一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

晴れて出禁となる



 とうとうやらかしちまった噺。こうなってはいかんと、あらかじめ薄うす感じていたのにも関わらず。夕雲が赤い。

 今年の堂々堂の品揃えには眼玉と称べる魅力商品群がいくつかあって、日本近代文学の名作復刻シリーズがそのひとつだ。鴎外・二葉亭・漱石に始まって、谷崎・芥川・室生犀星佐藤春夫と来て、川端康成中野重治など、大家の名作がずらりと並ぶ。箱や本にはなにやら古めかしい書体の背文字が並ぶ。ざっと二百点はあろうか。
 文庫版やら新しい文学全集に収められてある名作ばかりだから、読むだけなら新装本がいくらでも入手可能だ。

 じつはいずれも、今や文化財と称んでいい初版本を現代の製作技術を駆使して再現した、世に云う復刻本である。精巧なレプリカだ。稀覯本に属する本文ページを撮影してオフセット印刷し、判型、用紙、本文や装幀の刷り色までを巧みに再現して、中身も外見も一見オリジナルそっくりにこしらえてある。
 昭和の最後に近いころだったろうか。愛書マニアや時代性を調べる一部研究家向けに、復刻本の出版が小ブームを巻起したことがあった。今年の仕入れでは、この復刻本シリーズの鉱脈に当り、まとまって入荷できたので、品揃えの眼玉のひとつとしたのだった。
 かつては、つまり昭和の末ころであれば、愛書家や研究者相手の出版だった。今それを捨て値同然の価格破壊で提供する堂々堂にあっては、ナンチャッテ商品であり、ホォーこんなだったのかと、酒場トークに役立つ玩具みたいなものだ。
 さよう割切って眺めれば、古色あり、総ルビ本文あり、大正ロマンの甘美な頽廃的デザインあり、今の眼にはかえって前衛的に映る書き文字ありで、いたって愛くるしい玩具といえる。この値段なら一冊手元に置いても、あるいは大人買いして書棚インテリアとしても、ご損のない商品だ。

 間違いなく売れる……はずだった。ところが、開店直後の出足においては、さほどでもなかった。少し様子を観察したら、原因はすぐに知れた。通り過ぎるお客さまが、復刻本をご存じない。なんでこんな古めかしい版が今さらと、一瞥するだけで無関心に通り過ぎるばかりだ。加えて店員たる学生諸君が、復刻本をご存じない。「本」の側面しか見えない。「ナンチャッテ」や「玩具」の側面が見えない。商品の面白さや愛らしさを、お客さまに伝えられない。
 説明さえ尽せれば、お客さまから必ずや歓んでいただける商品なのだ。致しかたない。出しゃばって若者の足を引っぱることを怖れながらも、立売りの見本を示すしかなかった。
 ――初版です。嘘。実物だったら二百万円。ほら、ご覧ください、この文字このルビこの中身。初版はこうだったの。昔の青年はこれを読んだの。奥付がほら大正二年、春陽堂。ここで終ってたら、たんなる偽物。もう一枚めくるとホントの奥付で、昭和五十九年日本近代文学館。つまり初版ソックリのナンチャッテ本ってわけ。造本装幀もイラストの色使いも、再現されてます。森鴎外、そこにあります。イラストがスゴイ。となりが一番お洒落な北原白秋。ホコリ汚れを防げる天金って手法。綺麗でしょお。こんなだったのねェ、ってカフェトークにも最適。さァ想い出の作品があったら、お手にお取りになってみてください。現品限りの早いもん勝ちです――

 よく売れた。
 実行委員会からお𠮟りを受けた。人の流れを停めないようにと。水族館でマンタを観る児童だって立ち停まる。立ち停まらずして本を物色などできるものか。カチカチカウンターで数えながら、一人でも多くの周遊者を通過させるのが大学祭だとでも云いたいのだろうか。いや、本意はそこにはあるまい。整然かつ円滑な進行を欲する管理統率者にとって、学生サークルの展示即売会場に、風体怪しき老人が出しゃばっているのが眼障りだということだろう。
 むろんかしこまって承る。まだぞろ復刻本を手に、これはいったいどういう本かと不思議そうに眺めるお客さまがある。ごもっともな疑問だ。引込んでいた首をちょいと出して、手短に説明して差しあげると、なーるほどと納得して帳場へと持ち去ってくださる。衝立の陰に引込む。
 また実行委員から叱られた。衝立の裏陰は古本屋研究会のスペースではないと。だれも使わず、だれも通過せぬ、完全なデッドスペースだったのだが。でも、出て行ったらかえって眼障りなのではありませんかと、訊ねてみる。それなら事務所でお休みください、とのご指導だ。冗談じゃない。事務所に給湯器や珈琲の準備があることくらい、知っている。なにせ委員君が産れた年には、すでにこの学科で教員をしていたのだ。だが今、お茶を呼ばれに大学まで出かけてきているわけではない。つまりはこの場から出て行け、ということだ。いわゆる出禁である。当然ながらおっしゃるとおりに、荷物をまとめてその場を離れた。
 出禁になった以上は、最終日の明日も、大学構内へは入構する気がない。他学科の展示や他サークルの活動への興味なんぞは、古研のつけ足しに過ぎぬからだ。私を訊ねて立寄る OB か部外者があっても、私の責任ではない。現役教員か助手君かからお呼びがかかっても、そんなこと知らない。

 
 私の知る限りでは、構内に二か所しか喫煙スペースがない。片方は、とある建物の屋上テラスだ。近辺への見晴しが開ける広い屋上のほんの一画に、共同灰皿が二基ほど設置されてある。今回気づいた。テラスを八分の七と八分の一とに区切るあたりの床コンクリートに、白線が引かれてある。むろん一が喫煙スペースで、七が禁煙スペースだ。
 こんな白線は、今春ころまではなかった気がする。鉄製の手摺りや近隣への眼隠しネットを設置した、先般の改築工事のさいに、ついでに引かれたものだろうか。これも管理・制限強化の一環だろうか。

 喫煙所と読書時間との両方を求めて、珈琲館へ足を運ぶこともある。待合せや打合せに利用することもある。むろん定年後は利用回数が極端に減ったが。軽い昼食や間食を兼ねる場合もある。不動のわがメニューは、シナモントーストだ。

 学内が眼に見えて窮屈になってゆく。じつは実行委員君からのお叱りも、彼一存の判断ではなかろう。おそらくは与えられた使命を忠実に果しただけのことだ。あらかじめ彼を洗脳して、さよう云わせた元凶はほかにある。特定の人というより、とある人びとの総意とでも称ぶべきものだ。さらに申せば、その人びとをさよう仕向けた、とある空気みたいなものだ。
 病人も怪我人もなく、近隣住民からの苦情も発生せず、予定どおりのスケジュールを維持して無事終了できれば、それがこの上もない大成功と信じて疑うことのない人々がある。それ以外に大学祭の意義も目的もありえないとする、信念もしくは視野の限定がある。そして彼らをしてさよう考えさせる空気がある。
 準備委員会だの実行委員会だのという組織員に、自分たちは黒子であり役割であり仕組みなのだとの自覚が徹底されてある限りは、健全に機能する。自分たちは管理者なのだとの意識が芽生えた瞬間に、組織は腐り、参加者にとっても来場者にとっても、彼らは煙たい存在に堕す。零細出版社の社員として、いく度も学会だの研究会だの総会だのの下働きを仰せつかった時分に、痛切に思い知ったことだ。
 とはいえそんなことは毛ほども感じることなく、管理者であることがただただ嬉しく、晴れがましくてならぬらしい人も、大勢いらっしゃる。それが悪い人だなんぞとは、まったく思わぬけれども。


 ともあれ最終日は大学へは赴かぬと決まった。すなわち夕刻からの打上げに顔出しすれば足りる。いささかゆっくりできる。
 ということは、口湿しの生ビールの後はいつものカルピスサワーではなく、熱燗二合と行ってもよさそうだ。となれば、レバー串二本とつくね串だ。冷奴に、ええいっ、マカロニサラダも付けておくか。