宗教アニメとしての山田尚子『きみの色』――敬虔に生きるために――

問題の所在

 

山田尚子監督の新作である『きみの色』が2024年8月30日に公開された。
山田尚子監督といえば元々は京都アニメーションというスタジオでアニメ制作に携わっていたが、現在はサイエンスSARUに活動の拠点を移している。
かつて幸福の科学の布教アニメの制作に関わり、人権啓発アニメを制作してきた経歴を有する京都アニメーション作品といえば、宗教を隠れたモチーフとして扱いながら、アニメ作品を制作していることは、論者がつねづね強調しているところである。そして、山田尚子監督もアニメ作品に神様や宗教といったモチーフを巧妙にしのばせてきた。
例えば、『けいおん』では「ふわふわ時間(タイム)」という楽曲が使用されているが以下のような意味深長な歌詞がある。

あぁカミサマお願い
二人だけのDream Timeください☆
お気に入りのうさちゃん抱いて今夜もオヤスミ

ふわふわ時間(タイム)」という楽曲も実は「カミサマ」に願いを込めた歌であるのだ。
さらに『たまこまーけっと』においても神様を山田尚子監督は巧妙に配置している。『たまこまーけっと』の10話である「あの子のバトンに花が咲く」において、常盤みどりが商店街の頭上に吊るされた巨大な魚にダンスのアイディアが出てくるように、柏手を打ちながら祈るシーンがあるのだ。また、『たまこまーけっと』4話の「小さな恋、咲いちゃった」の冒頭では、たまこの妹である北白川あんこは祭りの装束に身を包むシーンが存在するし、しゃべる鳥であるデラが神輿の上で飾られる挿話も存在するのだ。このように『たまこまーけっと』においても神様や宗教が描き込まれてきた。
もっといえば、山田尚子監督の映画作品である、『映画 聲の形』においてもマンションから投身自殺を試みる西宮硝子の腕をつかむ石田将也は、「神様・・・どうか、もうひと振り俺に力を下さい。もう嫌なことから逃げたりしません。明日から…みんなの顔をちゃんと見ます。明日からみんなの声もちゃんと聞きます。明日からちゃんとするから。」という台詞を口にしている。『映画 聲の形』においても神様に懺悔するシーンは存在するのである。このように考えたとき『映画 聲の形』とは神様に懺悔した石田将也が西宮硝子の力添えを得ながら生きなおす物語として捉えることができる。
また、『リズと青い鳥』においても、終盤、傘木希美にフルートの才能が無いことが判明すると、リズと傘木希美の声が重なりながら、「ああ、神様どうして私にかごの開け方を教えたのですか。」という神に対する呪詛に似た言葉を投げかけるシーンが存在する。『リズと青い鳥』は傘木希美が神様への恨みを抱きながら、それでも前向きに勉強や部活動に取り組んでいく物語として捉えることができるのだ。
このように京都アニメーションおよび山田尚子監督は、アニメ作品の中に神様や宗教を周到に表象してきたのだ。
山田尚子監督は京都アニメーションを離れた後に、『平家物語』というアニメ作品を発表しているが、『平家物語』においても宗教、とりわけ仏教を丁寧に描いている。『平家物語』の最終話である11話の「諸行無常」の結末において、後白河法皇平徳子に対して「どうすれば、苦しみを超えることができるのかのう。」と尋ねる。それに対して徳子は「祈りを。わたくしにも、まだ忘れられぬ思いがございます。ですので、ただ、ただこうして皆を、愛する者を思い、そのご冥福を祈っているのでございます。」と答える。そして後白河法皇は仏像の前にひれ伏し、思わず手を合わせる。この結末においても、祈りを捧げることが平徳子の救いになると示唆されているのだ。
さて、山田尚子監督の最新作である『きみの色』は長崎のミッションスクールが舞台に設定されている。そのことについて、『きみの色』のパンフレットのなかで山田尚子監督は次のような質問に以下のように答えている。

――ミッションスクールという設定についても聞かせてください。
(山田)〈信じることができる心〉を描きたかったというのが、シンプルな ところかもしれません。何かを信じることができる心というものに、とても尊敬を持っているんです。いろいろなところにカリスマはあって、人はどういった心の動きで信じるものを見つけていくのかな、信じるものがあるときに心はどう動くのかなと。トツ子がピンときたら一直線で、人を気遣うからこそ動ける子だというのも、そういうところと無関係ではないのかなと思います。

ここで山田尚子は〈信じることができる心〉を描きたかったと告白しつつ、日暮トツ子が大切にキリスト教の信仰を守っていることと、人を気遣うことができることは無関係ではないと語っている。
以上のように、山田尚子作品と宗教という主題は切っても切り離せない。そして『きみの色』においても宗教や信仰が重要なモチーフとなっていることが分かる。そこで本稿では、『きみの色』における宗教の表象という切り口で、作品を分析することを試みる。

信仰を静かに守る影平ルイ

 

まず影平ルイにおける信仰をみていこう。
影平ルイは古本屋「しろねこ堂」で出会って以来、バンドを結成し、日暮トツ子と作永きみと交流を深めていく。影平ルイと日暮トツ子と作永きみの三人が週末に集まってバンドを練習する場所は、元々は古い教会であり、影平ルイはその古い教会の掃除を担当していることが語られる。さらに、修学旅行の時期に、日暮トツ子が作永きみを寄宿舎に手引きした罪によって、反省文と奉仕活動を行わなければいけなくなった日暮トツ子と作永きみはバンド活動に参加できないことになる。そんな謹慎中の二人に無理やり介入することなく古い教会で静かに音楽の練習をコツコツと行う人物として描かれている。
影平ルイと日暮トツ子と作永きみの三人の距離感について山田尚子は『きみの色』のパンフレットにおいて次のような質問に対して以下のように答えている。

――信じることにもまた、弱さと強さが付いてまわります。長崎という場所のモデルもクリスチャンというところからきているんでしょうか?
(山田)長崎は風景が穏やかで美しくて、すごく独特な場所なんですよね。長崎だからこそそこに生きる人たちの心の土壌に芽生えた繊細さや粘り強さ、秘めたものがある。そこがトツ子たちにすごくしっくりきました。あと、ロケハンに伺ったときに長崎や五島の方々と接する機会があったんですが、皆さんの距離感がすごく心地良かったんです。近づくわけでもなく、それでも何か気にかけてくれている。そんなところもそのままトツ子、きみちゃん、ルイくんに代入されています。

影平ルイは謹慎中の日暮トツ子と作永きみのふたりのことに気に掛けながらも、古い教会で音楽を独りで練習しながら自足している人物なのである。それは影平ルイなりの日常に寄り添った信仰のありようだろう。

信仰から離れる作永きみ

 

映画の序盤で作永きみが高校を退学し、その事実に日暮トツ子がショックを受ける。だが作永きみがミッションスクールを退学した本当の理由は映画の終盤まで明かされない。映画の終盤で雪によって船が欠航し、離島に取り残された日暮トツ子と作永きみと影平ルイは結局「合宿」と称するものを実施する。その「合宿」の夜に作永きみは高校を退学した理由を語るのだが、その理由は祖母や周囲が期待するような善良な人間ではない自分に嫌気が差し、かつて聖歌隊に加わっていたが、聖歌隊も辞めて高校を中退することになったと語る。作永きみは宗教の信仰に一度は加わったものの、その信仰から離脱した人間として描かれているのだ。さらに作永きみは祖母にも高校を中退したことを言い出すことができないでいる。作永きみというキャラクターがどこか影を抱えている静かな女性なのは、祖母に高校を中退したことを言い出せないのと同時に、信仰を捨てたことの後ろめたさを感じているからなのだ。
修学旅行の時期に作永きみは日暮トツ子の手引きによってミッションスクールの寄宿舎に侵入し、それが露見するとミッションスクールの良き指導者であるシスター日吉子の進言によって、作永きみにもきちんと償う機会が用意される。興味深いことに、この映画は一度信仰を捨てたはずの作永きみは再び信仰の機会に接近する物語なのだ。さらには、退学したはずの作永きみは聖堂で音楽を演奏することなる。(そのバンドも立派な「聖歌隊」だとシスター日吉子に日暮トツ子は言われる点は忘れてはいけないだろう。)そして大学に進学する影平ルイを作永きみが「頑張れ!」と大声で応援することまでできるようになるまでの物語として捉えることができる。
つまり、一度信仰を捨てたはずの作永きみは、度量の広い宗教的指導者の助けを借りつつ、バンドを結成することによって再び「聖歌隊」に加わり、他者を応援することができるようになる、すなわち作永きみ自身も自分の人生を前向きに生きることができるようにまでの物語なのだ。
神様への呪詛を投げつけつつも吹奏楽部や受験勉強に頑張る『リズと青い鳥』における傘木希美と、信仰を捨てつつも再び「聖歌隊」に加わり自分の人生を前向きに生きることができる作永きみは、類型的で、非常に似ていることは言い添えておく。

信仰をさらに深化させる日暮トツ子

 

先ほど、作永きみは高校を中退し、信仰を捨てた後に再び信仰に接する機会に恵まれていく過程をたどることを述べた。一方、日暮トツ子は女子高生なりに信仰を疎かにしない人物として描かれているが、日暮トツ子は作永きみや影平ルイとの交流を深める過程で、信仰を裏切らなければならない境遇に置かれてしまう。
特に強調しておきたいのは、信仰を捨てた作永きみと信仰を疎かにしない日暮トツ子が交流を深める様子の緊張感で、この映画の序盤から中盤は構成されていることだ。
例えば、男性との交際が禁止されているにもかかわらず、一緒に影平ルイとバンドを結成してしまうし、すでに退学した作永きみを寄宿舎に手引きしてしまう。この映画に対する批判として、物語に起伏がなく退屈だといった評価を時折見かける。だが繰り返すようだが、信仰を捨てた作永きみと信仰を疎かにしない日暮トツ子の対照性の緊張感で映画は構成されているのだ。この緊張関係を見抜けなければ、この映画の真価を味わったことにならないだろう。
さて、この映画が興味深いのは、日暮トツ子は一見すると信仰を裏切らなければならない状況に迫られるが、度量の広い宗教指導者や宗教によって日暮トツ子の罪は許されるのだ。さらに日暮トツ子は常に自身の罪を反省するし、信仰心を失うことはない。
映画に即していえば、日暮トツ子はかつてバレエダンスが苦手であり、自分が何色かわからなかったが、「聖バレンタイン祭」で「聖歌隊」であるバンドで演奏することによって、バレエダンスが苦手であった自分を受け入れることができるし、日暮トツ子自身が何色かわかるのである。いわば日暮トツ子は宗教による「奇蹟」を味わうわけである。
この映画はすなわち、「水金地火木土天アーメン」などといった表現に代表されるような山田尚子特有の言葉遊びによって、日暮トツ子は日常に寄り添った信仰を常に深化させながら、敬虔な気持ちを失わずに生きていく物語なのだ。
『きみの色』論はこのあたりで閉じたいと思う。偉大なるアニメ映画監督にして、偉大なる宗教家の山田尚子に最大の敬意を込めて。

『スキップとローファー』論――動物的身体と演じる身体

 

はじめに――ささやかな疑問から

アニメ版『スキップとローファー』(第一期)を論じるにあたって、私にはひとつのささやかな疑問がある。その疑問とは、このアニメにおいて動物が重要なモチーフとして登場することに気づいた視聴者はどれほどいるだろうか、ということだ。
アニメ『スキップとローファー』では動物たちがいたる所に登場する。まずオープニングですでに犬や猫たちが登場する。それに第一話で、駅で迷子になった岩倉美津未に志摩聡介が声を掛ける場面では、志摩聡介と岩倉美津未の存在はアヒルとヒヨコの親子として表現されている。また、岩倉美津未はパンダが好きで、パンダの髪留めを胸に留めている点も忘れてはいけないだろう。もっと言えば、志摩聡介のことを岩倉美津未は実家で飼っている犬に似ていると思っていて、志摩聡介のこと実家の犬と呼び間違える挿話まで用意されているし、志摩聡介の頭を岩倉美津未は犬を撫でるみたいに撫でるシーンも存在する。それに志摩聡介と岩倉美津未は上野動物公園にデートしに行くエピソードも設けられている。さらに、最終回では文化祭で西城梨々華と岩倉美津未が対峙する場面では、ヒョウとネズミとして表現され、志摩聡介に対して嫌がらせをしてくる西城梨々華に対して岩倉美津未はコアリクイの威嚇のポーズで応戦している。
ことほどさように、アニメ版『スキップとローファー』では動物がいたるところに登場してくるのである。そして、岩倉美津未はその動物たちに限りなく接近しつつ、時には動物たちに同化していくのである。いわば、岩倉美津未は動物的身体をもったキャラクターだと言える。そこで本稿では、本作で登場する動物たちに着目しつつ、まずは岩倉美津未の動物的身体のありようを読み解いてみることから、本作を読解する手掛かりを得たい。

本音を通わせる動物たち

 

まず本作において、登場人物たちが動物になぞらえて表現される瞬間は、その登場人物同士が本音を通わせる場面において用いられていることを指摘しておきたい。
例えば、岩倉美津未が東京の駅で迷子になっている場面で志摩聡介が声を掛ける場面では、岩倉美津未の安心する心情を動物の表情をもって表現されているし、久留米誠が岩倉美津未と志摩聡介に連れられて喫茶店で流行りの飲み物を初めて飲む瞬間には、ヒヨコが初めて水慣れするシーンでもって表現している。ちなみに久留米誠の流行りの飲み物を楽しむことができるというシーンは、久留米誠が村重結月と映画館で関係を深めるシーンの起点となっている。久留米誠は流行りの飲み物を敬遠していたが、飲んでみると意外と美味しく感じられたように、村重結月とも仲良くなれるのではないかという思いが久留米誠の言葉で示されているのだ。このように、本作において動物たちは心を通わせ、本音をぶつけ合う瞬間に象徴的に用いられている。
特に岩倉美津未に関して言えば、岩倉美津未は動物に接近し、動物に同化してしまう。高嶺十貴子とバスを待っている間には、岩倉美津未は猫と遊んでいるのだが、その瞬間は高嶺十貴子の夢の中で岩倉美津未は猫に同化して表現される。高嶺十貴子はこのような岩倉美津未の振る舞いに影響を受けて、スケジュールをきっちり準備する自分の習慣を改めようとする。つまり、本作において動物たちは本音や本能が登場人物たちから引きだされる指標として機能しているのだ。それに対して、高嶺十貴子の振る舞いはスケジュールを計算し、常に準備を怠らないものだが、本音や本能を隠蔽する振る舞いである。高嶺十貴子と岩倉美津未のふたりがバスに乗る挿話において、常にスケジュールを計算し本能を隠す高嶺十貴子と動物に接近し本音や本能を露わにする岩倉美津未との対照性が示されているのだ。
実は、高嶺十貴子のような常に計算を尽くし本能や本音を隠蔽する振る舞いを行う身体は、先述したように岩倉美津未に代表されるような動物的な身体と対比されながら、本作のいたる所に見いだせる。本作における、本能や本音を隠蔽しながら振舞う身体を本稿では、演じる身体と呼びたい。
本作では、演じる身体が行う高嶺十貴子のような振る舞いは、入学当初の岩倉美津未の同級生などの振る舞いと通底するように描かれているのだ。次節では本作において、本音や本能を露わにする動物的身体と対照的な演じる身体について考えたい。

演じる身体

 

入学当初、志摩聡介と関係性をいち早く構築した岩倉美津未は、みんなでカラオケに行くことになるのだが、その際に江頭ミカから志摩聡介の言葉を真に受けないようにした方が良いと釘を刺される。しかも江頭ミカはしたたかに計算して自分は志摩聡介と接近する機会を狙っている。この場面において、江頭ミカは演じる身体を宿したキャラクターだと言えるだろう。カラオケの最中には、木之本小春という同級生からパンダの髪留めはおしゃれなのかと尋ねられた瞬間に、岩倉美津未はこの問い掛けを嫌味だとは受け取らず、「うん!おしゃれ!」と即答する。この場面の岩倉美津未は演じる身体を拒否しているのである。さらに「トコ次郎のマーチ」という楽曲を岩倉美津未は歌い、みんなの注目を集めるのだが、ここでも周到なことに動物のキャラクターと岩倉美津未が重ね合わされているのだ。やはり、このカラオケの場面においても演じる身体と動物的身体は対比され、岩倉美津未は演じる身体を拒否して動物的身体を選択しているのである。
志摩聡介は子役俳優を経験しており、「演じる」ということに慣れきった人物として描かれている。常に空気を読み、周囲の人間関係が悪くならないように配慮しながら本音や本能を隠して生活している。その点で、入学当初の江頭ミカと同じく志摩聡介は演じる身体を宿したキャラクターだと断言してよい。本作は、演じる身体を宿した志摩聡介が、動物的身体を宿した岩倉美津と接近することで影響を受ける物語だとも言えるのである。
さらにいえば岩倉美津未と同居しているナオちゃんはトランスジェンダーであり、女性のような格好をしているが生物学的には男であるのだが、わざわざここでバトラーの『ジェンダー・トラブル』を引用するまでもなく、ナオちゃんも演じる身体を宿したキャラクターだと断言できるだろう。
岩倉美津未と志摩聡介はひょんなことから上野動物公園にデートに行くのだが、江頭ミカとナオちゃんは演じる身体を宿したキャラクター同士接近し、妙に意気投合しながら、岩倉美津未と志摩聡介のデートを尾行するのである。その一方で、パンダを中心とする動物たちを鑑賞して楽しむ岩倉美津未と彼女から影響を受けながら家族へのお土産を買う志摩聡介は限りなく動物的身体へと近づいているのである。くどくなることを承知で、繰り返し述べるが、岩倉美津から家族にお土産を買うことを勧められて、つい買ってしまう志摩聡介の振る舞いからは家族との関係性の回路を修復したいという本音が読み取れるのだ。この場面では志摩聡介は限りなく動物的身体に近づいているのである。

動物的身体と演じる身体を往還するキャラクターたち

 

興味深いことに、本作は物語が進行すると、登場人物たちは動物的身体/演じる身体という二項対立的枠組みを往還していくことが読み取れる。
例えば入学当初は演じる身体を宿したキャラクターといえる江頭ミカは動物的身体をもつ岩倉美津未に影響を受けて、友達として岩倉美津未と関係性を深めていく様子――つまり演じる身体から動物的身体への移行――が、一緒にバレーボールを練習する描写を通して示されている。
また一見すると演劇部の兼近鳴海は、演じる身体をもっているキャラクターだと考えてしまうかもしれないが、本作では兼近鳴海は演じる身体と動物的身体を往還するキャラクターとして造形されている点に注意を払いたい。兼近鳴海は子供のころから演じることを志向して自主映画を製作していたエピソードが示されるが、その自主制作の映画はきわめて拙いものであり、演じることに失敗し続けてきた経緯が示されている。それに兼近鳴海は将来的には演出家や俳優としてやっていきたいという野望をもっているのであり、心から演劇、ひいては演じることを心から楽しんで取り組んでいることも示されている。その意味で、兼近鳴海は元々から本音においても演じることを志向した人物であり、動物的身体と演じる身体を往還するキャラクターなのだ。
また入学当初は計算や演技を放棄した岩倉美津未も、文化祭の準備の際に、演劇の尺が長くなりすぎる問題について同級生から意見を請われたときに、他の仕事と重なってしまい、寝落ちして演劇の尺についての意見を言うことができない。そして、同級生からの口さがない批判の言葉を耳にしてしまう岩倉美津未だが、落ち込んでいるところを志摩聡介に励まされる。志摩聡介が岩倉美津未を励ます方法も、クラスの出しものである演劇の歌とダンスを一緒に練習するというものなのだ。ここで岩倉美津未は動物的身体から演じる身体へと馴致されていく過程が鮮やかに示されていると言える。ここで、本作のオープニングでも志摩聡介と岩倉美津未は一緒にダンスをするが、岩倉美津未が転びそうになるのを志摩聡介が助ける場面が描かれている点を想起したい。オープニングですでに本作は岩倉美津未が動物的身体から演じる練習を覚えて、演じる身体をも獲得していく物語だときちんと示しているのである。

動物的身体に嫉妬を覚える

 

ここで志摩聡介に着目してみると、志摩聡介は文化祭の出し物である演劇で、動物的身体と演じる身体を往還する兼近鳴海や岩倉美津未に対して嫉妬を覚え、演劇の台詞をとばしてしまう。この場面で演じる身体を宿した志摩聡介は、動物的身体への憧れを自覚するのである。そして、演劇終了後に志摩聡介は西城梨々華に対して一緒に破滅するようなことはしたくないし、今は学校が楽しいのだと語る。志摩聡介は学校が楽しいのは、自分とは異なる性質をもつ、つまり動物的身体をもつ岩倉美津未がいるからであり、自分も動物的身体を獲得したいと考えているからである。一応、付言しておくが、志摩聡介と一緒に子役を経験してきた西城梨々華もタクシーの中で泣きながら岩倉美津未のような女子高校生への嫉妬を口にするが、その西城梨々華が泣きながら本音を打ち明けるという行為自体が、きわめて動物的身体の所作であり、西城梨々華も単なる演じる身体に固定されているわけでないという、彼女に対するフォローになっているのだ。
ところでこのように考えてくると、『スキップとローファー』というタイトルも深い意味をもってくる。第一話において入学式に遅刻してしまった、岩倉美津未と志摩聡介は思わず走り出す。その際に岩倉美津未は靴下とローファーを脱いで、裸足で走り出すのである。つまり本作のタイトルにおける「スキップ」とは動物的身体を暗示していて、「ローファー」とは演じる身体を暗示しているのである。本作において、動物的身体/演じる身体という二項対立的枠組みの中を往還してゆく登場人物の物語に相応しいタイトルだと言えよう。
ちなみに嬉しいことに本作は第二期の制作が決定している。動物的身体と演じる身体の表象という問題は第二期においてどのように引き継がれるのか、興味は尽きない。

 

アニメにおける植民地主義と村上龍が示したもの

近年、植民地主義コロニアリズム)をアニメーションで描いた作品が立て続けに発表されている。
そのアニメ作品とは『道産子ギャルはなまらめんこい』と『沖縄で好きになった子が方言すぎてツラすぎる』の二作である。
『道産子ギャルはなまらめんこい』では東京出身の主人公は、北海道に引っ越して、その転校先の女性キャラたちから好意を寄せられる。しかも東京出身の主人公は金持ちであり、東京出身という理由によって無条件で北海道の女性キャラクターたちから好意を寄せられるのだ。このような物語は、まさに東京と北海道の経済格差の表象であり、異国に自分に好意を寄せる異性が存在するという幻想は、まさにオリエンタリズム的な発想であり、東京人による植民地主義的な欲望を発露するものだ。
また、今期に放送されている『沖縄で好きになった子が方言すぎてツラすぎる』では、東京出身の主人公は沖縄に引っ越してきて、沖縄の女性キャラから無条件で好意を寄せられるという展開も同じく植民地主義的な欲望の発露に他ならないだろう。
上記の二作において、私はこのような安易な植民地主義的な欲望に根ざしたアニメーションを肯定することはできない。

村上龍という小説家は占領/被占領という植民地における政治力学を意識的に描いてきた。例えば、『テニスボーイの憂鬱』では主人公の青木はステーキ屋を営むのだが、サイパンに支店を出店することになる。そのサイパンで本井可奈子という絶世の美女と出会い愛人関係を築く。(青木は既婚者で子供までいる。)青木は本井可奈子とのテニスに熱中するのだが、彼女を妊娠させてしまい、雨が降ったらテニスはできないなと青木が悟ったところで、この小説は幕を閉じる。
いうまでもなく、かつて日本領であり現在はアメリカ領であるサイパンで女性を手に入れるという筋立ては、青木の植民地主義的な欲望を的確に描いているし、その手に入れた女性とのコミュニケーションツールであるテニスを放棄せざるおえない結末に仕上げている点はきわめて優れている。しかもこの『テニスボーイの憂鬱』は1985年に発行された小説であり、バブル経済に入りつつある日本人の植民地主義的な欲望を巧みに捉えている。しかも村上龍植民地主義的欲望が挫折する結末を用意している点において、『道産子ギャルはなまらめんこい』と『沖縄で好きになった子が方言すぎてツラすぎる』の二作を凌駕していると思うし、きわめて批評的である。
また例えば村上龍の『半島を出よ』という小説においても占領/被占領という政治力学における、占領者と被占領者の興味深い関係性を描いている。『半島を出よ』では、北朝鮮からコマンダーがやってきて、福岡を占領してしまうという物語を展開している。この小説では、結局、日本人の若者たちの勇気ある行動で、北朝鮮の部隊を壊滅させることができるのだが、その北朝鮮軍の生き残りであるキム・ヒャンモクという女性は日本人医師の養女となる。だが、キム・ヒャンモクと日本人医師の安易な相互理解は描かれず、キム・ヒャンモクは完全な日本人にはならず、「他者」であり続ける。キム・ヒャンモクを養女として受け入れた日本人医師も、キム・ヒャンモクを「他者」として尊重し続けるのだ。村上龍は占領/被占領という不断に引きなおされる自己/他者という境界を安易に隠蔽したりしないのだ。

私が『道産子ギャルはなまらめんこい』と『沖縄で好きになった子が方言すぎてツラすぎる』の二作が、村上龍作品と比べて飽き足らないのは、東京出身の主人公を無条件に「被占領地」の女性キャラから好意を寄せられ、占領/被占領という常に引き直される自己と他者との境界を安易に隠蔽しているからなのだ。