紛争の解決の場面において、加害者も被害者も、しばしば能面のような表情を持たない面倒くさがりな事務的な処理によって、ひどく非人間的で杓子定規な扱いを受けてしまう、ということだ。それも、権威性を帯びて。
さて、どうやって「我が身を守る」のか。結論としては、慎重に生きろ、ということになるだろう。救済制度をろくに知らないのに諦め絶望する必要はないが、それでも過剰に期待してはいけない。争いを避け、未然に防ぐことよりベターな方法はないのだ。
読み進めていくうちに、ドンヨリとしてくるのは、本邦におけるノブレス・オブリージュの欠落を感じるからだ。何に対して勇敢であるべきか?である。正義を貫き、弱者を守り、愛を語る精神規範に対し、我らは、儒教精神が染みつき、主君への忠義が第一であるため、どうしても体制寄りとなって「忠誠」を誓ってしまうし、「名誉」を重んじるから無謬性に拘り嘘も糊塗してしまう。その癖、潔さをもとに死を厭わないから、人を大事にしない。そんな社会に生きているのだ。ヤレヤレ。
最後に、瀬木先生を言葉を引用しておこう。「人々が専門家に抱いている『完全無欠あるいは少なくとも大半が高水準』というイメージは、明らかに幻想なので」ある。「先生」と呼ばれる人だって、当たり外れがあるので注意しよう、ということだ。
読書感想文「役所のしくみ」久保田章市 (著)
地方自治法の教科書であり、地方行政の外側から地方役場に飛び込んだ良書のルポだ。
何より、実例に基づいていてわかりやすいし、ストレートな表現が面白い。市長を3期つとめた本人が気取らず、正直に書いている。本人自身が書いているのがわかる。とは言え、このわかりやすさとは、地方自治の現場や市町村役場にいる人にとってのわかりやすさなのが、厄介でもある。これから、市町村役場の職員を目指す人にとってはイメージしにくいことも多いはずだ。やはり、首長を目指す人にとっての教科書、と言っておくのがいいだろう。
久保田前市長は問う、「政策と施策の違いはわかりますか?」。政策をつくるのは、市長及び議会。施策を考えるのは自治体職員。つまり、行政課題に対する方針や方策が政策。この政策の実現のための具体的な対策が施策となる。案外、わかりにくいものだし、概念的だったりする。実際は明確じゃなかったり、アウトプットやアウトカムとも関わっていたりする。
また、久保田前市長の独特の表現の「ポツンと自治体」が面白い。通勤時間40分程度に人口20万人以上の大きな都市がないことをいう。大きな都市があれば、通勤者を相手に徹底した子育て支援に取り組むことができる。しかし、「ポツンと自治体」は、まず「働く場」の確保が最優先!だ、という。実にごもっともだ。
さらに、久保田前市長は、首長に勉強してもらいたい3つとして、1)郷土の歴史・文化・実物、2)人生論や組織経営、3)新しい知識や施策のヒントを提唱している。さすが、いかにも大学教授として中小企業経営を専門とされた方らしい。
やはり、首長、特に市長をめざす方にとっての「役所のしくみ」だ。きっと、久保田塾を開講すると人気になるだろう。
読書感想文「ホワイトカラー消滅: 私たちは働き方をどう変えるべきか」冨山 和彦 (著)
時代からちょっと早い冨山さんの熱いメッセージだ。それにしても、まいったな。冨山さんが言いたいのは、世の中の経営能力不足問題、ビジネス戦闘能力不足問題となるのではないか。あるいは構想力、問題発見能力が足りてないとの指摘か。
個々の被雇用者は、自分の人生なのだから自己点検・評価をしつつ経験やスキルを身につけ、それをもとにポジションや職場を求め、人生を歩めばいい。いや、むしろ、それだけだ。だが、経営者、起業家、事業主は違う。DX、CXによる事業転換、ビジネスモデルの再構築により、産業資本体として会社の利益の稼ぎ方を変えなくちゃならないのだが、それらが遅々として進まないのは、その地位にある者の能力不足ということになってしまう。もちろん、能力には、リーダーシップもあれば、アカウンタビリティもレスポンシビリティもあるわけだが。
そうなると、実に嫌な言い方になるのだが、「失われた30年」とは「日本のリーダーたち、実はそんなに頭良くない問題」になってしまう。もしくは、本質的に果敢に挑戦せざるえない状況にも関わらず、怖気付いたままのアニマルスピリット不足ということになる。実数としてどれほどいるのかは怪しい純然たるホワイトカラー像は変わるのだし、「窓口」や「営業」の概念そのものは変わる。働く現場としてはそうであるが、経営から見れば、収益の源泉が変わるのだ。便利でスムーズでスピーディな世界になってしまうことで。
もっとも、冨山さんだってローカルな事象の全てに解像度が決して高いわけじゃ無いし、エッセンシャルワークに不案内なことも見えてくる。例えば、地方のインフラで下水道が敷設されていないような場所にだって必要に人が住む必要があるし、そこに合併処理浄化槽を配備した場合、その浄化槽の点検や汚泥の抜き取りだって求められ、そのための人が働いてもらう必要もある。コンパクトを追いかけても、そう単純じゃない。そして、公共性としても、公正さの担保や手続きな重要さ、社会的包摂や社会参画の面を考えなくてはならない。また、資格の有用性を謳うならば、新たな資格の創出も積極的に主張すべきだろう。例えば、ごみ収集やトイレ清掃に従事する方々に「清掃士(仮)」を国家資格に置いてはどうか。
「構造改革派としての物言いとしては、こうなる」と読むといいのではないか。冨山さんの「ブルーカラーやエッセンシャルワーカーは、現場で具体的な仕事をしている」という言葉が刺さる人が大勢いるということでもある。
読書感想文「過疎ビジネス」横山 勲 (著)
もう、結構な毒はまわっているのではないか。
人口維持が難しい消滅可能性自治体と、その中で「地方創生」の核となるはずなのにヒト・モノ・カネが全く足りず、派手に話題が盛り上がり評判を呼ぶためのことなら、とにかく何でもいいからなんかやれ、と踊らされながらも疲弊していく「限界役場」。そして、日々、忙殺される役場職員や町村長に巨額のカネと企業から派遣されるヒトをつける甘言で誘惑する怪しげな連中。ヤレヤレ、どうしたものか。
地方分権制度改革とともに、政策法務のスキルアップが求められた。実は、この四半世紀、市町村の現場では、法務すなわちリーガル・スキルがまるで上がっていない。政策形成能力も決して上がっているとは言えないが、それ以上に憲法、行政法、民法の知識は当然、必要なのだが、カラキシなのだ。地方行政において、法的思考、法的判断が欠けると惨事になる。
地方の現場では、介護保険制度、地球温暖化対策、女性活躍、情報化、インバウンド、円高と円安、そうそうコロナもあったし、ふるさき納税の大競走は続いている。地方が担う仕事の量は爆増し、求められる専門知識やスキルも急増している。中規模以上の都市になれば、BPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング、外注委託のことだ)が進み、地方公務で働く人が誰なのかが溶け出している。そして、国の制度を縦横無尽に使いこなした自治体が国からの恩恵を受けるマチになる。だが、本来は国の制度に乗っからずとも地域で当たり前に、生業をつくることだ。遠回りだが、悪徳コンサルに脇の甘さを突かれずに済むために必要な「まちづくり」とは、自分たちで「地域に働く場所をつくる」ことだ。
読書感想文「30の都市からよむ日本史」金田章裕 (監修), 造事務所 (編集)
知っているようで案外と知らない都市の地誌である。もちろん、全国の天気予報で毎日伝えられる街もあれば、そうじゃないところも紹介される。でも、メジャーかどうかより、歴史のトピックが立った場所かどうかが、30の選に入ったか漏れたかの違いだ。
いくつか気づくことがある。意外と「軍都」がある。陸軍の師団が置かれたことが発展の契機になった街がいくつもある。軍隊が駐屯することで消費活動が生じ必要物資を供給するための生活産業が発達するのだろう。また、関東・東北では、その歴史に関東管領が影響が濃い。当然、歴史の主役では無いが、歴史の主役の行動に必ず関東管領の補助線が入る。関東管領から見る歴史があっていい。
北陸・近畿では本願寺が欠かせない。門徒が多数であることが当たり前になって社会を回すようになったこととそれへの反発など、門徒の社会学があってもいいんだろうなと思う。また、江戸や奈良や大阪などで描かれる上水・下水の衛生対策は、人口がスケールしていくときに必ず問われる問題である。
「歴史」として都市の成立に重きが置かれているため、高度資本主義経済における発展についての記述が弱く産業資本が都市の発展に寄与したかが十分ではないし、新幹線や空港、高速道路などが及ぼした影響なども触れらるべきだと思う。しかし、それは別な著作に譲るべきなのだろう。全国をオーバービューする視点と歴史の要点をコンパクトに知っておく休日の教養書だ。
読書感想文「バリ山行」松永K三蔵 (著)
ライブってことだろ。生きてる!っつーか。
一人でいるとき、もしくは周りに人がいてもどうしようないとき、自分の息が聞こえる。目の前に人がいて、その人のことを何とはなしに気にしていると、互いに喋っていなくても、自分の呼吸の音は聞こえない。もしくはヘトヘトになって恥ずかしさも何も気にしてられず、はーはー、ぜーぜーと息の音がどうしようも無く耳に入ってくる。それくらい、ひとりでいる時に耳にする呼吸音は、体が根を上げるときと同じくらい、静かに「生」を感じる。
そうした「生」の絶対を感じるところに身を置いた人とそれを見ちゃった人の話だ。ホントは「生」の絶対を感じるライブの現場に行ってしまってはいけないのだ。ポイズンなのだ。パンクなのだ。ヤベー奴なのだ。だって、死なないギリギリじゃないと生きてる実感を感じなくなってるんだよ。
聖と俗である。絶対非日常である聖とは、どちらかと言えば眺めるモノであって、そっちに行ってしまっていいモノでは無い。聖性なんて正面から見たり、考えたりするもんじゃ無いのだ。ひとりになったときに、ふと感じるものだろう。こっそりと。MEGADEATHのTシャツだって、ひっそりと楽しむモノだ。
読書感想文「この国の戦争 : 太平洋戦争をどう読むか」奥泉光 (著), 加藤陽子 (著)
粉薬を飲むごとき煩わしさだ。苦い匂いや味が鼻と口に広がる。勢いよく飲めば咽せ返る。そんな一冊だ。
日本とは、なかなか人を得ない。つくづく、そう思う。一角の人物が大きな役目を担わない。結果、中途半端な痴れ者がのさばり、碌なことにならない。軍人勅諭ができたのも、西郷や江藤の反乱が怖かったからだ。心底震え上がった。道理を正面から眦を上げて言われると、どうしようもない。本当に嫌だ、と思った。原理原則を貫き、昨日まで言ってたことと違うと詰問されると窮する。辛かったのだ。だからこそ、おとなしてくしてくれ、言うことをきいてくれ、と祈るようにわざわざ文字にした。
そして、満蒙である。そもそも満蒙などという言葉は無かった、いや、そういう概念が後付けされた。このことが象徴的であるように、いつも理屈が後付けされる。小理屈は得意なのだ。誰かが閃いたり、論点をずらすことで、えっ?そうだったの?と驚かせる。やれやれ、どうしたものか。
将たる人物を得ない、ということなのだ。人を率い、統べり、動かすためには、絶対、原則、物理法則に準じた万人に納得のいく作戦と行軍がなければいけない。フィリッポスやフォーキオンのような言葉を使える将が必要なのだが、本邦では失敗している。いつだって八幡様が蛮勇をもって奇襲を成功させてくれる。んなことあるかー。まったく思考放棄なのだ。
読後の喉のひりつきを用心し後味の悪さを覚悟して読み通してほしい。






