古民家ギャラリーうした+古本カフェ便り

読書ブログなど、自分の興味のあることを書いていきたい。

静謐(と、相対する)な日々の暮らし:うした103日記 こんな時間に、なにしてんだよVER #1

今日から、新しい日記のうした日記103Ⅰ(いち)と云う

のを、推敲がてら、上げようと思っています。

因みに、上げるのは例によって例の如く、不定期で

す。昭和文學史私観シリーズも、已めたわけではな

いので、その内に上げます。ちまちまと。

では、行きましょうかね。と、その前に、ちょっと

説明を要すると思うので、説明しますと、このうした

日記103と云うシリーズは、牛田本町にチチウエの東京

から、引っ越してきて、さるアパートの103号室に

住んでいた時期に書かれた日記なのです。それを踏ま

えて、読んでいただければなあ、と思います。

 

うした103日記Ⅰ こんな時間に、なにしてんだよ。VER

                   

2000年

12/9(土)晴れ

思い出したことがあって、僕が小学五年生のとき、近所の家で友達と二人で英語を習っていたとき、カード取りをした。例えばズーと先生が言うと、動物園の絵が描かれたカードを取るというもの。でも、そのときに“ダム”や“シット”や“ファック”にあたる日本語“チクショー”と言うと、手持ちのカードを全部没収されてしまうのだった。でも、その先生の発音は甚だ怪しく、中学に上がると、なんか違うことに気づいた。どうも、それは北海道出身だった先生の道産子英語だったらしい。

汚い英語を覚えたのはその数年後だったが。

 

朝、外はえらく寒かった。AM5:00に起きた。ロッキーじゃあるまいし、階段を駆け上がって、エイドリアーン、と叫んだりはしなかった。いや、エイドリアーンと叫んだのは、試合後だった。僕は、ただ、AM5:00に起きただけだ。冷蔵庫には缶コーヒーひと缶にマーガリン半分、その後、僕はバター党になったが、そのときはマーガリンしか買えなかったのだと思う。

ハハが17:00頃によってきた。その時、丁度、AV(オーディオ・ビジュアルじゃないです。アダルト・ビデオっていう、エロいビデオです)を見ていて危なかった。

「ミッドナイト・ラン」を久しぶりに観た。デ・ニーロは体全体で演技をするすごい役者だ。その映画の内容を問わず。でも、“ミッドナイト・ラン”がつまらない作品というわけではない。見所もあるし、キレもある。

「ビーチ」を読んで、スーファミ天外魔境ゼロで少し遊んだ。

昼はバタール半分と、味噌ラーメンを15:30頃に食った。

N.B.B.B.S.をいじって(この原稿は、二十五年くらい弄り続けていた。いや、永い付き合いだよ)、プリントアウトした。この作品は、夢の作品だ。まさしく、見た夢を書いたものだからだ(その後、脚色したりした)。

リービング・ラスベガス」というニコラス・ケイジの出ている作品を観ていたら、録画が切れていた。僕もキレそうになった。アル中とビッチの話しだ。スティングの曲が流れてくる。最後まで観たいもんだ。で、夕食は肉うどんだった。うどんは讃岐。うまかった。夕メシの時、教室に関することを話した。商売と芸術は相容れないっていうのに、同時に二つをこなすのは至難の業。

冷蔵庫の電源を切って、19:00過ぎくらいから眠って、さっき、0:00過ぎに起きだしたんだ。早く寝すぎたんだと思う。

奇妙な夢を見た。デコレーション・ケーキからニョキッと筋肉質の腕が伸びていて、上にやったり下にやったりした後、腕立て伏せをして、手を叩くバージョンのもやったりして、ケーキだから、カロリーが余ってんだな、と思っている。

部屋をほうきで飛んだ。なわけないですね。吐いたんです。ちょっと飲みすぎちゃって、って、小学生でもそんなボケはかましませんね。そうです、履いたんです。ズボンです。キツメのやつ、じゃなく、歯痛ですね。奥歯が、磨きづらいんだよねえ、奥歯って、いやいや、違った、掃いたんですね。正解! 髪がけっこう抜けていた(2021年現在、僕の髪はない! 坊主だ!)。

なあ、相棒、空にスーパーマンが飛んでるぜ。けど、誰も見ようともしないな。

二十世紀最後のクリスマスまで二週間。( ̄∇ ̄😉ハッハッハッ。悪いけどツレはトイレに行ってんだ、そこの席は空いていないよ。残念だったな、あんたら。

 

以上。

 

こんな感じで行こうと思っております。ついてこれてますか?

その頃の、ぼくは、病気からも解放されつつあり、すごくお

気楽な感じで過ごしておりました。大抵、ぼくは、あんまり悩

まない質で、あんまり、いろんなことにくよくよしたりしない

んですね。そんな、くよくよしたって、どうしようもないこと

だらけで、まあ、半ば、諦めてしまッたと云うのが正直なとこ

ろだと思います。皆さんも、小さなことにも、(いささか、問題

はあるにしても)大きなことにも、くよくよしないで、生きてい

きましょう。

ぼくの、場合、それで大抵うまくいきましたし、これからも、あ

んまり、流れに逆らわない様にして、素直にあんまり考えすぎないで

生きていこうと決めております。

長くなったので、今日のところは、この辺で、失礼します。

じゃあ、みゃた。

 

悪魔と過ごした青春:肉体の悪魔 ラディゲ

新庄嘉章・訳 新潮文庫 1921年

 

肉体の悪魔、原題は、悪に憑かれて。ストーリー

などはウィキペディアを調べれば、直ぐに判じる

ことであろう。

16歳から18歳の時に執筆されたとあって、読

んでみて、古典とは言うものの、ストーリーもオチ

も稚拙であり、なんとも短絡的であり、文章にも早

熟さは見受けられはするものの、なんとも経験の

足りなさから来る浅さみたいなものがどうしても感

じられてしまう。文學とは、厳しいものである。

二十歳で夭折したと云うが、あと、二十年ほど長生

き出来れば、もっともっと深いものが描けたのじゃあ

ないかな、と残念に思う。でも、死んだからこそ、今

もって読み継がれていると云うこともあろうかと

思う。それも加味しての、肉体の悪魔だ。かつて、

何人もの人が訳出しているらしいが、この新庄訳は、

とても読み易かったように思う。

 

(読了日 2025年12・15(月)2:15)

      (それでも夭折したかった鶴岡くん)

 

文學の持つ奥深さ:昭和文學史私観#18 (弾けるキャンディ)

読者のネイバーフッドの皆さん、あけましておめでとう

ございます。本年も相も変わらず、文學ヲタをやらせて

いただいていこうと思います。こう、読書人生が続くと

飽きないのか、と思われるかもしれませんが、全く飽きる

ことは御座いません。寧ろ、新たな興味が沸々と沸騰する

ドグマの如く沸き出し、ぼくを生きると云う業を果たす

べく、為すべき事を成す、と云う決意のもと、頑張って

いかせてもらえばなあ、と思っている次第です。文章が

いささか、混乱を伴っておりますが、それは、わざと、

であります。ちょっと、普通の文章では、最近では飽き

足らず、更なる実験をもっともっと致したいなあ、と

思っています。

しかし、あれですなあ。正月ともなると、と、落語の枕

の様に話始めるのも、なんですから、早速、昭和文學史

私観をやっていきましょう。

 

2006年

5・25

走れメロス」 太宰治 新潮文庫 一九三九年

富獄百景、女生徒他、九編。走れメロスはちゃんと初めて読んだ。そのまっすぐさに涙した。死してまで救おうという、その意気込みを感じたので、僕は感動したのだ。

 

6・29

「黒鳥譚・青髯公の城」 中井秀夫 講談社文庫 一九九八年

夢のような錯綜感があり、死というものが常にあり、この作品は死というものをもってして肉体からの脱却を望んでいるようにも感じられる。髭公の城は避暑地での若者と若妻との一風変わった恋物語で、鏡の向こう側が、モチーフになっていて危うい恋が巧みに描かれる。もう一遍、死者の誘い、が収められていて、毒草研究者という一風変わった家族の物語で、自殺がモチーフになっている。初めて中井秀夫氏の作品を拝読したが、混迷感というか、不安感というような手の届かない感情を描くのが巧みな作家という印象である。

 

7・2

「女生徒」 太宰治 角川文庫クラシック 一九三八年

全十四篇所収、きりぎりす、千代女、貨幣、おさん、女生徒、ほか。

 

7・15

「シーシュポスの神話」 カミュ 清水徹・訳 新潮文庫 一九六九年

不条理について説く哲学書。砂漠のような地平に立ち、そこから踏み出すことが思想には必要であり、意識する自己というものが大切だそうである。不条理を通して色々なものごとを見てゆく。俳優論もある。不条理な人は希望を抱かないらしい。

 

8・4

「八七分署シリーズ 命果てるまで」 エド・マクベイン 久岐基一・訳 ハヤカワ・ミステリ文庫 一九八六年

クリングとオーガスタの結婚式の晩、オーガスタが誘拐され、オーガスタを追う八七分署。ホテル前の料理屋のオヤジの手がかりを元に犯人に迫るまでを描く。サイコ犯の登場する八七分署シリーズ。 

 

8・9

「カチアートを追跡して」 ティム・オブライエン 生井英考・訳 新潮文庫 一九七九年

ベトナムの戦火の中でカチアートがパリを見たいと言って脱走したのを、中尉はじめ、主人公、ポール・バーリンらが追跡を開始する。脱走というのが一つのモチーフとなっていて、それにつられて逃避行ということになる。オブライエンさんはベトナムから遠く離れた今でさえ、その戦いの意味や真実を探しているのだと思う。真実を追求するのはオブライエンさんにとっては義務であり、たとえ想像力の中であっても義務は投げ出されてはならない、という。この話しはポール・バーリンのおそらくは死にゆく中で見た夢想の中なのだと思う。見たことのない地に赴く旅。これが想像の中であっても放棄されてはならない、たとえ死んでも自由という地に立つ本分を忘れては真実を見ることはできないのである。いったい、真実とは? そこにある虚妄さえ、真実となる場合もあるのではないか。ベトナム戦争は見えないカチアートを追ってどこまでも続くのだ。

 

以上。

 

長くなったので、今回はこの辺で、じゃあ、みゃた。

 

                 (ベトナム戦争をやっていた頃に生れた鶴岡君)     

アポリネールに視るエロスとぼくと:昭和文學史私観 #17 (弾けるキャンディ、ボンルパ日記)

この、昭和文學史私観も、楽しみにしている人がひとり

でもいることを信じ、久しぶりに行ってみよう。

2006年ですから、なんだかんだ云って、二十年前な

んですよね。ぼくの読書人生も、もう四十年くらい、

いや、文字を読むようになってからだから、五十年ほ

どにもなるのではないか。半世紀か。ぼくにとっては、

光陰矢の如しだが、若い人にとっては、まあ、やめときま

しょう。じゃあ、行ってみよう。

 

2006年

4・17

「若きドン・ジュアンの手柄ばなし」 ギヨーム・アポリネール 窪田般彌・訳 一九七五年

このエロス文学には、G・バタイユのような難解な文章は使われてはいない。ただストレートに性描写が連なっているのだ。そこにこの小説の迫力の伴った詩的とさえ思われるようなエロス文学があり、ここには単純な自由がある。他者との垣根を悠々と超越してしまうような優雅ささえある。それは、女性とか男性とかいったものを軽々と超えてしまっている。力強い性による超越性で、それが自由となって、飛翔するのだ。

まったく、こんな文学があるとは驚異的な感動だ!

 

4・18

「斜陽」 太宰治 新潮文庫 一九四七年 

革命はおちることから始まるのだ。人は革命と恋のために生まれてきたのだ。かず子は貴族から、おちた作家(札付きの不良)に恋い焦がれ、おちていく。母は別荘で病に倒れて、貴族のまま死んでいく。直治は、おちることができずに、貴族として死んでいった(自殺)。おちた作家M・Cはおちつづけ、闘い続ける。この作品の登場人物は皆苦悩している。斜陽しながら戦い、あるいは散っていく。

 

4・22

「卍(まんじ)」 谷崎潤一郎 新潮文庫 昭和三~五年

柿内未亡人が作家に語る文体で、光子さんとの同性愛、その光子の支配欲によって三人が心中するまでを描く(柿内未亡人だけ生き残る)。大震災で関西に移住した谷崎が充実した時期に書いた練りに練られた構成の作品である。谷崎の言う通り関西弁はなまめかしいところがあるが、かわいい感じもする。それにより、この小説はより肉感的に仕上がっている。

 

4・25

人間失格」 太宰治 集英社文庫 一九四八年

自分を厳しく見つめる太宰の最後の恋愛小説。人間でさえなくなるまで自分を追い込み、人間としてさえ存在していない。では、その存在は何なのか、という究極の問いをぶつけてくる。愚かでも人間としてあり続けたいという欲望の末に辿り着いた、太宰の人間追求の姿がにじみ出ている。

果たしてこの人間という存在は、どこまでが真実なのであろうか? タバコを飲み、酒を喰らい、女を抱きしめる。女によって救われ、女によって煩悶するこのオレは一体なんぞや。

恋と革命の最終章。

 

5・20

「地下街の人々」 ジャック・ケルアック 新潮文庫 一九五八年

レオが黒人美女、マードゥに恋におち、別れるまでを熱烈なビート文学タッチで描く。僕としては文章に粗さが見え、もうちょっと丁寧に推敲すりゃいいのにと思うのだけれど。どっちかっていうとへたっぴいな文章ですね。それが、特色でもあるのだろうけれど。

 

以上。

 

年末も押し迫って来て、その割に、体感的にそんな感じも薄く、

一年で、ぼくは、十五万字以上を打ったかな、と思う。まあまあ

の仕事量じゃないかな、と自負している。ぼくは、リーマンじゃ

ない分、時間を自分の為に使えるという利点が昔から、あった。

バイト時代も、まあ、拘束時間は六時間とか七時間くらいだ

ったかな。そんなこんなで、文章修行も三十年くらいになって

きたかな。でも、文章修行と云っても、その都度、発見するこ

とがあって、次々に、見える景色が違うので、凄く楽しくて、

続けてこられたんだと思う。健康ってのも、大きいね。筋トレ

も、続けること、四十年くらいだからね。なんでも、続けるって

大変なことだと、最近は実感することが多い。誰でも、継続する

ってことが可能ってわけではない。なんかしらの、障害が生じて

くるのが人生ってもんらしい。でも、たまたまぼくは、続けること

が出来た事をただただ感謝したい。一体、誰に、感謝したらいい

のだろう、と考えるが、ぼくを健康に産んでくれたハハにか?

まだ見ぬ神にか? それとも、ぼくを育んでくれた社会にか?

それは、やはり全ての事に関して、感謝し、生きていかねば

ならないだろう。こういう、衆生の世界に生まれた、今世に。

なんだか、はなはだ、怪しくなってきたので、止めるけどね。

ここら辺で。

長くなった、読んでくれた人にまず感謝した方が良いんだろう。

じゃあ、みゃた。

 

倉橋氏の性癖とは?:犬の哲学者 倉橋由美子

「老人のための残酷物語」所収。 講談社文庫

2003年

 

酒の樽の中に住んでいて、人前でも平気で千摺り

をこくし、性交もする、と云うキャラクターに

描かれている哲学者。それを、評してまるで犬猫

の様だ、と云った人がいたので、娼婦崩れか知ら

んが女とワンワンスタイル、つまり、バックで

やるようになったと云う。倉橋氏はこういうこと

は書くが、ワンワンスタイルと云う言葉も、バック

と云う言葉も知らないのか、使わず、犬猫の様に

した、と書いている。いや、ぼくの中では、こういう

話を描く人というイメージはあまりなかったのだが

下品な人が好きだったのかな、と思って仕舞う。

まあ、性癖は人それぞれで、作品に如実に反映され

てくるのは、当然に事だ。人によっては、作品と作家

は別だ、と云う見方もあるけれど、書き手から云わして

もらえば、作品と作家の性格は切っても切り離せない

ものだ、と思う。

 

(読了日 2025年12・11(木)21:20)

 (それにしても、言葉遊びだけで、実際にはしたこと

        があんまりない、独身の鶴岡くん)

 

閻魔大王を題材にしたスラップスティック的コント:閻魔長官 倉橋由美子

「老人のための残酷物語」所収。 講談社文庫

2003年

 

地獄に送るか、天国に行ってもらうか、を決める
と云う閻魔大王をモチーフにした短編。もはやこ

れは、スラップスティック(ドタバタ喜劇)と云

っていいのではないか。筒井康隆氏をも彷彿とさ

せる。いや、別に笑えもしないし、なんかグロい

関係性、つまり、嫁と旦那と云う、腐れ縁的な話

もあり、まあ、笑えない。別におもしろくもない

し。ただ、粛々と読んで、そうで御座いますか、

と妙に納得して、次の短編にかかっていく。何が

問題かと問われれば、特にそれもよく解らない。

死体をバラバラにされ、それを手術し、生き返っ

たのを復元する、と云う滅茶苦茶なところが、

なんと云おうか、すでに、この短編をぶっ壊して

しまっている、と云えるんではないか。などと、

私などは思って仕舞うんでございますが。

 

(読了日 2025年12・8(月)20:20)

   (やっぱり、退屈でも天国がいい鶴岡くん)

 

 

 

 

水と老女の短編で、読書の快哉を叫ぶ:水妖女  倉橋由美子

「老人のための残酷物語」所収。 講談社文庫

2003年

 

歳を取らない人と云うものはいるものだが、妖怪と

なると、また話は違う。すなわち、この老女とは歳

を取らない妖怪であったようだ。TVなどに出る女優

のようだが、大抵の女優は目を当てられないような

ババア(失敬!)になり果ててしまう。それは、自

然の摂理に従っていて、極く当然で、妖怪じゃない

のだから、当たり前だ。で、この短編に出て来る妖怪

は死んで、庭に埋まっていて、水を振り撒き、その

水は小学校に行って、行い、それを浴びた小学生は死

んでしまうと云う。うーん。今の作家にこういうこと

を書く度胸なり勇気があるのかは判らないが。その

死体からは、水が出て来ると云うんである。どういう

意味かはまったく理解できないが、そういう現象が起

こるってことを、どうしても書きたかったのだろうね、

倉橋氏。

 

(読了日 2025年12・7(日)14:30)

      (それでも、妖怪は好きな鶴岡くん)