この大阪寿司の番外編に対して「押し寿司がうまいと思ったことがない。というか寿司って名乗るのはいかがなものかと」というコメントがあった。好き嫌いは個人の勝手だろうが、押し寿司に寿司を名乗る資格がないかのような言い方はいただけない。かつて、江戸でも寿司といえば箱寿司を代表とする西日本由来の寿司のことであり、江戸時代後期に屋台のファーストフードとして生まれた握り寿司は邪道扱いだった。店で出す王道の寿司ではないからこそわざわざ江戸前寿司と呼んで区別(差別?)しているのだ。
その箱寿司がなぜ江戸前の握り寿司に下克上され、江戸前が全国を支配するに至ったのか。それは、上記コメントのような「東京の常識は日本の常識」だと思い込むような東京の田舎者(首都とはいえ東京も一つの地方)的発想と関係がある。
文化人類学者の石毛直道氏は「別冊サライ大特集鮨」の中で、握り寿司が全国区になり、箱寿司が広まらなかったのは、東京が日本の首府になったことが決定打と語る。
明治になると新政府は政治の中心である東京の文化を「国民文化」にしようとします。言葉も東京の方言が標準語と呼ばれて、あたかも標準語以外は日本語にあらずのような扱われ方をします。日本人の間に根強く残る単一民族思想なども同じですが、国威を発揚し富国強兵を目指していくために国民文化は意図的に作られたものです。
この政策に箱ずしは大打撃を被る。(中略)明治二十五年になると大阪市内のすし屋は大半が握りずしに変わったとの記録が残っています。たかだか三十年ほどで箱ずしが駆逐されるのは驚くべきことです。握りずしは標準語が広まるように東京の文化として大阪だけでなく全国に出ていったのでしょう。
つまり、上記コメントに見られるような東京の文化こそ王道たる国民文化という誤った思想は明治政府によって意図的に植え付けられたものということだ。
ここで、新たな疑問が生じる。幕府を倒した維新の中心人物や明治政府の要人はほとんどが薩長を始めとする西日本の出身者だ。岩倉具視や西園寺公望ら公家が京都出身なのは当然として、伊藤博文、木戸孝允(長州)、西郷隆盛、大久保利通、山縣有朋、黒田清隆(薩摩)、板垣退助、江藤新平(土佐)、大隈重信(佐賀)など。例外は、官軍に最後まで抵抗して降伏した榎本武揚(江戸)ぐらいだろう。
なぜ彼ら西の藩士たちが江戸を首都に決め、江戸の方言を日本の公用語にしたのだろうか。学校で方言を話した生徒を罰としてさらし者にする方言札は沖縄以外に鹿児島や東北でも使われたというが、政府の要人たちは自分たちにとっての故郷の言葉を弾圧するようなまねをどうしてしたのか。
これについて、おもしろい説を聞いた。
「彼らは、東京民(江戸人)が地方出身者に化けているだけ」
260年間の江戸時代、大名の妻子は人質として江戸に置かれた。大名は成人して家督を継ぐまで江戸で育つ。大名になってからも参勤交代でたびたび江戸に暮らし、藩の内政や外交も江戸藩邸が中心になることもあった。側近の藩士も江戸で暮らす。幕閣や他藩との交流に用いられる共通語もおそらく江戸弁だ。
松下村塾で志士の思想に影響を与えた吉田松陰も若い頃幕府の平坂学問所で学んでいる。尊皇攘夷思想や開国論も江戸での人脈、交流が育んだものというわけだ。
つまり、彼らにとって、出身藩は戸籍上の本籍地のようなもので、学び、友や人脈を作り、地縁、血縁で結ばれた故郷は精神的にも実質的にも江戸だった。
この仕組みは現在にも当てはまる。
例えば、安倍晋三元首相の祖父である岸信介元首相や安倍寛衆院議員、大叔父の佐藤栄作元首相は山口出身。父の安倍晋太郎元外務大臣も生後すぐに山口に移り、大学進学まで住んでいた。しかし、安倍元首相本人や実弟の岸信夫元防衛大臣、後継の岸信千世衆院議員は東京で生まれ育っている。学歴も安倍元首相は成蹊の小学校~大学、岸親子は慶応の幼稚舎~大学。
国会議員の多くを占める世襲議員は大抵がこのような「地方出身者のふりをした東京都民」なのだ。地方に選挙区という票田を持つこの構造は、平安時代に京都の貴族が地方に領地を持っていた荘園制とも通じる。
