『まちうらクロニクル』を文学フリマ東京41で頒布します!

今回はお知らせ。11月23日の文学フリマ東京41で新刊を頒布します!

今回も「電車待ちに読むブログ」の人と一緒に、サークル「待ち合わせ同好会」での参加になります。

新刊の中身

新刊のタイトルは『まちうらクロニクル』。

題材はずばり「街歩き」だ。

僕と電車待ちさんで共通している点がある。それが、「街について調べることが大好き」なことだ。

ならば、お互い好きな街歩きモノで書いてみようかとなってできあがったのがこの一冊になる。

今回の記事は二つ。

 

  1. 3年で閉園? 吉祥寺に幻の「記念公園」があった (あわうみ)
  2. 【情報求ム】光が丘の小学校にはなぜ冬がないのか(電車待ちに読むブログ)

 

吉祥寺と光が丘を舞台に、それぞれ街歩きをしてガッツリ調べて謎に光を当てるものになっている。

また、今回も記事の裏話をのせた「座談会」入りだ。実際にどのように調べているのか、どんなことを考えて書いているかを深堀りしている。

書く側に興味がある人はぜひそちらも楽しみにしてほしい。

よろしくお願いします!

出店の情報

イベント名:文学フリマ東京41

日時と場所:2025年11月23日 東京ビッグサイト

サークル名:待ち合わせ同好会

作者:あわうみ・電車待ちに読むブログ

ブース番号:そ-77

お品書き

  1. まちうらクロニクル(新刊)

  2. チェーン店が好きだ

  3. 歌詞をたよりに集まる

はじめての山小屋泊

人生でやりたいことの一つ、それが「山小屋に泊まる」ことだ。

日常から離れた厳しい自然の中で、知らない人と肩を寄せ合いながら同じ釜の飯を食べ、互いにお休みを言う。

そんな環境に置かれたとき、何を感じるのだろう。

 

ある日、友人から誘われてその願いがかなうこととなった。

 

実際に行ってみると、学生運動とぼっとん便所に思いをはせ、管理人さんをはげまし、高山病にときめく、そんな普段できない体験ができました。

 

行ってきます!

注:尾瀬の山小屋に以前行ったことがありますが、あまりに整備が行き届いていたのでノーカウントとします。近くにイタリアンのお店があって楽しかったのですが山小屋感はうすいかなと。

 

山小屋の雰囲気を味わおう

当たり前だが、山小屋に行くためには山を歩かないといけない。

ということで、雨具をかぶりながら足を進めることとなった。

9月なのに冷蔵庫のような涼しさがまとわりついてくる。

時間は15時30分。

目標の最高峰「木曽駒ヶ岳」に到着した。標高は2956メートル。

ただし、景色ガチャは外れ(視界ゼロ)だ。

さてと。のんびりする間もなく山頂に背を向ける。

本日の目的地、山小屋はすぐそこだ。

 

 

10分歩くと、武骨な四角い塊が見えてきた。

本日の目的地、「頂上木曽小屋」だ。

屋根には石がごろごろ乗っかっている。その武骨さに、環境の厳しさがひしひしと伝わってくる。

今、肩に力が入っている。

なぜなら、山小屋に入るのがちょっと怖いから。

みなさんは、山小屋の管理人と聞いてどのような人を想像するだろうか。

僕が思いうかべるのは、ルールを破ると厳しく𠮟ってくるような「頑固おやじ」の姿だ。

というのもですよ。

ここは3000メートル近い、文明から離れた場所だ。険しい場所で生きていくには、タフな精神が必要となるだろう。

そこで強さの象徴としてイメージされるのが「頑固おやじ」なのだ。

 

ガラガラっと横向きにドアを開ける。

「いらっしゃいませー」

小さめの声で出迎えてくれたのは、50代前半ぐらいのやわらかい雰囲気のおじさんだった。

飲み会の隅の席で静かに話を聞いているのが似合いそうな、頑固おやじとは対極の姿に肩の力が抜けていった。

台帳に住所や名前を記入したあと、簡単に建物を案内してもらった。食堂と寝室があり、トイレは汲み取り式だとか。

 

夕食は17時からなので、少し時間の余裕がある。それまで寝室に荷物を置いて休むことにしよう。

寝室に入ると、一瞬視界が黒くなった。部屋はすでに日が沈んだかのような薄暗さだった。

暗い理由はすぐにわかった。左右の壁に窓がないのだ。

奥には縦長の空間が広がっている。

部屋の両側1.5mぐらいの場所には板が敷いてあり、はしごで登れるようになっていた。

板は巨大な2段ベッドだったのだ。

自然と笑顔になった。

山小屋といえば、これよこれ。二段ベッドで区切られた狭い空間を分け合いながら、みんな一緒にごろ寝するやつ。

 

果たして今日、安眠できるだろうか。できなくっても思い出にはなるから問題はないけどね。

一息つこうとXを開いたら圏外だった。でも、不思議と嫌な感じはしない。

 

今回、山小屋でやりたいと思っていることが三つある。

  1. 山小屋飯を食べる
  2. 人と交流する
  3. 山小屋で寝る

一番ハードルが高いのは、人との交流だろう。

そういえば、ほかに泊まる人っているのかな。

そんなことを考えながら天井(二段ベットの上)をながめていると――

「こんにちはー」

突然暗闇から声がした。目を凝らすと先客がいた。おじいさんとおばあさんだ。

リュックの中身を整理しながら軽くおしゃべりをしていると、時間がゆるやかにすぎていく。

「実は俺たち、夫婦じゃないんだよ」

おじいさんが言う。笑顔でうなずくおばさん。ドユコト? 頭の中にはてなマークが飛んでいく。

 

やりたいこと① 山小屋飯を味わおう

時間は17時。夕食の時間になった。

寝室のお向かいにある食堂のドアを開ける。ふわっと温かさに包まれた。食堂には石油ストーブがたたずんでいた。

部屋には机が二列広がっていた。左側の列では、食事が湯気を立てて待っている。

右側の列にはコップだけが8つ置いてあった。なんだろう。

おじいさん・おばあさんと一緒に左側の机に座る。視界に入るのは、大根と卵とこんにゃく。つまりおでんだった。

なるほどそうきたか。

一見すると、夏の今の時期におでんは「なし」に思える。しかし、「標高3000メートル気温10℃台の場所まで登って食べるおでん」と聞くとどうだろうか。おいしそうじゃないですか。

しかし、問題はある。おでんには長年多くの人を悩ませる論争がある。それが、「おでんはご飯に合うのか」論争だ。ちなみに、僕はご飯と一緒に食べるものの、正直あまり合わないんじゃないかと思っている。

今日の結果によっては自分の中で宗派がひっくり返るかもしれない。

 

「いただきます」

一口入れると、幸せが口に広がった。思わずお米に箸が伸びた。

正直に言おう。このおでんはやさしい味わいがした。

お米に合うかというと、普段の僕なら首をかしげるだろう。しかし、なぜだろう。薄味なのにお米が進む。

今日運動したおかげなのか、ロケーションのおかげなのかはわからない。

わかるのは、ただおいしいこと。そしてお米が進む。気づいたらお代わりをくり返してお茶碗3杯が胃の中に吸い込まれていった。

このおでんを忘れることはないだろう。

 

「この年になるとたくさん食べられなくなるんだよね」

おじいさんは食べっぷりに目を細めながら日本酒を飲んでいた。日本酒の横のお茶碗にはお米が残っていた。

 

やりたいこと② 人と交流しよう

「同じ釜の飯を食う」と距離が縮まるといわれている。実際、こうして山の上で席を囲んでいると、相手のことが気になっていく。

そういえば、食事で忘れていたけど謎があった。おじいさんとおばあさんが夫婦じゃないのってどういうことなんだろう。訊いてみることにした。

「実は、お互い配偶者に先立たれているんだよ」

笑顔でおじいさんが言った。突然のことに思わず相槌が打てなかった。しかし、二人はあっけらかんとしている。

 

そのあと、おじいさんがぽつぽつと人生経験を語りだした。

妻の病気がわかったあと、妻に「若い姿のままあなたの記憶にいられる」と言われてしんみりしたこと。

お葬式で「残された子どもを精一杯育てる」と言ったら参列者がいっせいにぶわっと泣き出してあせったこと。

笑顔で話せるようになるまでにはどれだけの辛苦があったのだろう。それを乗り越えた二人がまぶしく見えた。

ちなみに、退職してどうしようかと思っていたとき、山の趣味を持っているおばあさんが誘って二人で行くようになったとか。老後にもそういう友人がいるっていいな。

 

この先の自分の人生は、これからどうなっているんだろう。

僕には話せる人生経験がないので、お返しにChatGPTの使いかたについて教えた。

 

「ぼっとん便所があるからこの山小屋を選んだんだよ」

とおじいさん。理由を聞くと、どうやらおじいさんは学生運動に参加していたらしい。学生運動といえば、僕にとっては歴史の中の出来事だ。生の話を聞けるなんて。背中が前のめりになった。

 

学生運動とぼっとん便所がどう結びつくかというと――

当時、おじいさんがのめりこんだ学生運動では「反資本主義」をかかげていた。彼らにとっての理想の生活は「一次産業や肉体労働に従事すること」だった。そして、東京にはその理想を体現している場所があったという。

日雇い労働者が集っていた山谷だ。しかも、彼らはおじいさんの学生運動をまっさきに味方してくれたのだという。

 

「だから、山谷に今も住みたいと思ってるんだ」

当時に戻ったかのように熱弁をふるうおじいさん。

そして、その山谷の家には必ず「ぼっとん便所」があった。だから、ぼっとん便所を使えば山谷の空気感を味わえるのだという。

こういう偏愛っていいな。

そのあとも、ぼっとん便所談義は続いた。

「ぼっとん便所で出したあとは、お尻の位置をずらすのが大事なんだ」

「ああ、『お釣り』に気をつけないといけないわね」

「お釣りって何ですか?」

「お釣りってのはね、出したあとに水面から跳ね返ってくるやつのことだよ」

実際に体験しないと出てこない、実感のこもった話を聞けた。

ぼっとん便所って、こんな盛り上がる話題だったんだ。

 

管理人さんの憂鬱

「えっ! 困ります!」

突然、奥の管理人さんの部屋から大声が聞こえた。あの温厚な雰囲気からはイメージできないボリュームに、思わずみんな首を向けた。

しばらくすると管理人さんが部屋から出てきて、肩を落としながら隣の机のコップを片付け始めた。

 

「なにかあったんですか?」

気になるので聞いてみた。

「団体のお客さんがいたんですが、手違いで来なくなってしまって……」

聞いたところ、予約していた8人の団体が、人数変更をするときにまちがえて「別の山小屋」に連絡した結果、こちらには来ずに別の山小屋に泊まっているという。

「8合も炊いたのにな……」

背中を丸める姿が小さい。僕らにできることは、明日の朝にちょっとでも多く食べてお米を減らすことだけだ。

だんだん山小屋のおじさんの人となりが見えてきた。あまりにいい人すぎる。きめ細やかな人なのはいいのだが、余計なストレスも背負ってそうで少し心配だ。

そういえば、なぜ山小屋の管理人をしているのだろう。

 

やりたいこと③ 山小屋で寝よう!

人里から離れた場所での食事と交流に、お腹も心もいっぱいだ。ふと腕時計に目をやると、短針が7を指していた。山時間だとまもなく寝る時間だ。

果たして、今日ちゃんと寝ることができるだろうか。

僕は慣れない場所で寝るのが苦手だ。徹夜カラオケをしても寝落ちせずに最後まで歌い続けるタイプであり、旅行先で眠りが浅くなるタイプでもある。

 

ごそごそと固い布団に横になり、毛布をかぶる。眼を閉じると、グオーと遠くから機械の音が耳に入ってきた。そういえば、ここの電気は発電機でまかなっているって管理人さんが言ってたな。

30分後、もぞもぞ起き上がった。ちょっと寒い。上着を着て布団に戻った。

ちなみに今、5枚重ね着してます。

グオン……。

発電機が消えた。管理人さんもこれでお休みに入るのだろう。

時間は21時。

電気すらないこの場所に、ふと心細さを覚える。同時に、その心細さを楽しんでいる自分がいる。

 

寝返りを打つ。

眠れない原因があった。頭の右側に少し頭痛がある。しかし、この症状は経験したことがある。

これ、脱水症状のときと同じだ。グビグビ水を飲んで横になった。

 

すぐにトイレに行った。

頭痛が続く。また水を飲む。
トイレに行った。

頭痛が続く。また水を飲む。
トイレに行った。

 

星見えないかなとトイレのついでに外に出てみると、雲が広がっていて星のほの字も見えなかった。

1分で戻った。

布団に転がり天井を眺めながら悟った。これ、脱水症状じゃないな。では何だろうと天井をながめていて、一つ、閃いたものがあった。

これ、もしかして「高山病」ってやつでは!

思わぬ発見に、がばりと起き上がりそうになった。

今いる場所は標高2900メートルなので、たしかに高山病になっていてもおかしくはない。

「高山病になったことある」って、登山ガチ勢っぽくて格好良くないですか。

病気なのにときめいてしまった。

 

高山病の原因は酸素不足にある。

「スーハースーハー」

寝ころびながら深呼吸をくりかえしてみた。

頭痛は少しずつ気にならなくなっていった。思考が夜と一体化していく。

 

朝に

物音がしたので身体を起こした。時間は5時半。正直、熟睡は全然できなかった。

身体を起こすと、お向かいのおばあさんと目が合った。

「昨日寝られました?」

「全然寝られなかったわー!」

良かった、寝不足仲間がいた。

 

食堂に行くと、朝食の準備が始まっていた。小さなミートボールとソーセージのかけらに、漬物たちが彩りをそえている。保存のきくものが多く、そういえば僻地にいるんだよなと再確認する。

まだ半分寝ている身体に梅干しの酸味がしみていく。ご飯はしっかり2杯食べた。

 

準備をしようと部屋に戻ると、ガラガラと小屋の入り口が開く音が聞こえた。管理人さんが誰かと話している。

どうやら、昨日予約をしてすれ違いが起きていた人たちが謝罪に来たようだ。大学の山岳部の人たちらしい。

苦い思い出になってしまったと思うが、今度こそまた来てね。管理人さんいい人だから。

そう念を送った。

 

 

「じゃあ、お先に!」

大学生が去ったあと、おじいさんおばあさんも出かけて行った。

行き先を聞くと、宝剣岳に登るとのこと。ルートが険しく、僕ら登山初心者では足を踏み入れられない山だ。

彼らの元気さには本当叶わないな。老後はこれぐらいアクティブにすごしていたいものだ。

 

 

さて、僕もそろそろ出ようか。

と、管理人さんがお出迎えに来てくれた。今日このあとは、近くのハイキングコースをのんびり回って帰る予定だ。まだ7時なので、時間の余裕はある。

せっかくだから、もう少しいろいろ聞いてみようか。

 

「山小屋にはいつからいるんですか?」

「実はまだ2年目なんです」

この山小屋は、妻の親戚が経営していたものだったという。しかし、元管理人が高齢になりコロナ禍も重なり営業できなくなってしまった。

そこで、白羽の矢が立ったのがこの管理人さんだった。管理人さんは、山小屋での仕事を始めるために、今までの仕事を辞めたという。

 

 

今は、お客さんがいる限りは一人で山にこもる生活を続けているとのことだった(繁忙期に別の人に手伝ってもらうことはある)。

気弱に見えた山小屋の管理人さんは、人生を必死にもがいている途中だったのだ。

 

「人が来られなくなってごはんが余るのはしょうがないんですよ。それより、お客さんに迷惑をかけてしまったのが申し訳ないです」

それなのに、細やかに気を遣ってくれる。

「迷惑かけられてないですよ!」

力強く言い、応援の意もこめて500ミリの水を買った。

500円だった。山料金だ。

 

終わりに

山は人が少ない。そのぶん人と人の距離が近くなり、同じ机を囲めば物語が始まる。山小屋泊は、想像を超えて心の深いところにしみこむような温かいものだった。

もちろん、山小屋で毎回このような体験ができるわけではない。しかし、今回のように人生の断片を拾いやすい環境が整っている場所なのは確かだ。

 

老後に人生の荷を降ろした人。

人里離れた慣れない山小屋で生活しながら、家族の生活を背負っている人。

僕はまだ何も背負っていない。いつか、なにかを背負うことができるのだろうか。

 

そんなことを考えながら道を振り返ると、雲が切れた。

岩だらけの斜面に力強く構える山小屋の姿に、「きっと大丈夫」と言われた気がした。

 

おまけ:帰り道の景色

※この旅は2024年9月に行ったものです。

3年で閉園? 吉祥寺に幻の「記念公園」があった

約50年前の地図を見ていると、吉祥寺に「野田記念公園」なるものを見つけた。しかし、検索しても情報はなし。

街歩き好きのアンテナがピコンと立った。これは、調べてみるしかないでしょう。

 

謎の記念公園

「記念公園」と聞いて、みなさんは何を思いうかべるだろうか。

僕の場合、まっさきに出てくるのは「昭和記念公園」だ。

昭和天皇の在位50年をお祝いして造られた公園だ。

幼稚園だったころに遠足で行き、いくらすべっても終わりが見えない巨大な「ローラー滑り台」で遊んで「こんな幸せな場所があっていいのか」と思ったものだった。

 

これですこれ。今見ると意外と短い。(国営昭和記念公園HPより引用)

ほかには広島の「平和記念公園」や大阪の「万博記念公園」がうかぶ人も多いだろう。

 

これらに共通しているのは、「何かの記念としてつくられた」ことと「広い」こと。

一目で見て「こいつはただの公園じゃないぜ」と思わせてくれるような、公園ヒエラルキーの上位にいるヤツ、それが僕の記念公園のイメージだ。

 

そんな前提をふまえて、これを見てほしい。50年前の吉祥寺の地図だ。

この違和感、伝わるだろうか。(『D・Xポケット版 東京区分地図』より引用)

「記念公園」にしてはあまりに小さい。地域のそこらの公園と張りあっているサイズ感だ。

小さなカブトムシがカナブンと互角にケンカしているのを見たときのガッカリ感を思いだした。

 

検索してみると、さらに首のかたむきが大きくなった。調べても情報がでてこない。

どうやら、この公園はもういないらしい。

AIに聞いてもわからず。

 

そもそも、「野田記念」って、なんの記念よ。

「記念公園」でありながらサイズは小さく、由緒がわからず、しかも今はない公園か。

謎に手招きされている。これは行くしかないでしょう。

 

行ってみよう

ということで、吉祥寺にやってきました。

おしゃれな住みやすい街でおなじみ。

目的地は「野田記念公園」(だった場所)だ。

まずは、駅前の通りを進んでいく。持ってきた昔の地図を見ると、変わったところと変わっていないところが牛柄のように入りまじっている。

駅前の「三菱信託銀行」は、「三菱UFJ信託銀行」に名前を変えて残っていた。

こういう「時層」を感じられるのが古地図のおもしろさだ。

 

足をすすめながら、50年前の日本はどうだったのか、頭の中で知識をふりかえってみる。

50年前は、「人口増加」と「産業の成長」を武器にひたすら前に進みはじめた日本で、かげりが目立ちはじめた時期だった。

近鉄百貨店」は「ヨドバシカメラ」に。デパートが栄えていた時代はどんな感じだったのだろう。

高度経済成長期がおわり、ふと立ち止まってあたりを見わたすと、「高齢化社会」や「都市の過密化」などの現代にもつながる問題が目の前によこたわっていた、と。

当時の吉祥寺も、人口が増えていろいろ問題をかかえていたのだろうか。

 

そんな時代にうまれた「記念公園」、何者なんだろう。

 

大通りの突きあたりを右にまがる。

人が減り、時のながれが少しゆるやかになる。

近くに「売り切れ」が落ちていた。

左にまがり、いよいよ住宅地に入っていく。

目的の公園はすぐそこだ。

住宅地にカフェがある。さすがおしゃれの街だ。



跡地にあった施設

駅から10分ほど歩いただろうか。

ようやく「野田記念公園」だった場所にたどりついた。

なんだろう、これ。

なにか施設になっている……?

そこにあったのは、「家」と「施設」の中間みたいな建物だった。

何かないかな手がかり。うろうろ歩くと、ありました。

「コミュニティセンター 九浦の家」

コミュニティセンターだったのか。コミュニティセンターとは、地域住人のための施設だ。場所によっては、「地域センター」「市民センター」「公民館」と呼ばれることもある。

 

さらに、建物のわきに謎の空間をみつけた。

これ、奥にいけそうだ。

進んでみよう。

のどかな道が続いていく。

駅チカとは思えない落ちつく空間だ。ここにイスをおいて読書したい。

空間の正体は「庭園」でした。

心は落ちついた。

しかし、頭のはてなはさらに増えた。

 

みなさんは、コミュニティセンターや地域センターと聞いてどのような建物を思いうかべるだろうか。おそらく、多くの人は大きめの建物がうかぶと思う。

こういうやつです。

ところが、目のまえに建っているコミュニティセンターは「庭」に「平屋」だ。イメージから離れすぎている。

コミュニティセンターを擬人化した「こみせん!」ってアニメがあれば、目の前のセンターは「不思議ちゃん」のポジションにおさまるにちがいない。

 

ただ、新たな手がかりがゲットできた。

「九浦」ってなんぞや。

「九浦」を調べれば、なにかわかるかもしれない。

 

蛇足だが、建物前にある「井の頭動物園」とコラボしたポスターがかわいかったので見てほしい。

一番気にいってるのは「『サギ』の注意喚起をする『フクロウ』」です。

 

見えてきた「九浦」の正体

「九浦」で調べると、ありました!

検索結果を見てうなずいた。

九浦の家」と「野田記念公園」は、どちらも「野田九浦(のだきゅうほ)」からうまれたワードだったのだ。

 

コミュニティセンターは、野田九浦の屋敷があった場所に建てられたものだった。

ちょっと見えてきたぞ。

 

野田九浦はどんな人?

ところで、野田九浦ってどんな人だったんだろう?

せっかくなので彼のエピソードを探してみよう。

 

ちなみに今、けっこう身構えてます。というのも、彼は「画家」だ。僕は芸術家に対して「変わった人」というイメージがある。

高校のころの美術の先生は、教師にしてはめずらしく髭をはやしていた。その髭がフランシスコ・ザビエルっぽかったので「ザビエル先生」と呼ばれていた。髪の生え具合もそれっぽかった

見た目だけでも不思議なのに、授業中に突然大声をだして反応を見たり、生徒指導の説明をしているときにずっと意味ありげな微笑をしていたりと、最後まで輪郭がつかめないままだった。

 

では、野田九浦先生はどうでしょう。

パラパラと調べていくと、だんだんエピソードが集まってきた。

九浦と家族 1920年代頃

突然のいいおとうさん。

 

左上:猫[仮称](1950年代頃)
左下:白猫(1957年)
右:K氏愛猫(1954年)

絵のタッチからにじみ出てくるやさしさよ。

動物好きに悪い人はいないよね。

 

湯元(1935年頃)

人望もあったと。

 

あれ? 九浦さん、近所にいたら友達になりたいタイプじゃないか。

孤高の芸術家のイメージが、ただの「近所のいい人」にぬりかえられていった。

 

1971年、野田九浦氏は91歳という大往生で生涯をとじることとなる。

そののち、彼の住んでいた敷地は、遺族によって武蔵野市に寄付された。

 

記念公園はいずこへ?

ところで、今回の調べものの目的を覚えているだろうか。

それは、「野田記念公園の正体を調べること」だ。

この50年前の地図が原点だ。

 

いったん情報をまとめてみよう。

この土地についてわかっていることを書き出してみる。

「野田記念公園」、どこいった?

 

ここからは、ローカルな情報を調べることでせまっていこう。こういうときはネットではなく本の情報を調べるのが一番だ。

そこで、当時の情報がまとまっている『市報むさしの』を図書館で借りることにした。

予想外に大きくて小学生の1学期終わりの下校を思いだすことになったので、借りる人は注意してください。

ページをめくっていくと、当時の時代が見えてきた。

当時もインフレがひどかったようで、わかるよその気持ち。(市報むさしのNo.669, 昭和49.7.15)

こういうイラストからしか得られない栄養がある。職員が書いたのかな。(市報むさしのNo.722, 昭和50.12.1)

ページをめくること1時間。

ようやく見えてきた。順をおって説明しよう。

 

1970年代の日本は、「交通事故の増加」や「公害」などの問題をかかえながらも成長をつづけていた。その成長のみなもとが、人だ。

今でいう「第二次ベビーブーム」が、ちょうどそのころだったのだ。

そのせいか、現在よりも子どものニュースが多めだ。(市報むさしのNo.620, 昭和48.4.1)

では、想像してみてほしい。子どもが増えると何がたりなくなるか。それが、「遊ぶ場所」だ。

当時は公園がたりず、公園にするための土地の確保が大きな問題となっていた。

「1坪(1.8m*1.8m)でいいからください」と。あまりな必死さだ。(市報むさしのNo.621, 昭和48.4.14)

そんなときに寄贈されたのが、野田九浦の旧邸宅だった

 

公園不足のときにちょうど寄贈された土地。

これは、公園を造るためにある土地だといっても過言ではない!

 

ページをめくる手が早くなる。

一つのページで、「おおっ」と小さく声がでた。

目にはいったのは、当時の「野田記念公園」の姿だった。

本当にあったんだ!(市報むさしのNo.689, 昭和50.2.1)

野田九浦の死去ののち、邸宅はこわされることとなる。

そして1975年に、跡地の広場と庭園部分が「野田記念公園」としてオープンした。

 

やはり、「野田記念公園」は、画家である「野田九浦の邸宅跡にできた公園」だったのだ。

 

もう一つの問題

となると、逆にあらたな謎が出てくる。せっかく「記念公園」ができたのに、なぜ今はコミュニティセンターになっているんだろう。

 

広報のページを進めると、こちらもしっかりと答えがあった。

 

当時の武蔵野市では、公園の整備とならんで力を入れていることがあった。

それが、市民の居場所である「コミュニティセンター」をつくろうというプロジェクトだ。1971年に「市民センター建設委員会」が立ちあがり、場所や建物の話しあいが始まった。

この意気込みを見てほしい。(市報むさしのNo.572, 昭和46.8.15)

そんなときに寄贈されたのが、野田九浦の旧邸宅だった(本日2回目)。

 

これは、コミュニティセンターを建てるためにある土地だといっても過言ではない!

 

こうして、公園の場所にコミュニティセンターがつくられる方針となり、2階建ての施設が計画された。

 

しかし、ここで野田九浦氏の人間力が生きてくる。子煩悩で動物好きでお弟子さんとの仲がよかった九浦氏は、地域の人からもしたわれていた。

当初は2階建ての予定だったのだが、「九浦さんが大事にしていたものをできるだけ残したい」との意見があがってきたのだ。

その結果、植物をできるだけ残して平屋建ての建物に計画がかわることとなった。

 

こうして1978年4月に「九浦の家」がうまれた。

やっぱり庭園を推してる。(市報むさしのNo.799, 昭和53.4.15)

「九浦の家」は、野田九浦氏が地元で大切にされていることの生き証人だったのだ。

 

その結果、1975年に開園した野田記念公園は1977年に閉園となり、「記念公園」としては異例の短さで姿を消すこととなった*。

やっとわかった。

「記念公園」という立派な名前がありながら情報がでてこなかったのは、短命だったからか。

べつの資料にも公園の写真があった!(『九浦の家の10年』より引用)

「開園期間のみじかい記念公園」で、ギネス記録ねらえるかも。

 

*『市報むさしの』によると、1977年10月にコミュニティセンター建設のために地鎮祭が行われているので、そのときには野田記念公園が閉園していたと考えられる。

 

終わりに

野田九浦氏が吉祥寺に引っ越したことがきっかけで、記念公園がうまれ、コミュニティセンターがうまれた。まるでピタゴラスイッチだ。

実は、このピタゴラスイッチにはもう一つの流れがあった。

野田九浦氏の没後に寄贈されたのは、土地だけではなかった。彼の絵画も武蔵野市にわたされていたのだ。

これらを寝かしておくのはもったいない。それがきっかけで、武蔵野市に美術館をつくる計画が立ちあがった。

こうして生まれたのが、吉祥寺の商店街にある「吉祥寺美術館」だ。

人気の街・吉祥寺には、「幻の公園」と「一人の画家の足跡」が今も息づいている。

 

参考文献

※記事中の絵画と野田九浦の写真は『野田九浦展』または『野田九浦―<自然>なること―』から引用したものです。

備蓄米のパッケージの自由さを愛でる

今年のはじめから流行ワードの先頭をぶっちぎり続け、お茶の間の話題をかっさらっているものがある。

備蓄米だ。

では、その備蓄米の「パッケージ」を意識して見たことはあるだろうか。

実は今、備蓄米のパッケージが楽しいことになっている。

 

きっかけ

5月はじめのこと。お米が高い。備蓄米がほしい。

近所のスーパーのお米コーナーをちらりとのぞくのが日課となった。でも、目が合うのは空の棚ばかり。

 

ある日、底が見える米びつを目にして思った。

本気で買いに行こう。30分歩いた先にあるデカいスーパーに足を運んだ。

ビルの入り口のくぐり、2階へのエスカレーターに乗る。棚に目をやると、3000円台のお米と目が合った。

備蓄米、やっと会えたね。

 

で、ここから本題です。

5kgの運搬クエストを終え、家で戦利品を広げる。

床においたあと、あれ?と1分ぐらい見つめあってしまった。

「いつものお米」

なぜか、このお米に対し「友達」のような親しみが芽生えてきた。仲良くなれそう。

なぜだろう。その理由を考えていこう。

 

普段買うお米は、どこか「高貴」なイメージがある。パッケージにあるのは「銘柄名」だ。

あきたこまち

あきたこまち」や「コシヒカリ」のように、生い立ちを堂々と名乗る姿には歴史の重みと生まれへの誇りがにじみ出ている。

 

それに対し、「いつものお米」はどうだろう。あまりに日常の延長線にいる。

なるほど、親しみを感じたのは、備蓄米が肩ひじ張らない「ふつうの存在」だったからか。

普通のお米を「有名私立校に通うお嬢様」とすれば、備蓄米は「眠気をこらえながら授業を受ける公立校の生徒」といったところだ。

 

では、ほかの備蓄米はどんな名前なんだろう。

調べて見えてきたのは、想像を超える「自由なパッケージ」の世界だった。

今回は、そんな備蓄米の世界を、6パターンにわけて紹介します。

 

※備蓄米の多くは「備蓄米」と書かれて販売されていないため、ブレンド米と備蓄米の区別をつけるのは難しい一面があります。そのため、紹介するものは「複数原料米」であっても備蓄米が含まれていない可能性があります。ご了承ください。

 

1. 安いといえば?

最初に紹介するのは、「安いといえば○○」という連想ゲームで名づけられているお米たちだ。

 

安い=食べ放題!

安いを極めるとたどり着く頂点の場所、そこが「食べ放題」だ。

人は食べ放題を求める。

すたみな太郎」では生肉や寿司を火あぶりの刑に処し、「しゃぶ葉」では肉の入った容器をタワマンのように積み上げていく。

それらに共通する魅力が「安さ」だ。

では、ここで考えてほしい。

 

「安い商品」であれば、実質「食べ放題」なのでは。

 

この自由な発想のもと、新しいパッケージがこの世に一つ生まれた。

「大満足 食べ放題」

この勢いの良さ、好きです。

 

安いといえば「楽しい」

次はこちらを見てほしい。

「楽しい食卓」

お金の余裕は幸せに直結するものだ。

もし5キロ6000円のお米を仕方なく買ったとしよう。ため息をつきながら精算機にお札を滑らせることとなる。

お米を食べるときに値段を思い出し、表情はくもってしまうに違いない。

 

では、逆に安いときはどうなるか。家計にゆとりができてお父さんお母さんはにっこり。それが子どもにも伝わり、食事は笑顔のあふれるものになっていく。

この風景を一言で表したのが「楽しい食卓」ということだ。

無洗米もあるよ。

 

安さといえば「応援」

今度は売る側の目線で考えてみよう。

お店としてはお客さんに笑顔になってほしい。でも、利益を出さないといけない。

物価高の苦しみをやわらげることがしたい。

そうだ、「応援」の意味をこめて安いお米を仕入れよう。

「くらしの応援米」

買う側だけではなく、売る側にもまた別の悩みはあるものだ。

そんな思いがにじみ出ているパッケージでした。

 

2. 私がブレンドしました

お米が売るとき、陰の功労者がいることを想像したことがあるだろうか。

それが、お米を集めてお店に届けるまでにかかわっている業者の方々だ。

 

普通のお米のパッケージで彼らが目立つことはない。

なぜなら、パッケージの主役は「銘柄名」だから。

 

しかし、備蓄米は複数のお米をブレンドして作るので主役がいない。

その結果、今までは裏方に徹していた「業者名」がパッケージの主役に躍り出るお米がでてきたのだ。

 

たとえば、JAグループの「全農パールライス」。

「パールライスのお米」

「全農パールライス」がブレンドしたので「パールライスのお米」と。

「私がブレンドしました」とばかりにパッケージのセンターをつとめる「パールライス」の文字は、どこか誇らしげだ。

 

名古屋を拠点としている「ヤマトライス」が売り出すお米は、名づけて「ヤマトTHEライス」だ。

「ヤマトTHEライス  おいしいお米を全国から選りすぐり」

アニメやドラマの劇場版に「THE MOVIE」をつけることで特別感を演出することがある。この手法をまさかお米でも見るとはね。

お米が主人公の映画があるとすれば、いったいどんなものになるんだろう。

 

3. 産地はあります!

お米の銘柄名の中には、「地域」をイメージするものがある。

たとえば、「ゆめぴりか」と聞くと雄大な北海道の平地が頭に広がる。「あきたこまち」と聞くと秋田のきりたんぽが食べたくなる。*

つまり、お米のパッケージのセオリーの一つは、「地域色を出す」ことだ。

 

そのノウハウは、一部の備蓄米でも活かされている。

たとえばこちら。

「北海道産のお米」

実は、ブレンド米でも地域色を捨てないですむ方法がある。

「同じ地域のお米だけでブレンド」すればいいのだ。

これにより、「備蓄米感」がうすい雰囲気で売ることができる。

 

「その手があったか! でも、バラバラな地域でブレンドしちゃったよ……」

そんなことを思った業者の方!

安心してほしい。

まだ、手はあります。こんな風に。

「国内産100%のお米」

「日本産のお米をブレンドした」とアピールすればいいのです!

「すごそうなお米に見えて当たり前なことを言ってるだけ」なんてつっこまれても気にしてはいけない。まちがったことは書いてないので。

 

「やっぱり日本のお米」

日本産であること、それだけで立派なお米だ。誇っていこう。

 

*あきたこまちに関しては、秋田県以外でも育てられている。

 

4. 品種名に擬態しよう

お米の主役である「銘柄名」が備蓄米では封じられていると最初に書いた。

が、これの抜け道がある。

それが、「お米の銘柄の名前をつける」ことだ。

「縁の舞」

備蓄米は、新たな出会いを作り出す。

普通の日常では出会うことのなかった「二人(異なる銘柄のお米)」が「ひょんなきっかけ(備蓄米放出)」で「結ばれる(一緒にブレンドされる)」こととなる。

そんな物語から生まれたTHE MOVIEに名前を付けるとしたら、「縁の舞」だろう。

クライマックスは炊飯器の中で舞い上がる二人のシーンでお願いします。

 

出会いといえば、こんなのもどうでしょう。

「きらめぐり」

不思議な「星(キラッ)」の「めぐりあわせ(備蓄米の放出)」で出会った彼らの物語だ。

そう思ってパッケージをながめると、映画のポスターのように見えてくる。見えてきません?

 

二つの合わせ技を使っている備蓄米もあった。

「キタノイロドリ」

いかにも銘柄っぽいが、これもブレンド米だ。

北海道産のみをブレンドして地域アピールするだけでなく、「キタノイロドリ」という銘柄っぽい名前をつけることで、いかにも「エリートのお米感」を醸し出している。

 

「太陽の恵み」

これもシンプルで良くないですか。

お米のパッケージでありながら「どの食物にもつけられる名前」なのが味わい深い。

この袋にジャガイモを入れたら誰も米袋だと気づかないでしょう。

 

5. 備蓄米の匂わせ

ところで、備蓄米はなぜここまでひねった名前をつけているのだろう。

シンプルに「備蓄米」と書いて売り出せばいいのではないか。

調べてみると、理由が見つかった。

 

備蓄米とあえて表記しない理由について、JA全農は「買う人が取り合いになり、消費者や流通が混乱することを避けるため」と説明する。

FNNの記事より引用)

 

備蓄米を隠しているのは、イベントのとき騒がれないように裏口から入場する有名人と同じ理論だったのか。

(だだ農林水産大臣が変わってからは、備蓄米と書かれたお米も現れ始めている。)

 

ならば、備蓄米とわかるような匂わせをすれば、売れるのでは?

その発想のもと生まれたのが、「ブレンド米」を前面に売り出すパッケージだ。

「国内産ブレンド米」

普通の銘柄の真似をせずに、あえてブレンドしたことをアピールすることによって、「僕、備蓄米っぽいでしょ?」と振り向かせるたくましさよ。

 

「お買い得米 生活応援ブレンド米」

こちらは、これでもかと「お得」をアピールしている。

このパッケージを見ていると短歌ができたのでご査収ください。

お買い得 生活応援 ブレンド
ご理解の上 買い求めてね

 

6. お米はごはん

「ごはんはおかず」という曲がある。

ごはんはお好み焼きやラーメンといった炭水化物にも合うから、主食というよりおかずだ!

と主張しつつ、

でも納豆や生卵とも合って最高だよね

と、ごはんへの愛を高らかに歌い切った名曲である。

 

この曲で分かるとおり、日本人は

「ごはんだいすき」

なのだ。

 

深く考えることはない。

お米のパッケージにも「ごはん」と書いておけば売れるのだ。

 

なぜなら日本人は、

「ごはん主義」

だから。

ごはんさえあればハッピーなのだ。

ごはんさえあれば頑張れるのだ。

「今日も元気だごはんがうまい!」

ごはんさえあれば元気なのだ。

 

ごはんはすごいよ、ないと困るよ。

だから、早く値下がりしますように。

『チェーン店が好きだ』を文学フリマ東京40で頒布します!

昨年の12月、「待ち合わせ同好会」というサークル名で文学フリマに参加した。

そして、今回、同じサークルで文学フリマ東京40に参加します!

新刊の中身

前回に引き続き、「電車待ちに読むブログ」の人と一緒に作った本になります。

今回は「チェーン店」をテーマにそれぞれ記事を持ちよったものになる。

今回の記事は三つだ。

  1. サミットが主催するお祭りに行ったらサービス精神に圧倒された(あわうみ)
  2. くら寿司が大阪・関西万博で世界の料理を商品化したので、関東で食べられる32店舗を全部巡ってきた。(電車待ち)
  3. 小田急」のスーパーが一店舗だけ「京王線」沿いにある(あわうみ)

おまけとして、それぞれの記事の裏話をのせた「座談会」が今回も入っている。

ページ数は、なんと168ページ!

前回の96ページから大幅な進化だ。

よろしくお願いします!

 

出店の情報

イベント名:文学フリマ東京40

日時と場所:2025年5月11日 東京ビッグサイト

サークル名:待ち合わせ同好会

作者:あわうみ・電車待ちに読むブログ

ブース番号:す-62

お品書き

  1. チェーン店が好きだ(新刊)
  2. 歌詞をたよりに集まる
  3. 「國威宣揚」と書いてある石碑の本

「光の村」に行く

突然ですが、めちゃくちゃいい地名があったんで見てください。

地理院地図より作成)

富士山の見えるところが「富士見」と名づけられるように、地名はその場所を表しているものだ。

で、「光の村」ですよ。

こんな明るい名前の地名があるなんて。

行くだけでハッピーになれる空間にちがいない。

 

思いうかんだのは、自然に囲まれたリゾート空間だ。

「光の村」に行って、森をながめながら温泉でゆったりしたい。

※画像はイメージです。

あとは「光の村」ならではのスポット、たとえばライトアップとかあったらいいな。

虫が明かりに飛んでいくように、今、光の村に吸いよせられている。

 

光の村に行こう

1週間後、僕は「光の村」の入り口に向かっていた。

向かう場所は、リゾートとして有名な静岡県伊東市だ。

この立地、解釈一致です。

 

城ヶ崎海岸駅から国道135号線を歩いていく。

「光」と書いて「希望」と読むお店があった。「光の村」には希望もあると!

30分ほど歩いたところで、「光の村」の近くにたどりついた。

現在地はこんな感じ。細道の先に「光の村」があるようだ。

坂道をのぼった先に希望が待っている。

 

進もうとして、ぴたりと足が止まった。

さっそく見つけましたよ。

「光の村」の文字がいきなりの登場だ。

 

さらに、道を進んで10メートルで再び立ち止まることとなった。

再び「光」の文字と目があったのだ。

電柱には古い地名が残っていることもある。

光南」はなんだろう。ホームセンターしか思い浮かばないのでとりあえず保留で。

「光野」はおそらく「光の村」のことだろう。

 

歩いて1分でこれだけ「光の村」の匂わせが見つかった。

これは勝ちましたわ。

歩幅が大きくなっていく。

 

では、この先にある希望(ひかり)、見せてください。

のんびりのどかな坂道に家がならんでいる。ここなら穏やかにすごせそう。

坂をのぼりきった。地図にある「光の村」は、ここだ。

視界が開ける。

ゲートが目に入った。光の村への入り口だ。

この先に温泉はありますか。

看板になにか書いてあるな。

看板に近づく。「あれ?」と思わず低い声がもれた。

まさかの、工場??

あわてて会社の情報を検索する。

「粗大ごみ」「産業廃棄物」と「光」からあまりに遠い言葉がずらり。(フジタHPより引用)

「光の村」に来たはずなのに、その場所にあったのは「リサイクル工場」だった。

「光」というよりも明らかに陰の(いやそれは失礼か)縁の下の力持ちな存在だ。

 

光の村、どこにいったんですか。

このあとも光を探し、まわりをさまよい続けた。

別の地点から「光の村」を見ると、村どころか家すらなかった。

結局、探し続けて見つけたのは、バス停と電柱だけだった。

光は消え、理想の世界はなくなってしまったのだろうか。

 

うつむいて歩いていると、バス停にぶつかった。思わず力が抜けた。

バス停「理想郷ならあるよ」

違う、そうじゃない。

たしかに探していたけど。

(理想郷については詳しく書かれているサイトがあるのでそちらをご覧ください。)

 

ということで、歩いてわかった結論です。

 

光の村のはじまりは「親子喧嘩」にあり?

光がないなんて、そんな悲しい話で終わらせたくない。

そこで、「光の村」について調べてみることにした。

 

バス停と電柱よりもはっきりとした「光の村スポット」がどこかにあるはずだ。

……あるよね??

 

資料を順番に調べてみる。

なるほどなるほど。

朗報です。かつて、実際に「光の村」が存在したという情報、ありました。

 

「光の村」の歴史について、大事なところを抜き出すとこうだ。

光の村の始まりを知るためには、親子の物語を見る必要がある。

これが波乱に満ちていて、NHKの朝ドラにできてしまうような濃厚さだった。

本題とはちょっとそれるが、紹介させてほしい。

 

光の村ができるまでの物語の、はじまりはじまり。

 

光の村の創業者の一人、岡崎久次郎(おかざききゅうじろう)は、今から約150年前の1874年に生まれた。明治維新が起こり、大きなうねりが生まれた時代だった。

 

その時代の急流に、彼は全力でオールをこいでいった。

いや、「ターボエンジンでぶっ飛ばしていった」というほうが正しいか。

 

というのも、彼の行動力がとんでもなかったのだ。

 

まずは、このエピソードを見てほしい。

結婚式で「ちょっと待った!」ってやる人、現実でもいたのか。

 

そして、「日本一の金持ちになる」と言いのけた久次郎は、実際にその約束を果たしていくこととなる。

自転車の輸入で大金持ちになり、神奈川県の茅ヶ崎に広大な別荘を造った。

さらには国会議員となり、政治とのパイプまでも手に入れることとなる。

こんな光にみちた人生ってあるんだ。

ちなみに、今も残る自転車メーカー「FUJI」の創業者が、彼だ。

 

しかし、そんな大富豪にもうまくいかないことがあった。

子どもの教育だ。

「金持ちにする」とまで言ってプロポーズした彼は、妻(そして子ども)が贅沢な生活をすることに強く出ることができなかった。

その結果、子どもは苦労をせず遊び好きに育ってしまったのだ。

次男三男のギャンブルで借金がかさんだり、長女の男遊びによって彼女の配偶者が自殺に追いこまれたりと不幸が重なり、やがて岡崎の家は没落していくことになる。

 

 

さて、そんな兄弟の中に例外がいた。

のちに「光の村」を父と作ることになる、長男の岡崎俊郎だ。

ようやく、もう一人の主役の登場だ。

長男の俊郎はほかの兄弟とちがい、病弱だった。結核がなおらず高校を中退し、看護師さんに看病をしてもらいながら生活をしていた。

で、ここまではいい。

問題はここからだ。

彼は、父の血を受け継いでいた。どの部分をか。

 

行動力だ。

 

どうしてこうなるの!?

突然の駆け落ちに、もちろん父は激怒する。

 

父に反発した俊郎は、「相続を倍にしよう」と総理大臣に要望書を手渡したり、「靴磨き」をして全国を回ったりと、父顔負けの行動力を見せていく。

また、活動を続けていくうちに、彼は「慈善活動」にのめりこんでいくことになる。

 

父のような強い人でなく、弱い人の力になりたい。

 

やがて、その本気は父に伝わった。

二人は和解し、父は息子の活動を支援するようになっていった。

 

そんな親子の活動の集大成がある。

「光の村」だ。

 

困っている人を助けるような理想の村を作りたいんです!

わかった。お金は私が用意しよう。

 

大富豪の父と苦労人の息子、彼らの確執をのりこえて生まれたのが光の村だったのだ。

 

「光の村」は消えていた?

いい話だった。めでたしめでたし。

満足してページを閉じた。閉じたまま固まった。

結局、光の村はどうなったんよ。

 

再調査開始だ。

その結果見えてきたのは、「光の村は戦時中に消えた」という事実だった。

 

光の村の住民の多くは若者だった。

その理由は、光の村を作った目的にある。

困っている若者を「光の村」に住まわせ、生活をとおして「農業の技術」を教えこむ。ゆくゆくは光の村を離れて、地元にその技術を伝えてほしい。

光の村は、そういう目論見で作られたものだった。

 

しかし、太平洋戦争が始まり、光の村の若者も戦争に駆りだされていくことになる。

こうして運営は成りたたなくなり、戦時中には活動が停止してしまった。

 

そして、戦後をむかえても、この地に「光の村」が戻ってくることはなかった。

 

空白の50年を探れ!

戦後、光の村は伊東から消えてしまった。

では、「光の村の跡地」には何ができたのだろう。

 

ちなみに、光の村だった場所に現在のリサイクル工場ができたのは、意外と最近らしい。

1987年 伊東市富戸1033-8に移転
     ※光の村と同じ住所
株式会社 フジタ 会社概要より引用)

つまり、光の村が消えてから工場ができるまでに空白の50年間があることになる。

その間に何があったのかわかれば、それが「光」を探す手がかりになるはずだ。

 

試しに当時の地図をパラリと開く。

「光の村」の右上(北東)を見て、固まった。

「コスモランド」ってなに??

まさかの、「光」の次は「宇宙(コスモ)」が出てきました。

 

番外編:光の村の近くに「光の国」があった?

「コスモランド」を翻訳すると、「宇宙の国」となる。

「光の村」や「理想郷」と聞くだけでお腹いっぱいなのに、さらに壮大な名前が出てくるとは。

 

しかし、コスモランドのインパクトは名前だけではなかった。

 

当時の写真があったので見てほしい。

農業技術研究 19(8)(224)より引用)

あまりに「光」な見た目じゃないですか。

東京のど真ん中にあっても目立ちそうなぐらい光ってる。

 

まだ終わらない。検索するとこんなウェブサイトが出てきた。

その名も「光跡」。

「光の村の跡」を探しているときにこのサイトが出てくるとは、もはや偶然の域をこえている。

 

では、「光の村」と「コスモランド」はどのような関係だったのだろう。

さらに細かく見ていったところ、わかりました。

 

いやこれだけお膳立てしておきながら関係ないんかい……!

 

では、なぜ「コスモランド」は「光の村」の伏線みたいになっていたんだろう。

ちょっと脱線となるが、「コスモランド」と「光跡」の正体を見ていこう。

いそがしい人は読み飛ばしちゃってください。

 

まず、「コスモランド」の正体は「遊園地」だった。

その遊園地のシンボルが、写真にあった「地球儀大温室」だったのだ。たしかにこの外見ならばっちり人を呼べそう。

コスモランド全体の写真があった。やっぱり地球儀が目立ってる。(@Pressより引用)

 

次は、なぜ「光跡」というウェブサイトが出てきたのかだ。

メインページを見ると、その理由がわかった。

ジュワッ(HPはこちら

実は、コスモランドはウルトラマンの聖地でもあったのだ。

かつて地球儀大温室が制作スタッフの目にとまり、コスモランドで撮影が行われたという。

そして、ウルトラマンの聖地がまとめられたホームページ「光跡」にコスモランドがのった、と。

 

ウルトラマンは「光の国」から来たという。

つまり、「光の国」の住人が「光の村」の近くを通っていたということになる。

光の村とは無関係だったが、まさか「コスモランド」が「光の国」にまでつながるとは。

「コスモランド」は「伊豆ぐらんぱる公園」と改名し、今も続いている。イルミネーションが評判らしい。光だ!

 

「光」を受けついだ農場

さて、本題に戻りましょう。

改めて、戦後の「光の村 跡地」はどうなったのか。

調べていくと、今度こそ情報が出てきた。

どうやら「農地」になっていたらしい。

 

その運営者が――

 

私が「光の村」の事業を引き継ぎます!

 

だっ誰?

 

名乗りおくれました。俊郎の息子の岡崎周(ひとし)です。

 

まさかの、三代目の登場だ。

 

戦後、「光の村」は立て直しをはかる必要があった。

安定した運営をするためには、光の村の目的のうち「農業で生計を立てる」ところに力をいれる必要がある。

そこで、利益がでる農場事業をおこなうために計画を練ることとなった。

 

「みかん」の栽培と「養鶏」を組み合わせることで利益がでる農業を目指します!
みかんは伊豆の名産ですからね。でも畑には肥料がいる。そこで養鶏です。鶏ふんを肥料に加工して使うことで節約ができます。で、やるなら最新式がいいですよね。コンピュータ制御にすればたくさん鶏を飼えるはず。あとは畑も増やしたいな。ぶどうとかどうでしょう。養豚もしてみたい。そのためにもまずは溶岩質のこの地に水を引いて土を足して耕さないと。うまくいったらみかん狩りをやるのでぜひ来てね。

 

こうして、「光の村」は農場として復活をとげる

――はずだったが問題がおきる。

「光の村」は財団法人だったので、利益を求めることができなかったのだ。

そこで、独立した組織として、岡崎俊郎の息子である周が農場を経営することとなった。

 

ようやく準備がととのい、1960年に「光の村」は農場へと姿を変えた。

その名も――

鶏友 (382)より引用)

光南農場だ。

あれ? この名前どこかで聞いたような。

電柱で見たのと同じだ!

しかし、この事業は挫折することとなった。飼料の高さと卵の安さ、オイルショックなどで経営が安定しなかったのだ。

 

その結果、1980年代前半に光南農場は事業をたたむこととなった。

そして今、その場所はリサイクル工場となっている。

 

残った光を探せ!

光の村探しはふりだしに戻ってしまった。

ここまできたら、手がかりが何も見つからなくなるまで探してやろうじゃないか。

 

キーボードをたたき、インターネットの海をおぼれそうになりながら泳ぎ続ける。

一つ、あやしいものを見つけた。

光南農場」の企業情報があったのだ。

活動しているかは謎だが、どうやら登記はまだ残っていると。

ページを開く。「ほほう」と声がでた。

会社の所在地がのっているではないか。

場所は、かつて岡崎一家の別荘があった因縁の地「茅ヶ崎」だ。

これは、行ってみるしかないでしょう。

 

いざ、茅ヶ崎

ということで、光を求めて神奈川県の茅ヶ崎にやってきました。

 

茅ヶ崎は海の街だ。

住民はサザンオールスターズを信仰しており、

 

どんな真面目なキャラクターも海にそまる。

 

タイルも海にゆられて形を変えていく。

 

街の空気感につられてちょっと足どりが軽くなった。ここなら光があるかも。

 

商店街を左に曲がり、住宅地に入る。「光南農場」はこの先だ。

住所の場所に着いた。

 

スゥーっと息を吸って、そのまま立ち止まった。

そうか。

 

結論を言います。

光南農場は、なかった。

左側にある家のひとつが光南農場の住所だ……。

手がかりはついえた。もう、あきらめるしかないのか。

 

帰る前に、もう一度ぐるりと首を回して景色をながめた。

最後にこの景色を焼きつけておこう。

 

突然、ぬいつけられたように視線が一か所に固定された。

思わず足が動いた。

看板に駆けよる。

キミは、ひかり……?

光南農場の場所に、「光」のつくサービスがある。

これは、偶然の一致なのだろうか。

 

もう少し周りを調べてみよう。

 

歩きだして30秒後、足が止まった。

「おぉ」と声がもれた。

よっしゃと手をにぎった。

看板にある文字はもしかして。

「光の村」が、いたのだ。

間違いない、光を見つけた!

 

なぜ茅ヶ崎に「光の村」があるのか。

その歴史は、戦後まもない時代にさかのぼる必要がある。

 

光の村は、「福祉」と「農業」の二つから成りたっていた。

その後、戦後に「光の村」の立てなおしを図り、農業部門が「光南農場」として姿を変えることになった。

 

実は、このときに福祉部門も姿を変えて生き残っていたのだ。

光南農場」で農場部門をがんばります

頼んだ。「光の村」を茅ヶ崎に移転させて福祉活動も続けることにするよ

 

岡崎の家は没落し、茅ヶ崎の別荘は売られていった。しかし、その土地の一部はまだ残っていた。

そのため、福祉部門の移転先として茅ヶ崎が選ばれたのだ。

光の村は、伊東から茅ヶ崎へ場所をかえて生き残っていた。

そして今日も、「光の村」は子どもや障がい者、お年よりに手をさしのべ続けている。

 

ということで、最後の結論です。

 

参考文献

サミットが主催するお祭りに行ったらサービス精神に圧倒された

サミットが好きだ。

一人暮らしを始めて不安だったときに支えてくれたのはサミットだった。

週ごとに別の商品を2割引してくれるやさしさ。ご機嫌で鼻歌を歌いながらレジをこなしていた元気な店員さん。

疲れたときに元気をもらった回数は数えきれない。

そんなサミットが主催しているお祭りがあるという。

行ってみると、サミットのサービス精神がこれでもかと襲ってくるとんでもないお祭りでした。

 

サミットのお祭り

サミットは首都圏を中心に展開するスーパーマーケットだ。

緑の若葉が目印!

サミットはほかのスーパーと比べてどこか明るい。

おそうざいコーナーには「写真を撮って家族に送って相談してね」とやさしく書いてある。レジの人も他のお店より明らかに元気で、「楽しく働いている感」が伝わってくる。

疲れたときに行くとちょっと元気が出る店。それが僕にとってのサミットだ。

 

金曜日の仕事後、いつもの習慣でサミットの公式アプリを開いた。土~月曜日のチラシをチェックするためだ。

裏面に気になるものを見つけた。

お祭りの宣伝がなぜここに?(2024年12月14~16日の広告より引用)

調べると、どうやらサミットが主催するお祭りがあるという。(大宮八幡宮との共催)

サミットファンとして、これは行くしかあるまい!

 

大宮八幡宮へ!

当日、電車に乗りながらスマホでぽちぽちと検索する。ちょっと予習しよう。

「杉並花笠祭り」は、サミットが「地域の方々に日頃の感謝を伝える」ために始めたものだという。

感謝を伝えるために何をしようかと考えたとき

「山形のいも煮がうまかったから食べさせたい!」
「それなら山形の花笠祭りと組み合わせよう」

と意見が出て決まったとか。

食べ物がきっかけで始まったお祭りってのがスーパーらしくていい。

 

西永福町駅から歩くこと10分、立派な鳥居が目に入ってきた。到着だ。

ということでやってきました大宮八幡宮

進むとさっそく行列があった。なになに。

行列は何だろう。数十メートル辿ると――

「いも煮チャリティープレゼント」

いきなりの山形に出会った。しかも無料!

いいんですかサミットさん。

いつもお世話になっているのに、ここまでしてもらっていいんですか。

と思いつつ、Uターンしていそいそと並んだ。

行列が長くていも煮のテントが見えない!

「初詣に並んでる」って言えば100%信じてもらえる写真が撮れた。
いも煮に並んでます。

「鍋通りまーす」って聞こえて、なんだそれって見たら鍋が通っていた。

石碑「さまよえる こころ一途に 何を欲す」
僕「いも煮を欲してます」

25分後、ようやく約束の地にたどり着いた。

待ってたよ!

いも煮をてにいれた!

用意されたベンチに座っていただきます。

自然と笑顔になった。いも煮は、想像の倍は満足できるものだった。

はじめて食べる巨大サイズの里いもがひたすらにやさしい。ネギと牛肉が汁にとけこみ、スープを引き立ててくれている。山形名物の玉こんにゃくが入っているのもうれしいところだ。

山形に初めて行ったとき、山寺で食べた玉こんにゃくがうまくてびっくりしたんだっけ。

ごちそうさまです!

何より予想外だったのは、量がたっぷりあることだ。こういう無料のものって、たいていは量が少ないものだ。しかし、このいも煮には野菜と牛肉がこれでもかとごろごろ入っていた。

さすが、いも煮のためにお祭りを始めただけはある。サミットの本気を見た。

 

サミットの本気はこれからだった

サミットのおもてなしに、さっそく満足してしまった。

ただこれで帰るのはもったいない。もう少し歩いてみよう。

角を右に曲がると、もう一つの参道が現れた。

その先の光景に足が止まった。

この人だかりは一体……?

いも煮の行列よりも熱気がある。

人の流れに飛び込んでみると、その正体がわかった。

シカ肉が無料ですと!?

水餃子も!

カレーライス食っていいのか!

「アイスクリームつかみ取り」人生で始めて聞いた言葉の組み合わせだ。

チャリティーはいも煮だけではなかったのだ。

しかも、様々な企業がアベンジャーズのように集って提供を競っている。

ちなみに、「チャリティープレゼント」なので受け取るときに募金もできる。しかし、その募金は各企業ではなく社会福祉の団体に寄付されるという。

ひたすら続くチャリティーの連なりに揺さぶられてフラフラしてきた。

僕ら庶民が想像する夢の世界って、こんな空間じゃないだろうか。

「サービス精神王選手権」の会場はここですか。

 

そんな企業たちの姿を見て思ったことがある。

これ、「サミットカップ」と似てるな。

サミットカップとは、24のメーカーが自社製品を使ったレシピを提案し一番人気を決める、トーナメント形式のイベントだ。

告知ポスターにも力が入ってる。(サミットのプレスリリースより引用)

このイベント、サミットが謎に力を入れているのだ。

まずはこの戦いの画像を見てほしい。(サミットのXより引用)

見てほしいのが、参加者の肩書きだ。

エバラ食品工業株式会社 代表取締役社長 森村 剛士

理研ビタミン株式会社  代表取締役社長 山木 一彦

各会社の食品の仮装をしているのが、社長なのだ。

つまり、参加する24社すべての社長と調整し、衣装を決め撮影する手間を踏んでいることになる。

コメントも「シーソー(紫蘇)ゲーム」「負けてもへこタレないでくださいね」と異様な凝りようだ。

ポイントはまだある。対決時のコメントは対戦ごとに変わるので、

24(予選)+16(決勝1戦)+8+4+2…=54パターン

も考えることになる。

54個のダジャレを考える仕事、僕にも手伝わせてください。

日清食品さんのチキンラーメンをいただきました! 寒空の下食べるジャンクな味わい、いいよね。

サミットが全力を尽くして企画を立ててやりぬく姿に、サミットカップと今日のお祭りが重なった。

そんなことを考えながら歩くと、競い合って出しているブースがお互いをたたえるような場所に見えてくる。

満足してデザートがほしくなったので、日清製粉ウェルナさんのチュロスをゲット。内側にカスタードがつまってておいしかった!

 

まさかのVIP登場!

「まもなく花笠踊りがここを通ります!」

人をかき分けて歩いているとアナウンスが耳に入った。えっここ通るの。

そういえば、今回の「お祭り」のメインをすっかり忘れてた。いそいそと見やすそうな場所に移動する。

和楽器が鳴り出した。

太鼓の低温が腹にしみていく。この音を聞くと高まるDNAが刷り込まれている。

スタッフの方がくるくるとひもで通路を作っていく。

人が通れるようになった。

そういえば、杉並花笠踊りでは会社ごとのグループで踊るとか。

だんだん列が近づいてきた。

最初に現れた団体は――

サミットだ!

サミット社員さん、いつもお世話になっております。この法被、どこで買えますか。

女性陣の華やかな動きを見て、花笠踊りの良さがすぐにわかった。

そのあとに続くサミットカラーが男性陣だ。

男性陣を見ていると、一気に顔が熱くなった。

「えっ!!」と声が出た。

ひときわ楽しそうなスキンヘッドの方はまさか、

社長さんだ!!

ぴょんぴょん跳ねたくなるのをこらえてスマホをかまえた。

 

えー、ここを読んで多くの人は「なんで社長を知ってるの」と疑問だと思う。お答えします。カギは、またまた「サミットカップ」だ。

さっきの画像の下のほうをよく見てほしい。

お気づきだろうか。

社長がいるんです!

サミットカップには、「レフェリー」として社長が参加しているのだ。

サミットカップは7月から12月までの長いイベントだ。そして、広告には対決のたびに社長が映ることになる。

気づいたらすっかり姿を覚えていた。

お客さんにファンサをする社長!

ちなみに、サミットの花笠踊りは一糸乱れぬというよりは人によって踊り具合が様々で味わい深かった。

社員がスーパーで踊るけど乗り具合が人によって全然違う「サミットファンの歌」みたいで、こういうのもいいものですね。

 

そのあとも列は続く。

「東京花笠連合会」こちらは花笠の動きがびちっとそろっていてかっこいい。本場の花笠祭りを見に行きたくなってきた。

サミットのスタッフが「住商フーズ」と「フジッコ」の人とノリノリで踊っててお祭りはこうでなくっちゃね。

屋台やサミットカップで見た企業が続々と現れる。凱旋パレードみたい。

後半になるとみんな顔が疲れてくる。
そういえば踊っている人たち、休日出勤のサラリーマンなんだよなとちょっと我に返った。

 

クライマックスへ

列がとぎれた。彼らはみんな、本堂のほうへ進んでいった。

ついていってみよう。

門をくぐる。

全員が集まって踊っている!

これはいい。

花笠の赤とサミットの緑、そして空の青が混ざり、まるでこの世とは違った世界が生まれていた。

理由はうまく言葉にできないけど、ずっと見ていたい。そう思った。

 

太鼓の音が止んだ。踊りが終わる。

世界は現実に戻っていく。

 

お祭りのメインイベントも見られたし、そろそろ帰ろうかな。

後ろを振り向くと、

見覚えのありすぎる色合いだ。

キョロちゃん

どうやら、この境内ではゆるキャラの撮影会が行われているようだ。

ひよこちゃんとレモンじゃの邂逅。

コアラのマーチ。高速に鼻をへこませる技を披露していて二度見した。

ふと遠くに目をやると、花笠踊りの参加者が記念撮影を始めていた。

手前にはゆるキャラを見て笑顔の子ども。

奥には踊りを終えて笑顔の大人たち。

平和って言葉は、こういう風景のことをいうのだろう。

とにかくいいイベントでした。

 

終わりに

時計を見ると、会場に来てから3時間もすぎていた。

サミットのお祭り、まさかここまでサービス精神旺盛だとは。

食べ物に踊りにゆるキャラにと、心も体もお腹いっぱいだ。

 

帰り道、通りの先に見覚えのあるロゴがあった。

サミットの本社、こんな近くにあったんだ。

このお祭りは、サミットが「地域の方々に日頃の感謝を伝える」ために始めたという。

気持ちは嫌というほど伝わった。

ありがとう、サミット。

また、お店に行くね。

サミットのゆるキャラ「もぐにぃ」もかわいかった!