時クロニクル

文化的記憶を通して時を解く

『嫌われ松子の一生』:システムの嫌悪と「絶対的愛の暴走」

嫌われ松子の一生』は、戦後日本の家族、学校、職場という欺瞞的な社会システムが、都合の悪い個人を冷徹に排除する「構造的な暴力」を描いた作品だ。排除され、存在意義を奪われた松子が、その空虚に対抗するため、「愛」という最も私的な原理を社会規範を超える絶対倫理として暴走させるプロセスを本稿は解体する。この悲劇を、システム論と哲学的な「無限責任」の視点から分析し、現代社会の「システム的な愛の欠如」と「氷河期世代」の経験に共振する批評的価値を提示する。

【愛の絶対値と、脆く揺れる光の断片】

序論:システムの嫌悪と「私的な絶対倫理」の噴出

私が[前回の論考]で焦点を当てたのは、『エヴァンゲリオン』における「公的規範の崩壊(NERVの機能不全)」と、それに伴う「内面化された倫理の疲弊」であった。すなわち、国家や組織といった公的システムがその庇護機能を停止した時、個人がいかにしてアイデンティティと倫理の基盤を失うかという問題である。

中島哲也が2006年に発表した映画『嫌われ松子の一生』は、この「倫理の疲弊」の結果、個人が「愛や救済原理という最も私的な概念」を「欺瞞的なシステムに対抗する唯一の絶対的倫理」として暴走させる段階の分析として、極めて重要である。

松子の人生の悲劇は、単なる運命論や個人的なマゾヒズムに還元できない。それは、システムから「嫌悪」という形で排除され続けた個が、自己の空虚を埋めるために、「愛」という究極の私的価値に倫理的責任の全てを外注した末の破綻の記録である。この物語は、私たち氷河期世代が、社会の欺瞞的な「期待」と「自己責任論」の狭間で経験した「システム的な愛の欠如」を、極端な形で先取りしている。本論は、この「嫌われ」の構造的起源と、「愛」の絶対化がもたらす倫理的逸脱を、三つの視点から構造的に捉える。

1. 規範の期待と社会的な嫌悪:松子を排除したシステムの欺瞞

松子の転落は、窃盗事件という個人的な過ちから始まるが、その根本原因は、彼女が「戦後から続く日本社会の規範(特に女性の役割規範や家族規範)」の期待に適合できなかったことへの、システム的な「嫌悪」(排除)である。

松子は、生真面目な教師や理想的な「長女」として振る舞おうとする時、システム(学校、家族)は彼女を愛や慈悲で包み込んでいるように見える。しかし、その実態は、都合の悪い要素(ノイズ)を倫理的な善悪とは無関係に切り捨てる「機能」に他ならない*1。病弱な妹・久美への父の偏愛は、家族というシステムが、松子に過剰な献身の役割を期待し、それが満たされなくなった瞬間に冷たく拒絶する構図を示す。この松子に課された役割は、当時の日本の家族法や社会規範が女性に求めた犠牲的献身という、客観的な規範の裏付けを持つ*2

学校での窃盗事件に際しても、教師という公的規範を維持するシステムは、真犯人ではなく、「弱さを見せた」松子をスケープゴートとすることで、自己の倫理的純粋性を保とうとする。松子はシステムにとって「都合の悪い個」となり、「嫌われ」という形で社会から次々と排除されていく。これは、「自己責任」の名のもとに、一度レールを外れた個人を再起不能なまでに見捨てる、欺瞞的なシステムの論理の先駆けである。

2. 「愛」の絶対化と倫理的逸脱:空虚な世界における存在証明

社会というシステムから徹底的に排除され、自己の存在意義を奪われた松子は、その空虚を埋めるために、「誰かからの愛、または誰かへの献身」という私的な基盤に、自己の救済原理を絶対化する。この「愛」は、社会的な規範や道徳よりも上位に位置する、「唯一の生きる理由」であり、「絶対的な倫理」となる。その結果、この絶対倫理は、社会的な規範(窃盗、殺人、売春)と必然的に衝突し、倫理的に逸脱していく。

松子の献身は、哲学者レヴィナスのいう、他者に対する「無限の責任」を、感情的な「愛」という形に置き換えて、自らに課したことの悲劇として捉えられる。レヴィナスにおいて、責任は自己の自由や権利に先立ち、際限なく自己に課されるが、これは本来、人間が制度や社会の中で遂行することは困難である*3。松子は、この実現不可能な「無限責任」を愛という形で引き受け、自己の存在証明と同一視することで、倫理的な暴走と自己破壊に至る。

松子の人生には、親友の綾乃、そして妹の久美といった、「愛」ではない形で松子に関わろうとした「愛以外の救済原理」の可能性が提示された。しかし、松子自身が、「誰かへの献身」という自己破壊的な絶対倫理から抜け出せず、孤独と自己嫌悪に陥った結果、愛の絶対倫理の外にある救済を拒絶し、自らシステム(社会)の外部へ退却した。この排除と暴走の連鎖こそ、松子に課された構造的悲劇の必然性である。

甥の笙は、松子の死後、彼女の人生を辿ることで、その存在を「愛ではない客観的な視点」から理解し、再評価しようとした。しかし、その理解は松子自身に直接届くことはなく、むしろ「死後にしか得られない他者からの倫理的検証」という形で、松子の生前の孤立を際立たせるに過ぎなかった。

3. 献身と自己破壊の連鎖:松子が繰り返す「受難」の構造

松子は生涯を通じて、自己を否定し、他者に尽くすという「献身」のパターンを繰り返す。これは、システムが彼女に課した最初の役割(妹への献身)を、形を変えて内面化した結果である。

彼女が愛を求める相手は、例外なく暴力的、自己中心的、あるいは無能な男たちである。松子は彼らの「不幸」や「弱さ」を引き受けることで、自らに「救済者」の役割を与え、一時的に自己の存在意義を確立する。しかし、この救済は相手の倫理的欠陥を正当化し、松子自身の社会からの孤立を深める。松子の人生は、「自分を愛せない者が、他者の愛によってのみ存在しようとする」という、極めて自己破壊的な「受難」の構造を繰り返す。

晩年、完全に社会から孤立し、他者との関係を拒絶するに至った松子は、「愛の絶対倫理」が「社会からの完全な逃避」と「無関心の壁」に衝突し、機能停止した姿である。彼女の最期の死は、システムの外で、誰からも「嫌われ」なくなった瞬間の、「愛の不在による、究極の無意味な死」として描かれる。この自己犠牲的な献身の連鎖は、現代社会(特に氷河期世代)が「やりがい」や「自己責任」の名のもとに強いられた「システムへの過剰な献身」との構造的な共通点を持ち、松子の悲劇に現代的な共振性を与えている。

結論:システムから排除された個と、暴走する私的倫理の未来

嫌われ松子の一生』は、公的規範が崩壊し、倫理的責任が個人に転嫁される時代において、「愛」という私的原理が「欺瞞のシステム」に対抗しようとして、倫理的な暴走と自己破壊に至るプロセスを描き切っている。

松子の悲劇は、システムに嫌悪された個が、「絶対的愛」という名の自己犠牲的な倫理に逃避する未来を示唆する。興味深いことに、松子をシステムからの排除によって追い詰めるこの物語は、現実の制作現場において、主演俳優への過度な負荷やハラスメント的言動が指摘される権力構造の中で生み出されたという側面を持つ。この現実とフィクションの間のシニカルな反復は、作品が告発する「欺瞞のシステム」が、いかに現代のクリエイティブな環境においても根深く存在するかを逆説的に示している。これは、私たちが生きる現代社会においても、社会的な救済原理の欠如が、スピリチュアリズムや過度な自己啓発、あるいは排他的な集団への献身といった、「私的な絶対倫理」の噴出を招きかねないという、鋭い警鐘である。

システムから孤立した個の暴走を分析した上で、私が次に目を向けるべきは、松子のような「外部への排除」ではなく、「集団内部の閉塞感」が生み出す倫理的な逸脱である。集団の空気と規範に絡め取られ、「愛の不在」ではなく「愛の過剰な共有」の果てに倫理を破壊する個の姿を、私は別のある一つの作品において追及しなければならない。

*1:ニクラス・ルーマンのシステム論における機能的「排除」の概念。システム存続のためノイズを切り離す冷徹な操作を指す。

*2:戦後日本の家族法変遷や1950-60年代の女性役割に関する社会学的資料を参照。松子に課された過剰な献身の規範的背景。

*3:エマニュエル・レヴィナスの「他者への無限責任」に関する哲学的主張、およびポール・リクールらによる倫理の制度的実現不可能性に関する批判を参照。