2025年11月14日(金)

天照大神と書いて、アマテラス。なんと素敵な御名であろうか。
日本神話を勉強していくと、果たしてアマテラスは本当に最高神なのか、タカミムスビの方が上なんじゃないか、スサノオの方が野性味があっていいじゃないか、などといろいろな想念が芽生えてくる。そもそも記紀の出自が天皇の血統を証明するための「作られた神話」であるため、その頂点をなすアマテラス自体が取ってつけた添え物・・・に見えなくもない。しかし、だ。そんな恣意的な創作の果てであろうとも、やはりアマテラスが日本神話の頂点にいることに、個人的な満足感を覚えるのである。
最初に書いたが、まずアマテラスという名前が良い。太陽神を形容するのに、これほどピタリとハマるものはない。誰が考えたんだろう。天才だ。日本語って素晴らしい。
外国では太陽神というと、ルーとかラーとかアポロンとかどうも淡白である。外国語を解さないから単なる依怙贔屓だが(笑)
日本の神様は(ダサいのもいるが)、ツクヨミとかワタツミとかアメノホアカリとかコノハナヤクヤとか何やら神秘的な韻と意味を備えて、そのネーミングセンスに脱帽する。アマテラスはその筆頭である。
先にアマテラスは、日本神話の中では取ってつけた添え物と書いた。確かに、同神が登場する数々のエピソードをなぞると、支離滅裂である。アイデンティティが確立されていない。とても最高神とは思えない所業も多い。のだが、それがかえって魅力である。
例えば、高天原にぶらりやってきたスサノオに、すわ侵略か!? と完全武装して対峙するアマテラス。そして、スサノオの剣を噛み砕き、その息から宗像三女神を誕生させるエピソードは鳥肌が立つほどにカッコいい。
しかし、その後のスサノオの乱暴狼藉に心を痛め、天ノ岩戸にヨヨヨと隠れるアマテラスは、先の武闘派アマテラスとはとても同一神とは思えない軟弱さだ。あまつさえ八百万の神の策略に引っかかって、岩戸から引きずり出される様は、もうみっともないったらありゃしない。
ニニギを天孫降臨させる時は、まるで遠足に行く子供にあれこれと世話を焼くお母さんのように気忙しく立ち回る。「さあ葦原中国を治めてまいれ!」と天壌無窮の神勅を発して送り出した割には、ニニギが降り立ったのは、出雲でも大和でもなく、日向という僻地。
おかげで、ニニギはコノハナヤクヤ姫と結婚して、子どもを産んでおしまい、というはかない生涯を送る。葦原中国を治めるのは、そこから180万年後の神武東征を待つことになる。アマテラスの神勅とは何だったのだろう(笑)
崇神天皇の代に疫病が蔓延した時には、その原因は、三輪の地に2神(アマテラスとオオモノヌシ)を祀っているからだと巫女のお告げを受け、結果どうしたかというと、アマテラスが追い出される。皇祖神なのに、可哀想なアマテラス・・・。これは、添え物の神様より、やはりその土地に古くからいる神様を尊重しないと国は治まらない。つまり土着の民は納得しない、というリアルな政治的問題をはらんでいる訳であるが、まあそれは良いとして、ここからいわゆるアマテラスの放浪が始まる。ヤマトヒメとともに各地を転々とし、今で言う元伊勢なる聖地を量産しつつ、最後にやっと安住の地、伊勢神宮に収まる。良かったねアマテラス(笑)
という風に、アマテラスは日本の神々の頂点と言っても、なかなかのイジられキャラである。良く言えば、天然の愛嬌があって親近感が湧いてくる。どこぞの絶対神ではこうはいかないであろう。
さて、これらのアマテラス伝の中で、最も有名なのは天の岩戸の物語だろう。岩戸に引きこもったアマテラスを再び外に連れ出すために、オモイカネが策を練り、常世の鶏が夜明けを告げ、アメノコヤネが祝詞(のりと)を唱え、アメノウズメが半裸で踊る。外が気になって顔を出したアマテラスは南無三。タヂカラオにヒョイと引きずり出される、という少し情けない物語だ。
しかし、この八百万の神が講じた策の中で一つ不思議なものがある。それは、アマテラスが岩戸から顔をのぞかした時に「なぜお前たちはそんなに楽しそうにしているのだ?」と問うのだが、それに対してアメノウズメが「あなたより尊い神が現れたので皆が喜んでいるのです」と答えるシーンである。そしてアメノコヤネがすかさずアマテラスの顔に鏡を突きつけ、(鏡に映っているのはアマテラス自身な訳だが)アマテラスはそれを自分以上に尊い神だと思い、もっとよく見ようと身を乗り出す。そして結果は先に述べた通り、タヂカラオによって岩戸から引きずり出されるのだ。
これが私にとっては理屈がよくわからない、不思議なシーンであった。なぜ八百万の神々は、わざわざ「あなた以上の神が現れた」などと、アマテラスを傷つけるようなことを言ったのだろう。また、アマテラスだってバカじゃないんだから、鏡を突きつけられたら、それが自分だと分かるはずである。それなのに、どうして彼らの策に進んで乗っかるように振る舞ったのだろう。繰り返すが、もしアマテラスが鏡に映ったのは自分だと分からなかったら、本当に愚かである。なんだろう、このエピソードは? いったい何を伝えたいのだろう?

ここで話は、3年ほど前にタイムスリップする。土日になれば、家族を放って、大阪や奈良をロードバイクで走り回り、神社巡りをしていた時の話である。
場所は、大阪狭山市にある三都神社。なのだが、それはまあいい。私には、伝統とか作法とかを重んじない悪い癖があって、この時も人がいないことを良いことに、ぶらぶらわが物顔で境内をほっつき歩いていた。境内にはたくさんの摂末社がある。その一つ、本当に小さな社があって、格子窓の奥に御神体と思しき鏡が黄金色にチカチカ輝いているのが目に入った。興味が湧いて、ちょいと見てやれ、と覗き込むと・・・そこに自分がいたのだ! いや、もう少し丁寧に言うと、その鏡に写り込んで、御神体よろしく納まっている自分を見たのだ。何だこれは!!? 今、同じことをしても、もうこの時の衝撃は二度と起こらないであろう。分かっていたらダメなのだ。まったく不意を突かれた。
この時の何とも形容しがたい感情。これはアマテラスが岩戸で鏡を突きつけられた時の気持ちと割と近いのではないか。不遜なことながら、私はこの時、鏡の前に立つアマテラスを理解したのだ。
繰り返すが、アマテラスほどの神が鏡に映った自分を自分と気づかないはずがない。「あなた以上の神がいる」と紹介されて、鏡で自分を示される、というのはどういうことか。それは、周囲の神々のアマテラスにかける想いの強さの表れだ。冷静に考えれば、それ以外に解釈のしようがない。アマテラスはそれを瞬時に悟ったのではないか。そして、もう外界に出たくない、引きこもっていたいという気持ちとの葛藤に打ち勝って、覚悟を決めて岩戸を出たのだ。繰り返す。叙述では確かにタヂカラオに引きずり出されたと書いてある。しかし内実はそうではない。アマテラスは「自分の意志」で進んで岩戸から出たのだ。この腐れ切った世界を再び照らすために・・・。
鏡のエピソードは、こうした解釈が許されるくらいの深みを持つ、と思う。創作とはいえ、古事記なかなかやるじゃないか。

さて、書きたかったことは以上だが、もう少しだけ続きを。
三都神社の小さな社の鏡とはいえ、そこに自分(私)を映してしまったのは、さすがに畏れ多いことであった。この世のクズを自認している私を、この鏡が祠に納めたのは、いかなる意志によるものか? まさか私に岩戸から出よと、言われているのか? って何の岩戸だ? まさか日常のあれやこれやを指しているのか? と非常なプレッシャーを受けたことを昨日のことのように思い出すことができる(笑)
まったく霊感のない私が味わった、唯一の神秘体験だ。そして、アマテラスを理屈を超えて身近に感じるようになった理由でもある。そして私が、大きな神社よりも、人けのない小さな神社を好むのも、これが理由である。