「定義」と「構造」の番人。

リリカ(B組):シニカルな「冷たい最強」。弟(太陽) が天敵。

氷上 静:ブックカフェ「シズカ」オーナー。

中野 小春:「シズカ」共同オーナー 。大樹のような受容性

【場所】前回(「エスプレッソとエスプリの不整合」に引き続き、湖畔のブックカフェ「シズカ」。直前の気まずい空気が流れたまま。

(静が注文の品を用意しにカウンターへ戻る。黒崎、堂島、リリカの三人が残されたテーブルに、再び静寂が落ちる。黒崎が、目の前で問題集を解き続けるリリカを、いぶかしげに睨む)

黒崎 文:……それはそうと、リリカ。お前はさっきから何を解いているんだ。その、数字の羅列は。

リリカ:(ペンを止めず)旅人算

黒崎:たびびとざん……?(眉をひそめ)まさか、あの「兄が分速60mで歩き、弟が分速180mの自転車で追いかける」という、文学の対極にある、あの無味乾燥な……。

堂島 巧:(黒崎の文学的解釈は無視し、リリカに向かい)旅人算。それは初等教育における速度算の一形態だ。リリカ、君は今、小学校の算数からやり直しているのか?

リリカ:(深く、冷めたため息をつき)……弟の宿題よ

黒崎:ああ……(納得した顔)あの、「孤独」を虫カゴで捕獲する という、不条理の塊か。

堂島:論理が通用しないサンプルだな。なるほど、君が介入せねば、設問自体が崩壊する危険性がある、と。

リリカ:「A君とB君が、周囲1.2kmの湖のまわりを……」。もういいわ、この話は。

黒崎:(何かに気づき、低い声で)……いや、待て。そもそも、なぜ「旅人」なのだ。ただ湖の周りをグルグルと回っているだけではないか。そんなものは「散歩」か「徘徊」だ。そこに「旅」のエスプリ(精神)が、一滴も感じられない。

リリカ:黒崎さん、エスプリの話ももういいわよ(苦笑)。

堂島:いや、部長の指摘は妥当だ。「旅」とは、起点と終点を持つ目的地への移動プロセスを指す。周回運動は定義上、無限ループだ。ネーミング自体が破綻している。

黒崎:魂と定義のせめぎあいだ。「ウィットに富んだ老教授」が、会話の最後に、決まって片目をつぶって「ウィンク」をするなどと、だれが決めた!?

リリカ:……急にどうしたの。ああ、新人賞の小説の話ね。

黒崎クリシェ! 魂の怠慢! そんな記号的な表現に、エスプリなど宿るものか!

堂島:ウィンク……。親愛あるいは共謀の意図を示す、眼輪筋の意図的な収縮運動。

(その時、氷上静のパートナー中野小春が買い物袋を抱えて戻ってくる)

中野小春:あら、皆さん。今日も熱心ね。何のお勉強ですか? お店の外まで聞こえてきましたよ

堂島:これは旅人算の定義とクリシェの関連性についての……。

小春旅人算! 懐かしい。あ、そうだ。このカフェの目の前にある湖使ったらどう? ええと、ちょうど一周12kmくらいって言われてますよ。

リリカ:「ちょうど」なのか、「くらい」なのか。

小春:ねえ、みんなで実際に歩いて、追いかけっこしてみたらどうですか? 誰が一番早く出会えるか。

(小春、心の底から楽しそうに、片目をつぶって「ウィンク」をする)

黒崎:…………!(絶句)

堂島:(ノートを取り出し、猛烈な勢いで書き込む)『観測サンプル:中野氏のウィンク。角度、約15度。持続時間、0.8秒。意図、純粋な親愛。クリシェとの関連性、不明……。』

リリカ:(小春の完璧なウィンクを冷静に見つめ、固まっている黒崎に向かって)……黒崎さん。

黒崎:……なんだ。

リリカ:あれが、あなたの言う「魂(エスプリ)」の現在地のようね。

黒崎:(こめかみを押さえ、絞り出すように)……氷上さん。私のアールグレイを早く。

作・東湖
※本作はフィクションです。

コントここあん高校|エスプレッソとエスプリの不整合

東京都豊島区に隣接するとかしないとか、謎多き「ここあん村」唯一の私立高校、それが鳥瞰学園ここあん高校。今日も、ここあん高校のいかれた連中による舞台の幕が開く。

【登場人物】

黒崎 文(A組):文芸部部長。「魂」や「本質」を重んじる、熱量の高い(Hot)最強

堂島 巧(A組):文芸部員。世界のすべてを構造設計図として認識する、定義と論理の番人。
リリカ(B組):シニカルな「冷たい最強」。熱量を「ガキっぽい」と断じる
氷上 静:ブックカフェ「シズカ」のオーナー。冷静な批評を持つ
【場所】ここあん村湖畔のブックカフェ「シズカ」。午後の遅い時間。客はまばら。黒崎文が窓際の席で、ある文芸誌を忌々しげな表情で読んでいる。向かいの席で、リリカが静かに数学の問題集を広げている。少し離れたテーブルでは、堂島巧がノートPCを広げ、何かの設計図のようなもの(あるいはただの数式)を眺めている。
(店内には静かなジャズが流れている。黒崎が、文芸誌を閉じる「バサッ」という音だけが響く)
黒崎 文:(低い声で、独り言のように)……駄文だ。この新人賞受賞作……。技術はある。構成も悪くない。だが、決定的に「エスプリ」が欠けている。
リリカ:(問題集から目を上げず)エスプリ。
黒崎:(リリカが反応したことに少し驚き、だが構わず)そうだ。フランス語の「精神」。あるいは「魂」の輝きだ。それが一滴も感じられない。
(その時、堂島がPCから顔を上げ、黒崎たちのテーブルを無表情で見つめる)
堂島 巧:……黒崎部長。
黒崎:なんだ、堂島。
堂島:今、「エスプレッソが欠けている」と言ったか?
黒崎:……は?

堂島:(黒崎のテーブルに近づきながら)その作品は、抽出時の「圧力」が不足している、という意味か。圧力をかけ(premere)、外へ(ex)押し出す。それがエスプレッソの語源だ。

黒崎:(こめかみを押さえ)……堂島。私は「エスプリ」と言ったのだ。ラテン語の「スピリトゥス(魂)」が語源だ。コーヒー豆の話などしていない。

堂島:なるほど。音象徴(Sound Symbolism)としては酷似しているが、系統樹は全く異なるわけだ。(ノートを取り出し)興味深い。では、部長の言う「魂」の定義は? それが作品内に実装されているか否かを、どういう観測方法で判定する?

黒崎:観測!? 魂は感じるものだ! お前のような設計図で世界を見る男には、この「熱」が……!

リリカ:(静かにペンを置き、二人を見比べ)……面白いわね。

黒崎:何がだ、リリカ。

リリカ:黒崎さんの言う「魂(エスプリ)」も、結局は堂島君の言う「圧力(エスプレッソ)」をかけないと、外に出てこないんじゃないかしら。

堂島:(リリカの言葉に頷き)妥当な仮説だ。精神的な負荷(圧力)が、内面的な何か(魂)を抽出(表現)する。

黒崎:違う! 一緒にするな! それは「抽出」などという機械的な作業ではない! 内側から「ほとばしる」ものだ!

リリカ:その「ほとばしり」を可能にするのが、出版社が決めた「応募締切日」という名の圧力だったりするんでしょう? だとしたら、両者は本質的に同じシステムよ。

黒崎:ぐ……!(言葉に詰まる)

三者の間で奇妙な沈黙が流れる。そこへ、静かに氷上静が水の入ったコップを持って現れる)

氷上 静:……お客様方。

(三人が、はっと静を見る)

:議論が白熱しているようですが、お決まりですか? 当店、自慢の豆で淹れた「エスプレッソ」もございますが。

黒崎:(屈辱に顔を歪め、絞り出すように)……アールグレイを。

堂島:俺は、そのエスプレッソの抽出圧と温度の「データ」を。

リリカ:私は、この水の「おかわり」だけいただくわ。圧力がかかってない、ただのH₂Oを。

(静は静かに会釈し、カウンターに戻っていく。黒崎は再び文芸誌を睨みつけ、堂島は「魂=f(圧力)」とノートに書き込み、リリカは問題集に戻る)

作・東湖
※本作はフィクションです。

コント|アタラクシアの絵本

東京都豊島区に隣接するとかしないとか、謎多き「ここあん村」の湖畔にたつブックカフェ「シズカ」。オーナーの氷上静は、ここあん大学の元哲学講師。そこへ、ここあん村図書館の専門司書真木まきがコーヒーを飲みに。

ブックカフェ「シズカ」の空気は午後に入っても澱むことなく、カウンターの内側で豆を挽く音が、その澄んだ静寂を縁取っていた。客は、図書館の専門司書である真木まき、ただ一人だった。

彼女は、先ほどオーナーの氷上静が棚に差したばかりの、外国の絵本を熱心にめくっている。

「まきさん、相変わらず絵本がお好きなようですね。その絵本、本日入荷したものなんですよ」

豆を挽き終えた静が、絵本の世界に入り込む準備が整った風のまきに声をかける。

「とっても、絵がステキ」

まきは、いつものように人懐っこい笑顔で顔を上げた。

「くまさんがマフラーを編むんですけど、毛糸が足りなくなっちゃうお話なんですねえ」

静は、沸かした湯をゆっくりとドリッパーに注ぎながら、彼女の様子を観照する。

真木まき――穏やかで、常に微笑みを絶やさず、その思考はいつもメルヘンのヴェールに包まれている。彼女が児童文学に惹かれる理由は、分析するまでもなく明らかだ。

「絵本って、いわば『制御された世界』への避難ですね」

湯が粉を含み、ぷくりと膨らむ。芳香が立ち上った。

「まきさんのような方が児童文学に惹かれるのは、現実という制御不能なカオスに対し、物語という秩序だった『保護区』を無意識に求めていることの表れなのでしょう。作者によってあらかじめコントロールされた運命の中で、キャラクターは安心してその役割を演じることができる

完璧な定義のはずだった。

だが、まきは、絵本から目を離し、静をまっすぐに見返した。表情は、あのニコニコとした笑顔のままだ。

「うーん、保護区? ですか……。私は、そういう風には、あまり」

まきの言葉に、湯を注ぐ静の手が止まる。

「……違いますか?」

「なんていうか、このくまさん、毛糸が足りなくなって、すごく困るんです。でも、お友達のうさぎさんが、自分の古いセーターをほどいて、毛糸を分けてあげる。くまさんは『そんなことできないよ』って言うんですけど、うさぎさんは『だって、あなたが困っているからよ』って」

「……なるほど。それは、作者という運命に定められた『友人』という役割をうさぎが遂行するプロセスですね。それもまた、制御された――」

「私、ストア派の考え方って、ちょっと苦手なんです」

静のドリップする手が、一瞬、空中で停止した。

(今、この人、「ストア派」と言った?)

 「……ストア派、ですか」

「はい」

まきさんは、ペルソナを付け直すなどという意識的な操作とは無縁の様子で、再び絵本に目を落とした。独り言のように、その声は続く。

「世界はもう決まっていて、私たちはそれに従うしかない、みたいな。運命を受け入れなさい、っていう。静さんのさっきのお話は、なんだか、そっちに聞こえました。この絵本の世界にしても、作者の運命に『制御』されてる、って」

静の分析者の仮面に、わずかだがひびが入った。完全に手が止まる。驚きだった。予期せぬ領域から、自分の土俵の言葉で切り返されたことへの、戸惑いも。

ストア派でないなら……」

静の声は、もはや批評家ではなく、相手の答えを待つだけの個人のものに変わる。

「あ、私はエピクロス派……そっちのほうが好きですね」

まきは、こともなげに言った。

「……なぜです?」

静は、純粋な好奇心で尋ねていた。

「だって……」まきは、嬉しそうに絵本のうさぎの挿絵を指差した。「このうさぎさん、運命とか大きな理屈とか関係なく、ただ『くまさんが困ってるのが不快だから』っていう、自分の心のアタラクシア(平穏)のために、行動してるだけなんですよ。世界を変えようとか、運命に抗おうとかじゃなくて、自分の手の届く範囲の、小さな不快を取り除いて、楽しく暮らしたい。この絵本は、そういうお話なんです。制御、とかじゃなくて」

静は、ゆっくりとドリップを再開した。 思考が、追いつかない。 自分の構築した「定義」が、メルヘンという柔らかな衣をまとった「アタラクシアの実践」という、別の哲学によって、こうも鮮やかに切り返されるとは。

動揺は、やがて、目の前の人物への認識を根本から改めさせられる喜びとなり、知らず知らず、静の口元がわずかに緩んでいた。

「……なるほど。まきさん。あなたのその解釈は……非常に、興味深い」

「そうですか? えへへ」

まきは、ようやく絵本を閉じ、カップに注がれるコーヒーに目を向けた。

「あ、静さん、このコーヒー、とってもいい香りですね」

静は、自分が淹れている琥珀色の液体に視線を落とす。

「……ええ。今日は少し、焙煎を変えてみたんです」

 

作・東湖
※本作はフィクションです。

いつだってステキさん「ステキサンド」

東京都豊島区に隣接するとかしないとか、謎多き「ここあん村」唯一の私立高校、それが鳥瞰学園ここあん高校。そのここあん高校の絶対的エース、リリカの受難は続く。

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【登場人物】
リリカ:ここあん高校の生徒。「冷たい最強」。
矢尾 玲子(やお れいこ):リリカの母。自らのことを「ステキさん」と呼ぶ。

【場面設定】

平日の夕方。矢尾家のリビング。玲子が、買ってきたばかりの「オーガニック・ルイボスティー」の箱をうっとりと眺めている。テーブルには、きらびやかなマカロンの箱も置かれている。リリカが自室から出てくる。手には安部公房の文庫本。

玲子:あら、プリンちゃん。ちょうどよかったわ。

(リリカ、母の声を無視し、冷蔵庫に向かおうとする)

玲子:(リリカの前に回り込み、完璧な笑顔で)見てちょうだいな、これ。今、成城が丘の「パティスリー・タンバリン」で手に入れたの。こういう、体にいいものを取り入れて、ステキさんのように自分を磨くことって、一番ステキなことでしょう?

リリカ:「自分を磨く」。面白い表現ね。まるで、すり減ることでしか価値を証明できないみたい。

玲子:(リリカの皮肉を理解せず、ソプラノの声を半オクターブ上げ)まあ、プリンちゃんったら、詩的! そういう知的な表現、ステキさん、だーい好きよ。あなたも、もう少し外見を磨いたら、その奥の知性も輝くでしょうに。

リリカ:私は別に輝きたくない。蛍光灯じゃあるまいし。

玲子:もう、シャインガールなんだから。そうだ、プリンちゃん、今度の日曜、空いてる?

リリカ:(文庫本に目を落とし)……空いてるか、空いてないかで言えば、空いてるわね。でも、それは物理的なスケジュール上の話であって。

玲子:(大げさに手を胸の前でひらひらさせ)よかった!    実はね、きさらぎ文化会館で、「世界がときめく!    プリンセス・マナー講座」っていうのを、ステキさん見つけたの!    一流ホテルの元チーフアテンダントが教える、フォークとナイフの使い方!    知的でステキでしょう?

リリカ:……(本から顔を上げ、母を無表情で見つめる)

玲子:あら、どうしたの?    ステキすぎて、言葉も出ないかしら?

リリカ:……お母様。

玲子:はい、プリンちゃん。

リリカ:その講座、『砂の女』まんまよ。安部公房の。

玲子:あべ……こうぼう?    なあに、それ。アクセサリーのお店かパン屋さん?

リリカ:『砂の女』は、砂穴に閉じ込められて、ひたすら砂を掻き出すことを強制される女の話よ。

玲子:まあ、大変!    お掃除の方?    それこそ「自分磨き」ね!

リリカ:……そのマナー講座も同じって言ってるのよ。「フォークは外側からー」とか「ナイフはこう持つー」とか、誰が決めたのかもわからないルールに縛られて。どんだけ砂を掻き出せば、その穴から出られるわけ?

玲子:まあ、穴に入るなら行くのよそうかしら。ステキさん、そういうの好きじゃないから。

リリカ:賢明ね。

玲子:だったら、プリンちゃんだけでも「ステキなフォークの使い方」を覚えていらっしゃいよ!    アクセサリー……あら、おそうじの方だったかしら、ステキさんわからなくなっちゃったじゃない。その方たちと大好きな穴に入って。ね、そうなさいな。

リリカ:……(深く、冷めたため息をつく)

玲子:そうそう、そんなことより、プリンちゃん、どっちのマカロンがいいかしら?    ピスタチオ?    それとも、フランボワーズ?    こういう「選べる」って、ステキなことよね!

(リリカは何も答えず、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出すと、静かに自室のドアへと消えていく。玲子は、その背中に満面の笑みを向け、高らかに声をかける)

玲子:もう、プリンちゃんったら、シャインガールなんだから!    ……じゃあ、フランボワーズはステキさんがいただいちゃいますよー!

(玲子は、一人、優雅にマカロンを口に運び、完璧な満足感に浸っている)

 

作・東湖

※本作はフィクションです。

 

 

コント│姉リリカの受難

東京都豊島区に隣接するとかしないとか、謎多き「ここあん村」唯一の私立高校、それが鳥瞰学園ここあん高校。そのここあん高校の絶対的エース、リリカの受難のお話。

【登場人物】

リリカ:ここあん高校の生徒。シニカルな「冷たい最強」。安部公房を愛読。
太陽:リリカの弟。姉の「知性・論理・皮肉」が一切通用しない天敵。

【場所】
リリカの自宅のリビング。リリカはソファで静かに文庫本(安部公房『壁』)を読んでいる。

(リリカが読書に集中していると、ドタドタドタ!と派手な足音と共に、弟の太陽が虫取り網と空の虫カゴを持って駆け込んでくる)

太陽:姉ちゃん!    大変だ! 捕まえた!
リリカ:(本から目を上げず、ため息)……何を。まさか、また「ジャングルジムのかさぶた」とか言って、剥げた錆を拾ってきたんじゃないでしょうね。

太陽:違う! 今日はもっとすごいの! 「孤独」!

リリカ:(ようやく顔を上げ、冷ややかに)「孤独」。それはプラトンの言うイデア界の話? それとも、あなたのその空っぽの虫カゴが象徴する、あなたの脳内の「空虚」のことかしら。

太陽:(興奮して虫カゴをリリカの目の前に突き出す)これ! 「孤独」! さっき公園のシーソーのところに、一人でいたんだよ!

リリカ:(カゴの中を無表情で一瞥する。当然、中は空っぽ)……なるほど。「孤独」は可視化できない。見事なメタファーね。安部公房も驚くわ。

太陽:だろ⁉ なんかね、紫色っぽくて、フワフワしてたんだ! 俺が網をかぶせたら「キュ!」って言った!

リリカ:「キュ!」。それは、あなたが履いているスニーカーのゴムが地面に擦れる音、あるいは、あなたの期待が生み出した幻聴よ。

太陽:幻聴じゃないよ! こいつが言ったの! ねえ、どうしよう、これ。エサとかあげるのかな? 「孤独」って、何食べるの?

リリカ:(こめかみを押さえる)……知らないわよ。強いて言うなら、他人の「時間」とか「同情」を食べて増殖するんじゃないかしら。もういいでしょ。その「不条理の塊」を私の視界から消して。

太陽:かわいそうじゃん! せっかく捕まえたのに! ……あ、そっか!

(太陽、何かを閃き、パチンと虫カゴのフタを開ける)

リリカ:……何をする気?

太陽:姉ちゃんの「孤独」も仲間に入れてあげる! ほら、出てこいよー! 友達だぞー!

(太陽、虫カゴをリリカに向かってバサバサと振り回す)

リリカ:(手で払いながら、本気で嫌そうな顔)やめなさい! 実存的な埃が舞うじゃない!

太陽:あ! 今、姉ちゃんの肩から出てきた! なんかグレーで、ギザギザしてるやつ!

リリカ:(ソファに深くもたれかかり、文庫本で顔を覆う)もういいわ。あなたと話していると、私の「知性」というOSが飛ぶから……。

太陽:飛ぶ⁉ なにそれ、昆虫⁉ かっこいい! どこにいんの⁉

リリカ:……(顔を覆ったまま、呻くように)あなたの手の届かない、遠いところよ……。

(太陽は姉の言う虫を探すため、目を輝かせて再びリビングを駆け回ろうとする。リリカはソファから動けない)

 

作・東湖

※本作はフィクションです。

いつだってステキさん「あえて説明調」

ここは、小古庵アトリエ村(ここあん村)。その存在は豊島区内にあるとも、区境にまたがっているとも言われ、人々の認識によって姿を変える。かつての「長崎アトリエ村」の流れを汲むような芸術家たちが集まり、創作活動と生活を一体化させた共同体として成立した。

平日の午後の、きさらぎ文化会館の図書室。

そこは、差し込む光の筋のなかに埃がゆっくりと舞うのが見えるほど、完璧な静寂に満ちていた。美術書が並ぶ一角。少し高めの棚に収められた、一冊の分厚い本に、二人の女の手が同時に伸びた。

――アール・デコの装幀集。

ふたりの指先が、軽く触れる。

「あら、ごめんなさい。 大丈夫でした?」

先に声を上げたのは、矢尾玲子だった。計算され尽くしたソプラノの声が、図書室の静寂に柔らかく、しかししっかりと響く。彼女は完璧な笑顔を顔に貼り付け、さっと手を引いた。

「あ、いえ、こちらこそすみません。どうぞ、お先に」

もう一方の女、菜箸かなは、自然な仕草で手を引き、一歩下がった。相手に圧を感じさせない、リラックスした微笑みだ。彼女が身につけた上質なコットンのシャツが、その動きに合わせて、しなやかな影を作る。

「あら、うれしい。ありがとうございます。でも、この装幀集をお探しだったのでしょう?」

玲子は、かなの譲歩を当然のように受け取りながら、その実、視線は素早く相手をスキャンしていた。狙ってはいない、だが明らかに上質だとわかる服装。余裕のある佇まい。かなは、玲子のその値踏みするような視線に気づいていたが、気づかないふりをして微笑みを崩さなかった。

「ええ、少し仕事で参考にしたいことがあって。でも、急ぎではないので、どうぞごゆっくり」

「まあ、お仕事……! ステキさん、こういう美しいものに囲まれてお仕事されてる方、だーい好き」

「仕事」という単語に、玲子のソプラノがさらに半オクターブ上がる。彼女は大げさに片方の手を胸の前でひらひらさせながら、かなの服装を今度はあからさまに上から下まで眺めた。

「あ……はは、そんな大したことじゃないんです。翻訳の仕事で、少し時代の雰囲気を掴んでおきたくて」

かなは、相手の過剰な反応と奇妙な二人称に、笑顔をひきつらせそうになるのを堪え、視線を隣の棚の背表紙へ逃がした。

「ほんやくぅ? まぁ、知的! ステキさん、そういう知的なお仕事、本当に尊敬しちゃいます。やっぱり、自分を磨くことって、一番ステキなことですよね?」

畳みかけるように、得意の「自分磨き」という単語を口にする。かなが視線をそらしたのを、玲子は自らの魅力によるものと瞬時に解釈したらしい。

「そうですね、知らないことを知るのは、いくつになっても楽しいですよね」

かなは、相手の土俵には乗らなかった。「自分磨き」という言葉をそのまま受け流し、当たり障りのない事実へとすり替える。玲子はうっとりと頷くと、本のことなど忘れたように、かなの顔をじっと見つめている。

「……あ、それで、こちらの本ですが、どうぞお先に。私は他の資料を見ていますので」

かなは、意識的に声を一段明るくし、会話を本題に戻すことにした。

完璧な笑顔で、あくまで相手を立てる。「マウントを取らない」かなの態度を、玲子は「ステキさん(自分)の素敵さに相手が屈した」と受け取ったようだった。

「え、いいんですか? やだ、なんてお優しい……! ステキな方とお見受けしました。ありがとうございます。じゃあ、ステキさん、お言葉に甘えて、少しだけ……」

満面の笑みで本を受け取ると、玲子は勝利を確信したように、優雅な仕草でページをめくり始めた。

「ごゆっくりどうぞ」

かなは小さく会釈すると、その場を離れた。美術書の列の奥へと消えていく彼女の背中には、何の緊張も残っていなかった。

 

作・東湖
※本作はフィクションです。