
「わかっているんだよ」
そんな言葉を、自分に何度投げかけてきただろう。
これをやればいい。
前に進むべきだ。
過去に囚われても仕方がない。
頭では、何度も理解している。
けれど――
心はまるで、置き去りにされたまま動かない。
人からのアドバイスを聞いても、
本や記事を読んで知識を得ても、
「その通りだ」と思えるのに、
なぜか実際の自分は変わらない。
「行動すれば楽になるのに」
「考え方を変えれば解放されるのに」
そんな言葉を、もう耳が痛いほど聞いてきた。
それでも動けない自分を前にすると、
どうしても罪悪感に押し潰されてしまう。
まるで、頭と心の間に深い谷があるようだ。
理屈は理解している。
論理も、正解も、方法も分かっている。
でも心は、恐怖や不安や、過去の痛みや、
言葉にならない重みで立ち止まっている。
その谷を越えられずに、
ずっと同じ場所で足踏みしている。
「わかってるのにできない」
この状態にいるとき、
私たちはよく自分を責めてしまう。
怠けているんじゃないか。
意志が弱いんじゃないか。
努力が足りないんじゃないか。
でも、違う。
それは怠惰でも弱さでもなく、
“心の速度”と“頭の速度”が違うだけなんだ。
頭は速い。
情報を理解するのも、言葉を飲み込むのも、
未来を想像するのも、あっという間にできる。
けれど心は遅い。
一つの痛みを消化するのに、
一つの感情を整理するのに、
とても長い時間を必要とする。
だから私たちは、
頭では次のステップに行けるのに、
心がまだ前の場所で震えていることに気づく。
頭は「大丈夫だ」と言う。
でも心は「怖い」と泣いている。
頭は「忘れよう」と言う。
でも心は「まだ痛い」と叫んでいる。
頭は「進もう」と言う。
でも心は「置いていかないで」と必死にしがみついている。
その矛盾に苦しむのは、
きっとあなただけじゃない。
私も、何度もその場所に立ち尽くした。
たとえば、失恋のあと。
「新しい出会いがあるよ」
「時間が癒してくれるよ」
そんな言葉は、頭では分かっていた。
でも心は、あの人の笑顔や声に
まだ縛られていて離れられなかった。
たとえば、過去のトラウマを抱えたとき。
「過去は過去だ」
「もう終わったことだ」
その言葉を理解していても、
心はふとした瞬間に、
過去の映像を呼び覚まして震えていた。
たとえば、挑戦の前に立ったとき。
「失敗してもいい」
「やらなきゃ始まらない」
頭ではその通りだと分かっていた。
でも心は、笑われることや傷つくことを恐れて
どうしても動けなかった。
そういうときに必要なのは、
自分を責めることではなく、
“心の速度を認めること”なんだと思う。
心は頭よりも遅い。
だから待ってあげることが大切なんだ。
焦る必要はない。
人から「理解できてるなら変わりなよ」と言われても、
「なんでそんなに動けないの」と責められても、
心には心のペースがある。
その声に耳をふさいでしまってもいい。
大事なのは、
「今の自分はまだ怖がっている」と正直に受け止めること。
私はあるときから、
頭と心を“別の存在”として扱うようになった。
頭は優秀なナビゲーションシステム。
でも、実際に歩くのは心。
頭がいくら地図を示しても、
心の足が進まなければ動けない。
だから「なんで進まないんだ」と叱るより、
「まだ怖いんだね」と声をかけるようにした。
すると、不思議なことに、
少しずつ心が柔らかくなってきた。
急がされると固まってしまう心も、
待ってもらえると安心して動き出す。
それはほんの小さな変化だったけれど、
やがて確かな一歩につながった。
頭と心がバラバラのままでは、
人生は前に進みにくい。
けれど、どちらかを無理に引っ張る必要はない。
頭は頭の速度で。
心は心の速度で。
その違いを認めることができたとき、
ようやく“両方が同じ方向を向ける”気がする。
あなたも、いまそんな場所に立っているだろうか。
「わかってるのに動けない」
「理解してるのに心がついてこない」
もしそうなら、
どうか自分を責めないでほしい。
それは甘えじゃない。
弱さでもない。
ただ、心が時間を必要としているだけなんだ。
人生には、
「頭の理解」よりも「心の実感」が必要なときがある。
その順序を逆にしないで。
心が納得できるまで、歩幅を合わせてあげてほしい。
今はまだ進めなくてもいい。
でも、いつか必ず心は動き出す。
そのときを信じて、今は待つ。
それもまた、立派な一歩なんだ。
あなたへ
どうか自分を急かさないで。
どうか心の声を無視しないで。
理解しているのに動けない自分を、
そのまま受け止めてあげてほしい。
それがきっと、
未来に向かう一番確かな準備になるから。





