切迫する現場の声を聴いた多田謡子賞受賞発表会2025

12月20日午後、第37回多田謡子反権力人権賞受賞発表会が今年も連合会館で行われた。受賞したのは、困窮者と難民の支援、朝鮮人強制労働者の遺骨引上げと返還、ガザのジャーナリスト問題を扱う2人の個人と1団体、3つとも、生命にかかわる切実な問題を扱い、かつ緊急性を帯び切迫した活動の講演だった。どれも現場にいる人からのスピーチなので、臨場感あふれ胸に迫る報告だった。
この中から瀬戸大作さんの講演を中心に紹介する。理由は、わたしがミャンマークルドの難民に関心があり、2年ほど前から国会周辺で行われた集会で瀬戸さんたちのスピーチを聴いたことがあり、また瀬戸さんが支援するスリランカ人ナヴィーンさんの裁判傍聴にも何度か足を運んだからだ。

野戦病院と化した困窮者支援の現場からの報告――差別と排除に抗して

瀬戸さんは、長くパルシステム生協で働き、福島原発事故の被害者支援を行い、関連して反貧困の活動もしてきた。貧困支援の現場の現状と難民支援の問題について報告があった。


    瀬戸大作さん(反貧困ネットワーク事務局長)
●困窮者支援の現場
反貧困ネットは、炊き出し型の支援団体ではなくて、SOSがあればその現場に駆け付ける支援をしてきた。僕らの支援でいうと、所持金100円以下が全体の20%いる。住居がある比率が33.9%、逆にいうと60%以上がすでに住まいを失っている20代、30代が全体の半分を占める。生活保護の希望が35.7%、福祉事務所に行っても冷たく対応されたので二度と福祉事務所に相談したくないが、もう力尽きてしまったという人が多い。コロナから5年経ち社会がどんどん悪くなっている。物価高もひどく、痛めつけられている人の傷がさらに深くなっている。
そういう状況のなかでのSOSということだ。かなり深刻で日本社会は危機的な状況だと思うが、全体的には報道が減っている。
多くの若者たちと出会っている。若者から出てくる言葉は二十数年の人生でいい思い出なんかひとつもなかった。このことが特徴だ。事務局のほうには毎日死にたいというメールが届いている。
相談に来てくれた若者たちと話していると、ほぼほぼ自分がこのような貧困状態に陥っているのは自分の責任です、と自己責任の問題を多くがいった。ただ今年の参議院選挙以降、完全に大きく変化した。自分の貧困の問題は外国人のせいだというふうに、困窮状態に置かれている若者たちが言い始めているのは、非常に危機的な事態だ。参政党やいまヘイトを繰り返す連中の思うままの状態だ。
また、精神疾患の比率が非常に高い。とくに女性は、ほぼほぼ僕らのところに来るSOSの100%に近い。研究機関のデータで、2017年から2022年に精神疾患の比率が1.5倍になっている。そういう状況の支援現場になってきている。駆けつけをして生活保護の同行とかそういうことだけでなく、伴走支援が非常に大変でうちのシェルターは全部で26部屋個室の部屋を持っているが、大半が女性でなかなかアパートへの住替えが難しい。
夜9時、10時にある小さな公園で女性がトイレでうずくまっている。小さな公園のトイレで一晩過ごす。そういうときに駆けつける。
先ほど触れたように、この5-6年の平均でいうと、女性のSOS比率が20%だったのが2025年に全体の46%になっている。ということは女性の貧困が顕著になっていて非正規雇用のなかで女性の非正規の比率が高い、DVの問題がある。そうしたときに真っ先に女性の人たちが貧困状態に置かれていって、いまの現状になっている。
特徴のひとつは、遠くから東京に出て来ることだ。シェアハウスは初期費用がなくて軽く借りられるが、1か月、2か月の家賃滞納ですぐ追い出される。そういう状態の女性たちが非常に多い。いわゆる家父長的、お父さんお母さんの権力が強く、そこでつらい状態になって東京に出て来るパターンが非常に多い。
精神疾患については、10代、20代にかけて家族関係に起因することが多い。パワハラなどが非常に多い。いつ発症をしたか聞くと、10代のとき発症、会社で働いて以降に発症が多い。
医療ケアについてしっかり勉強してやらないと、支援現場はとても野戦病院状態になっている。
貧困ビジネス業者の暗躍
なぜ役所が施設に入れたがるのか。家がない状態で生活保護の申請に行くと、いわゆる無料低額宿泊所(無低)という施設に入れられてしまう。その施設からなかなか出てこられない。衛生状態が悪く、ひどい状態の搾取をされることがある。
たとえば、500円のコロッケ弁当を毎日毎日食べることを強制された。強制を拒否すると出て行けと言われた。無低については施設運営が放置されたままで、福祉事務所がこういう施設を紹介する。そんな実態だ。
また無低には入りたくないが、家がない人にアパート入居を斡旋するビジネスがある。たとえば「生活保護 新宿区」でネット検索すると上位に出てくるのは貧困ビジネスだ。生活保護を受給させ、受給額で高めに設定したアパートの家賃を払わせ、生活保護の入居者で満室にしてアパートごと転売する不動産転売ビジネスもある。斡旋するときにキャッシュカードや身分証明書も取り上げる
●難民支援――なに人でも貧困状態に置かない


反貧困ネットは「誰一人として取り残さない!」ということで「日本人でも、なに人でも、ここ(日本)に生きている人として、貧困状態に置かない」ことを目指している。
都内の困窮者支援団体のなかで国籍にかかわらず支援を具体的に行っている団体はうちとつくろい東京ファンドさん、2団体だけだ。なぜかというと、外国にルーツをもつ人の支援には、ぼくらの人件費、直接経費を除いて年間3000万円くらいかかっている。
仮放免の人たち、非正規滞在の人たちの住居がない場合のシェルターの入居支援、いま26世帯・部屋あるがそのうち11部屋が外国ルーツの人の部屋だ。ほとんどがアフリカ系だ。その他、アパート住まいの人に家賃支援、仮放免の人は医療保険がないので医療費支援もある。
仮放免で10年、15年日本に住む子どももいる。在留資格がない未成年の子どもが約300人日本にいる(2019年法務省。学ぶ権利はある。だが、日本政府は非正規滞在の子どもたちにいっさい教育保障はしない。反貧困ネットは毎月学費支援する活動をしている。学校に行きたい、将来は弁護士になりたいとか、そういう希望があって、そういう子どもたちを支える。うちの団体は若い学生たちがいっぱいいるので40人の高校生を対象に、30人の大学生が伴走して奨学金を配るだけでなくて進路相談とか学習指導もしている
入管が5月に「国民の安全・安心ための不法滞在者ゼロプラン」を発表した。仮放免高校生奨学生ということで多くの高校生たちとのつながりがある。その高校生から6月中旬に父に退去強制令状が出た、どうしたらよいかわからないと連絡があった。そういう声がたくさん届くようになった。また、バスケの練習に励んでいる高校生がいて、その高校生の親も入管に収容されていたが、練習が終わるとそのまま連れて行かれた
政府交渉で「ゼロプランの策定根拠となっているルールを守らない外国人の定義を示してくれ」と質問した。入管庁は「国民の皆さんが不安に感じるような入管法に違反する者や、刑罰法令に違反する者」と答えた。僕らの反論は「ルールを守らない外国人というが、刑法違反、入管法違反、コミュニティルールやマナーの違反の3つに分けられる。刑法犯に占める不法滞在者の割合は全体の0.25%だ。ほぼほぼ9割以上が入管法違反だ」と反論した。いろんな国で内戦や独裁政権への民主化運動で逃れてきた人が多く難民として来ている。しっかり在留特別許可を与えれば、この入管法違反の数字は絶対下がる
また今年10月施行の外免切替手続の見直しで、住民票がないと運転免許も更新できない。仮放免の状態でも、なんとか働かないと生きていけないが、免許を使う仕事はいっさいできない。そういう意味で大ピンチだ。いま完全に包囲網が敷かれている。僕らは闘わなければいけない。


ナヴィーンさんという難民がいる。11月下旬に入管に同行した。1か月以内に自費(自己負担)で帰国すれば1年たったら日本に帰ってくることが許されるかもしれない。しかし帰らなければ入管が強制送還して、5年を経過しないと日本に戻って来ることはできないと、入管がいう。ナヴィーンさんはスリランカ民主化運動をしてきたので、帰国すれば狙われる。そういう状況に置かれていることがわかりながら、こういう対応だ。
日本人の妻と子どもがいる。この家族を送還するわけにはいかない、この家族を引き離すわけにはいかない
僕らの学生チームが回って回って、やっと33人の国会議員が共に闘ってくれるというかたちでいま動き始めている。入管のいろんな強制送還の実行策に対し、いままで止められた事例はないと言われているが、しっかり前例をつくっていこうと闘っている最中だ。とにかく外国人差別をするなということを強く訴えたい。
元旦には、通常の炊き出しでなく、ひとりぼっちではない、みんなで楽しく過ごそうと相談会もやる。貧困の問題には、経済的貧困もあるが孤立の問題もあるのでそういうことも含めて闘い続けていこうということだ。
いま支援団体が細っている。どこの支援団体もあと2年くらいで資金が全部なくなる。いま非常にたいへんな思いをしている

日本政府は長生炭鉱被災者の遺骨を見捨てるのか


井上さんたちは、戦時中の長生炭鉱の事故を知り1991年に「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」の活動を始めた。目標は3つ、1)犠牲者全員の名前を刻んだ追悼碑の建立、2)ピーヤの保存、3)証言、資料の収集と編纂だった。


    井上洋子さん(長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会代表) 
山口県宇部市の瀬戸内海に面する長生炭鉱跡地、海中に2本の煙突のようものがみえる。ピーヤと呼ばれる昔のタテ坑、ここから中に入り石炭層から石炭を採って上がってくる。海の墓標と呼ばれる。
長生炭鉱事故はたんなる炭鉱事故ではない。人災だ。上のほうに炭層があったので、上へ上へと掘り進み、海底の下10mの浅い法律違反のところを掘っていた。数日前から水漏れが発生していた。いったん修理すればよいのに強行した。事故は1942年2月3日に起きた。月に1回、各炭鉱に大出しの日があり、この日は1000函出さないとならない日だった。犠牲者は183人に上り、うち136人が朝鮮人労働者だった。 
長生炭鉱には1258人の朝鮮人が連行され、この炭鉱では朝鮮人が7割を占めていた。修正主義の人は、募集なので自由意志だから強制連行ではないという。しかし会社資料にも入所式の前に13名逃げたことが書かれている。住んでいたのは合宿所という、建物の周りに3mほどの板で囲われ鉄条網が張り巡らされた捕虜収容所のようなところだった。警備が厳しく、いっさいの自由もない。
●犠牲者の名前と謝罪文を刻んだ追悼碑の建立
第一段階の活動として22年かけて2013年追悼碑を建立できた。追悼碑に名前を書くのに創氏改名された名では申し訳ない、なんとか本名を探そうと手紙を出した。大日本産業報国会の殉職産業人名簿には長生炭鉱で亡くなった人が全部記載されていた。17通返事があり韓国の遺族としっかり結びついた。遺族は翌年韓国遺族会を80人で結成し、1992年8月会長と1人の遺族が来日し、号泣した。
土地購入もあり、山口県だけで資金を1600万円集めた。市民の力だけでやったので「強制連行」という言葉を碑文に入れられた。後ろに謝罪の文も入れた。
わたしたちはやり切った感、満足感で運動が終わったくらいに思っていた。そこに韓国の遺族は、日本人はこれで運動をやめようとしていないか、自分たちは遺骨を収容してふるさとに帰るまでやるんだと、遺族会から鋭い糾弾を受けた。
●潜水調査と遺骨収容への足取り
韓国の遺族の思いを受け、遺骨収容を目標とし、2014年新しい組織にした。
しかし政府は「お前たちは軍人軍属でないので知らん」という態度だ。唯一拠り所にしたのは、2004年ノ・ムヒョン大統領が遺骨返還を小泉首相(当時)に要請して、何ができるか真剣に検討すると約束した、この両国首脳の約束だけだった。
しかし日本政府を相手にしても埒(らち)が明かず、2019年2月ムン・ジェイン大統領に手紙を出し6月に面談、7月に現地視察と進み、太いパイプができ上った。
日本の衆参全議員へのロビー回りをし、大椿裕子参議院議員の協力を得た。
しかし政府は2023年12月、遺骨の位置と深度がわからないので調査は困難、と回答した。昨年2月「では、わたしたち市民が坑口を開けて遺骨の深度と位置を政府にわからせよう」と決断した。
壁はいくつもあった。坑口を掘る使用許可の問題は、宇部市との交渉でクリアした。業者探しは、山口市の業者が「テレビを見た。協力しましょう」と言ってくれた。潜ってくれるダイバーは、伊佐治佳孝さんがわたしたちの交渉をネットで見て「このままにはしておけない、自分なら潜れる」と申し出てくださった。3つの奇跡が重なり、2024年1月から1年かけて潜っていただいた。崩落地点の障害物除去が大変だったが、ついに25年8月26日に4体ご遺骨を発見でき、韓国の女性ダイバーが「見つけた!」と頭蓋骨をもって帰ってくださった。
5月の国会で大椿議員が石破総理から「いかなる責任を果たすべきか検討する」との答弁を引き出した。やったと思ったが、厚労省人道調査室は「安全性の懸念がある」というだけだ。わたしたちはもう16回潜り、安全に帰ってきてご遺骨も持ち帰ったにもかかわらずだ。韓国政府と議会は積極的で、DNA鑑定を早く進めようと表明し11月16日の日韓議員連盟総会共同声明にはじめて長生炭鉱のことが具体的にのった。


年明け(2026年)2月6-11日に世界の優れたダイバー7人(タイ3人、フィンランドインドネシア、台湾、伊佐治さん)潜水調査する。
183人のご遺骨を外に出すことは大変なことだ。それをやり切る覚悟をもたなければいけない。ぜひみなさんの力を結集していただいて、わたしたちが反権力で日本の国を変えていきたいと思うので、よろしく協力をお願いしたい

西側メディアによるイスラエルの犯罪の正当化――パレスチナ報道における欧米メディアの偏向を読み解く

重信メイさんは、カタールの首都ドーハにあるメディア局アルジャジーラのジャーナリストだ。母は重信房子だ。なぜパレスチナの情報が偏って世界や日本に届くのか、イスラエルがどのように自分たちの戦争犯罪を世界に正当化させていくかという分析と、パレスチナのジャーナリストがこの3年で280人もイスラエルに殺害されている現状を語った。


      重信メイさん
アメリカには多くのメディアがあるが、じつは6大メディア企業がコントロールしている。コムキャスト、ディズニー、ワーナーBros.ディスカバリー(ただし2025年10月Netflixへの売却を発表)パラマウントソニーニューズ・コープだ。一般にメディアはスポンサーの意向を汲み、スポンサーがいやがらない報道をする。ボーイングのような軍事企業がスポンサーの場合もある。また資本関係から生まれるバイアスがある。イスラエルと6大企業との関係もひとつの影響要因であり、メディアが事前に自己規制する。アメリカのメディアをコントロールするだけで、世界に流れる情報をコントロールできる。
ハマスイスラエルの間の戦争」という言い方をするが、これはイスラエルが好む言い方だ。というのは、いま起こっているのはパレスチナ人対イスラエルの戦争で、殺されている70%は子ども・女性など民間人でありハマスは関係ない。ロイターやBBCがそう表現すれば日本のメディアはそのまま翻訳してタイトルや記事にする。
編集段階でもバイアスが生じる。人手がかかり、カネがかかる報道ははずされる。
またバズフィードリンクトイン、ユーチューブ、メタ、グーグル、フェイスブックなどのメディアをコントロールする社長や編集長にもイスラエル軍軍のIT部隊8200のOBや関係者が多い。ニューヨーク・タイムズBBCの幹部にもイスラエル関係者が多い。
イスラエルを正当化するメディア・バイアス
メディア・バイアス(偏り)にはいくつもの種類がある。
・言語・トーンによるバイアス たとえば人質交換のニュースで、ワシントンポストは、イスラエルの人質は人質のなかに数人子どもがいたと書くが、パレスチナの人質に対しては、子どもでなくマイナー(未成年者)とかティーンエイジャーという言葉を使った。
・フェイクバランス 被抑圧者と抑圧者本当は平等ではないのに、あたかも平等であるように報道する。日本が得意だ。力関係が違うのに「どっちもどっちだ」という方向にもっていく。イスラエルには都合がよい
・オミッション 情報を提供しないことも偏見だ。何かがあったのにニュースにしないこと、あるいは歴史的背景、あったことの背景説明を省き、最近の情報だけしか報道しないことも偏見だ。 
その他、イスラエルの情報を先に書き、パレスチナの情報をずっと後ろにする「遅延(Dilay)」によるバイアス、正確な数字と曖昧な数字を使い分ける「統計表現」によるバイアス、イスラエルのソースを優先する欧米メディアのような「ソース(情報源)」のバイアス、どういう枠組みで理解すればいいか、意味づけや解釈の枠組みを勝手にメディアが決める「フレーミング」によるバイアスもある。
●ジャーナリストの殺害、病院・学校への爆撃、拷問
イスラエルはジャーナリストを意図的に殺している。2023年から今年7月か8月までに278人パレスチナのジャーナリストが殺害された。ほとんどの人が仕事場や車の中などでプレスのベストを着たまま殺されている。意図的といっておかしくない
殺す前にイスラエル防衛省は、このジャーナリストたちはテロリストだという報道をしはじめる。この人たちはハマスと連携している、ハマスなので殺してもおかしくないという雰囲気をつくっていく。
シャリーフはハマスのカネをもらっていた、そしてハマスの幹部に会っていたとイスラエルは書く。シャリーフ1人を殺すため、他の4人のジャーナリストと共にひとつのプレス用テントで殺してしまった。
ファドゥーフは、ライブ中継している間に家族全員を殺される。その知らせをライブしながら受けて、病院に行き身元確認し、次の日からまたライブニュースを行っていた。「わたしがこの仕事をしなければパレスチナの情報が伝わっていかないから」と言い、苦しみも悲しさも我慢して報道していたら、次は自分とカメラマンも狙われた。カメラマンは殺され、自分も大ケガをしてカタールに治療を受けに行ったが、その間に息子も殺される。息子もジャーナリストだった。
まだ26歳のジャーナリストは、イスラエルがチラシで「爆撃するからこの地域から出ろ」といい、カメラマンとともに車で離れようとしたとき、あえてその車が狙い撃ちされた。
その他、イスラエル国際法で禁じられている病院やシェルター学校の攻撃や拷問・レイプを行った。病院から診療中に誘拐され、拷問・レイプされた姿で遺体がみつかった医師もいる。

☆アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。
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年に一度の祭りだ!「サントリー1万人の第九」

12月7日(日)午後、大阪城ホールで第43回「サントリー1万人の第九」が開催された。昨年わたしは墨田区国技館5000人の第九コンサートに参加した。墨田の参加者から5000人を上回る1万人の第九を大阪でやっていることを聞き、今年は1万人の第九に参加することにした。
1万人の第九は、1983年大阪城ホールが竣工した年の12月、指揮・山本直純、オケは関西の三大オーケストラ(大フィル、京響関西フィル)、ゲスト・宝塚スター、司会・武田鉄矢小池清で始まった。99年から指揮が佐渡裕、2015年からオケが佐渡氏が芸術監督を務める兵庫芸術文化センター管弦楽団に変わった。
今年のソリストは、ソプラノ/ハイディ・ストーバー、メゾ ソプラノ/清水華澄テノール/リッカルド・デッラ・シュッカバリトン/グスターボ・カスティーリョの4人。
東京地区の練習は8月下旬から築地の浜離宮朝日ホール(定員400席弱の小ホール)で週1回のペースで始まった。


佐渡錬の練習会場・なかのZERO
11月末13回目の練習で、初めて指揮者の佐渡さんの指導を受ける佐渡錬の日がやってきた。会場は定員1400席弱のなかのZERO大ホールだ。発声練習のあと「ハナミズキ」を10分ほど練習し、佐渡裕さんが登場した。
今年は阪神淡路大震災から30年、戦後80年の節目の年、今年は大阪関西万博開幕日の第九の屋外演奏、その間だけ奇跡のように青空になったこと、阪神のリーグ優勝があった一方、ウクライナやガザでは戦争が続いているといった2025年の振り返りのあと、第九の練習が始まった。休憩も入れて1時間あまりだったが、大いに啓発された。
わたしは2つのことが強く印象に残った。
ひとつは、声は肉体の一部なので「歌と筋肉は一致する」という「トレーニング」だ。体を固くせず柔らかくする。出だし237(以下、数字は小節番号、大文字アルファベットは練習番号を示す。以下同じ。なおウムラウトの表記は落としてある)の「フロイデ」の「ロ」が1拍目にくるよう早く出る、という話はよく聞くが、佐渡さんは、エンジンを早くかけ始め、腕を振り回して真下に来るとき巻き舌の「ロ」の母音「オ」が来るように、そして前上方向に声を飛ばす、片手を前上方に投げてもよいとアドバイスされた。Dの257 Freude schoner Gotterfunken,Tochter aus Elysium は隣の人の存在を感じて歌う、そのため手を握り合い、強弱のリズムを取り合う。これを「ニギニギ」と表現した。また男声合唱411 Ja, wer auch nur eine Seele Sein nennt auf dem Erdenrund! で佐渡流は肩を組んで歌うというのは有名だが、これも「歌と筋肉の一致」の実践例だということがわかった。
もうひとつは、歌詞の解釈だ。「Und wer's nie gekonnt, der stehle Weinend sich aus diesem Bund!(E 289-292) できない者は泣きながらこの輪を去れ」をわたしは排除の論理だと思っていたが、佐渡さんは、「賛同できない人たちは涙を流して立ち去るがよい わたしたちも涙を流します ディミヌエンドにはやさしさがある」と説明した。なるほど、と思った。
Gの後半319の und der Cherub steht vor Gott! の部分。ケルプは天使だが、嬰児のような天使ではなく鎧を着た天使だ。みんなで協力してここまでやってきたが、神殿の前でケルプに押し返された 326や328の伴奏の下降の音型で崩れ落ちる、最後の 329「vor Gott!」では立ちすくんでいる331-342そこに何かがやってきた。小さな吹奏楽団、応援団だ。ピアノ伴奏で、ミッキーマウスマーチ、「なんの違和感もないでしょう」。まるで佐渡マジックにかけられたようだ。そしてテノールのソロ、男声合唱へと続く。
ほかの指導者から似たようなことをお聞きした部分もあるが、佐渡さんの解説は「ストーリー」を形成しているので理解しやすく、体に入りやすい。たとえば、どの合唱団でも難しい631 Ihr sturzt nieder, Millionen? Ahnest du den Schopfer, Welt? では「ひざまずく、ひれ伏す あきらめてしまうのか ミーリオーネン 未来があるよ 予感できるか 抱き合える世の中をあきらめてしまうのか わたしたちはフロイデを信じている あきらめない 希望に燃える」、エンディングは「ついにたどりついた aus Elysium ついに門の鎖が解けて、門が開いた!」という具合だ。
佐渡さんの関西イントネーションは、たまたまわたしの生まれ育ったところと近いことがあり、なつかしくかつなじむことができた
そして、大阪城ホールでの前日リハの日を迎える。
1万人というと、物理的に大変な質量になることが、よくわかった。最寄り駅は環状線大阪城公園だが、駅からホールまで400mほどの道のりに、すでにビッシリ行列ができていた。はじめての全員集合、わたしの席はスタンド席の最前列のコーナーだった。隣の方は30回近く参加のベテラン、その隣も10回程度参加という方、お二人とも地元関西の方だった。スタンド席は客席も入れて9000席なので、アリーナ席も使う。

センターのモニターは四方に面している。まわりにスピーカーも吊り下げられている。モニターの下に鼓童の大太鼓が見える
前日リハの最後のほうで合唱指導の方から、前上方の大型モニターの映像やスピーカーの音は見たり聞いたりしないよう、くれぐれも佐渡さんの指揮棒をみるよう、かなり強い指導があった。
注意深くみていると、たしかに実際の指揮に比べモニターの音・画像は微妙に遅くずれていた
当日午前のゲネプロでは、わずかに佐渡さんの右手だけみえたのでそれを当てにした。モニターは見ないようにすればそれですむが、スピーカーからのオケの音やソリストや合唱の音は当然動画と同期している。生音は聞こえずスピーカーの音が聞こえてしまう。その音より1/16拍とか1/32拍なのだろうが早く歌うのは、わたしにとっては難行苦行以外のなにものでもなかった。
隣席のベテランに聞くと、モニターの音や佐渡さんの画像は絶対見てはいけない、見えないときは自分を信じて歌うしかないとの仰せだった。
さて、本番だがわたしの前方10mくらいのアリーナ席の人の頭がわずかに動いたようで、指揮棒がほとんど見えなくなった。たまに佐渡さんが腕をかなり上げて振ってくれたときだけみえる。あとは想像で歌うしかない
わたしの席はスタンド席最前列だったが、もっと後方や2階席の女性たちはきっと見えない人もいたはずだ。また階段状の席なので一列前がたまたま背の高い人が立っても指揮はみえない。これはひどいと思った。
打上げのときに聞いた話では、わたしのいたブロックでも9列目の方は少し高い位置だったので指揮が見えたそうだ。またアリーナ席の人も大丈夫でしかもオケの生音も聞こえたとのこと。何度も参加すれば「慣れ」で歌えるのかもしれないが・・・
布袋寅泰がゲストに出た年は、さらに大きなスピーカーが天井からぶら下がっていたとの話だった。


昨年の5000人でも人の量に圧倒されたが、今年はその2倍である。たとえば、スタンド席の男性トイレは屋外の仮設トイレ25台のみだったが、行列がすごかった。女性のみなさんが行列をつくっているのをよくみかけるが大変さを実感できた。練習が始まった9月ころ早くホテルを予約したほうがよいと、アドバイスされた。すぐ予約したが危ないところだった。
またわたしが8年前に初めて第九に出たときは、初めてのせいもあるだろうが自分たちの合唱団という気がして緊張もした。大きくなればなるほど、運営や下働きはすべてスタッフの方任せで、参加者の1人ではあるものの、お客さんのような気になる。
大きければよいというものではない、ということがよくわかった。

もうひとつの大きな違いは、いままで出たのは主催が区や市民団体だったのが、1万人では純粋に民間「企業」であるMBSテレビサントリーホールディングスだったことだ。正確には主催はMBS、特別協賛がサントリーだ。
イベントとして成立させないといけないからなのか、いろいろ厳しいルールがあった。たとえば前日リハや当日の集合時間厳守の厳しさだ。「朝8時50分集合」「50分には閉門する」を繰り返しアナウンスするだけでなく、帰路に何枚も大きな看板を置いていた。練習も12回出席がマストで、1回ずつスマホQR画面を読み取らせ参加記録を表示させないと練習にも参加できない。12回電子スタンプを押し、さらに佐渡錬に出て初めて本番参加の「資格」を取得できる。その画面を係員に見てもらい入場する。つまりスマホ画面が入場券になっているということだ。
またカネに関する主催者の姿勢もずいぶん違った。たとえばホール前上方の4面の大型ディスプレイだ。見ないで歌えというのなら観客席側の1面だけにして合唱団のほうを向いている3面は、せめて第九演奏時だけでも消灯してくれるとありがたいのだが、これはスポンサーから(合唱団の)一般市民向け広報宣伝ツールなので、そんなことはできない相談なのだそうだ。


前日リハの日、練習開始時間の30分ほど前に到着した。それでもホールの外に長蛇の列ができていたので慌てて最後尾に並んだが、あとでこの列は記念グッズ、たとえばタンブラー2500円、Tシャツ3000円、トートバッグ2500円などを買う行列だったことが判明した。まずグッズを買ってから入場の列に並ぶというふうになっていた。少し驚いたのはプログラムが3000円だったことだ。わたしは高額だったので購入しなかったが、ペラ1枚程度の上演種目と進行順だけ書いたプログラムすら配布されなかった。徹底している
参加料も、2023年は11000円、昨年は14000円、今年は16500円と年々上がっているとのこと。
当日場内では、CD3300円、DVD5500円、ブルーレイ7700円の予約販売受付を数か所で行っていた。国技館でもやっていたが、もう少し安かったような気がする。赤字は出さないという方針の表れなのだろう
そういえば、オーケストラ席の前方と後方に首長恐竜のようなカメラが2台首を振り回していた。テレビ番組としてベストショットを撮ろうとしているのだろう。ステージ前はわたしの席からは見えないが、きっと何台ものカメラがあったのだろうと思う。
練習会場は近畿10を含め全国16(これ以外にオンライン教室1)あり、当日ホールに来られた合唱指導の先生だけでも17人いらっしゃったので、たしかに運営費も莫大なのだろう。
また事務局は、参加者確保も大きな「業務」だ。今回も出場者1万人に対し、数千人抽選落ちの方がいらっしゃったらしい。どうやってこんなに希望者を集められるのか、大変な「企業」努力だと思う。男性の場合、多くは60歳以上、メインは65歳以上だと思う。高齢になると自然に減っていくので対策として若手を増やすため親子参加を奨励していた。最年少の小学1年生は今年は五十数人だったそうで、特別に集合写真を撮っていた。


ただ年に一度の祭りの日と考えれば、見方がガラリと変わる
コンサート第一部のオープニングは暗闇のなかで太鼓芸能集団 鼓童が登場し、演奏を繰り広げる。昨年の国技館・第九が呼出し・利樹之丞の太鼓と拍子木から始まったことを思い出した。そして一青窈のミニ・コンサートが始まる。耳をすます(作曲:森山直太朗)もらい泣きアレキサント゛ライトハナミズキハナミズキは三重の2校の女声合唱がバックに入る。またわたしたち合唱団も着席のまま、ほんの一部バックコーラスを歌った。一青の歌はとくに歌詞がいい
司会は三ツ廣政輝(MBSアナウンサー)松岡茉優テレビ番組ということもあるからだろうが、本格的だ。
さらに今年は阪神がリーグ優勝したこともありサプライズ・ゲストとしてショート・小幡竜平選手が登場した。ウィーンのニューイヤーコンサートで毎年ラストに演奏されるラデツキー行進曲を全員で手拍子していると、途中でオケの音楽が佐渡さんも好きな六甲おろし」に変わった。観客も大喜び、合唱団員の8割は関西の人なので大合唱になった。小幡選手もうれしそうだった。
佐渡さんと小幡選手は同じくらいの身長に見えた。小幡は184cm、76㎏なので、日ごろから佐渡さんは大きい感じがしていたが、やはり背の高い人だった(体重は小幡よりかなり重そうにみえたが・・・)。
なお、場内撮影禁止なので、佐渡さんの姿も含め、ゲストほかの写真は撮ることができなかった。
また第九の第4楽章演奏に先立ち、蒼井優の歌詞朗読(訳:サントリー1万人の第九事務局)があり、これがなかなかの迫力で感動した。観客にとっても歌詞の内容を理解できてよいのではないかと思う。
毎年いろんな俳優が朗読するそうで、過去佐々木蔵之介小栗旬仲間由紀恵井川遥などさまざまな俳優や歌手が務めた。隣席のベテランの話では、人によりずいぶん印象が変わるそうだ。さすが、役者の個性である。
エンタテイメント・ショーを一日楽しめるというのは、祭りのようなものだ。第九の演奏が終わると同時に紙吹雪が舞った。最後は合唱団員がペンライトを振りながら「蛍の光」を歌う。年末だからなのだろう。1番はなんとか歌えても、さすがに「とまるも行くも限りとて かたみに思う ちよろずの」という2番の歌詞は覚えていなかった。
年に一度の佐渡裕祭り、しかも自分もごく一部だが参画できる祭りだ。隣のベテランの方は、合唱はこの第九のみ、オフシーズンは何もしていない、とのことだった。たしかにそういう「1万人の第九」合唱団員もたくさん生まれそうなイベントであった。


依成の豚平焼とチキンラーメンの鍋
新大阪駅近くで1泊した。旅の恒例で、浜田さんのブログをみて依成(よりみち)という居酒屋に立ち寄った。地下鉄御堂筋線東三国駅から100mほど南にある、カウンターのみ15席ほどの居酒屋。母と息子さんの2人でやっている。お母さんは70代かと思われるが「手造りかめ壺仕込み 太古屋久の島」と書かれた紺のTシャツを着て元気そうだ。本坊酒造という醸造元のグッズのようだ。しかし息子さんを立てている。息子さんが調理もしつつ、お勘定も扱い、とても働き者のようだった。
ブログに「豚平焼」が名物とあるのでわたしも頼んでみた。豚のソテーを卵焼きでくるみマヨネーズがたっぷりかかっている。ポークピカタに似ているが、肉の上にオムライスのように卵焼きを巻いているところが違う。
チキンラーメン 300円」があることをブログで知っていたので注文する。ただの即席麺にしては高めだ。居酒屋なのだから仕方がないかと思いつつ3分待つ。ひよこのイラストが蓋に付いている瀬戸物の丼が出てきた。蓋をあけると卵が乗っている。これが普通のラーメンとの違いだ。
チキンラーメン独特のにおいに誘われて両隣の男性が手を上げて注文した。
右の方は静岡の高校の同級生で数十年ぶりの再会、左の方は高槻市の生まれ育ち、いまは山科在住の元ラガー、長く生きているといろんな共通点もあるので大いに話がはずみ、うまい酒になった。


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晩秋恒例、築地はしご酒2025

冬間近、紅葉はきれいに色づいたが曇天の11月23日午後、恒例の築地はしご酒2025が開催された。いつもは土曜午後だが、今年は3連休の真ん中ということもあり変則的な日曜開催だった。


今年の出店は50店、店選びのわたしの基準は、まだ行ったことのない店を優先することだ。このイベントでは、原則として酒500円、つまみ500円のメニューが最低1品用意してあるはずなので、この機会に未知の店の様子を見に行こうというわけだ。すると候補店が2割くらい落とせる。いままで6回参加したはずなのでもう少し多くてもよいはずなのだが、なかには廃業する店や1年でイベント参加をやめる店もあるからだ。近年ではコロナ禍の影響が大きい。
もうひとつ選択基準がある。築地といっても店は南北500m、東西500mくらいのエリアに散在する。移動に時間を取られないよう地図をながめ、訪問順路も考えながら候補を絞る。

最初に入ったのは、築地4丁目の交差点にある8階建てのKYビル1階の立ち呑み大東、20席くらいの大きさの立飲み店だ。まず気づいたのは外人客の多さだった。だが15分ほどして判明したのは10人ほどが退店し、大型グループ観光客だったことがわかった。U字型カウンターの、普通はスタッフの方が入る真ん中の通路にまで客が入り込んでいたのでいっそう混雑しているように見えたのだった。
日本酒が650-940円と高めだった。わたしは谷川岳のぬる燗にした。もちろん群馬と新潟の上越国境の谷川岳から取った名前だろう。群馬県川場村永井酒造という創業139年の蔵元の製品だ。爽やかそうな名前なので選んだのだが、もしかすると冷やで飲むべき酒だったのかもしれない。なお出てきたお銚子は白雪のもの。おそらく白雪がこの店のメイン酒なのだろう。

つまみは、はしご酒特別メニューのなかでいちばん安い「海のジャーキー」、名前に惹かれたからだ。内容は、たこ干しとかつおのスライス、つまり乾き物だったので少しがっかりした。あとでよくみると、通常メニューに300円程度のものもあるのを発見し、失敗したと思った。
壁面の棚に、椎茸、日高昆布などが値札付きで置いてあるのを発見した。じつは日中は創業100年の乾物屋なのだそうだ。だから乾き物のつまみを置いているのだろう。発祥は日本橋らしい。
このビル1階には大東のほか地下の粋The Dashi Standなど合計4店がはしご酒のイベントに参加している。それなのにトイレは2階の有料トイレしかないという。これは問題だと思った。

2軒目は、うにLABO丸集
築地の店は、食べログの「予算」で7000円くらいの店が多めでわたしには高額なので、今後おそらく入れそうもない店をこの機会に雰囲気や内装だけでもみておこうと、1店候補に入れるようにしている。この店は1万5000円から2万円のランクにある。うにがメインならそういうことになるのだろう。
うにと名付けられているので、すぐ売切れ閉店になるのではないか心配したが、狭い店なのにそれほどの客は押しかけていなかった。600円でちゃんとスプーン1杯(15g分)のうにを出してくれた。もちろんもっと高い、たとえば1800円のうにもあった。みな満足そうに食べていた。


併せて飲んだ酒は東広島安芸津町今田酒造本店海風土(シーフード)という酒、店のスタッフの解説ではさわやかとのことだったが、日本酒というよりむしろスパークリング・ワインに近いように感じた。うにとの飲み合わせにはよいのかもしれない。
壁に北海道の大きな地図が貼ってある。蠣も産地で違いがあるように、うにも利尻、天売、小樽、積丹、襟裳、野付などで違いがあるようで「うにの旬は反時計回り(春→夏→秋→冬の順)と書かれていた。

最後に行ったのはしずく。うにLABO丸集から40mくらいのビルの1階にある。ふだんはランチのみ11-14時営業だが、おかみさんが日本酒好きではしご酒イベントに協力しているとのこと。とくに好きなのは高知県佐川の酒・司牡丹、たしかに各種そろえていた。この日は甘楽(かんら)があるといわれた。群馬の酒で友人が蔵元の近く在住という縁で扱っているとのこと。わたしは名前も聞いたことのない珍しい酒なので注文した。群馬県甘楽町聖徳銘醸の酒だ。スッキリしている印象だった。
つまみは、「京風だし巻き卵 本鮪しぐれ煮のせ」「かつお梅きゅうり」「ねぎ塩とろレバー」など6種あり、なかから「丸山海苔 サーモンロール」を選んだ。たぶんサーモン料理だろうがいったい海苔をどう組み合わせるのかと思った。出てきたのはサーモンの海苔巻きでマヨネーズがかかっている。味もよく食べ答えもあり、この日のつまみのなかで、大当たりだった。


なお丸山海苔店もこの界隈にある会社だが、こういうコラボの仕方があるのだと気づかされた。
メニューをみるとランチ1400-1500円とやや高めだが、きっとおいしくリーズナブルないい店なのだと思う。なお場外市場は、観光客向けの寿司や丼物が多く、ランチでも3000-4000円の価格の店が多いので、この値段ならリーズナブルどころか低価格くらいだ。
もう一軒寄ろうか少し迷ったが、しずくで大満足したので、今年はこれで切り上げることにした。

☆このイベントには、1軒目に入った店のみ、年明け3月末までワンドリンクサービスというおまけが付いている。今年は大東だった。2回目は身欠きにしん焼き(600)をつまみに注文した。これがじつに焼き方がうまく表も裏も全体がすべて平均に焼けている。みごとな技だと思った。添えてある大根おろしまでおいしく感じた。きっとどこかの料亭で日本料理の修行をきちんとされたのだろう。

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充実した企画だった「映画監督 森田芳光」展

国立映画アーカイブで10-11月、「映画監督 森田芳光」の上映企画と企画展示が開催された。わたしは映画作品を7本見た。

特定の監督作品をこのホール(旧・フィルムセンター)で集中的にみるのは、学生時代の小津安二郎、2年前の大島渚に次ぎ、3人目だ。
わたしが森田の映画を好きだったのは20代のころだ。はじめに見たのは「の・ようなもの(1981)、次に「家族ゲーム(83)で感心した。
森田は1950年1月生まれなので、わたしより3学年上だ。もっと若い人のような気がしていたがまさに団塊の世代の真ん中だ。渋谷円山町の「銀月」という料亭の息子、隣はソープランドやラブホテル、置屋、本人は芸者衆に囲まれて育ったという。日大芸術学部放送学科を卒業、学生時代から8ミリ映画の世界で有名だった。

7階で森田監督の企画展示をやっていたが、展示内容がじつに充実していた。ポスター、シナリオ、映画の小道具の展示があるのは普通だが、たとえば森田個人の蔵書や好きだったレコードジャケットまで並んでいた。蔵書では、6段のスチール書架が4台も並んでいた。  
書籍では、フーコー「狂気の歴史」、「カザノヴァ回顧録」、さらに「機械の花嫁」「グーテンベルグの銀河系」「人間拡張の原理」などマクルーハンの本がなぜか6冊も並んでいた。ポオ全集もあった。
マンガの棚には、藤子不二雄まんが道」「少年時代」、竹宮恵子風と木の詩」、萩尾望都ポーの一族」、土田よし子「つる姫じゃーっ!」、永井豪「オモライくん」、弘兼憲史人間交差点」、ガロのバックナンバー多数、など。
小説の棚には、中上健次「十九歳の地図」、小林信彦「極東セレナーデ」、金井美恵子「愛の生活」、高橋源一郎「さようなら、ギャングたち」、山口洋子「銀座春灯」、吉本隆明講演集「敗北の構造」「言葉という思想」、山口瞳「新東京百景」、平岡正明山口百恵は菩薩である」など、当時の本の「流行」がよくわかる
新書では、岩波の遠山茂樹(ほか)「昭和史(新版)」、岡村昭彦「南ヴェトナム戦争従軍記」、中公新書会田雄次「アーロン収容所」、講談社現代新書三浦つとむ弁証法はどういう科学か」といった当時の定番が並んでいた。
一方、志賀信夫「テレビ媒体論」(紀伊国屋新書)佐藤忠男「ヌーベルバーグ以降」(中公新書)武市好古ウディ・アレンの時代」、「メカスの映画日記」、ゴダール全集全4巻などは「業界人」らしい
うれしいことに書棚の上にはATGの「アートシアター」が20冊ほど立ててあった。古いものでは「アメリカの影」(28号)、新しいものでは「午前中の時間割」(97号)、中心は47-86号(「忍者武芸帳」から「書を捨てよ町へ出よう」)だった。背伸びしてみると、58号「初恋地獄篇」、62号「肉弾」などなつかしいタイトルがあった。
わたしの手元にあるのは97-146号(1972-81)のあいだの5冊だけなので、時期がずれる。
森田芳光が作ったもの」というタイトルのパネルに「コメディ、アイドル映画、文芸作、恋愛映画、法廷劇、ホラー映画、ミステリー映画、時代劇と、森田の選んだジャンルの幅広さは驚くべきものです」とあった。アイドルは薬師丸ひろ子の「メイン・テーマ」、文芸作は「それから」、法廷劇は「39 刑法第三十九条」のことだろう。こういう幅広さという面では、わたしが好きな大森一樹監督(1952-2022)にも当てはまる。森田と同じくアマチュア8ミリ映画から始め、「オレンジロード急行」(1978)と「ヒポクラテスたち」(80)でデビュー、アイドル映画では吉川晃司の3部作、斉藤由貴の3部作、やくざ映画「継承盃」(1992)宮沢賢治生誕百周年映画「わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語」、渡哲也の復帰作「大失恋。」、さらにゴジラ映画まで撮った。
エンターテインメント性に富む監督だった。本人も、同年代ということもあるのだろうが森田のことを下記のように意識していた
岩井俊二、阪本順二、西川美和根岸吉太郎ら9人の監督の「森田芳光と“わたし”」のなかで大森は「35ミリ劇場映画『の・ようなもの』を観たのは、確か『風の歌を聴け』を神戸で撮り終えて、東京で仕上げをしている時期だった(略〕これはライバルになるなと確言したものだ。エンターテインメントとしては医者の卵の話より、落語家の卵のほうが軽やかだし、8ミリ映画の感性と手法も随所に残したままだ。(略)こういう才能が次々に出てくるのかと思わされた」
書籍の隣のスペースには愛聴したLPレコードジャケットが38枚展示されていた。真ん中に森田がカメラを構える写真と「僕はマイルス・デイヴィスになりたかった」という言葉がある。マイルスのジャケットが8枚もあった。いかに好きだったかということだ。その他、ビリー・ホリデイハービー・ハンコックジョン・コルトレーンウェス・モンゴメリーなど。わたしはあまりジャズに詳しくないので、わたしですら知っている名前をピックアップした。

監督の名言・ワンフレーズが、垂れ幕に1フレーズずつ印刷し、天井から懸けられていた。
映画を観に行くというのは、人に会いに行くこと」「“都市”という言葉の響きが好きだ」「オモシロイ人間がいるんじゃなくて、人間がオモシロイんだよね」「娯楽的要素のないアートというのは、成立しないんじゃないかなって、思う」
森田の人柄と特質がよく表れている。

 

さて、映画の話も少し書いておかないといけない。
この間、わたしが観たのは8本、公開年月順に並べると(本)噂のストリッパーピンクカット 太く愛して深く愛して(1982,83)メイン・テーマ(84)それから(85)失楽園(97)39 刑法第三十九条(99)阿修羅のごとく(2003)わたし出すわ(09)だ。日活ロマンポルノの2本とメイン・テーマは、話が突然飛ぶところがありストーリーがよくわからなかった。「それから」「失楽園」はおとなの恋愛映画ということはよくわかった。松田優作小林薫役所広司、寺尾聡ら役者の個性や演技がさすがだとは思ったが、それ以上に楽しめる点は残念ながらなかった。
「39刑法第三十九条」は主人公Aと解離性同一症(多重人格)でAが憑依したBの2人が出てきて、Aは本当はBでわざと多重人格のAのふりをしているという複雑な設定で途中からついていけなくなった。こんな具合で、映画の組立や構成を中心にみるわたしとしては、不満が残る、あるいは退屈な部分を含む作品だった。
わたし出すわ」は、高校時代の同級生の夢をかなえるためヒロインが大金を提供するという「おとぎ話」のような話で、着想はよいしストーリーはつながっているが、作品としては、もうひとつの感じ。なおこの作品も、小雪黒谷友香小池栄子などのキャスト、脇も藤田弓子仲村トオル、永島敏行、北川景子とすごい顔ぶれだった。
阿修羅のごとく」は、まとまりもよい作品に仕上がっていた。
役者も大竹しのぶ黒木瞳深津絵里深田恭子(この4姉妹はこれまでの森田映画でヒロインを務めた女優)、仲代達矢八千草薫とすごい顔ぶれだ。さらに脇役に、坂東三津五郎小林薫中村獅童紺野美沙子木村佳乃桃井かおりをもってくるのだからなんとも豪華だ!
135分の作品だが、最後のほうが少し長い気がした。あとで、これはわたしがテレビのパート2を見ていないからであることが判明した。
なおまとまりがよいのは、向田邦子の原作がよいからだ。しかし母が愛人宅前で倒れ、デパートの袋から卵が落ち割れて黄身が現れるシーン、妻(桃井)が夫の浮気相手の長女(大竹)をピストルで撃つ芝居をし、じつは水鉄砲だったシーンなど、エピソードそのものは細部まで向田の原作どおりだが、実家のある杉並の三叉路のショット、年に一度母子で白菜漬けをつくるシーンを含め、観客の印象に残るシーンは森田の創作だ。
考えてみると、森田の映画は断片的な1シーンの色彩やアングル、そして音楽などのディテール、そしてそこから生まれるニュアンスを積み重ねることで「森田」映画らしさをつくり出しているように思える。。
「メイン・テーマ」では、薬師丸ひろ子の「メイン・テーマ」「スロー・バラード」、桃井かおりの「オール・オブ・ミー」「素敵なあなた」などの歌でストーリーをつないで成立しているような映画だった。森田の音へのこだわりはBGMだけではない。バリアフリー上映というものがあった。聴覚障がい者用に「風の音」とか「鳥のさえずり」「激しい雨」「滝の音」といった字幕が出る。ふだん環境音に気を留めることはないが、森田が効果音にずいぶん神経を使っていることがよくわかった。森田は「演出」として意識的に音を挿入し、しかも大きな効果を上げていた。

森田の編集机。左上のビデオモニターに「森田の原点」の動画が放映された
森田の原点」という、8ミリ時代の森田のカメラワークと劇場映画の類似点を動画で比較し、8ミリで使ったテクニックが劇場映画でまさに「劇的」に機能していること(このコーナーを企画した宇多丸の言葉)を検証するコーナーがあった。スローニュアンス(ほぼ止まっている人物の手や顔の表情の動きをスローモーションで撮るテクニックを森田はこう呼ぶ)、視覚と動作の一致、視点の誘導、光からハイキーへといったカメラテクニックの話で、たとえば「色彩を演出の一部に使う」を例にする。「工場地帯」(72)で画面を赤くしたが、「の・ようなもの」(81)でも兄弟子が志ん魚にふざけて迫ったとき、画面を赤くし妖しい雰囲気をつくりだした。ノーマルな色調に戻すと同時に「目が覚めただろう」というセリフを入れるといった具合だ。わたしは8ミリは1作もみていないが、たしかに類似のシーンがあった。類似というより、森田監督好みの撮り方といってよい。
警鐘の表現でヘリコプターの爆音を入れたり、フォーカスを「色をボカす演出 気持ち悪さに通じる」という使い方で、「刑法39条」でカモメが飛ぶのをボカして撮り、不気味さを演出として表現した。
「好きな風景 電車」とあり、たしかに路面電車・新幹線・普通列車の車両や車内のを入れるシーンがたくさん出てくる。しかし森田以外の映画でも逆にむしろ電車が出てこない映画を探すほうがむずかしい。森田は普通の監督以上に工場や電車のある風景が好き、もっといえば工場や電車が人(観客)に与える印象や効果が好きだったということなのだろう。
また、セリフでも、ときどきハッとするもの、シュールなものが出てくる。館内展示のセリフ・パネルからいくつかピックアップした。 
「豊島園なら一番で入れますね」「お父さん・・・約束ですよ」「もしも亡くなった時は、どうやって下まで降ろすんですか・・・あのエレベータじゃ棺桶も入らないし。・・・自分の家のことだけじゃなくて他人の家のことも心配してください・・・」(家族ゲーム)
わたしは見ていない映画だが、「結婚してもらえないかしら・・・」「海の底から急にきこえてきたような声だね」(愛と平成の色男)、「僕は人生はギャンブルや思うとる。運不運の波にいかにのっていくか、それが一番面白い思うとる」(悲しい色やねん)と、まるで野田秀樹の芝居のセリフのようなものがあった。
書架に「ダリ全集」(3巻本〕マグリット展、デルボー展のカタログもあったので、全編シュールな映像とセリフの映画をつくっていれば傑作・日本映画になっていたかもしれない。
記事を書いているうちにわかってきたが、森田監督は論理や構成より、時代の雰囲気、その社会のムードを表現することが巧みだったのではないか、という気がする。
これも展示からだが、監督の名言のなかに「銀幕の海を騒がす自由形」「わたしの映像リズム、わたしの台詞のニュアンス、わたしの切りとる映像・・・」「僕は実験と言うのが好きで、映画を作っていくためには何でもチャレンジしていかなきゃいけないと思うんです」という言葉があった。
今回の森田特集の映画が始まる前に必ず「の・ようなもの」の劇中歌、尾藤イサオの「シー・ユー・アゲイン雰囲気」がBGMとして流された。
  See You Again in the Mood さびしくないさ 
  See You Again in the Mood 南の風で フェイド・アウト
という歌詞だが、80年代の「気分」に戻れた。そして1分あまりの森田作品の自己紹介のような「ショート動画」が映し出された。動画の最後は「映画を観に行くというのは、人に会いに行くこと」という森田の決めゼリフで締めくくられる。
これも森田映画の雰囲気をよく表した演出だと思った。
森田は2011年12月20日C型肝炎による急性肝不全のため死去、61歳没、もし生きていれば現在75歳、まだまだ現役監督として活躍することができた年齢である。

「流星スーパー」と「4B仮面」、窓の外は伊豆高原の別荘からの景色。右に秋吉との2ショット写真
森田ファンにはたまらないだろうと思われる展示がいくつもあった。
愛蔵本の書棚の前の机の上には「流星スーパー」「4B仮面」という森田の手書きで絵も入ったシナリオ(ただし複製)が置かれていた。「4B仮面」は「今は、よ中の十二時東和銀行のけいびいんが十二号室をみまわった時ぶきみなわらい声がした。けいびいんがあっとゆうときききんこがさっとあいた」と始まる。森田少年の「作品」だ。その当時、日本各地どこにでもありそうな感じだ。
机の右隅に、ロケ先の上組倉庫前で撮った秋吉久美子との2ショット記念写真が置かれていた。秋吉の「万歳(ハートマーク) 秋吉久美子」の直筆サインがある。森田はよほど秋吉に思い入れがあったということだろうか。 
「YOSHIMITSU MORITA」の白抜き文字が背にあるディレクターズ・チェア、おそらく愛着していたジャンパーとジーパンを着せたマネキンもあった。なんの説明もないのでスタッフの方に聞いてみた。これは事務所からあとで届いたものなので、展示品扱いはしていない。ただ森田さん愛用の服であったことは確かとのことだった。
森田ファンは、何回も通って、味わったり再学習する題材がたくさん展示されている企画展だった。
展示のコンセプトや解説について、プロデューサー・三沢和子さん(森田監督夫人)へのインタビュー動画と文字をこのサイトで見られる。

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「蔦重栄華乃夢噺」の日本橋

そろそろ年末に近づきつつあるが、今年のNHK大河ドラマは「べらぼう――蔦重栄華乃夢噺(脚本:森下佳子)だった。はじめは舞台が吉原(台東区)だったが、後半の7月ころから日本橋(中央区)に舞台が移った。それで中央区も大張り切りで、観光まつりや商業フェアを実施し始めた。毎年11月前半の日曜に行われる中央区まるごとミュージアムも同様で、「蔦屋重三郎に思いを馳せて盆踊り」「お江戸の本屋と日本橋――蔦屋重三郎がいた時代」(日本橋図書館)蔦屋重三郎が歩いた町を訪ねる」「中央区まるごとミュージアムゆかりの地と講談体験」「江戸の出版文化と日本橋――蔦屋重三郎とその周辺」「“蔦屋重三郎”ד江戸文化の魅力”を語り尽くす」が開催された。

わたしはこのうち「江戸の出版文化と日本橋――蔦屋重三郎とその周辺」「“蔦屋重三郎”ד江戸文化の魅力”を語り尽くす」に参加した。「蔦屋重三郎が歩いた町を訪ねる」は残念ながら抽選ではずれたが、主催の観光協会に問い合わせ、ガイドなしだが、自分で見に行くことにした。

蔦屋重三郎「耕書堂」跡 道路右手、二人がみているのが「耕書堂跡」の案内板、左手のホテル・東横インの場所に鶴屋の店があった
まず「耕書堂」跡の説明パネルだ。場所は新宿線馬喰横山から250mほど、14階建て大型マンション前の歩道にある。説明は「江戸時代の本町通り(現在の大伝馬本町通り)は日本橋を起点とする五街道のうち奥州・日光街道の道筋に当たる江戸屈指の目抜き通りでした」と始まる。1783(天明3)年秋、丸屋の店を居抜きで買い取り耕書堂二号店を始めたとき蔦屋重三郎(横浜流星 カッコ内はドラマの俳優名、以下同じ)は33歳。
店が面した道路は、写真のとおり、いまはなんということはない片側一車線の小さな道路だ。しかしこの通りがなんと旧日光街道奥州街道だったというので驚く。通油町は街道沿い100mくらいの町だったようだ。ちなみに街道の日本橋側の隣町は通旅籠町、浅草橋側は通塩町だった。
また通りの向かい側、現在ホテル・東横イン日本橋馬喰町があるあたりに鶴屋喜右衛門(風間俊介)の店があった。重三郎が世話になった鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助)は南西、西村屋与八(西村まさ彦)は北東の位置で、江戸で初めて書店を開いた須原屋市兵衛(里見浩太朗)は現在の三越の北側に店があったようだ。

次に、250mほど南に行ったところに田源という和服屋がありその2階に  耕書堂が再現されている。「画本東都遊 3巻(絵は葛飾北斎 1802)に出ている絵を元にしているので、店の暖簾や店頭の角提灯、板状の新刊広告など、店構えの再現性は高いと思う。商品は書籍中心のはずなので、浮世絵が多く並んでいたかどうかまではわからないが・・・。雰囲気は味わえた。
区の中央館ともいえる「本の森ちゅうおう」3階の郷土資料館の特別展「江戸の出版文化と日本橋――蔦屋重三郎とその周辺」をみた。
書籍商には、儒学書、歴史書など学術的内容の書籍の作成・販売を行う書物問屋、大衆向けの廉価な草紙、錦絵などを作成・販売する地本問屋、貸本屋、注文者と直接関係を結び受注的出版を行う板木屋などの種別があった。
重三郎は、親戚の店の軒先での貸本屋から始め、鱗形屋板「吉原細見」の小売、25歳で「吉原細見」の出版、恋川春町(岡山天音)朋誠堂喜三次(尾美としのり)らと知り合い黄表紙・往来物の出版が当たり日本橋進出、大田南畝(桐谷健太)らの「狂歌集」を出版、とりわけ喜多川歌麿(染谷将太)狂歌絵本「画本虫撰」「潮干のつと」「百千鳥狂歌合」は、重三郎のプロデュースが光った

画本虫撰」の原本は1787年に出版されたが、2025年に文化ビジネスサービスが複製したものが展示されていた。かたつむりとくつわ虫が登場するページだが歌麿の絵がすばらしい。「はれやらぬその空言にかたつぶり ぬるるほど猶つや出しけん」「かしましき女に似たるくつわ虫 なれもちりりんりんきにやなく」と書かれた(らしい)狂歌を付け出版されている。
寛政の改革を風刺した黄表紙「文武二道万石通」「鸚鵡返文武二道」もヒットした。しかし「娼妓絹よろい」「仕懸文庫」「錦之裏」の3冊が、遊郭に関する本を出版したと言う理由で幕府に摘発され、1790年作者の山東京伝(古川雄大)は手鎖50日、蔦屋は身上半減の処分となった。
その後、突然写楽が登場するが、それはまだドラマに出てこない。重三郎は1797年47歳で死去した。
書籍商は、まず寛永年間に京都で登場し、元禄期に大坂中心に俳諧書、西鶴本が出版された。江戸での創業は17世紀後半の須原屋茂兵衛が古い。出版業が成立するには、戯作者と絵師、紙問屋、板木屋、摺師などの職人、そして書籍を流通させる商人が必要だ。さらに前提として「読者」がいる。都市で商売や生活を営むには読み書き能力と計算能力が必要とされ、寺子屋ができた。そして識字率が上がり、学び・修養・娯楽としての読書が広がり「読者」が成立した。「絵入商売往来」は寺子屋の教科書として使われ、「吉原細見」「江戸名所図会」などのガイドブック、「東海道中膝栗毛」のような滑稽本人情本が出版され、独特の江戸文化を形成する。

左から車浮代さん、外川雄一さん、前田洋子さん、桂小すみさん
“蔦屋重三郎”ד江戸文化の魅力”を語り尽くす」は、耕書堂跡すぐ近くのアパレルメーカー、ボンマックスの通油町ギャラリーで開催された。トークイベントの発言者は、時代小説家/江戸料理文化研究所代表・車浮代さん、WEBメディア「ウェルビーイング100byオレンジページ」編集長・前田洋子さん、音曲師として2022年に花形演芸大賞を受賞した桂小すみさん、(株)ボンマックス代表・外川雄一さんの4人、それぞれ蔦重と江戸文化を愛する方だった。
車さんは小説『蔦重の教え』『蔦重の矜持』の著者なので、今年は週2回ペースで講演が続いているそうだ。江戸料理文化研究所代表とのことだが、現在ある食材で江戸時代の料理を自分でつくり再現し、それも自前のキッチンスタジオまで持っておられる方だ。
前田さんは、車さんが著者の「居酒屋蔦重――江戸のメディア王・蔦屋重三郎がもし居酒屋を開いたら」というムックを昨年11月にプロデューサーとして発刊した。これは朋誠堂喜三二、大田南畝恋川春町喜多川歌麿など11人の蔦重の友人を招いた想定で、10の短編小説と江戸レシピを紹介する本だ。車さんが1200もの江戸レシピを自身で再現した方だったので起用し、そこから厳選したレシピを掲載したとのことだった。前田さんが、江戸料理文化を世に広めるプロデューサーであることがわかる。また蔦重の友だちとのつながりや打たれても起き上がる力(レジリエンス)を見ると、ウェルビーイングを体現していると語った。
桂さんは、中高では合唱部や吹奏楽部の部員、教育系大学音楽科在学中にウィーン国立音大別科のミュージカル専攻で国費留学、中学教員を経てNHK邦楽技能者育成会国立劇場研修生として長唄や寄席囃子を学び舞台袖の囃子方を職にする。ところが3代目桂小文治に入門、前座となり45歳で寄席色物の音曲師に転職した。寄席の色物とは、曲芸、奇術、紙切り、漫才などで、音曲は三味線を弾きながら端唄や俗曲を歌う高座芸である。
このプロフィールだけみても、ドラマになるような方だ。また江戸の音楽に造詣が深いことが推しはかられる。
外川さんは、銀行や電力会社などのユニフォームアパレルメーカー代表で、日本橋大伝馬町には2015年に移転した。この場所には江戸時代から炭屋という鍋店があっただそうだ。今年3月、社屋1階に通油町ギャラリーを設置(26年1月まで期間限定)し、刺繍のような立体感を与える特殊プリントで浮世絵のデザインのTシャツも開発販売した。近々、天ぷら、寿司、うなぎ、そばの江戸料理四天王をデザインしたTシャツも発売するそうだ。
社屋前の旧日光・奥州街道には、大丸呉服店、書店、鍋屋などの大店が並び、旅館も多く江戸時代にはニューヨークの5番街のような町だったとのことだ。現在町会長も務めている。
蔦重のクリエイティビティ、エンタテインメント性、人をまきこむ力、プラス思考、一方リスクにも備える思慮深さに魅かれると語る。経営トップらしい感想だ。
中央FMのスタッフのMCも巧みで「蔦重が生きていた時代にいればどんな仕事をしたいか」とか「もしその時代に日本橋大伝馬町でブームをつくるならどんなブームをつくるか」と想像力を刺激する問いかけを差し挟んだ。たとえば仕事では外川さんは「耕書堂の隣に『耕衣堂』という店を開きアイディア商品を売りたい」とか、ブームづくりで車さんは「当時は(赤酢は開発されておらず高価な米酢しかないため)押し寿司しかなかったので、生魚の握りずしのブームをつくりたい」、外川さんは「当時は寒さが厳しく寿命が短かったので、ヒートテックやダウンジャケットを売り、ブームにしたい」など、なるほどと思う答えが出てきた。
最後に、桂さんから「やはり吉原ものがいいでしょうね」と吉原雀という鳥の名がたくさん登場する曲を演奏された。本来は、三味線がずらりと並び、鼓や太鼓の鳴り物も入る曲だそうだが、この日は独演、わたしはあまり知らない分野だが声の張りがよかった。
また、わたしは音楽に関心があるので、西洋音楽と邦楽双方の経験がある桂さんの
西洋音楽は、音を重ね和音にしてハーモニーを楽しむが、邦楽は歌と音楽との時間のタイミング、たとえば三味線を鳴らすタイミングや指圧を味わう。この文化は世界に誇れる、との話は「目から鱗」だった。
江戸時代後半の寛政期に、浮世絵、歌舞伎、江戸料理などの江戸文化が町民のあいだで生活に根づいたことを少し感じることができた。
4人で語られた江戸の料理や文化の蘊蓄話は、1時間半では短かった。

☆まるごとミュージアムのイベントではないが、10月に美術史家・大久保純一さんの「歌麿の挑戦と挫折」という講演を聞いた。
歌麿は、それまで画一的にしか描かれなかった女性の顔を、内面や境遇の違いから、目・鼻筋・口の細部で描き分けた。また全身像ではできない大首絵としたことが、表現として画期的であり歌麿の「挑戦」だった。それでドラマにも出た水茶屋難波屋のおきた、煎餅屋高島屋のおひさ、富本節芸者の豊雛が寛政三美人と持て囃された。
これに対し幕府は「評判娘の名を錦絵に記してはならない」と1793(寛政5)年禁令を発令、次に名前を図にした判じ絵も96年に削除を命じた。1800年にはとうとう女の大首絵を自粛するようお達しが出た。
歌麿自身も抵抗をやめ、女性の表情の違いを描かなくなっていった。これを大久保さんは歌麿の「挫折」と呼んだ。

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桐生、足尾への夢のような旅

やっと暑さが収まったと思ったら急に寒さが厳しくなった秋の日、桐生と足尾に足を延ばした。
桐生はコンパクトだが見るべき観光スポットが多い街だった。
桐生が織物で有名な土地であることは知っていた。

まず全体を概観しようと桐生織物記念館の資料展示室に行ってみた。明治大正期が全盛期だろうというくらいの知識だったが、古くは8世紀の奈良時代に朝廷へ絹織物を献上し、戦国時代には新田義貞の軍旗、関ケ原の合戦の徳川方の旗が桐生産のもので有名になり、1300年もの歴史をもつ。江戸時代の1783年に水車動力の八丁撚糸機を発明、明治になるとジャカード機を導入、大正期には機械化も進み大手企業が増えていった。
昭和戦前期には生糸に加え人絹の輸出も伸び、織物産業はピークを迎え、桐生の街は繁栄した。
この記念館には、蚕の蛹がつくる生糸に強度を加えるため撚糸する製糸、それを原料に布を織る織物の工程、歴史的な織機、製品や見本帳の変遷などが展示されていた。
記念館を出て、まず駅から2キロほど北にある旧桐生高等染織学校(現在の群馬大学工学部)に向かう。講堂や守衛所は1916年に建てられたもので、1998年に国の有形文化財に登録された。2階から下を見下ろすと、講堂というよりまるで教会の信者席(身廊)のようだった。考えてみると慶応の三田の演説館もこんな感じだったように思う。
次に、本町通を南に下ったところにある有鄰館に行った。ここは近江商人矢野久左衛門1717年に創業した矢野本店の酒・味噌・醤油・ビールなど11棟の倉庫群で、白壁や赤レンガ作りの蔵が11並んでいた。
付近は桐生新町重要伝統的建造物群保存地区に指定されていて、有鄰館以外にも古い店がポツポツ見受けられる。
赤レンガ蔵をのぞくと、なぜか本を平積みで並べている。こんなところで本が売れるのか不思議だったが、聞いてみると、この倉庫を借りて講演会を開催するのだが、せっかくなので「ふやふや堂ブックフェア ファッションウィーク編」と名付け本業の書店を3日だけやることにしたそうだ。
ふやふや堂という変わった店名なので、いわれを聞いてみた。店主は桐生出身だが、東京で仕事をし、そのあと京都の麩屋町通りに数年住み桐生に戻って店を出したそうだ。その「麩屋」から名付けたとのこと。麩屋町通りは京都の南北の通りで寺町通りと烏丸通のあいだにあり「寺・御幸・麩屋・富・柳・堺(てらごこふやとみやなぎさかい)」の3番目に出てくる細い通りだ。
本業はマップデザイナーだそうで、そのせいもあるのか書店は週2日+第一土曜のみ夫婦で営業しているそうだ。レジ近くに「一冊いかが(ふやふや堂出版部 2025.11.1 144p 800円)という文庫本サイズの著書が置かれていた。店主の斎藤直己さんが地元の桐生タイムスFM群馬の広報誌に発表した書評風エッセイが中心になっている。「桐生」みやげに1冊購入し、サインしていただいた。旅先でこんな出会いがあるとは思いもよらなかった
その後、繊維産業関連では金谷レース工業の事務所と鋸屋根工場、絹撚記念館、桐生倶楽部会館などに行った。
金谷レースは織物工場だったが、いまはベーカリーカフェに改装されている。たまたま休業日で中には入れず、外観だけ眺めた。
絹撚記念館は、名前から業界団体の会館だろうと推測したが、そうではなく桐生撚糸合資会社という民間会社の事務所棟だった。1902(明治35)年に政府の殖産興業政策により模範工場として創業し、1911年に株式会社化、1918年に日本絹撚株式会社になった。創業社長の前原悠一郎は教育熱心な人物で1904年に夜学を設置、09年には毎日2時間、修身、国語、算術、唱歌、裁縫の中から授業を行った。18年には実業補習学校をつくり、生徒は351人もいた。これは女性を対象にした教育機関だったが、その後男子部も設置し本科と別科を置いた。地図をみると、相当広い敷地で、この事務所棟には皇室専用貴賓室まであり、実際に皇室も来館したようだ。前原は退職後、1921年に市制が施行(県内3番目)され初代桐生市会議長などを務めた。

スパニッシュ・コロニアル様式の桐生倶楽部
桐生倶楽部は、前身の桐生懇和会を改組し1918年に設立された経済人の社交団体で鉄道や銀行の誘致、電話設置等に尽力したとある。もちろん親睦や文化活動も行い、いまも240人ほどの会員がいる。敷地の隣にロータリークラブの事務所があったので、倶楽部と一体か聞いてみたが、別組織だそうだ。ロータリークラブは一業種一人で社会奉仕活動を行う地域団体だ。おそらく双方に所属する会員も多くいると思われる。
なお2階建ての建物は日本最古のスパニッシュ・コロニアル様式で1996年に国登録有形文化財に指定された。
それ以外では、森合資会社の事務所と白壁の店蔵の外観をみた。事務所の建物は古い医院のようにも見えたが、白磁タイル張りの擬洋風建造物だそうだ。この家は「都市の論理」で有名だった羽仁五郎の生家とのことだ。
ここから本町通を250mほど南下したところに書上(かきあげ)文左衛門邸(現在は花屋)があり、無頼派の作家、坂口安吾が3年ほど暮らし1955年に48歳で病死した。この家で「夜長姫と耳男」「真書太閤記」「狂人遺書」「安吾新日本風土記」などを精力的に書き続けた。店の脇に「坂口安吾 千日往還の碑」という石碑が立っていた。
この家から100mほど南に前述の有鄰館がある。戦災がなかったこともあり、歴史的建造物が多く見られた。
最後に大川美術館を訪問した。大川美術館は、桐生出身の実業家(元ダイエー副社長)・大川栄二が個人で収集したコレクションをベースに1989年に開設した美術館で、松本竣介、野田英夫のコレクションが有名だ。わたしは「立てる像」は知っていたが、9月に近代美術館でみた「記録をひらく 記憶をつむぐ」で松本が新人画会という抵抗の画家の同人であることを知り、興味をもった。

松本竣介「街」(1938)
ただ調べると松本は盛岡育ちで、作品の多くは岩手県立美術館が所有しているようなので、それほど期待せずに出かけた。ところが「街」ニコライ堂の横の道」「婦人像 D」「自画像」「建物(青)」など少数でも質の高い作品が展示されており、それだけでなく清水登之、野田英夫など「戦後80年 松本竣介と同時代の画家たち」という企画コーナー、「雑記帳」「VAN」など雑誌に描いたカット、挿絵の「松本竣介の雑誌の仕事」への展開も見ごたえがあった。また柳原義達、舟越保武の彫刻作品もよかった。
この美術館は、駅の南西方向、水道山中腹にあり、西幼稚園からショートカットがあるといわれて行くと、玄関がかなりの急坂の上にあり、息が切れた。美術館内部はそれほど急勾配ではなかったが、それでも一度3階くらい下に降り、また上ってくる構造になっていた。
桐生市には国指定文化財が7件、登録文化財が34か所133件もある。なかには電車の橋梁7件も含まれるが、今回、中心部を3時間ほど自転車で回っただけで6か所も見られた。しかも外観だけでなく室内も見られるようになっている施設も多い。一覧表に住所が出ているので本町通りから1本裏に入っただけでその倍くらいの数があることがわかった。つまり桐生の街には文化財、それ重要文化財が山のようにあるということである。まさに夢の街だ。
翌日は朝早い時間のおいらせ渓谷鉄道で、足尾に向かった。通洞という駅で下車し足尾銅山観光という観光施設をみた。
足尾銅山の歴史も古く、1610年に銅が発見され幕府直轄の銅山となる。維新後、1877(明治10)年民間に払い下げられ、古河市兵衛が経営し西洋技術を取り入れ生産量が増え、1912年から38年まで年間1万トン以上の量の生産を続け、1916年には足尾町の人口が3万8000人を超え史上最高になった。1912年には足尾鐡道が開業、18年に国有化され、その後1989年にJRからわたらせ渓谷鐵道になった。また古河鉱業を母体に、横浜電線、旭電化、横浜ゴム富士電機富士通日本軽金属日本ゼオン朝日生命などの古河財閥(三水会)を形成した。
通洞の駅を降り、10分ほど戻る方向に歩くと銅山観光があり、10台以上のバスが発車するのがみえた。チケットを買うといきなりトロッコに乗せられ、多くの小学生が乗り込んできた。東京の小学校の6年生とのこと。おそらく修学旅行なのだろう。男女ともはしゃぎ声がすごい。エネルギーをもらったような気がした。これも旅のおまけだ。
坑道を150m入ったところで降りると見学コースが始まる。江戸、明治・大正、昭和の3期別の等身大の人形による採鉱シーンが並んでいた。坑道内はずっと地下水がチロチロ流れていた。その後、銅の採鉱・選鉱・精錬の工程や歴史の教育ビデオをみる。採鉱・選鉱は少しわかったが、精錬は具体的なことがもうひとつわからなかった。みやげもの売場にあった「足尾銅山の歴史」(第3版)を購入して読んだが、精錬の説明はほとんどなかった。また日本で最初の公害事件・足尾鉱毒事件への言及はなかったように思う。やはり舘林の田中正造記念館に行く必要があるのかもしれない。
この通洞のほか、もともとの鉱山・本山が見どころということになっておりレンタサイクルで行くつもりだった。おそらく駅の近くだろうと、駅に戻り商店の人に聞くがよくわからない。観光センターも休み、電話で問い合わせると、なんと鉱山観光のすぐ近くの足尾行政センターにあるという。結局2往復することになった。はじめは、昼食はコンビニ弁当を買い、目的地近くの川べりで食べようと思っていた。しかしコンビニはおろか開いている店などほとんどない。あきらめて観光センターの食堂で食べることにしたが、つくるのも運ぶのも会計も1人オペなので、時間がかかった。この時間ロスは大きく、市バスで日光に向かうはじめの計画は崩れた。

手前が日本最古の鉄橋・古河橋、遠くに精錬所の大煙突が見える
レンタサイクルで、渡良瀬川を足尾、間藤(まとう)、赤倉、大煙突の対岸あたりまで片道4キロあまりのところまで遡り、通洞へ戻ってきた。おかげで現存する日本最古の鉄橋古河橋、精錬所建屋、間藤水力発電所跡足尾銅山記念館掛水倶楽部(ただしこの日は休館日)などの外観をみることができた。自転車の旅は、いつも景色が過ぎ去るので夢のような感がある。この日も70分ほどの、時間に追われるサイクリングだったので同様だった。ただたまたま天気がよく、しかも渡良瀬川沿いのほとんど車が通らない道路だったので、のどかに自転車を走らせることができ、気持ちがよかった

ロッコわたらせ渓谷号
2時間に1本の電車、しかも1日に3本しか走らないトロッコ列車の時間になんとか間に合った。窓のガラスがないので、森も川の水面も眺めは最高だった。ただし普通料金より500円ほど高い。
眺めのよい場所や現存する最古の駅舎では徐行したり停車してくれたりする。また車掌さんが、カートでみやげ品を販売に回る。観光バスならぬ観光電車に徹している。ただし風が吹き抜けなので寒く、ときどき普通車両に避難した。4両のうちトロッコ車両は2両だけだが、客の8割は団体客だった。


紅葉まであと2週間くらいだったが、全山紅葉すると、紅葉のなかを駆け抜けて眺める風景は、すごい景色になりそうだ。もちろん新緑の季節もよいと思う。
群馬と栃木、昔でいう「国」が異なる。それを結び樹間を駆け抜けるのが、夢のようなこのおいらせ渓谷鐡道だ。 
桐生も、足尾も夢のような旅だった。小学生の修学旅行のような1泊2日の旅になった。


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戦争画とコレクション展をみた東京国立近代美術館の一日

東京国立近代美術館で企画展「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」をみた。

戦時中に画家たちが描いた「戦争記録画」(戦争画)は敗戦後占領軍に接収され、1970年「無期限貸与」という形で返還され、この美術館で保管されていたことは知っていた。戦争画を常設展の1室に集め展示しているのを見たことも何度かあった。
今年は戦後80年の節目の年なので、280点のもっと大がかりな企画展示が開催された。「美術品」が果たした「記録」という役割と、それらを事後に振り返りながら再構成されていく「記憶」の働きに注目するというのがコンセプトだ。

藤田嗣治「哈爾哈河畔之戦闘」(1941)
戦争記録画というと、たとえば向井潤吉「四月九日の記録(バタアン半島総攻撃)」、鶴田吾郎「神兵パレンバンに降下す」や宮本三郎山下、パーシバル両司令官会見図」が思い浮かぶ。戦闘シーンの絵が代表的だが、「戦時の美術」はそれだけではない。解説パネルによれば、銃後の暮らしをテーマにした作品、大陸・南方、歴史主題、桜や富士山のような「象徴」、数は少ないが新人画会(松本竣介靉光鶴岡政男ら8人の会)のような抵抗の画家の作品もある。
構成は、1 絵画は何を伝えたか、2 アジアへの/からのまなざし、3 戦場のスペクタクル、4 神話の生成(肉弾三勇士」「アッツ島玉砕」など)、5 日常生活の中の戦争、6 身体の記憶、7 よみがえる過去との対話、8 記録をひらく、の8章から成りパースペクティブが幅広い。
まず感心したのは、たとえば2章の内訳が、1 朝鮮・満州観光のまなざし、2 満洲の田園風景の虚実、3 五族協和のスローガン、4 満州・中国観光と戦争、5「行軍」の情景、6 空爆の視点、7「思想戦」と美術、8 大東亜共栄圏の夢、と絵のテーマでしっかり分類・分析されていることだ。
次に、展示物は美術作品だけでなく、「写真週報」、アサヒグラフなどの雑誌記事近藤日出造などのマンガ、「強く育てよ御国のために」「進め一億火の玉だ」といったポスターや国策標語などまで幅広く集められていた。毒ガス対策の「空襲!備へよ防毒面」(藤倉工業 1930)の民間企業の商品ポスターもあった。ラヂオ・テキスト国民唱歌1輯「海ゆかば」ほか(日本放送協会 1938)も楽譜付きで並んでいた。総力戦なので、前線だけでなく社会全体が戦時社会になっていたことがよくわかった。計画的に戦時社会を構築していたわけだ。当然、歌謡曲、映画、講談など庶民の娯楽、芸能もそうだっただろう。これなら「教育」の力で、子どもを続々と愛国少年、愛国少女に育成できるのは当然だ。「共栄圏仲良シ双六(栄寿堂)というゲームもあった。おそらく現在のイスラエルウクライナもそれに近くなっているのだろう。
展示の終わりに年表があった。満州事変の1931年から日中平和友好条約調印の1978年まで48年の時期のものだ。これでみると45年の敗戦までが14年、敗戦後が33年、1/3と2/3、戦後のほうが長い。パンフの作品出品番号によれば、さすがに1945年以前が多いがそれでも54%に過ぎず、戦後の作品がかなり多い。丸木位里・俊夫妻の「原爆の図(1950-51)広島市民が描いた「死んだ母親に水をやる子供」「負傷者がぞろぞろと逃げて行く」「足を負傷した朝鮮の婦人」(1974-75)などの作品があるからだ。まさに歴史を「記憶」で描いた絵だ。さらに浜田智明「初年兵哀歌」(1951-52)岡本太郎殺すな(1967)、中沢啓二「はだしのゲン(少年ジャンプ73.11.12号)などの反戦作品もあるからだ。水木しげる総員玉砕せよ!」、手塚治虫ZEPHYRUS(1971)のマンガも展示されていた。
問題は、8章「記録をひらく」という挑発的なブロックだ。内容は、真喜志勉が1977年に宮本三郎の「山下、パーシバル両司令官会見図」も素材に使い米軍のジェット戦闘機と女性のヌードを組み合わせた「無題」という作品、向井潤吉の戦時中の「マユ山壁を衝く」という戦争画と戦後1962年の「飛騨立秋」という風景画の類似性と「学び」の指摘、小川原修「成都爆撃」と戦後の本人へのインタビュー動画だけだった。
まだまだ課題探索中、開発途上ということだろう。どのように取り組めばよいのか、たしかに難しい課題なので、その努力をおおいに評価したい
わたしの発見をいくつかメモしておく。
●2章8 大東亜共栄圏の夢のコーナーで写真週報の「昭南生まれて1年 ラジオ体操の本格的な講習会」(1943.2)、「二宮さん、ジャカルタへ」という記事をみつけた。昭南はシンガポール、二宮は二宮金次郎銅像のことだ。韓国、台湾の「植民地」でやってきたことを、占領した「大東亜」の地でもやはり同じことをしていたことがわかった。
●神話の生成で、大勝利だけでなく「アッツ島玉砕 軍神山崎部隊の奮戦(藤田嗣二 1943)のような負け戦でも、絵画が「神話」をつくることができることがわかった。
●先月、丸木美術館でみた原爆の図の「水」「火」をみた。これは再制作版で74年に自身の筆で彩色加工までされたとのこと。章タイトル「身体の記憶」や解説文の「肉体絵画」という言葉をみて、死体の山や被爆者が裸体で街を彷徨う行列をリアルにみれば、たしかにそういう捉え方もあると感じた。同じ作品という点では、東松山でみた俊の「解放され行く人間性」をコレクション展で再び見かけた。ただこちらのほうがサイズが大きい気がした。同じモチーフの作品がいくつかあるのかもしれない。
●「ある日の夢(銃殺)」(1950)平安南道安州出身の全和凰(チョンファハン 1909~96)の作品だ。3.1独立運動万歳デモをテーマにしている。これも歴史的記憶の絵だが、加害者・日本に対し、日本人画家とは異なる「厳しい」視線を感じた。
広島市民が描いた「被災の記憶」は制作年代が1974-75年とあるので、30年前の記憶で描かれている。「ものすごい火柱が渦を巻いて上昇し、恐ろしくもあり、きれいでもあった」「水槽の中に折り重なった死体」「長女を火葬し、行方不明の次男の無事を祈る」などその人にとって一番ショックを受けたシーンを再現したものだろう。丸木夫妻が「原爆の図」を描くオリジンのエピソードのような絵柄だった。
この企画展の作品は、これらのサイト(「なぜ「ひっそり」開催?」「チラシ・図録なしの戦争画展」をクリック)で見ることができる。 


所蔵作品展 MOMATコレクションも、レベルの高い作品が並び、また企画力が発揮されたすばらしい絵画展だった。
近代美術館のコレクション展というと、明治、大正、昭和前期、戦後、1960年代、70年代、現在といった時期区分別の展示のような気がしていた。たしかにいまも基本は時系列だが、それに一味加わっていた。
たとえば3室は、岸田劉生の有名な「道路と土手と塀(切通之写生)(1915)1点に焦点を絞り、「岸田劉生切通之写生」は何を切り通したか?」というタイトルで、この絵をめぐる14点の作品で構成していた。この絵の解説に「道が手前にまくれ上がって来るように見える、とある。(岸田は)『むき出しの土が持つエネルギーを捉えたかった』と述べているそうだ。
同時代の作家にも、この絵は大きな衝撃を与えたようで、うち5点は岸田でない別の作家の作品なのだ。椿貞雄「冬枯の道(1916)佐伯祐三雪景色(1927)のように影響が見受けられる作品が展示されていた。
同様にテーマをひとつに絞った展示室が、「山と渓谷」の4室、太平洋戦争突入の1年前紀元2600(1945)年1年に制作された6室の18点の作品、1946-59年制作の女性作家の作品11点を選んだ「戦後の女性画家たち」の7室、山村雅昭の21点の写真作品「ワシントンハイツの子供たち」の9室、アルプのアトリエ/絵画と目的の10室と、全部で12室のうち6室もあった。 
また最後の部屋12室は「ヨコ軸・タテ軸」というタイトルで、数十年単位の幅で作家の新旧の作品を集めて展示する部屋で、今回は石内都、辰野登恵子、毛利武士郎横尾忠則李禹煥の5人がピックアップされた。わたくしが比較的みている横尾忠則でいうと、「青森県のせむし男天井桟敷)」(1967)、「風景」4点(1969)、「責め場」3点(1969)、「見えざる助力者(1969)、「かざぐるま 2004」、「宮崎の夜―眠れない家(2004)だった。初期の芝居のポスターあり、グラフィックあり、Y字路あり、と横尾の作風の展開がよくわかり、しかも質の高い作品が揃えられ、さすが国立近代美術館と感心するレベルの展示だった。


村山知義「コンストルクチオン」
1室ハイライトは、小倉遊亀O夫人坐像(1953)、和田三造「南風(1907)関根正二三星(さんせい)」、加山又造天の川」などの名画14点が並び、あたかも「現物でみる美術教科書」のような部屋になっていた。
なかでも、わたしが時間をかけて見たのは村山知義「コンストルクチオン」(1925)だった。わたしは以前から村山の人生に関心があった。この作品もこの美術館で何度かみているが、いつも展示されているわけでなく、15年ぶりくらいの再会だった。
解説文には「木片、布、ブリキ、毛髪、そして海外のグラフ雑誌のグラビアなど」身の回りにある素朴な多様な素材を材料にしていることと、画面左上に突き出たL字型の木片と中央の下向き矢印の対比を指摘している。L字と矢印の対比はなるほどと思ったが、仔細にみるといろんな発見がある。たとえば画面右下4×3の格子の左から2番目のこげ茶から白へのグラデーション、使用されている8種の木片の木目や色の組合せ、張り付けられた白い革と釘の色、円・三角・長方形・雑誌記事の不定形の組合せなど、コンストルクチオン(構成)というタイトルにふさわしい、いろんな企図を推測できる。そして24歳の村山はきっと楽しみながら一心に制作したであろうこと、またキッチリ組み合わされた仕上がりであることから、(哲学科出身であるにもかかわらず)きっと工作好きで手先が器用な職人肌の人物であったことが想像できる。こういう才能が、舞台美術や店舗設計などに結びついたのだろう。わたしには新たな発見だった。
その他、わたくしが注目した作品をいくつか挙げる。
里見勝三「(1937) 赤の縁取りが鮮烈だった。しかも制作は日中戦争開戦の年である。一方で橋本千代俊「銀嶺」は1942年制作というから敗戦へ歩み出した時期だが、こんな絵を描ける余裕がまだあったことに驚いた。
日比野克彦THE SHOES. VERY PARCO.(1984)はパルコという文字が入っているせいもあるが、いかにもバブル期の商業主義絶好調の時期の作品に見える。わたしにとって日比野はまだ20代だった1980年代のNHK教育TV「YOU」司会者の印象が強いが、2016年から東京芸大美術学部長、22年から学長を務めている。
11室「揺れる境界」にあったシュシ・スライマン」(Negara)(2012-13)。スライマンはマレーシアの作家だ。マレーシアはマラヤ連邦から1963年に独立、2年後の65年にシンガポールがマレーシアから分離独立した。28の顔は、祖先、政治家、父の顔だという。バックの赤と白のストライブはマレーシアの国旗をイメージさせるが、センターの三日月と太陽はまさにマレーシアの国旗である。


シュシ・スライマン「国」(Negara)

平日11時からガイド・ツアーがあることを初めて知った。4階エレベータホールに希望者が集合する。この日は20人前後だったので2グループに分かれる。平日昼間なので9割は女性だ。わたしたちがみたのは、3階の大沢昌助「岩と人」、有馬さとえ「題名不詳」、ソル・ウィット「ウォール・ドローイング♯769」の3作品。
ガイド・ツアーというと学芸員(ガイド)が、作品の意味、作家の経歴、時代背景などを解説してくれるのが普通だが、ここは違う。主役はゲスト(観客)だ。作家名や解説、制作年をみないで、自由に第一印象、不思議に思ったことなど感想を述べ、ガイドが答えるもちろん初対面のグループなので、ガイドの「この風景が描かれたのはどんな地方だと思う?」「描かれたこの部屋はどんな部屋だと思う」といったMC能力やコーディネイトが重要であることは間違いない。しかし基本的に絵をみるのが好きな人が多いので、積極的に感想を述べる人がいるし、それに反応して「私はこう思う」と異論も出る。なかなか面白い企画だった。
ソル・ウィットの作品が、感想を述べるのが一番難解だったが、制作手順などをガイドに説明してもらうといろんな感想が出てきた。こちらが主体的に感想を述べたあとの解説なので、ただ聞いているより体に入り、記憶にもより残る。時間が合えば、今後も参加してみたい。
その他、今年は日韓基本条約60周年の年でもあるせいか、「新収蔵&特別公開 コレクションにみる日韓」という企画展を2階の半分で開催していた。44点の展示のなかで、わたしは新海竹蔵「砧」(1939)という彫刻作品と山田新一「仁川俘虜収容所に於ける英豪兵の作業」(1943)に興味をもった。砧は「砧を打つ女」の洗濯棒のことで、どのように作業するのか、はじめて見たように思う。「仁川」のほうは、てっきり戦後占領期の米兵の絵かと思った。バックの風景が明るいせいもあるのだろうが捕虜になった英豪兵を描いた作品とは思わなかった。
常設展も、この作品リスト作家名や作品名で検索するページで大要を知ることができる。

2階テラスから屋外を見渡す
東京国立美術館は1952年12月開館。ただ場所はここではなく京橋だった。いま国立映画ミュージアムがある場所で、以前は日活本社があった。竹橋には1969年6月に移転した。ブリヂストン石橋正二郎が個人で尽力し谷口吉郎設計の建物を寄贈したとあった。
ということは開館がわたしが生まれた年、新館移転が高校2年のときだ。移転1年か2年のときに講演会を聞きにきた記憶がある。ここの4階窓から眺める皇居の内堀の石垣が好きなのだが、それもあってなじみ深い美術館だ。
この日は朝10時過ぎに美術館に入り、昼は2階テラスで食べ、夕方16時に館を後にした。気候がちょうどよかったせいもあるがすっかり満足・満腹の一日となった

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。
(C)2007-2025 tamentai-fの日記