透明を観る

見えないものを観ようとする

気気 来年度のチラシ

 

「気気」という名称は、自分の「気」と相手の「気」を合わせるというところから名付けました。実際には手を相手の背中に当てるのですが、それは体のふれあいというよりは、(バラバラではない)共有する「気」を合わせるという感じで行います。

 

生徒がチラシを作ってくれたので、掲載します。

 

 気気の会    手を当てる健康法   

 

野口整体愉気法に基づく実践中心の講座です     

 

誰でもが持っている気の交流で、カラダと心の「バランスを回復」してみませんか

 

週に1回、静かな雰囲気で、自分のカラダの様子を、しっかり観察します

 

1 敏感(過敏)な方は、知らず知らずに入っている筋肉の緊張感や、脳の刺激、情報過多の

  状態を和らげ、気分が落ち着いたり、頭の中が整理されたりしてきます

 

2 鈍感な方は、気がつかない痛みや、だるさや、違和感による、カラダからのメッセージが

  分かるようになり、カラダへの感受性が促進されます

 

3 どちらともいえない方は、学んだことを家族や友人と共有することができます

 

 

  興味がある方はご参加ください

 

【講師】  白石 真基 (気気の会 主宰)

 

【日時】  1月5日(月)12日(月)19日(月)26日(月)

      2月2日(月)9日(月)16日(月)23日(月)

 

【時間】   午後1時10分~2時40分

 

【場所】   国立市 東地域防災センター  (国立駅徒歩6分)

 

【参加費】  各回 2,000円

 

【申し込み】 前日までに下記に連絡をください

       メール 4rakko⭐️gmail.com

                      ⭐️を@に変えてください

 

    動きやすい服装でお越しください

    ハンカチかタオルをご持参ください

「気気」をします

 久しぶりに「気気の会」を催します。「気気」というのは、野口整体愉気法のようなもので、二人で組んで、手を背中などに当て合うものです。

「気気」をすることで力を抜くことをおぼえ、からだの感受性を高めることができます。その後に「透明を観る」をすると、身心の変化をより良く感じ取ることができます。

 関心のある方は、是非ご参加ください。初めてでも大丈夫です。

 2026年の1月、2月の2か月間、東京都国立市で開催します。詳細は活動予定をご覧ください。

 気気について知りたい方はこちらをご覧ください。以前に作った ホームページ をご参考にしていただければと思います。

いつのまにか変わっている

 「生かされている」というのは正しい考え方ですが、普段そう思っていない人が、それを自分に取り込もうとするには少し無理があります。なぜなら私たちの価値観や考え方のようなものはすでに凝り固まっていて、そう簡単には変えることはできないからです。

 どんなことであっても、意識に直接働きかけて、自分を変えようとすることには無理があります。「透明を観る」イメージは、変えようと思わなくても、いつのまにか変わっているという方法です。私は傲慢な人間ですが、「透明を観る」をすれば、少しばかり謙虚になることができます。「生かされている」と考えなくても。

ココロを構える

 思想家であり武道家でもある内田樹氏は読書の心構え(準備)として次のように言っています。

 「毎朝、道場で祝詞と般若心経を唱え、不動明王真言で浄め、九字を切り、禊教の呼吸法を行うというお勤めをしないと一日が始まらない身体になった。遠回りのようだけれど、そういう人間になることの方が、『いきなり本を読む』より適切だろうと私は思ったのである。この直感は筋が悪くないと思う。たしかに言葉から入るのは危うい。誤読する可能性があるし、何よりもこちらの身体に準備がないままに本を読むと、『わかった気になる』リスクがある。(日本型コミューン主義の擁護と顕彰)」

 「そういう準備をする」ではなくて、「そういう人間になる」と言っているのは、毎朝の儀式がすでに習慣化し、そういう自分という人間を作り上げた実感があるからだと思います。そしてそういうような人間を作り上げるためには、知識だけではなくて、からだを使う必要があると。

 ここでは本を読むことについて書かれていますが、このような「心構え」は生活全般にもいえます。仕事をする時、電車に乗る時、人と話をする時、趣味活動をする時に、「そういう人間」として対処する準備ができているかどうか。それが結果として現れます。

 いつも同じ感受性で暮らしているわけではありませんから、できるだけ自分らしい最良の状態で日常の各出来事に臨みたいと思っています。私の場合は「透明を観る」ことで、「そういう人間」になりたいと思っています。

 

「透明を観る」イメージで変わる人・変わらない人

 

「透明を観る」イメージをしても、人によって変化の度合いは異なります。よく変わる人とそうでもない人がいます。練習量とも関係しますが、それよりも生活の中での優先順位と関係があります。「透明を観る」を他の用事よりも優先する人は、よく変わります。恋人のいる人が、どんなに忙しくても時間を作って会おうとするように会に参加したり、自分で練習する人はよく変わります。ただし、「透明を観る」の場合は、恋愛と違って必ずしも好き嫌いという感情は必要ありません。

それからもう一つ、「一つにつながる」ということの理解の程度とも関係があります。普段はバラバラに分かれている(ように見える)世界を、「一つにつながっている」世界として観ることができるか(想像することができるか)ということです。たとえばそれは本来つながっている世界を、言葉や意味が分節しているというような考え方ができるかどうかということです。想像の深さと、身心の変化は比例します。私は20代のときに老荘思想に触れ、30代で禅や野口整体の影響を受けて、このような考え方をするようになりました。とはいえ、日常(透明を観ていないとき)は、モノを分けて見ています。

イメージ🟰映像 とは限らない

 イメージをするといえば、映像的なものを想像するのが普通ですが、「透明を観る」では必ずしもそうではありません。言葉をただ唱えるだけでも、身心は変わります。それはおそらく脳が、自分の唱えた言葉に反応するからだと思います。「わたし透明」と唱えれば、脳は経験的に「わたし」とはどういうものか知っているし、「透明」とはどういうものかも知っている。脳がその言葉の組み合わせから何かを想像し、それによって身心が変わるということです。言葉を唱えれば、後は脳が勝手にやってくれるのです。

自他同一を求めるココロ

 人は生まれてからしばらくは自他の区別がつかないといわれています。その時の記憶を思い出すことはできませんが、おそらくそれは良いものとして、身心の中にずっと残り続けているのではないかと思っています。

 なぜなら「透明を観る」イメージをして、周りとつながっている感じになると。普段得られないような「快」を感じられるからです。この「周りとつながっていれる感じ」は、「自他の区別がつかない」時の状態とよく似ています。

 ですから大人になって「自他分離」していても、それを求める気持ちはどこかに残っているのです。