真の古典の魅力は、作者が紡いだ原文の中にこそ息づいています。「古文で読みたい徒然草シリーズ」で、現代語と古文を併読することで、古の言葉が今なお放つ光を確かめてください。
💭ポイント
筆者自身の7つの自慢話。論語の出典指摘、書の鑑定、漢詩の誤り指摘など、その博識ぶりと鋭い観察眼を披露する。

『徒然草絵抄』(小泉吉永所蔵) 出典: 国書データベース
🌙現代語対訳
護衛官の近友という人が自慢話だとして、七項目を書き留めたものがありました。
御随身近友が自讃とて、七箇条書き留めたることあり。
どれも馬術のことで、どうということもない事柄です。
みな馬芸、させることなきことどもなり。
その例を思い出して、私にも自慢したいことが七つあります。
そのためしを思ひて、自讃のこと、七つあり。
①一つ。大勢の人を連れて、花見に歩いていた時、最勝光院のあたりで、
一、人あまた連れて、花見歩きしに、最勝光院の辺にて、
ある男が、馬を走らせているのを見て、
をのこの、馬を走らしむるを見て、
「もう一度馬を走らせたら、馬が倒れて落ちるだろう。
「今一度馬を馳するものならば、馬倒れて落つべし。
しばらく見ていなさい」と立ち止まっていると、また馬を走らせました。
しばし見給へ」とて、立ち止まりたるに、また馬を馳す。
止めようとした所で、馬は倒れ、乗り手は、泥の中に転げ落ちました。
とどむる所にて、馬を引き倒して、乗る人、泥土の中に転び入る。
私の言葉が間違わなかったことに、人々は、感心しました。
その言葉の誤らざることを、人、みな感ず。

『徒然草絵抄』(小泉吉永所蔵) 出典: 国書データベース
②一つ。当代の天皇が、まだ皇太子でいらっしゃった頃、万里小路の館にお住まいでした。
一、当代、いまだ坊におはしまししころ、万里小路殿御所なりしに、
堀川大納言様が、仕えていた控室へ、用事があって参上しました。
堀川大納言殿、伺候し給ひし御曹司へ、用ありて参りたりしに、
論語の四、五、六の巻を広げて、
論語の四・五・六の巻をくり広げ給ひて、
「今、御所で『紫が朱を奪うことを憎む』
「ただ今、御所にて、『紫の朱うばふことを悪む』
という文をご覧になりたいとのことで、
といふ文を御覧ぜられたきことありて、
探しているが見つからないのだ。
御本を御覧ずれども、御覧じ出だされぬなり。
『もっとよく探せ』とのお言葉で探している」
『なほよく引き見よ』と仰せごとにて、求むるなり」
とおっしゃるので、
と仰せらるるに、
「それは九の巻の、そのあたりにございます」と申し上げたところ、
「九の巻の、そこそこのほどに侍る」と申したりしかば、
「おお、ありがたい」と言って、持って行かれました。
「あなうれし」とて、持て参らせ給ひき。
これくらいのことは、子供でも知っていますが、昔の人は
かほどのことは、児どもも常のことなれど、昔の人は、
些細なことも自慢げに書いたものです。
いささかのことをも、いみじく自讃したるなり。
後鳥羽院が歌のことで、
後鳥羽院の御歌に、
「袖と袂を、一首の中に使うのは良くないか」
「袖と袂と、一首のうちに悪しかりなんや」
と定家卿にお尋ねになった時、
と定家卿に尋ね仰せられたるに、
「秋の野の草の袂か花すすき 穂に出て招く袖と見ゆらん」
『秋の野の草のたもとか花すすき穂に出でて招く袖と見ゆらん』
という古歌もございますので。何の問題がありましょうかと申し上げたことも、
と侍れば。何事か候ふべきと申されたることも、
「とっさに、古歌を思い出したのは、歌の道の御加護、幸運だ」
「時に当たりて。本歌を覚悟す。道の冥加なり。高運なり」
などと、大げさに書き残しておられます。
など、ことことしく記し置かれ侍るなり。
九条伊通公の自薦状にも、
九条相国伊通公の款状にも、
たいしたことない項目を記載して、自慢しておられます。
ことなることなき題目をも書き載せて、自讃せられたり。

『徒然草絵抄』(小泉吉永所蔵) 出典: 国書データベース
③一つ。常在光院の鐘の銘は、在兼卿の下書きでした。
一、常在光院の撞き鐘の銘は、在兼卿の草なり。
行房朝臣が清書し、鋳型に移そうとしていた時、
行房朝臣清書して、鋳型に移させんとせしに、
責任者の入道が下書きを取り出して私に見せましたが、
奉行の入道、かの草を取り出でて見せ侍りしに、
「花の外に夕べを送れば、声は百里に聞こゆ」という句がありました。
「花の外に夕を送れば、声百里に聞こゆ」といふ句あり。
「陽韻・唐韻と見えるので、百里は誤りでは」と申し上げたところ、
「陽唐の韻と見ゆるに、百里誤りか」と申したりしを、
「お見せしてよかった。私の手柄になります」と言って、
「よくぞ見せ奉りける。おのれが高名なり」とて、
清書者のもとへ連絡させると、
筆者のもとへ言ひやりたるに、
「間違っていました。『数行』と直してください」と返事がありました。
「誤り侍りけり。数行と直さるべし」と返事侍りき。
「数行」もどういう意味か。もしかしたら数歩の意か。
数行もいかなるべきにか。もし数歩の心か。
はっきりしない。「数行」も疑わしい。「数」は四、五のことだ。
おぼつかなし。数行なほ不審。数は四・五なり。
鐘の音が四、五歩では、近すぎる。ただ遠くまで聞こえるという意だろう。
鐘四五歩、幾くならざるなり。ただ遠く聞こゆる心なり。

『徒然草絵抄』(小泉吉永所蔵) 出典: 国書データベース
④一つ。大勢で比叡山の三塔(東塔、西塔、横川)を巡礼した時、
一、人あまたともなひて、三塔巡礼のこと侍りしに、
横川の常行堂に龍華院と書かれた古い額がありました。
横川の常行堂のうち、龍華院と書ける古き額あり。
「藤原佐理か藤原行成の書か議論があり、未決着と伝わっています」
「佐理・行成のあひだ疑ひありて、いまだ決せずと申し伝へたり」
とお堂の僧は、もったいぶって申しました。
と、堂僧、ことごとしく申し侍りしを、
「行成なら裏書があるはず、佐理なら無いはずだ」
「行成ならば裏書あるべし。佐理ならば裏書あるべからず」
と言いました。
と言ひたりしに、
裏は塵がつもって、虫の巣で汚らしくなっているのを、
裏は塵積もり、虫の巣にていぶせげなるを、
よく掃除して拭いて、皆で見たところ、
よく掃きのごひて、おのおの見侍りしに、
行成の官位・名字・年号が、はっきりと書かれていました。
行成の位署・名字・年号、さだかに見え侍りしかば、
人々は皆、感心しました。
人、みな興に入る。

『徒然草絵抄』(小泉吉永所蔵) 出典: 国書データベース
⑤一つ。那蘭陀寺で、道眼聖が、説法をしていた時、八災が何だったか忘れて、
一、那蘭陀寺にて、道眼聖、談議せしに、八災といふことを忘れて、
「ご存知の方はおられませんか」と尋ねましたが、弟子たちは誰も覚えていませんでした。
「これや覚え給ふ」と言ひしを、所化みなおぼえざりしに、
私が部屋の中から、「これこれではありませんか」と申し上げたところ、たいそう感心しておられました。
局の内より、「これこれにや」と言ひ出したれば、いみじく感じ侍りき。

『徒然草絵抄』(小泉吉永所蔵) 出典: 国書データベース
⑥一つ。賢助僧正のお供で加持香水(香料を混ぜた水を清める儀式)を見に行った時、
一、賢助僧正にともなひて、加持香水を見侍りしに、
まだ終わらないうちに、僧正が退出されました。
いまだ果てぬほどに、僧正帰りて侍りしに、
会場の外にも僧都の姿が見えません。法師たちを戻して、探させましたが、
陣の外まで僧都見えず。法師どもを返して、求めさするに、
「同じ格好の僧侶が多くて見つけられません」と言って、
「同じさまなる大衆多くて、え求めあはず」と言ひて、
ずいぶん時間が経ってから出てきました。
いと久しくて出でたりしを、
僧正が「困ったことだ。そなた、探してきなさい」と私に言われたので、
「あなわびし。それ、求めておはせよ」と言はれしに、
戻って入って、すぐに連れて出ることができました。
帰り入りて、やがて具して出でぬ。

『徒然草絵抄』(小泉吉永所蔵) 出典: 国書データベース
⑦一つ。二月十五日の月が明るい夜、更けてから
一、二月十五日、月明かき夜、うち更けて、
千本の釈迦堂に参詣し、後ろから入って、
千本の寺に詣でて、後ろより入りて、
ひとりで、顔を隠して、説法を聞いていました。
一人、顔深く隠して、聴聞し侍りしに、
優美な女性で、姿・雰囲気が、並ではない人が、
優なる女の、姿・匂ひ、人よりことなるが、
分け入ってきて、膝に寄り掛かったので、
分け入りて膝にゐかかれば、
香りが移りそうなので、「都合が悪い」と思い、
匂ひなども移るばかりなれば、「便悪し」と思ひて、
すり抜けましたが、それでもすり寄ってきて、同じ様子なので、
すりのきたるに、なほゐ寄りて、同じさまなれば、
席を立ちました。
立ちぬ。
後日、あるお方の古参の女房が、
その後、ある御所さまの古き女房の、
雑談のついでに、
そぞろごと言はれしついでに、
『ひどく無粋な方でいらしゃいました。
『無下に色なき人におはしけりと、
つれないお方だ』
見おとし奉ることなんありし。情けなし』
と恨んでおられる方がいますよと、おっしゃいました。
と恨み奉る人なんあると、のたまひ出だしたるに、
「全く心当たりがございません」と言っておわりました。
「さらにこそ心得侍らね」と申してやみぬ。

『徒然草絵抄』(小泉吉永所蔵) 出典: 国書データベース
後で聞いた話では、あの説法の夜、
このこと後に聞き侍りしは、かの聴聞の夜、
部屋の中から、高貴な方が私をご覧になっており、
御局の内より、人の御覧じ知りて、
女房を美しく着飾らせてお出しになって、
さぶらふ女房を作り立てて出し給ひて、
「うまくいけば、言葉でもかけなさい。
「便よくは、言葉などかけんものぞ。
その様子を報告せよ。面白かろう」
そのありさま、参りて申せ。興あらん」
と言って、計略されたということです。
とて、謀り給ひけるとぞ。
📚古文全文
御随身近友が自讃とて、七箇条書き留めたることあり。みな馬芸、させることなきことどもなり。そのためしを思ひて、自讃のこと、七つあり。
一、人あまた連れて、花見歩きしに、最勝光院の辺にて、をのこの、馬を走らしむるを見て、「今一度馬を馳するものならば、馬倒れて落つべし。しばし見給へ」とて、立ち止まりたるに、また馬を馳す。とどむる所にて、馬を引き倒して、乗る人、泥土の中に転び入る。その言葉の誤らざることを、人、みな感ず。
一、当代、いまだ坊におはしまししころ、万里小路殿御所なりしに、堀川大納言殿、伺候し給ひし御曹司へ、用ありて参りたりしに、論語の四・五・六の巻をくり広げ給ひて、「ただ今、御所にて、『紫の朱うばふことを悪む』といふ文を御覧ぜられたきことありて、御本を御覧ずれども、御覧じ出だされぬなり。『なほよく引き見よ』と仰せごとにて、求むるなり」と仰せらるるに、「九の巻の、そこそこのほどに侍る」と申したりしかば、「あなうれし」とて、持て参らせ給ひき。かほどのことは、児どもも常のことなれど、昔の人は、いささかのことをも、いみじく自讃したるなり。後鳥羽院の御歌に、「袖と袂と、一首のうちに悪しかりなんや」と定家卿に尋ね仰せられたるに、「秋の野の草のたもとか花すすき穂に出でて招く袖と見ゆらん」と侍れば。何事か候ふべき」と申されたることも、「時に当たりて。本歌を覚悟す。道の冥加なり。高運なり」など、ことことしく記し置かれ侍るなり。九条相国伊通公の款状にも、ことなることなき題目をも書き載せて、自讃せられたり。
一、常在光院の撞き鐘の銘は、在兼卿の草なり。行房朝臣清書して、鋳型に移させんとせしに、奉行の入道、かの草を取り出でて見せ侍りしに、「花の外に夕を送れば、声百里に聞こゆ」といふ句あり。「陽唐の韻と見ゆるに、百里誤りか」と申したりしを、「よくぞ見せ奉りける。おのれが高名なり」とて、筆者のもとへ言ひやりたるに、「誤り侍りけり。数行と直さるべし」と返事侍りき。数行もいかなるべきにか。もし数歩の心か。おぼつかなし。数行なほ不審。数は四・五なり。鐘四五歩、幾くならざるなり。ただ遠く聞こゆる心なり。
一、人あまたともなひて、三塔巡礼のこと侍りしに、横川の常行堂のうち、龍華院と書ける古き額あり。「佐理・行成のあひだ疑ひありて、いまだ決せずと申し伝へたり」と、堂僧、ことごとしく申し侍りしを、「行成ならば裏書あるべし。佐理ならば裏書あるべからず」と言ひたりしに、裏は塵積もり、虫の巣にていぶせげなるを、よく掃きのごひて、おのおの見侍りしに、行成の位署・名字・年号、さだかに見え侍りしかば、人、みな興に入る。
一、那蘭陀寺にて、道眼聖、談議せしに、八災といふことを忘れて、「これや覚え給ふ」と言ひしを、所化みなおぼえざりしに、局の内より、「これこれにや」と言ひ出したれば、いみじく感じ侍りき。
一、賢助僧正にともなひて、加持香水を見侍りしに、いまだ果てぬほどに、僧正帰りて侍りしに、陣の外まで僧都見えず。法師どもを返して、求めさするに、「同じさまなる大衆多くて、え求めあはず」と言ひて、いと久しくて出でたりしを、「あなわびし。それ、求めておはせよ」と言はれしに、帰り入りて、やがて具して出でぬ。
一、二月十五日、月明かき夜、うち更けて、千本の寺に詣でて、後ろより入りて、一人、顔深く隠して、聴聞し侍りしに、優なる女の、姿・匂ひ、人よりことなるが、分け入りて膝にゐかかれば、匂ひなども移るばかりなれば、「便悪し」と思ひて、すりのきたるに、なほゐ寄りて、同じさまなれば、立ちぬ。その後、ある御所さまの古き女房の、そぞろごと言はれしついでに、「『無下に色なき人におはしけりと、見おとし奉ることなんありし。情けなし』と恨み奉る人なんある」と、のたまひ出だしたるに、「さらにこそ心得侍らね」と申してやみぬ。
このこと後に聞き侍りしは、かの聴聞の夜、御局の内より、人の御覧じ知りて、さぶらふ女房を作り立てて出し給ひて、「便よくは、言葉などかけんものぞ。そのありさま、参りて申せ。興あらん」とて、謀り給ひけるとぞ。