すぷりんぐぶろぐ

暮れ残る地に 咲く花を眺めつつ 春休みは いつまでも続く

ここをサーチライトにして

 長年、利用してきたgoo blogが、昨日2025.11.18をもって終了した。

 事前告知があったので、この「はてな」blogへ6月に引っ越してきたのだが、少し思うところがあり、「にほんブログ村」のムラゴンblogへ、再び移転した。

 

 今のところ、順調に過ごしている。

 

spring254.muragon.com

 

 「続ける」ことだけを頼りに書き散らかすブログなので、何の支障もないのだが、gooやこの「はてな」にある機能で、ムラゴンにない(見つけられないのではないと思うが)ないのが、サイトの記事内検索だった。

 この機能は、自分にとって結構大事であったことに、今さら気づいた。

 そこで、一旦削除作業したデータを復元させて、再びここに置くことにした。

 

 そんなに遠いわけではないが、位置づけは「サーチライト」かな。

 

 それを使うために訪れるのは自分しかいない気がするが、もしよろしかったら、何かの言葉をいれて検索してみてください。

 とにかく、曲がったりくねったりで、いい暇つぶしになる(のは己のみ)。

引っ越しました

 諸事情により、ブログ引っ越しました。

 gooから移ってきて五カ月ぐらいですが、お世話になりました。

 

 新しい居場所はこちらです。

spring254.muragon.com

 

  現実の引っ越しはなかなか出来ません。

 この空間ではそれが意外と簡単にできるので、いい気分転換にもなります。

 

 書く中味は相変わらずですが(笑)

 今後ともよろしくお願いします。

 

ハロウィン…ぼんぼらで

 先週末からのこども園では、お話し会のタイトルをこんなふうに映し出している。

 前回のコスモスの写真とは違って、すぐに「あっ、かぼちゃ」と声が出る。「そう、かぼちゃだね。みんなは好きですか。」と問いかけると、好きという子もいるし、微妙な顔つきの子もいる。ここで「このかぼちゃの別の名前知っているかな。このあたりで、何というか知ってるかな」と、問いかけてみる。

 

 そうすると、先生たちが顔を見合わせる。少し年輩であれば記憶があるようだ。「ぼんぼら、って言うんだよ」。おそらく聞いたことがない子ばかり。今どきの家でその言葉は使わないだろう。羽後町を中心にかつて根づいた語であるから…。「じゃあ、みんなで言ってみよう!! ぼんぼら!!ハイッ」、元気な声が返ってくる。

 

 さて今度のプログラムは4冊構成。最初は紙芝居から2月3月にも取り上げたが、対象の子どもが違うし、時期的には今もふさわしいと思ったので『きたかぜとたいよう』を取り上げた。これはオチがなかなかいいのでパッと盛り上がる。

 

 spring254.hatenablog.com

 

 次は、この前アップした『しゃっくりガイコツ』。これも時季的にぴったり。有名なようで読んでいる子もいたが、もう本に目が惹き付けられていることがすぐにわかる反応だ。新しいバージョンになって発刊される理由も頷ける。

spring254.hatenablog.com

 

 今回の目玉は『もりのなか』という作品。モノクロの絵に描かれる世界が子どもの好奇心に働きかける。笑いや声は出なくても、集中して見入っている様子に満足する。登場する人物(動物)の多彩さと特徴的な言動、そして行列になっていくストーリーに同化していくのかな。クマ騒動の中では、少し複雑な大人の気持ち。

 

 最後の一冊については、また今度。

贅沢全廃委員会◆改称(了)

(前日からの続き)

 「見えなくなった贅沢」が時々姿を現わすことがある。例えば「コロナ禍」のなかで、「不要不急の~~」が連呼され外出や集まりなど様々な制限が強くなったなかで、人々は日常が「贅沢」であったことに気づいたりした。やはり贅沢は自由であり、豊かさに通ずると改めて思い知ると、その意味の二面性がわかる。

 

 つまり「消費社会」であることだ。資本主義が常に求めている消費が促されている社会だ。次から次へと新しくなる商品を売るために煽られているのが現状だろう。しかし、そこに乗っかることを贅沢と呼ぶのだろうか。そうやって買い続けることが豊かに見えても、精神的な満足感は一時的であると誰しも感じている。

 目をつけるべきは「消費行動」。哲学者國分功一郎は「必要なものが必要な分しかない状態では、人は豊かさを感じることができない」と述べていて、その意味で「必要外の出費」が贅沢であるならば、むしろ奨励すべきと言える。従って、意識的な消費行動こそが、いわば「贅沢は、す敵だ」に通じる道と結論づける。

 

 「贅沢全廃委員会」と題してみたが、それは無理であり、またあるべき方向とは違うようだ。経済成長が止まり、資本主義が変質し格差が広がった社会では、贅沢は廃する対象というより「善配」すべきものに思われる。「贅沢善配委員会」と改称しよう。個の中で善く配置し、社会全体へ善く配分することを目指す。

 

 その「活動」をしていくための留意点はこうなるだろうか。心に刻みたい。

◆目前にある日常生活に集中して「楽しむ」「愉しむ」心がけを持つ

◆誰かに煽られない、誘導されない。虚栄に注意深く接する。

◆時に一つのモノ、一つの行為を見て、関わる事物や背景を想像してみる (了)

贅沢全廃委員会◇混迷

(前日からの続き)

 自分が「贅沢だなあ」と口に出す時はどんな場面か。例えば、食事場面で高級な料理や盛り沢山のメニューが並ぶ時。例えば、豪華な建物、施設や斬新なアイデア空間などを目にした時。まだまだあるはずだが、思い浮かぶのはやはり金銭のかかる、時間も人手も尽くされたようなモノが多い。一般的な感覚だろう。

 

 当然、感じない人もいる。出自や環境によって養われた心性は様々だ。万人に通用する贅沢などないとごく当たり前のことを思いつつ、「格差」という語がよぎる。それは何も今の時代ばかりではない。しかし、現代の資本主義社会に顕著であり、また個々の贅沢への欲望が、この社会を生み進ませたことに気づく。

 

 

 「贅沢は格差を可視化し、不平等を固定化する」と東畑開人は書いている。なるほど。だから戦時中の「贅沢品全廃運動」は意図が明確であり、国民の分断化を防ごうとしたわけだ。しかし実際は格差や不平等がなくなったわけでなく、見えにくくなるだけなのだが…。とにかく「平等」にとって「贅沢」は邪魔らしい。

 

 なんだか話が社会の方へ傾いた。個人について検証しようとすれば、どうしてもそうなる。物的、経済的活動で考えると、自分の「贅沢」が他者に何かしらの影響を与える、自由な振る舞いが知らない誰かの不平等や不自由に加担しているのではないかという思いが残るからだ。やはり「贅沢は敵だ」…そうかもしれない。

 

 だったら贅沢のラインなど意味があるかと思う。がしかし、その大雑把さが問題なのではないか。いつしか私たちの多くは「贅沢だなあ」と口にしなくなった。日常生活に必需品以外のモノ、コトが溢れすぎて、その境目を意識できなくなっている。それは自由であるのか、不自由なのか。贅沢が見えなくなっている。(続く)

贅沢全廃委員会◎検証

(前日からの続き)

 生活必需品という言葉がある。辞書には見出し語として載っておらず、調べるとこの語は戦前の「生活必需物資統制令」から出ているようだ。現代でそれがそのまま通用するかと問われれば無理がある。憲法に定められた「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ためには、基本となる衣食住はどれほどであればいいか。

 

 どのラインで線引きするか。必要最低限は超えてはいるが「贅沢」とならない程度の設定ということか。「食」の面ではカロリー摂取だけではなく、量や栄養バランス、味やそれらに伴う満足感も観点となる。それは「住」においても同様だ。雨風をしのぎ寒暖に耐えうるだけでなく、安全・安心要素も欠かせない。

 

 と考えてきて、では今現在そのラインを超えているかと自問すれば、さほどではないことに気づく(ただし「衣」は無駄が多い)。しかし「全廃」を謳った以上、委員会としては(笑)事細かにチェックを入れるのが趣旨だ。言うべくもないが、今まさにこの机周り、家中の書棚は「贅」に浸食されている状況は確かなのだ。

 

 そこに絞って、見つめてみる。確かに余計と思われる、明らかに整理能力欠如から生じたいくつかの書籍、資料等がある。しかし大半はここ数年整理した末の結果だ。残ったそれらは、おそらく将来役立たぬことは分かっていても、ここに留めておきたいものだったのだ。なぜなら…離したくない懐かしみを感ずるからだ。

 

 そういう懐かしみや愉しみは「贅沢」とは呼ばないだろう。他者から見れば価値のないものであっても、当人は違う。きっと憲法の文言中の「文化的」に通ずるのではないか「豊かさ」と言ってもいい。ここで委員会は次の段階に入る。「贅沢」の判断は、他に左右されず個人の自由の中で検証されなければならない。(続く)

贅沢全廃委員会〇発足

 「贅沢」とは、広辞苑によれば「①必要以上に金をかけること。分に過ぎたおごり②ものごとが必要な限度を越えていること」。辞書によって多少表現に違いが見られるが意味の差異はない。「必要」外のことを指しているわけで、それなら別に無くても困らない、いっそ廃した方がはすっきりする…だから発足する?

 

 戦時中の「贅沢は、敵だ」というキャッフレーズは有名だ。それは国家精神総動員運動のなかで、生活統制を強めるために出来た。その時代に似たような(実はこちらがパクったのだが)「贅沢品全廃運動委員会」なるものが設置されている。外的、物的な緊縮を通じて内的、精神的な自覚を促す意味で趣旨は一致する。

 

 もちろん、社会的な運動を展開するというわけではなく、個人の課題として「贅沢」をそぎ落とそうと考えてみた。「贅」には「よけいなもの。不必要なもの」という意味がある。そこに目をつけ、全廃という強い言葉の力を借りて試みようというわけだ。まず手に付ける事項といえば「衣食住」になるのだろう。

 

 

 「」は、関心があるほうではなかったし、高級品など買った記憶はわずかばかりだ。しかし、では今クローゼットに溢れかえっているのは何か。ああこれは…明らかに「」だな。現に使用しているものであればいいが、いわゆる「タンスの肥やし」と称される幾多のものが何年前から…。具体的に手をつけやすい。

 

 では「」はどうか。うんっ、これは難しいぞ。生存活動するに必要なカロリーを摂取すればそれでいいのか。食への興味関心は人一倍強いし…。「」の方はどうか。一戸建てに住む者にとって「贅」とは何なのか。家具や日用品等へシフトか。発足直後から、委員会の意義が問われている。いや、存続させねばと…(続く)。