高津弘人 OFF-BLOG

今後の人生について、廃業をいつするとか、移住願望は本心なのかを自分に問いてみます。こちらは裏ブログです。表ブログは「高津弘人 ON-BLOG https://takatsu.hatenablog.jp」です。

[off-19]カメラ機材を持っていく最後の土浦花火競技大会 2025.11.1

私は子供時代から「花火」が好きでした。現在は保安距離が厳しいので近づくことはできませんが、私が小学生の頃、つまり1970年付近の時代は尺玉が頭上から降り注いでくるような距離で見たこともありました。

1986年(25歳)に大病をした後、全国各地で開催される花火大会のおっかけが始まりました。ネットがまだ無い時代で、各地の花火大会の情報はもっぱら「情報誌ぴあ」から得ておりました。いまでこそ有名な「長野えびす講煙火大会」も、当時は広大な土手に観客はぽつりぽつりで、大袈裟でなく花火真正面の場所でも周囲5Mくらいは誰もいらっしゃいませんでした。

30代から50代までの約30年間は、精力的に花火大会を観て回りました。40代の頃にはホームページを開設し、花火観覧記を更新し続けました。花火動画を撮ってはYouTubeに公開する日々に明け暮れておりました。

そんな中で、朧げながらも「いつの日かビデオも写真を撮らずに〝見るだけ〟の観覧スタイルに戻りたい」と考えるようになり、55歳の時に「撮影は64歳までで終わりにし、65歳からは〝見るだけ〟の観覧スタイルにする」と決めました。

途中、コロナ禍があり、加齢(体力低下)も相まって観覧数は激減しましたが、その64歳までと決めた2026年4月末までがいよいよ迫ってまいりました。ですので、この土浦全国花火競技大会の写真を撮るのはこの日が最後となりました。

土浦全国花火競技大会はずっと通い続けている大会で、その昔は土手が無料エリアとして開放されていました。確か、朝8時とかの「場所取り一斉解禁光景」がワイドショーなどで放送され、慣れた手つきで素早くブルーシートを敷く姿が面白おかしく放送されていました。懐かしいです。

この日(2025年11月1日)は朝8時に自宅を出発し、国道246を走りながら土浦に向かいました。どこかのランプで首都高に入ろうと考えていましたが、用賀、渋谷、青山、皇居を過ぎてスカイツリーを見ながら葛飾まできてしまい、懐古に次ぐ懐古に耽っていたら、オール一般道でなんとなく土浦まできてしまいました。車を停め、リュックサックにはカメラ、手には三脚を持ちながら会場まで歩くのも最後かと思うと感慨深いものがありました。

開催中、競技花火の数々に対し、丁寧に露光を重ねました。煙が滞留などして万全なコンディションではありませんでしたが、無事に撮り終えて安堵しました。2026年秋に開催予定の土浦花火競技大会では、およそ30数年振りにカメラ機材を持たずに訪れる予定です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

■このブログは私の「OFF」なことだけを綴っています。「ON」のことを書いているブログはこちらです。※OFFブログの存在をONブログでは一切触れていません。内緒にしています。

[off-18]喫茶店のアイスコーヒー1杯で

先日、何十年も前からそこに在ると思われるような喫茶店に入った。入口ドアを開けると聞き覚えのある鈴が鳴った。低音効いてるガランガランというような音。すぐさまいらっしゃいませ、の声が聞こえてきた。懐かしい、このてのこの感じ。

店内も少し薄暗くて、そうそうこんなブラウン系の椅子にこんな銅色したテーブルに、そうそうこの模様よ。初めて入った店なのに初めて入った気がしない。

いまが令和7年だと思い知らされるのはただひとつ、煙草の匂いがしないこと。昔の喫茶店はすごかった。開けるなり煙草の香りと薄い煙の雲が店内を漂っていた。

アイスコーヒーを注文。アイスコーヒーも期待を裏切らない、添付した写真のやつ。これで灰皿があって赤いロングラークとジッポーのオイルライターがあったら30年前のまんまだわ。

私も変わったが、時代も変わった。もちろん、良く変わったことはたくさんあるけれど、変わらなくていいようなものまでも流れで変わってしまった。

この夜、アイスコーヒー1杯でいろんなことを思いだした。思いだしたことを整理してからまたいつかのブログで吐露してみたい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

■このブログは私の「OFF」なことだけを綴っています。「ON」のことを書いているブログはこちらです。※OFFブログの存在をONブログでは一切触れていません。内緒にしています。

[off-17]Oさん

販売ノルマに悩んでいたOさん ※イラストはフリー素材

今年4月に64歳となり、残りの人生をどうしたものかと思うとき、いままで忘れ去られていた記憶がふと蘇ることが多くなった。今回は1991年前後の2年間くらいお世話になったOさんのことを思い出してここに書き残しておきたくなりました。

Oさんは某クルマ販売店の若手営業社員さんだった。僕がショールームに車を見に行ったときに知り合った。私は以前から初対面の方には猫をかぶる質だけど、なぜかOさんには自然体だったことを覚えてる。Oさんは年下だったけど、どことなく「フォークギターサークル」の先輩に似てたからかな。

このブログを読んでくださっている方は「24時間戦えますか」というCMのキャッチコピーをご存知でしょうか。コンプライアンスなど皆無の、長時間労働があたかも美であるような、3時間睡眠がビジネスマンの勲章かのような、そんなイケイケドンドンの時代を象徴する栄養ドリンクのコマーシャルコピーです。もちろんそういう世の中だったので、24時間戦えますかというコピーは多くの人に受け入れられ、CMソングもヒットしました。当時、Oさんが勤めていたクルマ販売店も22時や23時でも平気でショールームにお客さんが居たことを覚えています。午前1時を過ぎないと帰社できない雰囲気の時代だったのです。

私の仕事、印刷業界も負けず劣らずの長時間労働でした。深夜0時近くに電話する方もどうかと思いますが普通に繋がった時代です。いまでは考えられませんけどね。苦笑いです。

で、Oさんと知り合ったその日の夜、Oさんから固定電話に着信がありました。「いまからご自宅に伺ってもいいですか」と。記憶が定かでは無いけれど22時くらいだったと思います。「会って話しだけでも聞いてもらえないですか」と懇願するので私は自宅にOさんを招き入れました。Oさんの言い分はこうでした。「1台契約をとらないと会社に戻れない」と。

次にOさんは爆弾発言をします。

「無理を言ってるのは重々承知です。半分だけお金を出してくれませんか。あとの半分は私がなんとかします。但し、契約書は普通の金額になっています。心配は要らないです。迷惑は絶対におかけしません。お願いです、署名捺印いただいてなんとか1台契約をお願いいします。1台売るまでは帰ってくるなと所長命令なんです」。

現在の2025年ならばパワハラで1発アウトですが、1991年前後はそういう上司の言葉があちこちの業界でまかり通っていたのです。

ある日、車の点検のためにディーラーに行くとOさんは退社していました。Oさんと仲が良かった営業さんに事情を伺ったところ、Oさんの親が地方から出向き金銭面の整理をして地元に連れて帰ったと聞きました。

Oさんのように「ノルマ」というしがらみに苦しんだ人がたくさんいたからこそ、コンプライアンスというものが生まれ現在に至っているのだと思います。Oさん、元気でいるかな。このブログを見つけてくれたら嬉しいな。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

■このブログは私の「OFF」なことだけを綴っています。「ON」のことを書いているブログはこちらです。※OFFブログの存在をONブログでは一切触れていません。内緒にしています。