臘八摂心7日目である。この七日間、拙僧自身もささやかながら坐禅を務めつつ、「臘八摂心」という作法自体について参究してきた。今日はその集大成であり、何故この行持が定められるに至ったかを示すものである。
そこで、まずは明治22年に開板された『明治校訂洞上行持軌範』「年分行持」項から、その様子を探ってみたい。実は、最初の『行持軌範』では、臘八摂心が定められていないのである。その前後の差定を確認すると、以下の通りである。
・十一月十六日 禺中羅漢講式
昏鐘罷首座本則茶
・十一月十七日 禺中祝茶首座法座
・十二月 七日 成道会準備
徹夜坐禅
・十二月 八日 出山如来献粥諷経
午時成道会出班焼香
・十二月 九日 断臂報恩
徹夜坐禅
・十二月 十日 神丹二祖献粥諷経
午時神丹二祖献供諷経
以上の通りである。実際には各項目に続いて、その行法が示されているが、省略した。本来、「臘八摂心」を行うのであれば、「十二月一日」の項目が無くてはならないが、それすらも無い。ただし、七日の夜に「徹夜坐禅」が示されていて、以下の通りとなっている。
徹夜坐禅○此の夜黄昏の坐禅より一衆坐して明曉に至る。故に此夜は定鐘を鳴さず。明曉寅の上刻、通常の洗面版・巡版・振鈴等を為さず、辰司時分を報じ、鐘司大鐘を鳴す。大開静に至て坐禅止む、常の如し。
『洞上行持軌範』巻中・41丁表~裏、カナをかなにし句読点を付すなど読み易く改める(以下、同じ)
いわゆる「徹夜坐禅」であり、特段難解な行持でも無い。そこで、こちらが採用された理由について、本書では以下の通りに説明している。
七日と九日と両夜の坐禅は、瑩規に云く、七日の夜、九日の夜、山僧住裏一衆長坐す。発心以来四十余年、此の両夜に於て未だ打眠せずと。此れ法孫の者、瑩祖の勝躅に倣て両夜の長坐を懈たらざる所以なり。
前掲同著・42丁裏
このように、古規としての『瑩山清規』を典拠としつつ、徹夜坐禅は導入されたわけである。一方で、先に見たように、江戸時代には「定坐」という形で定式化されているように見えるのだが、その件はどう判断されたのであろうか。
臘八摂心の事○椙記に十二月一日より七日迄、尅期摂心の式の施設あり。僧規には之を常坐と名けて一日より八日の曉まで諷経・看経・作務を休止し、粥飯を除の外は昼夜打坐四日の浄髪・開浴も為さず、八日の粥罷に浄髪及び開浴とす。小規に之を弁じて云く、吾門十二月朔日より七日の五更に至るまで期を刻しめ坐禅す。之を定坐と謂ふ。諸清規に無きの法なり。想ふに小院少衆のものは尋常事務の為めに遮礙せられて専ら打坐を勤むること能はざるゆへ期を刻して之を勤めしが相伝て例となるか。大方の叢林多衆安居の処は昼夜此事を以て要務と為さゞるはなし。特に期を刻して定坐と称すべきの理なしと。今は瑩規・勅修等の諸規に拠り臘八摂心・定坐を設けず。然れども、小院少衆にして平生坐禅せざる者は、椙記・僧規を攀て之を勤めて可なり。故に茲に附記す。
前掲同著・42丁裏
以上のようにあって、宗派の公式な行持としては定めなかったけれども、必要に応じて行って良いとしている。実際に、『洞上行持軌範』は、各行持の一々について詳細に研究し、古規及び当時の状況を斟酌し、博約折中して成立しているので、上記のようなことが起きるのである。
それで、この一件を承けて、別の文献では以下のようにも示されている。
一五、臘八接心
仏成道会には臘八接心とて、十二月一日より八日まで、昼夜打坐するとあり、之を定坐と云ふ。是、日常要務に追はれて坐禅する暇なきものに坐せしむる便法にて古規には典故なし。故に今は特志の者は之を修するもよし。大叢林には此事なくも可なりと定められたり。
来馬琢道老師『禅門宝鑑』鴻盟社・明治44年、715頁上段
来馬老師は、以上のように示されて、各寺院や各僧侶の意志に任せて、この行持の有無を決めて良いとしている。ところで、注意すべきは、本書では名称を「接心」としていることである。現代でも、「摂心」と「接心」が混在することがあるが、『行持軌範』は一貫して「摂心」であり、『椙樹林清規』の一部が「切心」或いは「接心」であることは知っていた。だが、実際に現場へ影響を与えていたのは、本書なのかもしれない。
さて、それでは、この短期連載の最後に、『行持軌範』に正式に導入されたのが何時かを確認しておきたい。
十二月一日 第一 臘八摂心
一日より七日まで摂心を行ふ。七日は徹夜坐禅し翌曉午前一時に至る。その行法は左の通りである。
巡版入道
午時略行鉢
施主接茶
垂誡口宣
薬石
坐睡
曉坐
略朝課
朝粥行鉢
徹夜坐禅
『昭和改訂曹洞宗行持軌範』「年分行持」項(曹洞宗宗務庁・昭和27年)176~178頁
作法・行法の詳細は省略し、項目のみ挙げておいた。ただし、これでだいたいの様子は理解出来ると思う。まさに、現代にまで繋がる、いわゆるの「摂心作法」とは、この時に定まったものであることが理解出来る。残念ながら、明治・大正期に導入されなかったのに、何故昭和の戦後になって急に導入されたのか、理由までは分からなかったが、戦後の時期に、新たな教団運営と行持・教化の確立を願っていたことは間違いない。或いは、昭和期の改訂には、先の来馬琢道老師も関わっていたというから、現実と理想とをハイレベルで重ね合わせるための方法だった可能性はある。
とにもかくにも、現代にまで繋がる「摂心作法」とは以上の通りである。両祖の時代には無かったものが、どのようにして宗門内に入り、毎年恒例の行持になったか、ご理解いただければ幸いである。そして、今日一日頑張って坐り、後は明日の成道会を迎えたい。