
放置するか、世代交代させるか、さあそれが問題だ。
あまりに巨大化した球根群を六分割し、通路の東西両がわに株分けして三株づつ地植えした君子蘭だったが、すべてが逞しく根づいた。その代り、世代を重ねるごとに先祖還りして、今ではいずれも、もと園芸品種だったとは想像しづらい姿となった。肉厚だった葉は薄くなり、葉の幅は狭くなった。伸びる方向も勝手気ままだ。背丈だけは、高くなった。それでよろしいと、私は思ってきた。値打ちなんぞよりは命だ。
丈が大柄になっただけで、葉の色には元気がない。球根から葉芽を吹出してくるころの、新鮮で明るい緑色はいささかも観られない。老化によるやむをえざる色褪せと、処理能力に余る直射日光による葉焼けとの、両方が原因だ。
いったん地上部を切り払ってしまって、球根を丸坊主にしてしまえば、へこたれることなく葉芽を吹出させてくる。春だろうが秋だろうが、季節に関係なく再生してくる。そのしぶとさについては、経験して知っている。ただし園芸的に、あるいは植物育成の見地から、いかなる管理が妥当なのか、知識は皆無だ。
まったく光合成をやめてしまった、どう視ても枯葉としか称びようのない葉は、さすがに取り除いてしまっても差支えあるまい。根周りの地表を覆うに役立っているだの、分解されて肥しになるだのという問題もあろうが、まあ気にするまでもあるまい。問題はすっかり黄ばんで成長期の鮮やかな緑色は視るかげもないくせに、なりばかり巨きくなった大葉たちだ。生命活動にとって今も戦力でありえているものか、それともかえって負担となっているものかが判然としない。巨大恐竜の末路のごとき連中である。
戦力か足手まといか、本人の声に従うべきだろうが、修業を積んでいない悲しさで、君子蘭の声がなかなか聴き取れない。判断に窮する。とはいえ丸坊主にしたところで、早晩芽吹いてくるとは判っているのだから、ここは断行すべきかと、考え始めたところだった。ところがである。考え始めたやさきに、東がわのひと株が花芽を挙げ始めてしまった。

・勇躍先頭を切って咲き出た第一陣一輪。驚かされた。
・第二陣二輪が咲き出たころには、第一陣はでに色褪せ、しおれていた。
・第三陣二輪は一輪が開花し、もう一輪は本日つぼみ。第二陣の二輪はすでにしおれて、首をがっくりと落している。第一陣はもはや情けない糸状になって、茎に絡みついているだけだ。

生命存続の危機を感じて、当人も必死の所業であろうから、できることなら尊重してやりたい。丸坊主は、花時期が完全に終了してからとする。ともすると当方の決断を察知して、丸坊主を思いとどまらせる目的で、花芽を挙げてきたのだろうか。動物の意向を予知または察知する植物の能力というものは、人智なんぞをはるかに超えたもので、油断のできる相手ではないのだ。
もしも数日で代替りするこの花が、君子蘭本人からの信号だとすれば、色褪せた大葉群は今もって負担であるよりは戦力であるとの主張と聞える。私の判断はまたも揺らがずにはいられない。
はなはだ遺憾とすべきは、本人の声が今ひとつ明瞭でなく、大声でもないことである。