またまた年末の話で恐縮です。
ちょっとショックだったので記事に取り上げます。
Xで炎上していたこの話題です。
【能舞台で土足】
— 清水和音 能楽小鼓方大倉流 (@Kazutotanpopo) 2025年12月28日
普段はあまり批判的な投稿はしないように気を付けていますが、1人の能楽師として本当にショックだったのでコメントさせて頂きます。
能楽は元々、神様や仏様に奉納する芸能でした。
新年に玄関先に門松を出して神様をお迎えするように、能も松に向かって奉納します。… https://t.co/adkF0H6ZAZ
このX、年末にかなり炎上してました。
この能楽師の方は幾つか勘違いをしていて、石破元首相が対談していたこの能楽堂ホールは能楽だけを演じる本式の能舞台ではなく、講演会やミニコンサートなど様々なイベントに使える多目的ホールであったこと。(可動式で形も変えられる。)
そして能楽以外で使用する時は専用の舞台養生シート(リノリウム)を敷いての使用だったのです。
私は能楽の大連吟の稽古であちこちの能楽堂に行くことが多く、対談で利用された舞台では何かを敷いていることは、元記事の写真を見ただけで分かりました。
まして能楽師である人物がそのことに気づかないわけがないのです。
彼は特定の誰かを非難しているのではなく、誰であっても同じことを考え、コメントしたと言っていますが、引用元の記事に石破元首相の写真が載っている以上、見た人は短絡的に石破元首相が神聖な能舞台に土足で上がって対談したと思うでしょう。
実際、ネトウヨの人達は石破元首相を名指しで貶めています。
彼は「どんなコンテンツにも同じ事が言えますが不特定多数の方の目に留まる可能性があるならば尚更思慮深く行動する責任がある」というなら、彼自身が石破元首相に直接的な非難が行かないように配慮すべきだったでしょう。
実際、石破元首相は、この件に関し、責められるべき点は全くないのですから。
関連する記事を読むと、彼だけでなく、他の能楽師も元記事を同様に問題視していたらしいのですが、それらの能楽師のプロフィールのフォロー欄を見ると、ネトウヨ界隈の好む人をフォローしているらしい。
私もくだんの能楽師のプロフィール欄から彼がフォローしている人を見ましたが、職業的な関わりのある人以外、やはりその種の政治的傾向が窺がえました。
ということは、能楽師の一部にはネトウヨ的な価値観を持つ人達が確実にいるということ。
それはこのご時世だから仕方がないことかもしれないです。
その上で書くなら、このような記事を書いた彼の気持ちも分からないではないです。
自分の気に食わない政治家が鏡板の前で(ということは能舞台で)、土足で対談している、自分の領域に土足で踏み込まれたと感じ、怒りにかられて記事を書いたとしても不思議ではありません。
だとしても、彼の言い分には私は強い違和感を持たずにはいられないのです。
誰がどんな政治的信条を持とうがそれは勝手なのですが、私が気になったことは、彼が舞台に松を描いた“鏡板”があるから、そこはもう神聖な能舞台なんだと決めてかかっていることです。
そしてその場に入る人間を「他人の領域に踏み込む」とまで言って自分達能楽に携わる者の排他的な特権性を期せずして主張していることです。
でも待ってほしいのですが、能楽って、そもそもそんなに排他的で特権的、権威的なものではなかったはず。
だいたい能楽に含まれる狂言は、その時代の権威を笑いものにしていますよ。
彼の言い分を読むと鏡板を使ったこと自体、避けるべきだったということになります。
でも鏡板は象徴的なもので、それが即神聖ってわけでもないのです。
鏡板に描かれた松は、それを目印に神様が降りてこられますよという意味ですから。
だから多目的ホールの背景に松の木を描いた鏡板を使ったって咎められることもないのです。
むしろ能楽用の舞台としても使えるということで、能楽の側にとってはありがたいことです。
能楽の神聖性は、一部の曲に確かにあるとしても、それは場と実践が噛み合ったときに、いつのまにか立ち現れているものです。
ある意味、軽々しくは語れないものです。
逆に彼はあまりにもお手軽に語っています。
確実に言えることは、神聖性は、守るものでも、押し付けるものでも、振りかざすものでもなくて、まして誰かを排除したり断罪するための道具じゃないということ。
特定の思想を持つ能楽師がいることは今の時代、仕方ないでしょう。
でもそこで問題なのは、能楽の権威・神聖性・伝統性を、意識的であれ無意識的であれ、今の政治や排他的言説の正当化のために使うことなんです。
それは確実に能楽そのものの息の音を止める方向性です。
実際Xを読んでいると、くだんの彼の発言、態度から、能楽そのものに権威性や排他性を感じ取ってしまい、「能楽なんてそんなもん」とばかりに、能楽に引導を渡す人が出てきています。
能楽がそういうものじゃないと知っている私としては、それが一番悲しい。
じゃあ、能楽ってどんなものか、私が知っている能楽についてちょっとだけ書いてみます。
私は50年近く前、謡曲を3年ほど習い、今は毎年、能楽の大連吟に参加してます。
20代の頃、私は一時、書店でバイトしてて、その時、時折、書店に水道検針の中年女性が入ってきて謡曲本を注文していました。
私は、その人の紹介で先生につき、謡曲を習い始めました。
隣の市に住んでいた先生は能楽師の資格はもっていなかったと思いますが、自宅の一室で、格安で、とても熱心に教えてくれました。
そこで学んでいる人達は決して余裕のある家の奥さんみたいな人達ではなかったです。
生徒のある人が仕舞も習いたいと言ったらしく、先生の自宅は狭すぎて仕舞を教えることはできず、かといって場所は借りたら高くつくし、先生は近くの武庫川の河川敷に棒で線を引いて舞台を作り、教えていました。
それは、50年近く前、能楽が日本の社会の中で、芸能の一つとして、まだ草の根的に生きていた頃の話です。
学者が言う、能楽は武家の庇護を受けていて、権威と結びついていたみたいなものとは違う、街中の芸能史の一面です。
事実、江戸時代の古文書にも、能楽が一般の商家の習い事として広く学ばれていたことが書かれています。
要するに、能楽は一部の人の、高尚で権威ある特別な文化じゃなかったのです。
くだんの能楽師の言葉に対する私の違和感が理解されたら嬉しいです。





















