「馬ではない」存在としてのロバ ー イエジー・スコリモフスキ『EO イーオー』

イエジー・スコリモフスキ(Jerzy Skolimowski)による 2022 年作『EO イーオー』について。

以下、ネタバレが含まれています。

 

 

「馬ではない」存在としてのロバ

冒頭、サーカス団で飼われるロバであるEOが、カサンドラと演目を行っているシーンは性的なものにも見えるように撮られている。その後に続く演目中にサーカステントの内側をカサンドラと共にぐるぐると回るEOのショットは、その後に続くサーカステントの外周を一人で回るカサンドラのショットと対応している。外側にはカサンドラの恋人がおり、EOはサーカステントの内側でしかカサンドラと二人になれない。EOとカサンドラの恋人の対比は動物愛護団体のトラックよって輸送されるショットにおいても象徴的であり、トラックのドアが閉められることでカサンドラとEOは隔てられ、離れていくトラックに連動するようにカサンドラにバイクが近づいて来る。バイクは隣に止まり、ドライバーのヘルメットが脱がれ、EOの代わりのように恋人の顔が現れる。

カサンドラの恋人と対応するモチーフとして存在するのが馬であり、ロバは「馬ではない」存在である。EOは輸送中の車の中から、草原を自由に駆け回る馬の姿を見る。馬はEOとは対照的に筋肉質で美しく、官能的に撮られる。新しい飼い主に従順なEOに対して、馬は反抗的に後ろ足を蹴り上げる。その後にEOのビジョンのように映るのは、馬が柵の外側を回るショットである。ここで、自分が馬でないことがカサンドラと共にいることができない理由であると思ったように見える。カサンドラがEOの元を訪れる時、EOは柵によってカサンドラと隔てられている。柵の向こうにカサンドラと共にいるのが恋人であり、彼はバイクにカサンドラを乗せ、EOの元から去っていく。

そして、EOは馬になろうとする。原案であるロベール・ブレッソンの『バルタザールどこへ行く』におけるロバであるバルタザールは徹底して無力な存在であり、状況に対して何も働きかけることができない。EOは馬になろうとし、自ら移動する決意を固める点でバルタザールと異なる。カサンドラは「願いが叶うように」と語りかけながらEOににんじんケーキを食べさせる。願いが叶ったかのように、EOは柵から飛び出し馬のようになっていく。馬のように人間に反抗し、ビジョンの中でEOの影は歪み、馬のような像になる。遂には馬のしたのと同じように後ろ足で人間を蹴り殺し、人間から馬とみなされ馬として輸送されるようになる。そして、カウボーイのような男と出会う。

この映画において、赤いライトによって演出されるショットはEOのビジョンとしておかれている。であれば、食用ではあるが馬として輸送されるシークエンスはビジョンであり、冒頭のある種性的にも見えるカサンドラとのサーカスの演目でのショットもまた、EOの見たビジョンである。EOは元々カサンドラと結ばれてはいない。そして、EOは馬として振る舞っているだけで馬と見做されているわけではない。カウボーイのような男は、義理の母親にEOのように支配されており、EOのように仕事を奪われ逃げていたことがわかる。EOが男の元を去るのはそれが理由だろう。

EOはロバであり馬ではない。足の短いロバは馬のように速く駆けていくことはできず、人間に対しても無力である。EOの移動の殆どが、自力によるものではなく人間による輸送によるものである。EOが蹴り殺すことができるのは、自分の方に屈んできた状態での人間のみである。そして、状況は元には戻せない。サーカステントから輸送され牧歌的な農場で放し飼いされていたEOは、移動、逃走を経るごとに郊外、都市部を経て、その向こうにある工場地帯へと辿り着く。牧歌的で自然に溢れた風景は、暴力的で機械的なものへと変わり、初めは自然に流れていた川も、流れの制御された巨大なダムへと変わる。EOの行き着く結末は、森へと向かう際のビジョンのシーンにおける風力発電のプロペラに直撃し落ちて死ぬ鳥のショットによって示唆されており、必然的のように屠殺工場へと辿り着く。ロバだったEOは、馬になろうとし、結果家畜になり牛と共に屠殺される。

ジョーダン・ピールの『NOPE』でも描かれていたように、馬は映画(その中でも特に西部劇)を象徴するような存在である。であれば、「馬ではない」存在としてのロバは、映画的でない存在を象徴しているようにとることも可能である。赤いライトによって演出されるEOのビジョンのシーンには、明らかに幻想だとわかるものと、現実に起きたことのように見えるものがある。サーカス団から離されたEOの元にカサンドラが訪れるシーンと、EOが食用の馬として運ばれて以降、カウボーイのような男と出会うまでのシーンである(ビジョンとカウボーイの登場はパトカーの赤い灯りから離れることによってビジョンから現実へと切り替わる)。そしてこの二つは、この映画において唯一映画的、ドラマティックなシーンである。その他の現実のシーンは、非常に淡白で、ある種滑稽に撮られている。例えば、EOが人を殺すシーンですら淡白である。EOは映画的な瞬間を幻視しつつも、映画の中においてすら現実には映画的でない。そして、EOの憧れる馬のように、強く美しく、反抗的で自由である存在だけが現実にも映画的である。

イエジー・スコリモフスキは『早春』や脚本を手がけた『水の中のナイフ』によって、不能な男性、つまり「馬ではない」男性を描いていた。それは西部劇における男性、映画的男性へのアンチテーゼでもあり(この点で、映画的な出来事から疎外された女性を描いたバーバラ・ローデン『Wanda』と響き合うように感じる)、そうではないからこそ生まれる社会との距離や軋轢を描いていたように感じられる。西部劇の時代から今に至るまでに、馬は車に仕事を奪われ、工場でサラミに変えられてしまう存在となった。そしてカウボーイもまた仕事を見つけられない。映画的な存在は今や映画の中にしか存在しないのかもしれない。

屠殺される直前、EOはダムの水が逆流する様を幻視する。水の放流口は、EOが都市へと抜けたトンネルに対応する。このショットによってEOは最後、状況が元に戻ることを願っているように感じられる。しかし状況は不可逆である。『バルタザールどこへ行く』において、バルタザールは近代化の結果飼い主の女性と隔てられる。目にするのは、牧歌的な農村風景から近代社会へと移行していく様、その中での残酷な人間性の変化である。『EO』において時間の変化は地理的移動へと置き換えられており、EOは農村部から郊外、都市部へと移動することで、バルタザールが見たものと相似する変化を目にしていく。自由に走る馬は農村部にのみ幻のように存在していて、都市部には存在しない。そして舞台は現代であり、EOにおいて農村部は表面的には牧歌的でありつつ地獄でもある。バルタザールが変化に対して無力だったのと同様に、EOは元の場所に帰ることができない。そもそも、EOは最初のサーカステントにおいても抑圧されているように見える。バルタザールは帰る場所として幸福だった過去を持つが、EOは帰る場所すら持っていないのかもしれない。バルタザールはどんどんと悪化する状況に直面し、最後は死によって幸福だった時代に戻る。屠殺場で歩くEOは逃げようとせず、自ら死に向かっているように見える。その後カサンドラの元へと戻れたかどうかは明示されず、屠殺音だけが響き、画面が暗転する。

 

追記: バルタザールとEOの目について

バルタザール役のロバは接写されると怖い、ひん剥かれた白目の露出した目をしていた。『バルタザールどこへ行く』は目撃することしかできない存在についての映画であり、だからこそその目の造形が重要だったように感じている。それに対して、EO役のロバは垂れ目で白目があまり見えない。『バルタザールどこへ行く』ではバルタザールがひたすら「見る」映画であり、バルタザールに見える視界は映さず「見る」バルタザールだけを映すことで、その奥に閉じ込められ、発露しないべっとりした情念のようなものを映し出していたように思う。それに対して、『EO』ではEOの視界ははっきりと映され、EOは鳴き声によって感情を表現することができる。それによって、バルタザールと比べた時にEOの直接的、表面的な感情を感じることはあれど、深層意識的な奥にある何かは感じ取れない。それは代わりに、EOのビジョンとして映像的に映し出される。そもそも、EOが見るのは馬とカサンドラ、もしくはビジョンばかりでありカメラに映る他の社会にほとんど目を向けていない。「見る」だけの存在だったバルタザールに対して、『EO』におけるEOは「見れていない」存在であり、目の前の現実よりも幻想を見ている存在なのかもしれない。

暴力的状況 / 着せられた役割 ー オタール・イオセリアーニ『鋳鉄』

オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1964年作『鋳鉄(Tudzhi)』について。

溶鉱場で働く人々の朝から次の朝までの24時間をドキュメンタリー的に撮った短編で、都市映画の形式を持っている。シチュエーションと構成だけ見れば『鉱』と非常に似ている。同じ時期のイオセリアーニの作品と同様に音がアフレコでつけられており、溶かされ白く光る鉄からは猛獣の鳴き声が発され、溶鉱場の内部には戦場のような爆発音が鳴り響く。溶鉱場内部が戦場であり暴力そのもののように映される。

溶鉱場の煙突から出る煙、溶鉱場に向かう道に整然と植えられた木は、他の作品で登場するジョージアの自然の風景との対比されているように感じる。労働に向かう人々を亡霊のように映す俯瞰ショットから、溶鉱場内部のシーンに切り替わっていく。労働に向かう人々は綺麗なスーツを来ている。溶鉱場内部の暗闇と溶鉱場の外の明るさが対比されており、溶鉱夫達は外の日差しの下で、溶かされた鉄で焼いた鳥、煙草で一瞬の自由を楽しみ、溶鉱場の中に戻される。

着替えのシーンが象徴的に出てくる。作業服を着ることで溶鉱夫という違う人間になり、労働後作業服を脱ぎ、煙や煤、汗を全て流すことで元の人間に戻る。溶鉱夫という役割に変容させられることもまた、他作品での人々の自然な姿との対比となっているように感じる。溶鉱夫という役割を作業服が象徴するなら、汗が染みた作業服を送風機で乾かして復活させるシーンは、復活させないといけない、つまり限界を超えて働いていることを象徴しているように感じる。

唯一、ゲオルギア』でジョージアはソ連占領下で近代化を強制されたと語られているが、この溶鉱場も同じく強制されたものなのだろう。このような環境下で働かされること、そしてそれを繰り返す日々を送ることの強制こそが凄まじい暴力であるように感じられる映像と音となっている。最後、労働に向かう人々を亡霊のように映す冒頭の俯瞰ショットが反復された後、暗い溶鉱場内でクレーンがカメラに向かって段々と迫り、被さることによって映像が真っ暗になって終わる。繰り返しが永遠に続くような暗い予感にも、カメラが溶鉱場から決定的に分たれてしまったようにも感じられるショットで終わる。

直視される観客 ー オタール・イオセリアーニ『ジョージアの古い歌』

オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1969年作『ジョージアの古い歌(Dzveli qartuli simgera)』について。

ジョージアの4つの地域での伝統的な多声合唱を記録し、紹介するという立て付けの短編。各地域の多声合唱を背景に、それぞれの地形や他の伝統を映像で見せていくというものとなっている。多声合唱はイオセリアーニの映画で共存のモチーフとして現れるものとなっている。『唯一、ゲオルギア』では共存を可能としてきたのは積み重ねられた伝統や文化であること、ソ連占領下でのシステムの強制によってそれらが破壊されてしまったことが語られる。そのため、地域の伝統、多声合唱は破壊されずに残ったもの、そして今後失われるものとして収められているのだろうと思う。

地域の人々が家などを背景として、動かずに睨むようにカメラを直視するショットが何度も挟まれる。それは、地域の人々の暮らしや服装を記録するという目的の元撮られたもので、カメラに慣れない被写体を映したためこのような表情となったと解釈できるが、そうではなく、このショットこそがこの短編のメッセージなのだろう。

モノクロの過去 ー オタール・イオセリアーニ『エウスカディ、1982年夏』

オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1983年作『エウスカディ、1982年夏(Euzkadi été 1982)』について。

冒頭、バスク地方の言語がヨーロッパ最古の言語であること、住む人々が言語、伝統を維持し続けていることが語られる。前半はモノクロでバスク地方でのある一日が映される。トラクターなどが導入されつつも非常に伝統的な生活を続けているように見える。しかし、後半唯一の字幕付きのセリフとしてバスク地方の伝統や文化を次の世代に伝承することすら難しいこと、伝承のためにまず文化を愛してもらうこと、そしてその味を知ってもらうことが大切であると語られる。そして、カラーに切り替わる。後半は祭りの様子が映される。前半で日常生活のように描かれていた伝統的な生活の多くが、外部に向けた祭りのための準備だったこと、モノクロで映されていた生活が既に過去のものとなっていることが明らかになる。祭り終わりの喜びの声に、鳥や山岳の映像が不吉な雰囲気をもって重ねられる。そして、過去のものとして、モノクロの歌唱のショットが差し込まれて終わる。『トスカーナの修道院』と同様に、バスク地方にソ連の占領によって伝統が失われてしまったジョージアの姿が重ね合わされているように感じる。

オタール・イオセリアーニ『群盗、第七章』において主人公は誰を生きているか

オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1996年作『群盗、第七章(Brigands, chapitre VII)』について。

主人公は誰を生きているか

中世、ソ連占領下、内戦下の現代という3つの時代のジョージアにおいて群盗である人々を描いた映画。同じ役者が時代に渡って登場し、侵攻、独占、殺戮、裏切りを繰り返していく。どの役柄にも役名が与えられていない。時代の境目は明示されず、連続するショットによって繋げられているため、あたかも並行に起きているように見える。

一部でソ連占領以前、二部でソ連占領下、三部で内戦に至るまでをドキュメンタリー形式で描いた『唯一、ゲオルギア』との共通点が非常に多い。ソ連による銃殺シーンなど『唯一、ゲオルギア』で登場した実際の映像や写真がこの映画でも再現されている。内戦によりジョージアから去った民族、スターリンの粛清によって殺された人々を象徴する、空席だらけの交響曲の演奏というショットも反復される。

上映時間の多くが2つ目のソ連占領下のパートに割かれている。『唯一、ゲオルギア』で、ロシアがジョージアを再び支配下におくために少数民族に独立を唆し、武器提供したという話があった。3つ目であるジョージア内戦パートでの群盗であるマフィア達は、おそらくその武器の仲介によって財を成した人々となっている。

ソ連占領下のパートでは主人公はジョージア人であるスターリンとなっていて、現代パートでは内戦地域に住むジョージア人であり、ジョージアの伝統歌謡を歌っている。そのため、中世のパートでも主人公はジョージア人だと考えられる。そして、中世パートで主人公が侵略する人々はイスラム教圏のような見た目をしている。現代ジョージアの前身であるグルジア王国において、ダヴィド4世がイスラム王朝であるセルジューク朝に侵攻し領地だったトビリシなどを獲得し、グルジア王国の黄金期を築いたらしい。おそらく中世パートで主人公がなっているのはダヴィド4世ということなんだろうと思う。ソ連占領下パートでの主人公はスターリンにそっくりだが、Wikipediaのグルジア王国のページにあるダヴィド4世の肖像画が、主人公に非常に似ている。

シオ・ムグヴィメリ修道院のフレスコに描かれたダヴィド4世

そう考えれば、タイトルの「群盗」もジョージアを盗んだ人々を指すというよりは、歴史は群盗のものであり、ジョージアもまた盗むことによって成立した国であるということを指していることになる。そして、主人公がジョージアの支配者であるとすれば、他パートでは支配者である主人公が、ジョージアがロシアの影響下にある現代パートにおいてホームレスとなっていることにも納得がいく。おそらく、他の役者にも民族設定はあり、一部に登場せず二部と三部に登場する役者がいれば、彼らはロシア人ということになるのだろうと思う。

大人達が逃れられない業のように前の時代を繰り返すのに対して、子供達はそうではない。ソ連パートと現代パートに渡って親を殺す子供が現れるが、二人は別の役者によって演じられている。彼らが親殺しを行うのは、ソ連パートでは拷問を見せられ、体制に従順であるように育てられたがために両親を告発し処刑に追いやる。現代パートでは、武器が家に飾られ、人殺しがゲームのように行われる環境で育てられたがために両親達を殺す。

タイトルが「第七章」となっているのは、劇中描かれるものが以前から繰り返されてきたものだということだろう。中世、ソ連占領下と時代を渡って言及されるスペインの靴などの拷問法が書かれた本は、ダヴィド4世が他の王朝から得た戦利品であり、ソ連がジョージア占領時に手に入れたということなんだろうと思う。タイトル、同じ役者が時代に渡って出演することと同様に、繰り返しを示すアイテムとなっている。

中世パートにおける不在時に貞操を守らせるために主人公が妻に鍵のついた鉄のパンツを履かせるというエピソードは、主人公の所有欲、独占欲を象徴するものとなっている。そして、主人公の独占欲の対象を象徴する存在として、中世パート、ソ連パートで主人公の妻となる女性がおかれている。盗むことが中心となった映画だが、そもそも盗むという概念は所有する、独占するという概念がなければ成立しない。主人公は所有が揺るがす存在、その不安によって殺戮や拷問を行う。それに対して、現代パートでの主人公は家を内戦で失い、故郷を捨ててフランスに移住しホームレスとなるなど、何も持たない存在となっている。そして、他の時代で妻だった女性に対しても、自分そっくりな人物が描かれた肖像画が売られているのを見ても所有しようとしない。そして、ワインや食べ物を他のホームレスと分け合う。ある種、現代パートでの主人公は他の時代から引き継いだ業、性質から解放されたような存在となっている。ホームレスのジョージア人達、そして彼らがワインを分け合って飲む姿は『素敵な歌と舟はゆく』など以降の作品でも描かれる(宣伝コピーにおける”ノンシャラン”が指す人物像)が、それは所有欲から解放された、ある種の理想の姿として描かれているのかもしれない。最後に、劇中で描かれた以前のジョージアの原風景のような、牧歌的な役者達の姿が差し込まれる。火を囲んで友人と歌う姿は、現代パートでの主人公とその友人達の姿と重ねられる。

感想

フランスでのイオセリアーニの映画の多くが軽いタッチで表面的には軽く見える出来事を連鎖させていくため、個人的に退屈に感じたが、この映画は軽いタッチで凄まじい出来事が描かれる。アクションを撮るのがめちゃくちゃにうまい監督だったんだと気づいた。表面的には軽く見える出来事の裏に陰惨な何かを潜ませる以上に、陰惨な出来事を象徴的に撮ることで凄まじいショットを生み出せる監督なんだと思った。空の車椅子が坂を下って、倒れた瞬間に鳥が飛び立つショットとか、凄まじいショットが大量にある。

同期する群衆と歯車 ー セルゲイ・M・エイゼンシュテイン『ストライキ』

セルゲイ・M・エイゼンシュテイン(Sergei Eisenstein)監督による1925年作『ストライキ(Strike)』について。

同期する群衆と歯車

「団結だけが労働者階級の持つ力だ」というレーニンの引用が表示され「だが...」という文字が工場の歯車へと変容する。それがこの映画の始点となっており、その歯車の回転は映画全編に渡って労働者達の群衆としての運動量と同期している。その運動量はストライキによって資本家の前へと集まっていく時、そして資本家の下にある警察によって一箇所に追い込まれていく時にピークを迎える。そして、それら二つのピークにおいてモンタージュの速度もピークを迎える。労働者、そして歯車の運動量はモンタージュの速度とも同期している。

冒頭に示される通り、この映画は団結に失敗した労働者達についての映画となっている。抑圧された労働はストライキによって一箇所へと集合し団結する。ストライキによって工場の歯車は回転を止め、労働者達の運動も停滞する。そして、資本家による操作などを通して、運動量を失った労働者達は散り散りになっていく。停止していた歯車を再度回し始めるのは資本家達となっている。その企てによって労働者達は一箇所に集められ虐殺される。そして、警察に追い立てられた労働者達はストライキの時と同じレベルの運動量を持つ。

歯車によって表現される労働者の運動量は、ストライキに向けて大きくなっていき、そして静止し、警察に追い詰められることによって再度大きくなっていく。そして、虐殺によって再度静止する。ここで、1回目の運動量の増加は抑圧からの解放に繋がる正の運動によるものとなっており、労働者達は自ら動き出す。それに対して、2回目の運動量の増加は抑圧に繋がる負の運動のものとなっており、労働者達は警察達によって動かされる。

1回目では労働者達の視線や運動が同じ方向に向かって連鎖する。モチーフの繋ぎ方も連続的なものとなっていて、労働者達の集団の動きが連鎖した結果生まれた運動の重量と大きさが、横向きに移動させられる機関車のショットへと結実する。そして、その質量と大きさを増加させながらその運動を締めるように、その移動させられる機関車の姿が、資本家の部屋の前に集合する労働者達の姿へと変換される。

それに対して、2回目では追い立てられ逃げ惑う労働者達の動きは揃わず拡散していくようなものとなっている。それは労働者達に浴びせかけられた水が拡散する様とも重ねられる。追い込まれた建物は渡り廊下で左右に分けられていて、人々はそれぞれ左や右に移動し続ける。そして、建物の前でのショットで人々はX字を描くように別々の方向へ逃げていく。ここで、ショット間の連続性も同時に失われている。

労働者達は歯車と重ねられると同時に、家畜にも重ねられる。ストライキ前には首輪をつけられ飼われていた動物達のショットが、後には自由に動く動物達のショットが挟まれる。そして、クライマックス直前には首を吊られた猫が映る。労働者達が家畜だからこそ、そこに紛れ込んだスパイ達はサルや犬など、動物の二つ名で呼ばれている。牧場で飼われていた家畜達が団結して逃げ、散り散りに暮らしていたところをまた一箇所に集められ殺されてしまうという流れにもなっている。一箇所に集められた労働者は警察によって撃ち殺される。その姿が動かずに屠殺されていく牛のショットと重ねられる。

群衆のその動きが主役のような映画となっている。労働者達は群衆として名前、そしてヒエラルキーを持たない。それと対比されるのが、個である資本家達や、それぞれの二つ名を持ったそのスパイ達、そしてキングという主導者を持つドカンの中に住む人々である。動き回る労働者達に対して、資本家達は一つの部屋から動かない。

禁酒法 / 矯風会 / アル・カポネ ー D・W・グリフィス『イントレランス』

D・W・グリフィス(David Wark Griffith)監督による1916年作『イントレランス(Intolerance)』について。

禁酒法 / 矯風会 / アル・カポネ

バビロン編、ユダヤ編、中世フランス編、現代アメリカ編という史実を元にした(と劇中で強調される)4つの物語で構成されているが、中心となるのは紀元前の物語であるバビロン編と現代アメリカ編となっており、ユダヤ編と中世フランス編はそれら二つを繋ぐ役割を担っている。 ”不寛容”である法と体制によって無実の青年が死刑を宣告される現代アメリカ編は、”不寛容”であるユダヤ教のファリサイ派によってキリストが処刑されるユダヤ編と重ねられている。そして、ベル神を信仰する神官達が引き連れたペルシャ軍がイシュタル神を信仰するバビロンの人々を虐殺するバビロン編は、カトリックがプロテスタントを虐殺する(サン・バルテルミの虐殺)中世フランス編と重ねられている。 また、各編はかつて抑圧されていた人々が、支配体制となり新たに別の人々を抑圧するという”不寛容”の連鎖によって繋がっている。ユダヤ編ではユダヤ教ファリサイ派がキリスト(カトリック)を抑圧し、中世フランス編ではカトリックがプロテスタントを抑圧する。そして現代アメリカ編ではアメリカ国家(プロテスタント)が市民を抑圧する。この映画では描かれないが、バビロンに対するからユダヤ教の支配に至るまでの間にも、ユダヤ戦争に至る連鎖が存在している。

最後に「不寛容が生む大砲と牢獄」「完全な愛が永遠の平和をもたらす」というメッセージが表示される。中世フランス編でカトリックがプロテスタントを虐殺するのは、過去にプロテスタントによる虐殺がありそのトラウマによるものとなっている。バビロン編はイシュタル神信仰とベル神信仰の、そして中世フランス編はカトリックとプロテスタントとの間の「不寛容が生む大砲」についての物語となっている。そして、体制によって死刑がもたらされるユダヤ編、現代アメリカ編は「不寛容が生む牢獄」についての物語となっている。 バビロン編では王に片想いする山娘が、現代アメリカ編では死刑にされる男と愛し合っているヒロインが、その”不寛容”による死を止めるチャンスを得る。そして、前者は失敗し、後者は成功する。それが「完全な愛が永遠の平和をもたらす」というメッセージと対応する。現代アメリカ編でのヒロインが純粋な女性として描かれていること、片想いではなく愛し合っている女性のみが成功することから、ここで説かれている完全な愛が割と教育的なものであるように感じられる。そして、場面転換で差し込まれるゆりかごを見つめる母親は”永遠の母”と呼ばれ、時代に関わらず存在している。それは、どの時代の誰もが同じ母親から生まれ、だからこそここで説かれる愛を実現できるというような意味に見える。全ての人に同じ愛の形を奨励するという点で、非常に一面的な結論となっている。

現代アメリカ編で、ヒロインと相手の男は、雇い主によるストライキの暴力的な鎮圧によって居場所を失い、男はスラムのボスによって無実の罪で牢獄に入れられ、その子供はプロテスタントの矯風会(イエスに対するユダヤ教ファリサイ派と重ねられる)によって連れ去られ、男は過去恋していた矯風会の女性によって無実の罪で死刑になる。二人はひたすらに”不寛容”を突きつけられる存在である。この映画の公開から4年後の、1920年にアメリカで禁酒法が成立する。それによる密造酒の横行、その高額な転売によってアル・カポネなどのギャングが力を持ち、矯風会は法律の後ろ盾を得たことによって過激化したらしい。だから、この映画は当時のアメリカ社会への警鐘として意図されていたのかもしれない。

感想

人物がカメラに急接近することでその人物にピントが合わなくなり、感覚的には近づいてより明確に見えるはずのその人物の顔が逆にぼやける。それによってその人物が何か異常な状態にあることを感じさせるという手法は、パウル・レニ『猫とカナリヤ』が発明してジャン・エプスタイン『アッシャー家の末裔』で引用したものだと思っていたが、この映画の青年の死刑を知るショットで既に使われていた。他にも、その後ドイツ表現主義映画やフランス印象主義映画などの、オルタナティブとされている映画で使われている手法がいくつも出てくる。ただ、これらはグリフィスが全て発明したというよりは、映画の発明以降、同時多発的に様々な人が発明して集合知的に蓄積されてきたと言う方が正しいらしい。グリフィスの功績はショット単位でそれら手法を使い分けつつ、モンタージュによって構成し直したところにあるって感じなんだろうか。また、助監督としてシュトロハイムとか複数のその後映画監督になる人も入っていたらしく、それもあるのかもしれない。

モンタージュによるサスペンス、感情的な没入感も凄まじく、エイゼンシュタインがこの映画に影響を受けたという話にすごく納得感がある。『戦艦ポチョムキン』はこの映画の方法のロジカルな発展であるだけでなく、複数話構成で最後に反体制が勝つこと、体制によって虐殺される市民という構図まで共通する。他にこの映画の影響下にあるだろう映画としてフリッツ・ラングの初期作がある。歴史を持たないアメリカが宗教によって自身を映画によって人類史に接続し再構築する。同じく歴史を持たず、さらに接続先を持たないソ連は国家の成立を映画によって歴史として構築する。そして、敗戦国となったドイツは映画によって過去の自身の歴史を今と接続し再構築する。物語を殆ど必要としないソヴィエト・モンタージュが生まれた背景にはソ連の識字率の低さがあるとどこかで読んだ記憶がある。映画が史実をあたかも現実であるように語り直すことができるとすれば、その機能がどのような形で要請されたか、国によってどのように最適化され、どのような手法がその最適化に付随して生まれたかを比較的に考えていく必要があるのかもしれない。

映画はミニチュアを実物のように見せる力を持っていると同時に、壮大なセットを小さく見せる力も持っているんだなと思った。セットが凄まじい規模なのはわかるのに、巨大なものを見ているという感覚が全くない。見上げるショットとかがあってもよさそうなのに、セットの巨大さを見せるのがクレーンカメラによる俯瞰的なショットしかないからなのかもしれない。フリッツ・ラングの初期作で出てくる巨大なセットはちゃんと巨大に感じられるので、その見せ方の工夫がフリッツ・ラングの一つの功績なのかもしれない。

さらば、荒野よ ー オタール・イオセリアーニ『素敵な歌と舟はゆく』

オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1999年作『素敵な歌と舟はゆく(Adieu, plancher des vaches !)』について。

さらば、荒野よ

蝶採り』と同じく、異文化、異なる階級間での関係と断絶についての映画となっているように感じる。豪邸とその近くの街の二つが舞台となっており、体制、監視者であり規律、排除する存在として街には警察が、豪邸には主人公の母親が存在している。

主人公は豪邸の息子で、家では上流階級的な身だしなみ、振る舞いを母親から強制されているが、街では貧困層を演じ、ホームレスや犯罪者とのネットワークを築いている。それと対置されるのが労働者の男で、彼は街に出る時は富裕層を演じる。二人とも、外部から街に訪れる存在となっている。

さらに、街はホームレスや犯罪者達の暮らす貧困層の世界、船の仲介業を営む男や古物商の夫婦の富裕層の世界、そしてレストランやバー、そこに訪れる人々、その他街を歩く人々の住むいわば中間層の世界の三つに分けられる。これら交わらない三つの世界が、豪邸の人々と労働者の男の訪れ、街から豪邸への移動をきっかけとして関わり合い、時に世界を跨いだ関係性が築き上げられる。

舞台間を繋ぐ装置、世界を跨いだ関係性を築くきっかけとなる装置としてヘリや船、バイクなどの交通手段が重要なものとしてある。一つが豪邸と街を繋ぐ主人公の船に対して、連れ込み宿としての機能しか持たない、移動することのない船が対置されている。それを利用するのは船の仲介業を営む富裕層の男と、労働者の男であり、特に富裕層の男と主人公の母親は船を移動手段としてではなく商品として見ている。登場人物達はそれぞれの移動手段に別の人物を乗せ、それが新たな関係性が生まれるきっかけとなる。それに対して、主人公の母親は自身の移動手段であるヘリコプターに他者を乗せない。彼女の服に船のペンキがつくシーンがあるが、それは船を移動手段でなく商品として扱うことへの船からの復讐のように見える。

主人公とホームレス達との関係性は街では警察から、豪邸では母親から監視される。結果、警察によってその関係性は引き裂かれる。主人公の連れてきたホームレスの男と主人公の父親、豪邸の召使いとバーの女性の関係性は主人公の母親の監視下では成立できないものとなっている。この映画において、移動によって築きかれる舞台間、街の世界間での関係性は体制、監視者の存在によって不可能なものとなっている。だからこそ、原題は『さらば、荒野よ』となっていて、海や崖へ逃げ出すことで、街や豪邸では不可能だった関係性が結ばれて終わる。船やバイクなどの移動手段は異なる世界に住む人々の間の関係を築くが、体制下でその関係性は存続できない。そのために、移動手段は体制から逃亡するための手段へと変換される。それら人々がいなくなった結果、豪邸は富裕層の人々だけのものになり、街では世界間での交流が生まれなくなる。

蝶採り』では異文化の共存したコミュニティが新しい場所に向かおうとするも、分断、その結果によるテロによって殺されてしまう。それはあたかも、この世界にはもう共存を可能にする場所が残されていないかのような感覚を残す。この映画において、異なる世界間での関係性を築いた人々は逃亡に成功する。しかし、逃亡先は海、崖という人が生きることのできない場所となっている。それは、共存が可能な場所がどこかにあるかもしれないという希望のようにも、地上にそのような場所はないということを示しているようにも見える。

感想

非常に緻密に組み上げられたパズルのような映画。所与の関係性が出来事によって段々と変化していくという内容で、それがルビッチやウェス・アンダーソンのような軽く心地よいリズムと展開によって描かれている。イオセリアーニの映画の特徴として、あらゆる出来事や人物を等しく扱うこと、それに由来して作品内に強弱がないことが挙げられるように感じる。関係性というか、特異な映画内世界が段々と明らかになっていくところまでは楽しかったが、以降の映画内世界が段々と変化していくところが長く、軽く心地よいリズムを持ちつつも強弱がないため、単調に感じ途中で飽きてしまった。また、特にパリ移住以降のイオセリアーニの映画にはフィクショナルな映画内世界が設定されることが多く、その中で登場人物は戯画的でコメディ的に動き、神の視点から淡々と描かれている。それも単調さを感じる理由なのかもしれない。ただ、単調さこそがイオセリアーニの作家性が洗練された結果であるようにも思う。

消費される魔法の終焉 / なぜフラハティか ー オタール・イオセリアーニ『そして光ありき』

オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1989年作『そして光ありき(Et la lumière fut)』について。

あらすじ

おそらくイオセリアーニが作り上げたものであろう集落があり、そこでは雨乞いをすれば豪雨が訪れ、切り落とされた首を繋げれば人が生き返るなど、魔法的な出来事が日常的に起こっている。それに対して集落に住む人々は人間的に描かれていて、一日サボって寝てる男もいれば男を巡って殴り合いの喧嘩をしたり、儀式の結果女性を追い出したことに対して儀式の実行者が泣いたりする。集落では電話の代わりに太鼓の音で会話するが、大声の噂話のように聞きつけた野次馬が集まってくる。

周囲には既に近代化された街が広がっていて、集落だけが孤立して古くからの暮らしを守っているように見える。その歴史は巨大な木々に重ねられる。集落の暮らしと並行に、伐採者によって切り落とされ輸出されていく様が描かれるが、木々は巨大さに対して非常に脆く崩れていく。巨大な木々は集落の近代化に対する脆さをも象徴する。

集落には外部から車が訪れる。集落の人々が外部に惹かれるのに対して、集落の指導者達はそれを抑圧し、外部の全てを排除することによって集落を維持する。結果、集落で伐採が行われたこと、取り消すことのできない外部の跡が残ったことによって集落を去ることを決める。集落の外に向かおうとする動きを象徴するのが、集落の夫に満足できず出ていく女性となっているが、去った集落の人々が外部の生活に適合していくのに対して、彼女は外部に適合できずホームレスのように暮らしている。そして集落に戻るが、集落が既に消え去っていることを知る。外部を拒み続けた人物が外部に適合し、惹かれていた人物が実際は集落を必要していたというオチとなっている。そして、外部に適合した人々にとって木像は雨を降らすものではなく、商品となっている。

何故フラハティか

抜粋したセリフを中間字幕で表示しその他は字幕をつけないというサイレント映画のような形式になっており、明確にフラハティのパロディを行っている作品となっている。その中でも、集落の人々の作為的な演出、巨木の撮り方、ある集落の終わりというストーリーライン、形式など『モアナ』のサウンド付きバージョンと非常に共通する部分が多く、明確にフラハティのパロディをしているように感じる。

フラハティはグローバリゼーションによって終わりゆく生活と、それに歯向かうような精神性を撮っていた監督のように思う。イオセリアーニの他の作品では、同質的なコミュニティが否定的に、多様な人々が歪にでも共存するコミュニティが肯定的に撮られていることが多いが、それで言うと劇中の集落は否定されるものであり、集落の外部が肯定されるものとなる。ラストの街で集落の人々が合流する様は非常に美しく見える。同時に集落でしか生きられない人々も描かれる。集落での暮らしを理想化することもなく、その否定的な面も描かれている。そして、集落の人々は戯画化されており、悲劇的に見えないようになっている。

集落と街、人々全てが等価に描かれている。おそらくそれは集落の外部の人々もまた、かつては集落の人々であり近代化させられた人々だからだろう。ラスト、集落の人々が街で商品として木像を売るシーンでは、集落の生活への郷愁を感じると同時に、街での暮らしが美しく見える。ラストは、集落を失った人々が街で共存するという理想世界を描いたものになっているのだろうと思う。

否定的に撮られているものの一つとして森林伐採がある。集落の人々は去る時に、集落が燃え続ける呪いをかける。それは伐採による森林火災を指している。もう一つ否定的に撮られているのは、バカンスをする白人家族となっている。集落が燃える様をスペクタクルのように眺めるが、その姿はこの映画の観客にも重ねられる。これはアフリカの人々ではなくヨーロッパの人々に向けて撮られた作品となっている。集落の喪失をもたらした存在であると同時に、その喪失をエモーショナルなものとして消費してしまう存在こそを批判した映画のように感じる。観客だけでなく、フラハティもまたそういう存在だからこそ、この映画は彼の映画のパロディとなっているんだろう。

一つ目の断片は何か ー オタール・イオセリアーニ『ある映画作家の手紙。白黒映画のための七つの断片』

オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1982年作『ある映画作家の手紙。白黒映画のための七つの断片(Lettre d'un cineaste - Sept pieces pour cinema noir et blanc)』について。

一つ目の断片は何か

パリの都市生活を映した映像に『四月』のようにアフレコで音が重ねられている。タイトルに7つの断片とあるが、6つの断章で構成されている。2つ目の断章から始まり、6つ目の後、1つめの始まりを示すショットで終わる。そして、提示された1という数字は横に傾けられ、−となっている。

内容としては当時のパリの都市生活を割と直接的に批判したようなものになっている。映されるのは人々が身支度し、移動し、食事する姿となっている。服を着せられた犬、首輪によって自由に動けない犬の映像が何度も差し込まれるが、それはパリの人々と犬を重ね合わせているからだろう。そして、食事のシーンでは肉食獣の鳴き声が重ねられ、犬の映像の後にファーコートを着た人間が映される。それは、消費社会における暴力的な欲求を皮肉ったものであると同時に、犬と人間が重ねられているために、人間が人間を殺しているということを示唆しているように感じる。殺し合いというモチーフは競争社会とも重ねられ、オフィスでの競争が銃による決闘として表現される。

特に印象的なのが、家を出てベンチに座るお爺さんの映像で、家で身支度をする映像に銃声とレコードの音楽がアフレコされている。お爺さんが家を出て扉を閉めると、レコードの音だけが消える。レコードの音は家の中でなっていたものであり、銃声はお爺さんの脳内で鳴っていたことがわかる。そして、お爺さんが人々によって隠され、窓の破壊される音共に消える。彼が戦争のトラウマを抱えているようにも、戦死した亡霊であるようにも、そもそも街が戦争状態にあるようにも見える。街に見えない形で残る戦争が焼き付けられた映像のように感じられる。

イオセリアーニは様々な人々が共存していた社会が、システムによって分断される様を描いてきた監督のように思う。だから、1つ目の断章は共存が可能だったシステム以前の映像を指していて、それが最後に置かれるのは、過去にあった共存がこの先また可能になることを望むからなんだろうと思う。彼の映画にはポリフォニーが共存のメタファーとしてよく登場する。ホームレスが歌う映像が最後におかれるが、過去の映像であり望む未来の映像でもある1つ目の断章はホームレス含めた様々な人々がポリフォニーを歌う映像ということなんだろうと思う。

オタール・イオセリアーニ『トスカーナの小さな修道院』

オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1988年作『トスカーナの小さな修道院(Un petit monastère en Toscane)』について。

トスカーナの外れに修道院があり、5人の修道士がおそらく古くから伝承されてきただろう宗教儀式を毎日繰り返し、宗教画や書物の修復と維持を行っている。教会や修道院は街から孤立した場所にあり、教会の大きさに対して修道士の数、そこに通う人々の数は少なく見える。

修道院と同列に、狩猟、農耕、祭りなどトスカーナに住む人々の営みが撮られている。静かな雰囲気で統一されているために、狩猟に向かう背中や銃声、豚の解体が暴力的に映る。淡々と映される日常風景の中に裂け目のようなものが見える瞬間がある。市井の人々だけでなく、上流階級の人々も映される。彼らは修道士のように隔てられた生活を送っている。修道士達は市井の人々と関わり合うが、彼らはそうでない。

『唯一、ゲオルギア』でジョージアにおいてワインは宗教的な意味を持ち、その製法もまた儀式的な意味を帯びていること、ポリフォニーは地中海沿岸地域の発祥であり、同じく宗教的な意味を持っていることが語られたが、劇中に映るトスカーナの生活はジョージアに近いものとなっている。山岳地帯にあることもジョージアと共通し、その地理ゆえにこのような伝統的な生活が保たれているようにも見える。トスカーナに、ソ連に占領されていなかった if の世界でのジョージアを見ているように感じる。

ワイン作りにはプラスチックのパイプが用いられており、人々もまた現代的な生活へと移行しつつある。この映画にスナップショットのように収められた営みは終わりつつあるような雰囲気を纏っている。最後に、この映画が第一部であり、20年後全てが順調なら同じ人物、同じ場所で第二部を撮る予定であることが語られる。そして、結局第二部は撮られずに終わっている。

歴史と亡霊、レンブラントの光 ー オタール・イオセリアーニ『蝶採り』

オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1992年作『蝶採り(La Chasse aux papillons)』について。

歴史と亡霊、レンブラントの光

フランスの古城、所有者といとこを中心にマハラジャ、べん髪のベジタリアン集団、飲んだくれの神父など様々な民族を含んだコミュニティが築かれており、親密なようで嫌いあってもいるような関係性、独自の奇妙で自由な暮らしぶりを成立させている。所有者の一族は女性ばかりで、それは男性達が戦争によって亡くなったからだということがわかる。その古城には一族の歴史が蓄積されており、亡くなった男達が軍服を着て亡霊として暮らしている。

古城を中心としたコミュニティは自給自足しているようで、独立した国家のようなものとなっている。ただ、古城は常に資産としての視線に晒されており、そのコミュニティの外ではテロが起きていることがラジオを通して伝えられる。

古城の家具を売る時、所有者達の思う価値と、買取主の思う価値がすれ違う。それは所有者達が積み重ねられた歴史を価値としている一方で買取主が資産価値を見ているからとなっている。そして、古城を買い取ろうとする日本人達は城自体に価値を置くが、所有者達が価値をおくのはその歴史が積み重ねられた家具となっている。

コミュニティは所有者が亡くなることによって解散してしまう。所有者はロシアに住む妹にのみ古城含む全ての遺産を相続し、遺産を資産として見ている他の一族の人々にはしない。しかし、妹の娘は古城の家具に価値を見出さない。亡霊の存在を見ず、彼女にとって使用人は使用人という役割でしかない。彼女は古城を日本人に売り払い、ロシアからパリに移り住み、ロシア人の友人達と暮らす。所有者の妹は一族の写真を部屋に飾ろうとしている。娘は締め出し、閉じ込めるようにその部屋のカーテンを閉める。古城にあった一族の歴史や亡霊がその小さな部屋にしか存在しないように、そして所有者の妹の死と共に失われるように感じられる。

日本人達は古城だけを買い、家具は買わない。そのために家具は古城から失われる。映画の終わりにおいて、日本人は日本人だけで、ロシア人はロシア人だけで暮らしている。古城にあった一族の歴史や亡霊だけでなく、共存関係もまた失われ終わる。

『唯一、ゲオルギア』ではジョージアで多民族、多宗教が共存できていたのは築き上げられてきた文化や関係性によってであり、ソ連占領下でそれがシステムに置き換えられた結果、共存が失われたことが語られていた。そう考えれば、古城のコミュニティはジョージアに、資本主義的な価値観を内在化した人々はソ連とそのシステムを抽象化したものにも思える。

古城を中心としたコミュニティの外に広がるのはシステム化された世界であり、システムは分断を生み出す。それを象徴するのがストライキとテロであり、所有者の妹はストライキを目の当たりにし、コミュニティの人々が新たな土地に向けて乗った電車はテロによって破壊される。

一族の肖像画がレンブラント風に描かれていると言及される。コミュニティを映す前半は光と陰影によって非常に美しく撮られており、絵画的な止め画も多く用いられるが、それは古城に蓄積された歴史が保たれていたことを示すからだろう。象徴的に出てくるのが集合写真を撮るカメラで、前半では非常に古い写真機が使われるのに対して、所有者が亡くなって以降は最新のカメラが使われる。そして、映像の質感も現代的なものへと変化していく。そして、古城にある写真や所有者の妹の持つ写真も古い写真機で撮られたものとなっている。

様々な文化、国家にある人々が差異を持ちながらも共存し分断されていく様を描いた映画であり、日本人達含めたあらゆる人々がその文化的な独自性を強調された形で登場するのは、差異を強調するためだろうと思う。そして、そのある種戯画的な撮り方は古城でのシーンに限られていて、その外でのシーンは現実的に撮られている。それは、古城とそのコミュニティが現実にはもう存在しない、ファンタジーの世界だということを示しているんだろうと思う。だからこそ、その終わりである汽車の爆破もまた、あからさまなエフェクトで映されるんだろう。

共存から内戦へ / 独裁者と信仰 ー オタール・イオセリアーニ『唯一、ゲオルギア』

オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1994年作『唯一、ゲオルギア(Seule, Georgie)』について。

共存から内戦へ

かつて複数の民族、宗教が共存していたジョージアがなぜ内戦へと至ったのかという問いが冒頭におかれ、紀元前からこの映画の編集完了時点である1994年に至るまでの歴史が語られる。

二部でジョージア出身のスターリンと対比的に出てくる人物はエドゥアルド・シェワルナゼで、同じくジョージア出身で、ゴルバチョフの右腕でペレストロイカを進めた人物らしい。ペレストロイカが結果的にソ連の崩壊とジョージアの独立に繋がったので、ソ連のジョージア侵攻を進めたスターリンとの対比になっているということなんだろうか。その後、バラ革命によって大統領を辞任したらしい。

一部ではソ連占領以前、ジョージアの歴史や宗教、民族性や生活、パンやワイン、ポリフォニー、舞踊といった伝統など、ジョージアのかつてあった姿が語られ、二部ではそのジョージアがソ連に占領され”ソ連化”されていく過程、そして三部ではその後の独立から内戦に至るまでの過程が語られる。

多民族が共存するジョージアの姿はポリフォニーに象徴される。ポリフォニーはジョージアを含む地中海沿岸地域をルーツとして持つ。ポリフォニーはそれぞれが独立したメロディーを歌うものであると同時に、厳格で修練に非常に時間がかかるものでもある。ポリフォニーにおける厳格さは、ジョージアの人々が独自の宗教性、騎士道、もしくは倫理観を厳格に保つことによって、その多民族性、多宗教性が維持されてきたことを示す。

それは同時に、ベランダを開け放して会話するような開放的な国民性、集落に一つ見張り台があるのではなく集落にある全ての家に一つずつ見張り台があることに象徴される、自分のことは自分で責任を持つような個人主義的な国民性とも結びつく。家ごとに見張りを持つという方法で防衛できていたこと、そしてそもそも多民族が集まってきたことの理由として地理的な要因も結びつく。それら国民性が失われたことが、ベランダが今では観光者向けの装飾としてしか機能していないこと、防衛手段が国の一つの軍へと集約されてしまっていることに象徴される。

土着の信仰と聖ニノによって伝えられたキリスト教が合わさった独自の宗教であるジョージア正教が中心的な信仰となっている。そして、その宗教性が生活や産業とも結びついている。パンやワインは宗教的な用途を持っており、その製造過程もまた儀式性の高いものとなっている。しかし、ソ連の占領下において、パンやワインの製造過程は機械化、標準化される。生産性のためにその多様性を失っていく。そして、信仰は社会主義に置き換えられる。

ジョージアの伝統や宗教、国民性はその地理や様々なものと結びつきながら作り上げられた、多民族、多宗教間の共存のための基盤だったことが示される。そして、それがソ連の占領下における近代化、ソ連化によって失われてしまったことが語られる。そして、それがさらに内戦へと繋がっていく。

三部では二つの内戦が描かれる。独立後社会主義を失ったジョージア国民が新たな信仰先を求めて個人崇拝に走り、それによって独裁政権が生まれてしまう。そして、それに対するデモ運動をきっかけに一つ目の、政権支持者と非支持者の間の内戦が起こる。そしてその独裁政権はある種ロシアによる傀儡政権だったことも語られる。二つ目の内戦は、ジョージア内の民族間紛争であり、ロシアがジョージア内の複数の民族を独立へと扇動し、軍事支援したために起こったと語られる。その目的は、ジョージアがロシアに従順に振る舞うようにするための脅し、独立した民族の領土をロシアのものにすることにある。

最後に、交響楽団の演奏がポリフォニーと対置される。その演奏は、全員が厳格に同じメロディーを弾くものとなっている。ポリフォニーがかつてのジョージアを象徴するものだとすれば、交響楽はソ連占領後のジョージアを象徴するものとなっている。その後、その楽団に多くの空席があることが示されて終わる。それは内戦によってジョージアから離脱してしまったアブハジ人などの民族達が座っていた席となっている。

独裁者と信仰

二部と三部では独裁者と新たな信仰の関係性が描かれている。二部と三部はジョージア人指導者が対比的におかれていて、二部はジョージア出身であるソ連の独裁者スターリンと、ゴルバチョフの右腕としてペレストロイカを推進したエドゥアルド・シェワルナゼが対比される。ジョージアの侵攻はスターリンによって行われ、ペレストロイカは結果的にソ連の崩壊、ジョージアの独立に繋がる。三部ではジョージア独立過程での独裁者であるズヴィアド・ガムサフルディアと、シェワルナゼが対比される。ガムサフルディアの独裁は支持者と非支持者の内戦に繋がり、非支持者の勝利によりシェワルナゼが初代大統領となる。

スターリンがソ連化によってジョージアが基盤としていたものを解体した人物なら、シェワルナゼはゴルバチョフと共にスターリンによって作られたシステムを解体した人物となっている。スターリンによる解体は信仰先を宗教から社会主義に変えたが、シェワルナゼによる改革の結果、その信仰先としての社会主義が失われ、ジョージア人は新たな信仰先を求めて個人信仰に走り、ガムサフルディアが権力を持つようになる。そして、ガムサフルディアの追放後、シェワルナゼが大統領となり、民主化と自由が次の信仰対象となる。そして、民族間の内戦が起こる。

ここで、スターリンが神学校を中退し社会主義運動家となったことが言及される。そして、ガムサフルディアは教会の権力を利用する形で権力を得ていくようになる。二人の独裁者は自身を人々の信仰対象としようとする人物となっている。いわば、二人の独裁者はジョージアの民族間共存を可能としていた基盤の一つである宗教を消し去ることによって権力を得た人物となる。

この映画において、肯定的に描かれるのはかつてあったジョージアの姿のみであり、シェワルナゼは曖昧な立場から描かれる。ある種、シュワルナゼは基盤の空白を埋めるために仮に置かれた人物のように見える。シュワルナゼは自身が若い頃は理想家であり今は希望や情熱を失ってしまったと語る。インタビュイーとして登場する今のシェワルナゼは基盤を失ってしまった今のジョージアを象徴するような存在のように見える。かつてあったジョージアの姿を描く一部に対して、二部と三部は近代以降を描きながらも、シュワルナゼを中心にこれからのジョージアの姿を映し出そうとしたものに思える。そして、シェワルナゼはこの映画の後、ガムサフルディアのように、革命(バラ革命)によってその座を降ろされることになる。

感想

『四月』でのベランダ越しのシンクロがジョージア人特有の国民性をそのまま表現していたこと、そこでの舞踊がジョージアの伝統だったこと、『田園詩』での「窓をこっちに向けるな」というセリフが象徴していたものなど、色々な発見があった。一部で、ジョージアの12-13世紀フラスコ画がルネサンスを先取りしていたことが語られるが、その画面の感じがセルゲイ・パラジャーノフの画面の独特なビザンティン美術的な感じそのままだった。それ以前にも、独立を目指していた知識人の中に占領下で同じようにジョージアの伝統的なフラスコ画を現代絵画に落とし込んだ画家がいたりしたらしい。

1921年4月、ソ連占領下のジョージア ー オタール・イオセリアーニ『四月』

オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1962年作『四月(Aprili)』について。

ソ連のジョージア侵攻が1921年の2月15日から3月17日らしいので、タイトルはソ連の占領下となった1921年の4月を指しているんだろうと思う。

ジョージアの家が、ソ連の作業員によって作り替えられていく。新しい家が建ち、そこに家具が運び込まれていく。その作業音は不快な音として響き、主人公男女の足音は美しい演奏のように響く。それら作業音はジョージアの人々の演奏や発する音を中断させる。主人公男女は作業員達によって阻まれ続けるが、残ったジョージアの木の元で遂に結ばれる。しかし、その木もまた家具の製造のために切り倒される。

二人は新しく作られたマンションで生活を始める。二人が近づくと、電球や水道、ガスがあたかも生き物であるように、自然の一部のように活力を帯びる。水道は蛇口を捻るのではなく、女に撫でられることによって水を出すが、これは性的な意味での検閲を避けるための比喩なのかもしれない。二人が結ばれることによって、向かいのマンションでジョージアの音楽が演奏され始める。その演奏によってマンションの個室によって分たれていた人々が、開いた窓を通して繋げられる。

しかし、そのマンションにはソ連の作業員がおり、近代的な生活を送っているかを鍵穴から監視している。作業員は空っぽの家に住んでいた二人に、家具を提供する。家具は、ジョージアの木の対比となっており、ソ連に強制された生活様式を象徴する。それをきっかけに二人は段々とその生活へと染まっていく。二人の出す音が、作業員と同じ不快な音へと変わっていく。それを反映するように、人々を繋げていた音楽も演奏されなくなり、窓は閉じられそれぞれが部屋に籠るようになる。そして、二人の関係性も崩れていく。 かつて住んでいた家の写真を見ることによって、その生活が拒絶される。家具が抵抗のように窓から投げ出される。そして、二人は木のあった丘に再び向かう。切り倒された木の元、二人が結ばれた時のショットが反復される。

『珍しい花の歌』と非常に似た主題を持つ作品。切り倒された木の元での反復は、『珍しい花の歌』での道路の下から草が生えて民謡を再び歌い出すシーンと対応している。反抗として家具が投げ出されるシーンの力強さに感動する。

道路を割る花 / ポリフォニー ー オタール・イオセリアーニ『珍しい花の歌』

オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1959年作の短編『珍しい花の歌(Sapovnela)』について。

ジョージアの山岳風景が映される。そこに咲いていた花が「珍しい花」という商品として温室で人工的に育てられている。温室で育てられた花が、おそらくジョージアのものではない音楽に合わせて踊るように映される。それは踊っているというより踊らされているように見える。それと対比するように、それら花を守るように自然の中で育てる男の姿が映される。その花は伝統的な刺繍模様と重ねられる。夜、不吉な予感と共に男が花と共にうめく姿が映る。そして昼、ジョージアで自生する花がおそらくジョージアの民謡を歌い始める。それは様々な種類の花の様々な歌声が重なったものなっている。しかし、それら花が重機によって暴力的に掘り起こされ、歌は中断する。抵抗するように、作られた道路を割って草が生え、再び歌い出す。

ナレーションはソ連の検閲によって監督の意図に反してつけられたものであるため、翻訳はつけません。というような文章が冒頭に出てきた。暴力的にナレーションをつけられたという背景によって、この作品自体が道路を割って再び生えた草であるというメタ的な意味を持つようになっている。