大学病院シャリテでのメラノーマの診断①
月曜に朝一で行ったのに、シャリテは改装中で、以前の皮膚科に行って待ち、夫がプライベートの健康保険に入っているとわかると、向かいの新築の建物に行ってくれと言われる。何と複雑なんだ。どこにもそんな掲示はなかったのに、ただ、ちょうど5月から6月にかけて引っ越し中だとホームページにも書いてあった。
急患は10時までに受け付けないといけないが、まず近所の皮膚科医院に行って診断書を取り、大学病院の皮膚科に行ってから旧受付で待たされ、新築建物に来たのはもう9時半を回っていた。今日は無理と断られてしまった。粘ったのだが、明日来てくれれば、名前を控えておくから必ず診てもらえますと言われ、次の朝出直した。
次の日、緊張した面持ちで再び九時前に到着。
プライベートの保険患者というのはこうも待遇が違うのかと思うほど、待合室もきれいでこじんまりとし、待ち時間も1時間も待たずに済んだ。これが一般の健康保険患者なら2~5時間待ちである。
残念ながら、メラノーマの治療で有名な教授には当たらなかったが、若いOberarztが担当だった。
皮膚科医院の診断書を見てまず第一声が、’「メラノーマというのは非常に悪質な癌です。それはご存じですね。」と言われた。
初の顔合わせでそんなこと言うものか?
知っていますと答え、とにかく拡大切除するので、手術日を電話して聞いてくれた。
手術日は6週間後より前には取れないが、通常メラノーマの手術日の最大待ち時間は6週間なので、まだその期間以内であると言われた。
そんなもんか。
どんどん時間がたって、どんどん進行するのではという不安をぶつけたが、拡大手術の前にまず腫瘍だけでも完全に切除しますと言われ、その手術は1週間後ぐらいに調整してもらうことができた。
その時、手術までに必要な検査の段取りと、手術の切除方法、センチネルリンパ節の生検方法を説明してもらった。
そしてこちらがまとめた質問もぶつけ、殆どに答えてもらって、30分以上は時間を取ってもらったと思うが、何しろ生気に欠けた医者で、何とも不発弾を投げまくったような手ごたえであった。
ちなみに、近所の皮膚科で行った生検の所見は以下の通り。
V. a. Melanom = Verdacht auf Melanom = 悪性黒色腫の疑い
BWS re = Brustwirbelsäule rechts = 胸椎 右
大文字で"Kritischer Befund" = 重大な所見と書いてあった。

さらに、以下が所見のドイツ語原文と訳文。
ドイツ語の所見をもらって、よくわからないという方は、Google翻訳ソフトなどを使っても十分わかると思います。
太字部分は、悪性度、予後に関わる項目です。
Mikroskopie
teils exophytisch vorgewölptes Epithel. Minimale epitheliale Beteiligung von Melanozyten. Hier teils einzelnen liegende Melanozyten. Teils zu Nestern aggregiert. Der überwiegende Anteil der Läsion liegt zu knotigen, großen Aggregaten im Zentrum vereint. Inhomogene Pigmentierung. Deutliche Kern- und Zellpleomorphie. Deutliche Atypien. Keine Lymphozytäre Entzündungsreaktion. Bereits lichtmikroskopisch lassen sich atypische Mitosefiguren erkennen.
顕微鏡的所見
部分的に外向きに隆起した上皮。メラノサイトによる最小限の上皮浸潤が見られる。メラノサイトは部分的に個々に存在している箇所もあり、部分的には巣状に集合している。病変の大部分は、結節状の大きな集合体として中央に集中している。不均一な色素沈着が見られる。顕著な核および細胞の多形性が確認される。顕著な異型性も認められる。リンパ球性の炎症反応は見られない。光学顕微鏡レベルで既に異常な分裂像(有糸分裂像)が認められる。
Immunhistochemie
Kräftige und durchgängige Anfärbung für Melan-A und HMB45. Die Proliferationsrate (MIB-1) ist erheblich erhöht (fokal bis zu 70%).
免疫組織化学
Melan-AおよびHMB45に対して強く一貫した染色が認められる。増殖率(MIB-1)は著しく上昇しており、局所的には最大70%に達している。
Diagnose
knotiges malignes Melanom; Clark-Level IV; maximaler vertikaler Tumordurchmesser: 2,8 mm; (ICD-O: M8720/3); keine Ulzeration; 3 Mitosen/mm2.
pTNM-Klassifikation: pT3a Nx Mx; zur Tiefe in toto exzidiert. in 2 Randschnitten waren noch Anteile des Tumors nachweisbar. Eine Nachexzision, sowie weiterführende diagnostische Maßnahmen werden empfohlen.
これだけで、背筋が縮み上がるような所見だが、日本の診断は、ここまで詳細に書いてあるのだろうか。むしろ、こんなに知ってしまったら、不安感が高まるという気もするけど。
メラノーマ疑惑・診断結果が明かされる!
2024年6月7日の金曜日、仕事前に健康診断に行った夫は夜帰宅した。
大したことはないだろうと、さほど心配もせずにどうだった?と訊くと、夫は「それがね、変な黒子があるようで、これは怪しいのですぐに皮膚科に行くように言われたよ。メラノーマかもしれないって。血種かもしれないが確認してもらえって。」
それを聞いて、私は血の気が引いた。これこそ、私がその日のその夜まで忘れていた黒子だったのだ。ハンブルクで見た、あの不気味な黒い塊。
内科の先生は、写真を撮って夫に見せたそうで、それを見た夫はかなりショックを受けたようだ。私の心に、あの1センチもあろうかと思われる黒子が甦ってくる。こげ茶色をしており、赤毛でそばかすの多い夫の黒子は、殆どがピンクかベージュ色であるため、この褐色はどう見ても異常だった。それをハンブルクですでに知っていたのに…。
私はすぐにPCを開いて、私の知っている皮膚科にオンラインで月曜日一番に予約を取った。
月曜日、皮膚科の先生も見るなり眉間にしわを寄せたようで、デルマスコピーを持ち出すこともなく即切除し生検に出した。1週間後に結果を聞きに電話してくださいと。
無口な夫はそれ以上質問することもなく帰宅し、私たちはここから不安な日々を過ごした。私はすでに心の中で覚悟が決まっていた。希望というのはいつも存在している。しかし、この時ばかりは、素人の私にでさえ、あの黒子が無害であるとは思えなかったのだ。だからこそ、なぜ、私の心はこの一か月、あの黒子のことを「忘れ去って」いたのか、甚だ疑問で、これは見たくない、聞きたくない、知りたくないという本能的な無意識によって、葬り去られたとしか思えない。
おそらく癌だろう。ネットで検索ヒットする情報は、気を失うほどひどいものだった。予後は最悪で、ステージ3なら5年生きる人は30%に満たないとか、厚みが4㎜以上であれば、予後がガタ落ちするとか。
これについて後日書くが、不安だからこそネットで検索し、病気を理解し、正しい知識を身に着けようとするのだが、検索の基本的なノウハウをわかっていないと、とんでもない情報に翻弄されることになってしまう。
運命の日、6月13日の木曜日、夫は早めに帰宅して、私たちは庭師がリフォームしてくれている庭に出て、庭計画について話していた。そこに、突然夫の携帯が鳴り、皮膚科医から電話が入ったのだ。すでにスピーカー越しに「残念ながら」という声が聞こえた。私は一気に現実を理解し、首をもたげて夫が会話を終えるのを待った。彼の声はしっかりしていた。「やっぱり、癌だそうだ。」
癌という言葉を、誰か他の人が口にするのを聞いて、私は初めてことの重さを自分の身体に実感することができた。「でも大丈夫。早く見つかったんだもの、絶対に大丈夫」そう夫を抱擁し、彼の体温を感じた瞬間、やはり涙が流れてきてしまった。「癌」という言葉は、やはり未だに「死」と直結している。癌は、一生付きまとう病である。
夫も静かに涙を流した。「大丈夫よ」、「大丈夫さ」。大丈夫という根拠のない言葉。ドイツ語では何と言ったのだったろうか。Es wird schon. だったのか、Wir schaffen es. だったのか…。どちらにしても、OB ES WIRD(大丈夫なのか) または OB WIR ES SCHAFFEN(乗り越えられるのか)は、それは全く不確実な未来だった。しかし、そう自分たちに言うことしかできない。
なぜならば、癌を宣告された人には、この2つの文言を信じるしか他に選択肢はないのだ。
私はまずすぐにドイツで最も有名で優秀とされている大学病院「Charité」の皮膚科ホームページに行った。即時型のショック性アレルギーを持っている私は、アレルギー検査などで、何度か足を運んでいたのだ。「明日一番で電話して、外来ですぐに診てもらわなければ」、それしか頭になかった。
そこで、癌の診断は、Notfallつまり急患とみなされるため、予約なしで外来に来ても良いというテキストを見つけた。
「明日の朝一で、シャリテに行きましょう」
「そうだね、朝一で皮膚科に行き、診断書をもらってくる。それを持ってすぐに行こう。」
夫はしっかりしていたものの、やはりショック下にあったに違いない。私がイニシアチブをとらなければ、そのままそこに座っていたのではないかと思われる。
本人が診断を消化するのは私よりももっと大変だ。ここは、私がしっかりしなければ。それしか考えていなかった。
不気味な黒子:忘却から始まった衝撃の真実
2023年10月の誕生日、私は夫からハンブルク旅行をプレゼントしてもらった。その頃、トーマス・マンのブッテンブローク家を夢中で読み終えて、その物語に傾倒していた私を見た夫は、私が何度も「今になって北ドイツの魅力を発見している」というのを聞いて、きっと喜ばせようと思ってくれたに違いない。
年明けにはリューベックを訪れ、架空の物語の一族の歴史をまるで実話のような感覚で頭の中に再現して歩きまわった。実際、マン一族の歴史でもあるわけだが、南ドイツやドイツ国境のスイスに長く住んでいた私にとって、在独・在欧30年を過ぎた今、トーマス・マンの物語を精読することで、北ドイツ、そして北ドイツ人というものを理解し始め、一件冷たく理性的な印象を受ける人々に、少しずつ魅力を感じるようになっていた。
そんな背景から、私はこのハンブルク旅行を何よりも楽しみにしていたのだ。
いつもは自動車なのに、今回ばかりは町中をくまなく練り歩くために、久しぶりに二人で電車に乗った。ベルリンからハンブルクまでは、人気のないブランデンブルク州とメックレンブルク・フォアポメルン州の僻地を通り過ぎる。羊や牛、馬が野原で草を食べる姿が繰り返し見届けられる、素晴らしく牧歌的な景色だった。
5月とは思えない快晴に恵まれ、その週末はハンブルク港の祭りでもあった。留学して間もなく、ハノーバーに住んでいた兄宅に身を寄せた私は、彼のパスポート更新でハンブルクに同伴した。市庁舎前のアーチの中で、兄の趣味である模型店に入り、その後カフェで名物のRote Grützeというベリーのデザートを食べた。そういえばもう35年も前の話だ。
それ以来、ハンブルクを訪れたことのなかった私は、この日々を大変楽しんだ。
が、
朝、シャワーを浴びようと起きると、上半身裸で寝ていた夫の背中に、異様に黒く大きい黒子のようなものを見つけてしまった。一瞬血の気が引き、これは尋常じゃない…と冷や汗が出た。しかし、無意識というのは恐ろしいもので、本能的な恐怖心とプレゼントしてもらった週末を台無しにしたくない、素晴らしい思い出作りに水を差したくないという意識が、後で彼に知らせなければと誓っただけで、その心配を心の奥へと葬ってしまったのだ。
残念ながら、私は旅行後も見事にこの黒子のことを忘れ続けた。ハンブルクの週末旅行以後、すぐに風邪を引いた夫は、1週間経っても体調が思うように回復しない、免疫がおかしいのかもしれないと、人生で2度目(夫は不幸にも健康診断に無頓着なのだった)のチェックアップの予約を入れた。しかも、自分のかかりつけ医すら持っていなかったので、私の内科医を紹介した。
風邪の回復と仕事の忙しさから、健康診断は6月4日に予約が取れた。
私は、なんと、一か月もの間、夫に黒子のことを伝えていなかった!!あれだけ血の気が引いたのに、私の記憶からまったく葬り去られていたのである!何という失態であろうか!!!!
術後二週間
術後、二週間が経過した。
クリスマスは子供たちに囲まれ、幸せなひと時を過ごすことができた。
しかし24日にしゃべりすぎたせいか、25日、26日は思うように声が出ない。改善というより、むしろ悪化してしまった。
声に関しては、術後一日目は殆どひそひそ声に近く、声を出しても直ぐに吐息となってしまい、話すことが非常に苦しかった。
二日目少し良くなったと思ったものの、やっと声が出たという程度で、長い会話はできない。退院の日である三日目になり、医師が回診に来た際にも、息切れして自分の病状を語るのに非常に苦労した。
それでも、低音のCから毎日一音ずつ上に向かって声が出るようになっていると感じることができた。しかしそれが一週間ほどすると停滞してしまい、それ以来改善を感じられない。声に関しては、全く抑揚が付けられず、肉屋やパン屋でカウンター越しに聞こえる声を出せないのだということを実感した。これにより欲求不満がたまり、最近は不安まで高まってしまっている。いつになったら、1オクターブだせるゆになるのだろうか。いつになったら、声が嗄れずにすむのだろうか。
特に24日は子供達もきたせいもあり、少々話し過ぎてしまい、25日は喉がずっと熱く、若干炎症しているような感覚が残っていた。
それ以外、レボチロキシンに関しては、まったく服用していることを体感できない。おそらく、ちょうどいい容量なのではないかと思っている。2週間と言えば、手術前に自分で分泌したホルモンはもうとっくに半減し、殆ど体内に残っていないはずである。それを補っているのは飲んでいる錠剤125㎍である。
今思えば、手術日の晩と16日に、激しい片頭痛に襲われ、最初の頃は若干頭痛を感じることがあった。手術日の晩を除けば、もしかするとそれが薬を飲み始めたことに関係しているのかもしれない。
21日より仕事も再開し、体調は良好である。術後10日ほどは息切れがひどく、階段を上っただけで目の前がオレンジ色になり、息切れと貧血状態で、座り込んでしまうことが多々あった。それも少しは改善されてきている。
残るは、なんとか声が回復してくれればと思う。泣いても低い声が嗚咽のように出るだけで、普通の声は出ない。笑い声も声にならず、とっさに大きな声で人を呼び止めることもできない。さらには電話でも親しみ深い表現ができず、すべてワントーンで話しているだけである。歌を口ずさむどころの話でなく、このことから頭が離れないが、色々と調べても、3か月という期間が要のようで、それぐらいたつと突然回復するという情報が多い。とにかく声帯の麻痺はない。そのように言われた。傷口がまだ腫れているので、つまりその裏にある筋肉も炎症を起こしているということである。甲状腺の在った部分の筋肉は切断された後再び縫合されているわけで、その裏にある輪状筋肉がうまく機能せず、高音が出ないのだろうかと素人ながら想像している。
もう少し気長に待つしかないようである。
2週間後の傷痕

術後6日目 病院で生体検査 夜の外出
この日は、午前中再び病院に行く。血液検査と声帯検査である。
散々待たされた挙句、やっと採血に呼ばれた。その後耳鼻科に移動して、声帯検査を受ける。まだ気道に粘液が多いけれど、術後は普通とのこと。二つの声帯両方とも、通常通り振動しているので問題なしと。
声が出にくいと訴えると、スプレー麻酔をしてもう一度マイクロスコープで診るとのこと。このスプレー麻酔が何とも不快で、つばも飲み込めないのではないか、息すらできなくなるのではないかと不安になる。
女医曰く、変化な感じがするだけで、決して何も起こらないので、10分ぐらい大丈夫だから我慢してとのこと。
麻酔をしたというのに、ミクロスコープが入ると、やはりろくに息もできず、すぐにおえっとなってしまう不快な検査である。
しかし声帯が麻痺している兆候は見られないので、3週間は辛抱して様子を見ろと言われた。その際、声を休める必要はなく、どんどん使った方が良いということ。
採血の検査室に戻っても、もう一度待合室に行けと言われる。この日はなかなか混んでいた。待合室で同室だった人に会う。方葉は悪性だったので、急遽もう一つの甲状腺も切除して検査待ちだったが、病理の結果良性だったとのこと。良かったですねとちょっとおしゃべりして別れた。彼女とは入院当初より、どちらにせよ声が出にくくなるので、余りおしゃべりはしないように控えていた。
間もなく外科医の下に呼ばれたが、やはり執刀医ではなく、別の女医(Assistenzarztin)であった。
血液検査でもカルシウム欠乏は改善したので、ビタミンDとL-Thyroxinを服用すればよいとのこと。さらに病理の結果ではすべて良性だったということで、やはりホッとする。なにせ20個近く腫瘍があり、限りなく悪性である可能性が高いということで全摘出となったので、覚悟はしていたが、結果は良好で、何か逆に欲求がたまってしまった。それなら健康だったのに、なんで全摘までして一生薬を飲む羽目になったのかしら…。とても悲しくなってしまった。しかし前を見るしかない。いつも検査に行っては大きくなった、数が増えたとストレスだったことを思えば、甲状腺のがんになることは一応なくなったのだと考えなくてはならない。
やっと病院を出た。冬の空気が身もち良かった。小銭がなければ駐車場から出られない。1ユーロだけ足りなかった。頭にきたが敷地外のキオスクで甘いものを買いお札を崩し、車庫を出る。その前に父に電話を入れた。「あんな生き方をしてきたから、お前はガンにでもなるんじゃないか」と心配していたので、安心させたかった。
連れにも連絡し、とりあえずこの話は全て終わったのだという、小さいけれど確実な解放感が沸々と心の中から湧いてきた。
帰宅後、待ち時間で疲れ切ったのでずっと休む。
夜はフィルハーモニーの定期演奏会だったのでタクシーで外出してみた。少しだけアルコールも飲んでみた。しかしプログラムはペレアスとメリザンドというオペラで、とても全曲聞く体力がない。頭痛が出てきたので、迷った挙句後半帰ってきた。直ぐに寝入ってしまった。
6日目の傷痕
傷下の二か所はチューブ痕。
その下の3点は器具を引っ掛けた痕。

術後5日目 ホームドクター受診
病院からもらった薬は5日分しかなかったことと、他の痛み止めが欲しかったので、早速ホームドクターを受診した。
手術が終わったことを知らせ、傷口を見てもらったが、非常にきれいということ。
L-Thyroxinが125マイクログラム処方されていることを知り、随分多いわね、と言っていたが、私自身の身体に不快な変化は起こっていない。
2月に核医学の主治医を訪ねるが、4週間後の一月に血液検査することになった。
色々説明するにも声が出ないので、本当に情けなくなる。
一生懸命発声しながら、一瞬涙ぐんでしまった。気丈なのが自慢であるが、やはり身体が弱っているとなかなか心とのギャップで精神的にも辛いのかもしれない。
近所なので車を運転していったが、車庫入れ出しの際に首が回らず苦労する。さらにやはり運転していても、頭も視力も明晰というわけにはいかず、まだまだ身体が疲労除隊であると実感。
帰宅後、やはり寝てしまう。何か一つ行動を取るとその後は知らない間に寝入ってしまう。
術後4日目
朝、やはり早くから目が覚めてしまう。気分は悪くないが辛い。インターネットをして身体を休める。
午後は、余ったリンゴを腐らせてはいけないと、一生懸命リンゴとのタルトを焼いた。またそれで疲労。その後はベッドで休んだ。痛みはすでに感じない。
声は下のドから次のソまでしか出ない。5度だけという非常に狭い音域。