皆さん、こんにちは!
今回は近現代の偉人たちが持っていた、ちょっと衝撃的な性癖についてお話ししていきますね。どれも驚きの内容ばかりですよ!
みんな真面目なふりをしたり偉人だったりしても男なんですよw
それでは早速、最初の偉人から見ていきましょう!
ご存知、「雨ニモマケズ」や「注文の多い料理店」、「銀河鉄道の夜」などで知られる国民的詩人・小説家の宮沢賢治さんです。教科書にもたくさん作品が載っているので、私たち日本人にとっては最も身近な偉人の一人と言えるかもしれませんね。
賢治さんは岩手県の質屋の家に生まれ、盛岡高等農林学校を卒業後、教師として生活を送っていました。子供の頃から鉱物や採集が好きで、家族からは「石っこ賢さん」と呼ばれていたという話は有名ですよね。
さて、そんな賢治さんの性癖ですが、実は彼は生涯独身で、女性と関係を持たずに一生を終えました。彼は「生涯純潔であること」に非常にこだわっていたんです。しかし、恋愛に興味がなかったわけではありません。17歳の時に病院の看護師に恋をして父親に結婚を申し出たり、教師になってからも友達の妹や妹さんの友達に恋をしたりと、意外にも恋多き人物だったんですよ。
では、なぜ彼は純潔を貫いたのでしょうか?その理由の一つに、彼の宗教観念が挙げられます。学生時代に日蓮宗に深く感銘を受け、その思想は彼の「雨ニモマケズ」などの作品にも色濃く現れています。そして、この宗教観念が彼の「性欲は人目にするもの」という考え、つまり禁欲にも影響を与えたと言われています。彼は学生時代から「妻はめとらない」と友達に書き残すほどの強い信念を持っていました。時には性欲と戦うために一晩中牧場を歩き回ったり、自ら女性を遠ざけたりすることもあったそうです。
しかし!そんな賢治さんには意外な裏の顔が!彼はなんと春画コレクターでもあったんです!それも性行為を描いた春画を大量に集めていて、積めば高さ30cmにもなるほどだったとか。人からこのことについて尋ねられた際には、「教え子たちが性で間違いを犯さないように指導するためだ」と答えたそうですが…本当でしょうか?
また、晩年には「禁欲は何もなりませんでした。禁欲のせいで病気になりました」と語っていたとも言われています。結局、宮沢賢治さんは純潔を守り抜いたまま、37年の短い生涯を終えました。
次は、「君死にたまふことなかれ」で有名な歌人、与謝野晶子さんです。彼女の作品は情熱的で官能的なものが多く、特に歌集「みだれ髪」は有名ですよね。
そんな晶子さん自身も、作品に劣らずかなり濃厚な恋愛経験をした人物として知られています。夫である与謝野鉄幹との結婚は、実は略奪結婚だったことをご存知ですか?
鉄幹はとにかく女好きで、学校の先生時代には生徒と関係を持ったり、子供を作ったりすることもあったようです。結婚相手も元教え子の麻野信子さんでしたが、結婚後にまた別の元教え子の林野さんと同棲を始め、信子さんと離婚して結婚。そして、その後に晶子さんと出会ったのです。
鉄幹は晶子さんの詩の才能に惚れ込み、晶子さんも彼に惹かれ、すぐに恋仲になりました。ですが、当時の鉄幹には妻がいましたから、これは不倫だったんですね。それでも鉄幹は翌年には離婚し、晶子さんと結婚しました。すごいプレイボーイですよね!不倫の末に結婚を決意した晶子さんもまた、エネルギッシュな方だったと言えるでしょう。
晶子さんと鉄幹の間には、なんと12人もの子供が生まれています。ほぼ年子で、晶子さんは17年間ほどの期間、ほとんど毎年妊娠・出産を繰り返していたことになります。想像するだけで大変そうですが、お二人とも本当にエネルギッシュだったのかもしれません。ちなみに、晶子さんは二人の子供に「アウグスト」や「エレンド」といった、今でいう「キラキラネーム」のような名前を付けていますが、子供たちは成長後に改名したそうです。
そんなエネルギッシュなお二人には、ある衝撃的なエピソードが伝わっています。それは、「与謝野鉄幹が晶子さんの陰部にバナナを挿入し、後にそのバナナを食べた」という話です。あるいは、「晶子さん自らがバナナを挿入し、それを翌朝夫に食べさせた」とも伝えられています。夫婦の愛の形はそれぞれですが、客観的に見るとかなりの「変態プレイ」と言えるでしょう。ただし、この話の原点は現在の時点では見つかっておらず、単なる噂である可能性もあるとのことです。
ところで結婚後、鉄幹の浮気癖は治ったのでしょうか?いいえ、残念ながらそう簡単には治りませんでした。晶子さんとの結婚後も、鉄幹は晶子さんの親友にまで手を出して関係を持つなど、晶子さんを悩ませ続けたと言われています。
次は、「鉄腕アトム」や「ブラック・ジャック」など、数々の名作を生み出した「漫画の神様」、手塚治虫さんです。彼がいなければ、今の日本の漫画文化はなかったかもしれませんね。
手塚さんは兵庫県に生まれ、子供の頃から漫画に親しんでいました。大学時代に漫画家としてデビューし、医学博士の免許も持っていた優秀な学生でしたが、卒業後には漫画家一本で活動することを決意しました。生涯に描いた漫画は約700タイトル、総ページ数15万ページとも言われています。彼の功績として最も大きいのは、ヒューマンドラマを軸にした「ストーリー漫画」を確立したことでしょう。
さて、そんな漫画の神様、手塚治虫さんですが、実は彼の作品の中には異常性癖や病的な内容のものが数多く存在します。これらは「黒手塚」と呼ばれ、読者の性癖を歪ませたという声も少なくありません。
例えば、「奇子(あやこ)」では、東北の大家の令嬢・奇子が土蔵に閉じ込められて生活する中で、近親者同士の性的関係など、様々なタブーが生々しく描かれています。また、「ムー」という作品も黒手塚作品として有名です。これは窃盗や殺人を繰り返す男・結城道男を主人公にした物語ですが、この道男がとにかく美しく、扇情的に描かれているのが特徴で、登場人物との同性愛的な描写もある退廃的な作品となっています。他にも、「アラバスター」や「ばるぼら」なども黒手塚の代表作として挙げられますね。
では、多様な性癖の親とも言える手塚治虫さん自身は、どのような性癖を持っていたのでしょうか?実は、彼自身の思考についてはあまり知られていませんが、彼の死後、机の引き出しからあるものが発見されて話題になりました。それは、ネズミや蛇といった動物を女性的に描いた絵です。娘さんのルミコさんのSNSでも画像が投稿されましたが、その投稿を見る限り、かなり際どいイラストもあったようですよ。宮沢賢治さんと同じく、死後に性癖を暴露されるのは少し気の毒な気もしますが、このような性癖があってこその手塚作品だったのかもしれませんね。
日本初の内閣総理大臣であり、かつては1万円札の顔でもあった伊藤博文さん。近代日本の礎を築いた偉人として知られています。
伊藤さんは江戸時代末期に長州藩(現在の山口県)に生まれ、吉田松陰の松下村塾で学びました。その後、幕府を倒す討幕運動に参加し、政治家としての道を歩み、初代内閣総理大臣に就任。岩倉使節団の副使を務めたり、大日本帝国憲法を制定したりするなど、数々の功績を残しました。
そんな伊藤博文さんですが、実はある性癖を持つことでも有名です。それは、異常なまでの女好きであること。彼の女好きは常軌を逸しており、当時から「行儀が悪い」と大いに批判されていたと言われています。彼は手当たり次第に女性に手を出す「式象」として知られ、とても女性から人気があり、周りには女性が絶えなかったことから、「箒(ほうき)」というあだ名がつけられたこともあったそうですよ。
彼の女遊びに関するエピソードは枚挙にいとまがありません。
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例えば、藩の指示でイギリス留学へ向かった際には、藩から与えられた資金を使い込んで色町で遊び呆けていたそうです。イギリスの風俗や文明の調査が課せられていたとはいえ、その遊びぶりは目に余るものだったようで、他の留学生からは「伊藤を帰国させろ!」という声が上がり、一時危うく帰国させられそうになったとか。
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芸者遊びが大好きだったことでも知られています。親が定めた結婚相手を捨てて芸者の梅さんと結婚しましたが、梅さんとの結婚生活でも遊郭で料理屋の娘と関係を持ったりしていました。
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明治天皇からお呼び出しがあった時でさえ、芸者を連れてきたため、明治天皇に「いい加減にしなさい!」と嗜められたという話も残っています。
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他にも、伊藤さんが寝込んだ際にも芸者をそばに二人も置いていたという話や、妻がいる家の中で芸者たちと交わったという話もあります。
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さらに、移動中の馬車の中でも同乗していた芸者と行為に及んだとも言われています。
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中でも衝撃的なのは、鹿鳴館で行われたパーティーでの出来事です。仮装舞踏会にて、岩倉具視の娘である戸田極子さんに目をつけ、別室に連れ込んで無理やり関係を迫ったと言われています。当時、極子さんには夫がいた上に、夫婦でパーティーに出席していたにもかかわらずです。身の危険を感じた極子さんは、鹿鳴館の窓から飛び降りて逃げたと言われています。これはもはや女遊びの域を超え、性犯罪と言える行動ですよね。このことはもちろんメディアで取り上げられ、博文はかなり非難されたそうです。
次に紹介するのは、「近代日本経済の父」と呼ばれる渋沢栄一さんです。2024年度からは1万円札の顔にも選ばれた、まさに日本の経済発展に貢献した偉人ですね。
渋沢さんは江戸時代末期に埼玉県で生まれ、百姓の家でしたが、藍玉の製造販売や養蚕も手掛けていました。やがて尊王攘夷思想の影響を受け、高崎城の乗っ取り計画を立てますが、中止。京都に出た先で徳川慶喜の幕臣となります。明治時代に突入すると、明治政府に大蔵省の一員として招かれ、その後は第一国立銀行の創設や数々の企業の設立に尽力し、日本経済の発展に大きく貢献しました。日本で初めて銀行を設立し、多くの会社設立にも深く関わった人物なんですよ。
そんな渋沢栄一さんですが、実は知られざる性癖を持つことでも知られています。それは、彼がとんでもない「好色漢」だったこと。渋沢栄一さんも、伊藤博文さんと同じく、かなりの浮気好きで女遊びが激しい人物だったと伝えられています。彼自身、「私の行いが悪いのは伊藤博文と井上馨の影響もある」と語っていたそうですよ。
渋沢栄一さんも伊藤博文さんと同じく、数多くの女性と関係を持ったことで知られています。
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例えば、芸者遊びはもちろんのこと、家の女中などにも手を出した結果、20人もの隠し子が存在したと言われています。隠し子の数は「20人どころか50人」という話もあるそうですよ。
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高崎城の乗っ取り計画を中止した後、父親に勘当されたという建前で京都に向かうのですが、この時、父親から餞別として渡された100両を全て遊びに費やしてしまったとされています。道中で吉原に入ったり、伊勢参りでは商家の娘と遊郭に入ったりと、散財してしまったのですね。
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このように、彼は遊郭などで遊ぶことが多く、花街ではとても有名な遊び人だったそうです。
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彼の日記には「一友人」という言葉がよく登場しますが、これは彼と関係を持った女性のことだと言われています。
実は、渋沢栄一さんが生きた時代は、祭祀のある男性が女遊びをするのはよくあることだったと言われています。特に、お金や権力がある人なら、何人もの妾を持ったり、芸者遊びに明け暮れたりすることも珍しくなかったのですね。渋沢栄一さんや伊藤博文さんに限らず、当時の有力者の多くは女遊びが激しかったのかもしれません。
次は、「一握の砂」「悲しき玩具」などの歌集で知られる詩人、石川啄木さんです。彼は26歳という若さでこの世を去りましたが、彼の生活や人柄については有名な話がいくつも存在します。
石川啄木さんは岩手県の僧侶の家に生まれ、家でただ一人の男子だったこともあって、母親から溺愛されて育ちました。中学生時代から短歌の投稿を始め、文学に夢中になりすぎて学業を怠り、学校を退学。文学で生活することを決意して上京し、他の職業で生計を立てながら作品を作り続けました。彼の作品は、自身の経験に基づいた困窮や孤独などをテーマにした作品が多いのが特徴です。彼の作品を読むと、「石川啄木ってかわいそうな人だな」という印象を受ける人も少なくないと思います。
しかし、石川啄木さんが生涯貧困に苦しんだという事実がある一方で、彼には目を疑うような「ダメ人間エピソード」がたくさんあるのも事実です。
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例えば、学生時代には友人に無理を言ってカンニングをさせてもらい、それがバレて自ら退学しています。この時、カンニングを無理強いされた友人も奨学金の資格を剥奪されるという、少し気の毒な結果となってしまいました。
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上京後には、なんと自身の結婚式をすっぽかしたり、母親が「得だから」と偽って汽車賃を借り、そのお金で友人たちと宴会をしたりしています。
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詩人という厳しい職業を目指しながらも、短期間で職を転々としました。また浪費癖もひどく、多くの人から借金をしていますが、かなりの額を踏み倒しています。遊郭で遊ぶお金や飲食代もツケにすることが多かったのですが、そのツケも全て踏み倒していたそうです。
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有名な歌に「働けど働けどなお吾が暮らし楽にならざり じっと手を見る」というのがありますが、実は仕事もサボることが多かったと言われています。作品から得られる印象とは裏腹に、本人はかなりルーズな人物だったようですね。
さて、そんな啄木さんは生前に「ローマ字日記」という作品を残しています。文字通り、全てローマ字で書かれた日記ですね。この作品には彼自身の生活が非常に生々しく書かれており、中には衝撃的なエピソードも数多く存在します。その一つが、ある記述です。
「予は女の股に手を入れて手荒く陰部を掻き回したり。終には五本の指を入れて出来るだけ強く押し固めた。女はそれでも目を覚まさぬ」
これは啄木さんが遊女と一夜を過ごした時のエピソードですが、寝ている遊女の陰部に拳を入れたという衝撃的な行為が描写されています。浮気や女遊び、遊郭好きとして知られる啄木さんですが、この頃には普通の遊び方では満足できなくなっていたのかもしれませんね。
最後に紹介するのは、まさに「性癖」という言葉がぴったりな倒錯的な小説で知られる谷崎潤一郎さんです。
谷崎さんは明治19年(1886年)に東京市に生まれ、幼い頃から学業で優秀な成績を収めており、神童と呼ばれた少年だったようです。東京帝国大学の国文科に在学中に文芸雑誌「新思潮」を創刊し、そこに戯曲や小説を発表しました。関東大震災を機に関西へ移住し、「痴人の愛」などの作品を生み出し、戦後には「細雪」を発表しました。
そんな谷崎潤一郎さんの作品の最大の特徴といえば、フェティシズムとマゾヒズム、ひいては女性崇拝が挙げられます。彼は耽美派の作家であり、美しさを詳細に描いた、耽美で妖艶、そして非現実的な印象のある作品が多いのが特徴です。彼の作品は時代によって文体などが異なりますが、ほぼ全作品でフェティシズムとマゾヒズム、そして女性崇拝が描かれています。いわゆるマゾです。谷崎さんはマゾのなかでも特急品のマゾでした。
具体例を見てみましょう。
どちらも主人公である男性が美しい女性を献身的に支えたり、仕えたりする内容で、「春琴抄」に至っては「マゾヒズムを超えた耽美主義」と称されることもあります。
では、このような耽美主義作品を数多く生み出した谷崎さん自身は、どのような性癖を持っていたのでしょうか?実は谷崎さん自身もマゾヒストだったと言われています。彼は生涯で3人の女性と結婚しましたが、中でも特に心酔していたのが、最後に結婚した松子さんだと言われています。
谷崎さんは恋多き人物で、最初に恋をしたのは妻の初さんの妹、千代さんでした。初さんは非常に奔放な魅力を持っていたそうなので、谷崎さんはそこに惹かれたんですね。しかし、人妻とは結婚できないということで、彼は仕方なく初さんの妹である千代さんと結婚しました。ですが、従順な千代さんに飽きてしまった谷崎さんは、今度は初さんと千代さんの妹である聖子さんに惹かれ始めます。そして彼は聖子さんとの結婚を考えて千代さんと離婚し、なんと作家の佐藤春夫さんに千代さんを譲るという、劇的な事件「小田原事件」を起こしました。そうまでして聖子さんと結婚したかった谷崎さんですが、結局聖子さんとは結ばれず、別の女性と結婚しました。
そして次に彼が惹かれたのが、豪商の妻である松子さんです。二人はやがて交際を始め、谷崎さんは松子さんを崇拝するようになったと言われています。谷崎さんが松子さんに宛てて書いた手紙には、「心の底の底まで召し使いになりました 忠実な下僕としてお使いくださいませ」といった文言が並んでいたのは有名な話ですよね。自分のお金から体からすべてを松子さんにささげるので自由につかってほしい、もっとイジメてほしいという手紙が残っているのですよ。
谷崎さんの作品はマゾヒズムを感じられるものが多いですが、彼自身が美しい女性に仕えたいという気持ちがあってこその作品だったのかもしれませんね。
まとめ
いかがでしたか?明治時代から昭和時代にかけて活躍し、数々の功績を残した偉人たちですが、実はこんな性癖やあんな性癖を持っていたんですね。どれだけ立派な印象がある人も、女性関係にだらしなかったり、逆に女性との関係を自ら遠ざけたりと、非常に個性的な性癖を持っていたことが分かりました。しかし、一方でその性癖を作品に昇華させたことで、後世まで名を残す人物となった人もいるのも事実です。特殊な性癖もまた、その人物を構成する一部と言えるでしょう。
私も少し人なみに性欲があると思いますが、偉人達はそっち方面もすごかったんですね。