ところで、前回書いた白虎隊の飯盛山を見学して降りる際は、正面の階段をまっすぐ降りるのではなく、広場下のお土産屋さん飯森分店の奥から会津市内をフル俯瞰展望し、次に分店の下を右に入って宇賀神社・さざえ堂を見て、更に石段を降りて厳島神社・戸ノ口堰洞穴を見ながら降りるのが良い。せっかく登った飯盛山の価値が倍増すること間違いなし。
戸ノ口堰洞穴とは
さて、その戸ノ口堰洞穴だが、史跡としての価値は、戸ノ口での攻防戦に壊滅した白虎隊の生存者が山越えで撤退してきた最後の退路がこの戸ノ口堰の洞穴潜りだったということだろう。飯盛山に穿たれた洞穴を出て、山に登り、自刃を決行した。今、降りてきた道の逆だ。
私は、渾々と湧き出る水を眺めながら二つのことを考えていた。一つは、白虎隊はなぜこの洞穴を潜って帰還したあと、山に登ったのかという疑問。なぜなら、彼らが出陣した滝沢本陣は目と鼻の先であり、それも二日前のことである。出陣元に戻り、支援派遣の命を下した責任者に顛末を報告し、次の対処を仰ぐというのが本筋のように思うのだが、なぜ彼らはそうしないで山に上り(所謂、城が燃えているという誤認をしてまでして)自刃に及んだのだろうか?
滝沢本陣に宿陣していた松平容保の本隊は、白虎隊の支援派遣とほぼ同時に藩境が突破され敵陣が会津盆地に殺到しつつあるとの情報を聞き、以降の戦略を鶴ヶ城篭城戦に切り替え、滝沢本陣を引き払った。白虎隊生存者が洞穴まで帰還した時、滝沢本陣は既にもぬけの殻であったのだ。やむ得ず敵の目につかない洞穴潜りで飯盛山にたどり着いたと言うことではないだろうか。語り継がれる白虎隊を傷つけない解釈はこれが一番よく、また事実に近いものではないかと思うのだが、どうだろうか?
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また、もう一つの疑問は、白虎隊が潜った150mの洞穴を含む猪苗代湖ー会津若松間の疏水は、一体全体どうなっているのだろうかと言う疑問である。あの猪苗代湖とこの洞穴が頭の中でつながらないのである。
疏水とは
その謎解きの前に、ここで話を少し疏水に転じる。疏水とは、潅漑や舟運のために、新たに土地を切り開いて水路を設け、通水させることを言う。農民たちが二千年にわたって築き上げてきたわが国の疏水の総延長は国内だけで約40万kmという途方もない長さになり、実に地球10周分に相当する距離となると言われる。普段全く気づいていないのだが、日本とは毛細血管のように国土全体に敷設された大小様々な疏水の上に成り立つ水田社会・疏水国家なのである。
【 ちょっと脇道:疏水情報 】
▼疏水百選(全国水土里ネットHP)
*次世代に伝え残す代表的な「疏水百選」
▼日本三大疏水とは?(ニッポン旅マガジンHP)
*琵琶湖疎水・安積疏水・那須疏水 いずれも維新直後の国家プロジェクト
▼青の洞門(旅々PHOTO HP)
*道路トンネルの草分け。僧禅海が1人30年で掘削。(182m、270年前)
▼箱根(深良)用水(裾野市 HP)
*水路トンネルの草分け。農民が4年間で掘削した。(1280m、350年前)
▼十六橋水門(日本遺産 HP)
*日本遺産(安積開拓・安積疏水開さく事業のシンボル的構造物)
戸ノ口堰用水の歴史
話を会津の戸ノ口堰用水の謎解きに戻すが、その謎解きの前に、戸ノ口堰用水の歴史を少し覗いてみる。戸ノ口堰は、今から399年前の1623年に八田野村(現在の河沼郡河東町八田野)の肝煎・内蔵之助という人が、村の周辺に広がる広大な原野に猪苗代湖から水を引いて開墾したいと考え、時の藩主・蒲生忠郷公に願いでて、藩公が奉行・志賀庄兵衛に命じて開削に取りかかったのが起源だそうだ。
その後、財政難などで何度か工事は中断したが、猪苗代湖の水を会津に引くため、時には農民が私財を投じてまでして、江戸初期から末期まで段階的に改修や延長を続けて、鶴ヶ城(若松城)の城下まで水を引く重要な水路をつくり上げた。大変な年月と苦労を重ねて水を得てきた正に会津の人々の歴史が息づく疏水と言えよう。
白虎隊が最後に潜った戸ノ口堰洞穴は、会津若松に到達する最後の関門だった飯盛山を掘り抜いた長さ150mの用水トンネルで、もともと飯盛山を迂回するルートがとられていたが、たびたび山の斜面崩落に悩まされ、会津藩士・佐藤豊助らによって天保3年(1832)から3年の歳月をかけて飯盛山を突貫したものである。
猪苗代湖と会津市街の間を通水できた理由
さて、疑問の解明だが、ポンプのない時代となれば通水は地理的高低を活かすしかない(いやいや古代ローマが水道路を建設するのにサイフォンの原理を応用したと言う事実がある様だが)。白虎隊が潜った戸ノ口堰洞穴と猪苗代湖の湖面の高低差がどの位あるのかだが、地図蔵の地形断面図表示機能で凡そ250mあることが分かる。更に低い会津市街では約300mの高低差があり、通水に充分な高低差を有していることになる。
問題は、湖面と会津市街を遮る山である。琵琶湖にしろ芦ノ湖にしろ湖面を取り囲む山の高さが障害となり、困難なトンネル工事が不可欠となった。同様に猪苗代湖と会津市街を遮る山々もトンネルを掘らないことには通水は不可能ではないかと思えるのだが、これが実に驚きの錯覚なのだ。
実際に断面図を見ると、湖面の西側の高度は高低を分ける峠でさえ高くないのである。極端に言えば、猪苗代湖の湖面が一番高い感じなのである。なるほど、そうすると難しいトンネル工事が不可能な江戸時代であっても、土地の高低を等高線的に辿りながら、根気よく通水路を開削して行くことで、原理的には用水は引けることになる。その用水経路を下図(時空さんぽさん資料引用)に示す。江戸時代年間に農民たちによって一歩一歩開削された通水路の積み重ねであり、苦労の証しである。
おわりに
江戸三百年かけて開削し歴代会津若松藩を潤した戸ノ口堰用水だが、その会津若松藩の滅びの際に流れ出してきたのが白虎隊生存兵というのも無常な話だが、同時にそれは会津再興を担った桃(桃太郎)が流れ出てきたものでもあったのだろう。…(閑話)
▼第一話 会津の旅(会津追分)
▼第二話 会津の旅(第一只見川橋梁)
▼第三話 会津の旅(土方歳三の湯治)
▼第四話 会津の旅(飯盛山のローマ碑)
🚩■会津の旅(東山温泉・向瀧 編)
▼鰍(かじか)の箸置き(My Blog)
▼テキサスおじさんと日米同湯(My Blog)
■参照情報
▼戸ノ口堰の沿革と概要 (水土里ネット HP)
▼ 戸ノ口堰用水の歴史と現状 (水土里ネット HP)
▼ 講演録:戸ノ口堰用水の歴史と現状 (會津のあかがわ 国交省 HP)
*前半の戸ノ口堰用水の部分は上3つを参照させていただきました。
▼14. 飯盛山 戸ノ口堰洞穴 (會津物語 HP)
▼会津若松観光ナビ (会津若松観光ビューロー HP)
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