夜の感想帳

物語を読み終えたあとの静かな余韻を言葉にしています。

おすすめされるのが苦手な理由

私は「人に何かをおすすめされること」が苦手だ。

本や漫画、アニメ、ゲームをはじめ様々なコンテンツで溢れている現在、その取捨選択は楽しくもあり、難しくもある。そんな中で、自分がいいと思ったものをほかの人にも体験してほしいと思うのは自然なことだ。

しかし、おすすめされるほうはどうだろうか。世の中には、「おすすめされたら一度は見てみる」「人の好きなものは受け取るのが礼儀」という人が多いが、人によってはそれをプレッシャーに感じる場合もあるかもしれない。

私もその一人で、この感覚はずっと以前から変わらない。この「おすすめする」という行為への価値観のちがいが、人との関わり方に影響を及ぼす出来事が最近あった。そこで、「おすすめされることが苦手」という自分の心理について整理し、言語化したものを残しておくことにした。

自分の価値観=究極のスープ

私は基本的に自分の好きなものだけに浸っていたい人間である。自分の価値観をかなり重要視する人間とも言える。
価値観というのは、その人の性格やバックグラウンド、経験してきたことに影響を受けて形作られ、日々少しずつ変化していくもの。
たとえるなら、「自分のためだけの究極のスープを作っている」というイメージだ。

 

大きな鍋に自分の好きな具材、たまたま見つけたおいしそうな調味料、試してみたかったスパイスなどを入れていって、少しずつアップデートしながら自分好みのスープに育てていく。

このスープは「自分にとって最高においしいもの」であって、他人にとってもおいしいものとは限らない。自分が本当にいいと思う「自分だけの味」を時間をかけて作り上げていくことが私にとって何より大切であり、この上なく楽しいことでもある。

新しいものに触れるにはエネルギーがいる

そもそも自然の摂理に反している

人が新しいものに触れるときというのは、大きく分けて二つのパターンがある。

一つは、自分で探して見つけたり、たまたま出会ったりするパターン。この場合、そこに不自然な力は働いていない。自分の関心やタイミングの延長線上に、自然に現れただけだ。
一方で、人からおすすめされたものは「自分だけでは出会わなかったかもしれないもの」であり、そこには他人の意思や期待が介在している。自分の流れとは別の方向から無理やり差し込まれる刺激は、ある意味では自然の摂理に反しているとも言える。

このことからも、自分で見つけたものよりも人からすすめられたもののほうがハードルが高いと感じるのは、わがままでも閉鎖的でもなく、ごく自然な感覚ではないだろうか。
これがまず最初の関門となる。

「楽しい選択」が「義務」になる

次に、二つ目の関門。
おすすめされることで生まれる「暗黙の義務感」だ。
本来、コンテンツの摂取とは「好きなものを増やすための選択」のはずなのに、だれかに提示された時点で「すすめられたから確かめないといけない」というタスクになってしまう。

先ほどのスープの話でたとえるなら、「その味付けならこの食材もおすすめだよ」と食べたことのないものを渡されるようなもの。
自分のスープのことは自分が一番わかっている。それを上辺だけの理解で判断されることへの拒否感というのも、場合によってはある。
しかしそれ以上に、自分の舌に合うかどうかわからないものを、確認のために味見してみないといけないという状況を他人に作られるというのがどうにも苦手なのだ。

 

自分の好きそうなものならまだ気分も乗るかもしれない。しかし、見た目からして好みじゃなさそうなものを「一口だけでも」と差し出されると、それだけで億劫になってしまう。
そのときの気分によっては「まあ、ちょっと食べてみるか」と思うこともある。一方で、自分で見つけてきたものすら「今じゃない」と判断して、しばらく寝かせることもある。

なんでも食べてみることが苦ではない人からしたら、「食べてみればいいだけじゃないか」と思うかもしれない。しかし、すでに自分がおいしいと思う味付けで満足しているとき、あるいはそもそも味付けで冒険する習慣があまりない人にとって、「新しい味を試してみる」というのは想像以上にエネルギーを要するのだ。

無理やり口に突っ込まれることも

人が何かをおすすめするとき、そこにあるのはもちろん純粋な善意の場合もあるが、「自分の好きなものを認めてほしい」という一種のエゴイズムの場合もままある。一番厄介なのは、それが暴走したときだ。

すすめられたものを実際に覗いてみて「あまり好きじゃない」と伝えても、さらに強くおすすめされることがある。好きなポイントを延々と語られたり、「こっちなら好きかも」と別の切り口を提示されたりする。

こちらはコンテンツそのものを否定しているのではなく、自分には合わないと言っているだけなのに、相手は「まだ魅力が伝わってない」「もっと説明すればわかるはず」という思考になってしまう。私の「NO」を意見ではなく未完了のタスクとして扱った結果、永遠に終わらないプレゼンが始まる。

私はお世辞が言えないし嘘もつけない性質のため、話題を終わらせるために思ってもいない「いいね」は言えない。そうすると、「わかってもらえない=説明が足りない」と判断されてしまう。

これは、一口味見して「私のスープには合わない」と言っているのに、「味見が足りないかも」「この部分なら絶対おいしいから」と、無理やり口に突っ込まれるような感覚に近い。それは自分の正しさを証明したいフェーズに入っていて、もはや善意とは言えない。自分の好きを見てほしい、認めてほしいというだけの承認欲求にほかならない。

「おすすめする」ことへのスタンス

ここまで書いて、改めて気づいたことがある。
私はそもそも、「人と好きなものを共有したい」という欲がかなり薄い。

本や漫画を読んだりアニメや映画を観たりすることなども基本的に一人でやるし、展覧会もライブも一人で行く。感想をその場で共有したいとも思わないし、誰かに「この良さを伝えたい・理解してほしい」と思ったこともあまりない。
私には私の好きがあって、人には人の好きがある。それぞれが干渉せずに、それぞれの場所で楽しんでいればいい、という感覚が根底にある。

この思考は、「おすすめ」という行為へのスタンスにも直結している。

私はそもそも、自分がいいと思ったものが他の人にもそのまま当てはまるとは思っていない。むしろ、当てはまらない可能性のほうが高いと思っている。だから自分から積極的に何かをおすすめすることはほとんどないし、聞かれたときも「合わなかったらごめん」と断ったうえで話す。

そしておすすめするときは、「気に入るかわからないけど私はここがいいと思った」「でもこの部分は好みが分かれると思う」「あなたならこの要素は楽しめるかも」というように、できるだけ多面的に情報を渡す。判断するのは相手であって、私ではないからだ。
これはネガティブに聞こえるかもしれないが、「自分のおすすめを相手が気に入ってくれる自信がない」とも言えるかもしれない。

一方で、「これすごくいいから見て」「絶対好きだと思う」と強く言い切るすすめ方には、「相手は気に入らないかもしれない」という可能性が含まれていない。「相手が絶対に気に入ってくれる」という自信を感じるその物言いは、ある意味清々しくも思える。

しかしこのタイプのおすすめは、もし実際に味見してみて微妙だった場合、感想を正直に言いづらいという問題がある。
「すごくいい」と断言されている手前、「私は合わなかった」と言うと、相手の感性や熱量を否定してしまうような気がする。最初から「合うかどうかわからないけど」という余白が用意されていればどんな感想でも言えるのに、それがないと一気にハードルが上がる。

これは、「おすすめのしかたのちがい」というより、「好きの扱い方のちがい」なのかもしれない。私は、好きなものをとても個人的で閉じたものだと思っている。一方で、好きなものを共有し、共感されることで成立する人もいる。
どちらが正しいという話ではない。
ただ、私は「私が好きだったらそれでいい」というタイプで、その前提に立っているからこそ、「相手も絶対気に入るはず」という自信を持てないし、持ちたいとも思わない。

味見をしない自由

コンテンツを摂取することは、自分の価値観の中に新しい要素を追加するということ。それは当然、すでに持っている価値観と相互に作用しながら混ざり合っていく。
それまでの経験や思考などたくさんの要素が絡み合い、どこか少しでも変わると受け取り方も微妙に変わっていく。だからこそ内容だけでなく、取り込むタイミングも重要になる。
自分の中で消化が進んで余白ができ、受け取れる状態になったときがベストなタイミングだ。

自分のための自分だけのスープに、自分自身がポイポイと材料を入れていくのは問題ない。失敗しても、それは自分の選択であり、その過程も価値観の一部になるから。

しかし、人から差し出されたものを入れるかどうかは自分で判断したい。ときには味見すらせずに入れないと決めるかもしれないし、味見をした上で入れないかもしれない。すすめられたけれど入れずにいたものでも、あとから自分で見つけて味見してみたら、やっぱり入れたくなるかもしれない。
料理でも「前に入れた食材が馴染んできたからそろそろこれを入れよう」ということがあるように、タイミングは意外と重要な要素なのである。

私のスープは私のもの、人のスープは人のもの

私の価値観は、生まれてからずっと自分で育ててきたものだ。自分で選び、自分で咀嚼し、自分の速度で積み重ねてきた感覚や美学。これらすべてが価値観の一部になる。
大切に育てている価値観に対して外から強引に押し付けられると、自分の内側を雑に扱われていると感じてしまう。

たまたま見つけた調味料や気になっていた食材、今の気分に合いそうなものを少しずつ足して、少しずつ調整してきたこのスープは、私のための私だけのスープ。
自分で選んで入れるのはいいし、それで失敗しても納得できる。合わなかったら次に活かすこともできるし、その過程自体も舌を肥やすことにつながる。
でも、押し負けて仕方なく入れた食材で、大切に育ててきたスープが濁ってしまうことがどうしても受け入れ難い。味の問題よりも、価値観の主導権を奪われた感覚が残るのだ。

 

「これを入れたら最高だった」というのはその人のスープの話であって、それまでに入れたもの、味付け、火加減、火にかけてきた時間がちがうなら、同じ結果になるとは限らない。
だから本来は、「私のスープにはいらない」と言われたら「そっか、残念」で終わる話なのだ。そこからさらに踏み込んで押し付けようとするのは、他人のスープを濁そうとする行為に思えてならない。

それぞれのスープを尊重するべし

価値観というのは人それぞれで、人に押し付けるものではない。
自分の価値観は自分のもの、人の価値観は人のもの。提案は自由だが、判断は尊重されるべきである。

そして、提案されること自体が苦手な人がいるということも覚えておいてほしい。私自身も、自分がこのような感覚を持っているからこそ、いいと思ったものを無闇に人にすすめることはしない。

 

おすすめされるのが苦手なのは、排他的だからでも冷たいからでもない。自分の舌を信じて、自分の味を大事にしているだけ。
本当にいいと思ったのなら、それを自分の鍋の中で大切に煮込んでいけばいい。
人の価値観(スープ)、ひいては自分の価値観(スープ)を大切にしてほしいと思う。


🗒️noteにもあります

 

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