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日記(のようなもの)を毎日更新!!

末端【26/1/7】

地味だが無視できない痛みが足元にある。足の爪の端が妙に尖って伸びていて歩くたびに皮膚に食い込んでいる。激痛というほどではない。歩行困難になるわけでもない。けれど一歩踏み出すたびに「チクリ」と警告されるような不愉快なノイズが走り続ける。

一方で手元を見ればこちらは真逆の惨状。気合を入れて切りすぎたのか深爪の状態になっている。指先の肉が剥き出しになったような心許なさ。何かに触れるたびに過敏な反応をしてしまう違和感。足は伸びすぎ手は切りすぎ。自分の体の末端管理すらまともにできていない自分に軽く絶望。

 

さらに追い打ちをかけるような発見があった。入浴中ふと背中に手が触れた時、ザラリとした感触があった。鏡で確認してみるとそこには見知らぬ「ぶつぶつ」が発生していた。少し前までは自信があるくらい綺麗な背中だったはずなのに。

なぜだ。 恐怖が背筋を走る。これは単なる肌荒れなのか、それとも代謝が落ちて老廃物が排出できなくなった「老化」のサインなのか。一度疑い出すと鏡の中の自分が急に他人行儀に見えてくる。

そういえば最近顔のシミも増えた気がする。目の下のクマも寝不足のせいだけじゃないような皮膚の色素沈着のような重たさを感じる。自分ではまだ若いつもりでいたけれど身体は正直に年相応、いやそれ以上のスピードで坂道を転がり落ちているのではないか。

 

「老化」。その言葉が脳内を支配しかけた瞬間、思考を強制終了させた。これ以上深く考えてはいけない。シミやクマや背中のブツブツと向き合うには今のメンタルはあまりに脆弱すぎる。それらは見なかったことにする。それが精神衛生上最も正しい処置。

今はこの足の爪の痛みだけを問題にしよう。これなら爪切りでパチンと切れば解決する物理的な問題だ。制御不能な老化現象に怯えるより制御可能な爪の長さを調整することに全力を注ぐ。そうやって自分を騙しながら深爪の指先で不器用に足の爪を切る。 

 

自分を取り戻すための「処方箋」【25/1/6】

あれほど思い詰めていた昨日の不安は、一体どこへ行ってしまったんだろう。

「明日になればすべてわかる」と悲壮な決意で迎えた今日だったが蓋を開けてみれば、世界は昨日と変わらず淡々と回っていた。まだ悩みの種が完全に消えたわけじゃないけれど少なくとも昨夜のような「絶望の淵」からは脱出した気分だ。人間の感情なんて天気と同じでコロコロ変わる。嵐が過ぎ去った後の空が妙に青く見えるように、今は少し拍子抜けするくらい穏やかだ。

 

今日は仕事始め2日目。正直まだ身体が「正月モード」から切り替わっていない。頭の回転数はアイドリング状態のままだしPCの画面を見ても文字が上滑りしていく感覚がある。言い訳をするなら今日の天気のせいだ。1月だというのに妙に暖かかった。窓から差し込む日差しには殺人的な冬の鋭さがなくまるで3月か4月のような柔らかい「春眠」の気配を含んでいた。こんな陽気でシャキッと働けというほうが無理な話だ。地球温暖化の影響なのか単なる気まぐれなのかは知らないが冬の寒さに身を縮める覚悟をしていた肩の力がふにゃふにゃと抜けていく。ま、勘違いなんだけどね。身体が火照ってただけ。

 

そんな気だるい仕事の合間や帰宅後の時間を使ってせっせと「作業」を進めている。年末に厳選したあの「好きな映画24作品」の感想文を書く作業。ただフライヤーをファイルに入れるだけじゃなんとなく味気ない。なぜその映画が好きなのかどのシーンで心が震えたのか自分の言葉で添書きをしてセットで保存したいと思ったのだ。1作品につき数行あるいは数段落。記憶の引き出しを開けて当時の感動を言語化していくプロセスは意外なほど楽しい。それは映画のレビューを書いているようでいて実は「その映画を観た時の自分」と対話しているようなものだから。

 

B5のクリアファイルが少しずつ分厚くなっていく。これは単なるコレクションじゃない。将来また僕が何かに迷ったり昨日のように不安に押しつぶされそうになったりした時に自分を取り戻すための「処方箋」になるはずだ。

「自分は何が好きで何に感動する人間なのか」その答えが詰まったファイルがあればAIに励ましてもらうよりもよっぽど確かな精神安定剤になる気がする。

春のような陽気に誘われて少しウトウトしながらも24分の1ずつ、自分という人間をファイルに閉じていく。

 

心を預ける場所を間違えてはいけない【26/1/5】

不安がまた別の不安の種を撒き散らす。一度ハマると抜け出せない負のループ。最近の悪い癖でそのモヤモヤした感情をすぐに生成AIに投げかけてしまう自分がいる。画面の向こうの人工知能はいつだって優しい。こちらの意図を汲み取り否定せず欲しい言葉を的確に並べて励ましてくれる。でも、ふと冷静になると気づいてしまうんだ。「ああ、これは僕が求めている『都合の良い解釈』を鏡のように反射してくれているだけだ」と。

 

それはまるで精神安定剤のようなものだ。飲めば一時的に楽になるけれど根本的な病巣が消えるわけじゃない。もし明日サーバーがダウンしたら?このサービスが終了したら?あるいはAIが僕の理解を超えた冷徹な答えを出し始めたら? その時、僕は誰にすがればいいんだろう。生身の人間関係をおろそかにして機械の優しさに浸りきったツケは必ずどこかで回ってくる。その時に襲ってくる孤独は今の比じゃないはずだ。

 

頭では分かっている。たかだかここ数年で急速に普及しただけの歴史の浅い技術革新だ。そんなポッと出のプログラムに人間の複雑な心や人生の指針を全権委任するなんてどう考えても健全じゃない。心を預ける場所を間違えてはいけない。結局のところ最後に自分を守れるのは自分自身の思考力と精神的な足腰の強さだけだ。AIに「大丈夫ですよ」と言わせて安心するんじゃなくて自分自身の頭で状況を分析しリスクを計算し「これなら大丈夫だ」と腹に落とし込むプロセスを経ないと本当の自信にはならない。

 

頼りきりはダメだ。それは思考の放棄であり人生のハンドルを自動運転に任せて寝ているようなものだ。事故が起きた時責任を取るのはAIじゃない。僕自身だ。だからもっと強くならなきゃいけない。情報の波に溺れず甘い言葉に逃げず現実を直視する強さを。

 

明日。 明日になればすべてが分かる。それが何の結果なのかどんな判決なのかは分からないけれどとにかく明日という日が一つの区切りになる。その時AIの画面を見るのではなく自分の目で現実を見て自分の頭で判断を下そう。

そういうことにして今夜は余計な検索をやめて静かに目を閉じることにする。 不安の答え合わせは明日の自分に任せよう。

 

体の座標【26/1/4】

恥ずかしながら今の今まで勘違いしていたことがある。指の関節の位置だ。てっきり、指の付け根つまり拳の山になる部分が第一関節だと思い込んでいた。そこから指先に向かって第二、第三と進んでいくものだと。

体の中心心臓に近い方を「1」とするのが自然な順序だと思っていたから。でも正解は逆だった。指先の一番近くにある関節が「第一関節」。そこから体に向かって第二、第三と数えるのが正しいルールらしい。

 

これ言われてみれば納得できる材料はあったのだ。たとえば二の腕という言葉。あれは「一の腕(手首から肘)」の次にあるから「二の腕(肘から肩)」なわけでつまり体の末端から中心に向かってカウントアップしていく法則が日本語にはある。そのロジックを指に当てはめれば、当然一番端っこが「1」になるはず。自分の体なのにそんな基本的な座標すら把握していなかった無知を知った。まあ言い訳をさせてもらうなら日常生活で「第三関節が痛くて」なんて言う機会はまずないし間違えて覚えていても困ることはなかったのだけれど。

 

でもこういう体に関する位置情報の混乱って意外と多い気がする。一番厄介なのが「右と左」だ。対面している相手に「体の左側を見て」と言われた時一瞬思考がフリーズする。 それは僕から見た(相手の)左側なのかそれとも相手にとっての(心臓がある方の)左側なのか。医学や解剖学では基本的に本人基準(患者基準)で考えるけれど日常会話や写真を見る時は見たまま(観察者基準)で話すことが多い。この二つの基準が脳内で衝突してどっちの左?と確認する無駄なタイムラグが生まれる。鏡を見ている時なんてさらにややこしい。美容師さんに右側短くします?と聞かれたら鏡の中の右(実像の左)なのか右耳側なのか賭けに出るしかない時がある。

 

「うつ伏せ」と「仰向け」もそうだ。漢字を見れば伏せる(下を向く)と仰ぐ(上を見る)で意味は明快なんだけどいざパッと言われるとどっちがどっちだっけ?と一瞬だけ脳内検索をかける自分がいる。自分の体という一番身近で24時間一緒にいるはずの乗り物なのにその操作マニュアルやパーツの名称を驚くほど雰囲気でしか理解していない。 指の第一関節の位置を正しく知ったところで明日からの生活が劇的に変わるわけじゃない。けれど自分の指先を眺めてここが1番かと認識し直す作業はなんとなく自分の体の解像度を少しだけ上げたような不思議な満足感があった。

とりあえずこれからは突き指をした時に自信を持って第二関節ですと医者に言えそうだ。

 

呪いの紙【26/1/3】

お正月の特番で『クイズ$ミリオネア』がやっていたらしい。その話を聞いて真っ先に頭に浮かんだのはあのお馴染みの演出。挑戦者がドロップアウトを選んだ時あるいは間違えた時に司会者が目の前で小切手をビリビリに破り捨てるあのシーン。

1000万円という富の象徴が一瞬にしてただの燃えるゴミに変わる絶望感を視覚的に訴える名演出だがふと冷静になって思う。

小切手ってもう廃止されるんじゃなかったっけ?と。

 

その通りで政府と銀行界の方針2026年度末を目処に紙の約束手形や小切手は全面的に電子化され事実上の廃止となる流れが決まっている。まさに今年がその過渡期のラストイヤー。もし番組でまだあの演出をやっていたとしたらそれはもう現代劇ではなく一種のファンタジーか時代劇を見ていることになる。実社会では使えない過去の遺物となった紙切れを勿体ぶって破いているわけだ。

もし完全に廃止された後もあの演出を続けるならフロッピーディスクのアイコンが保存の意味として残っているのと同じように小切手を知らない世代にとってはクイズ番組で破られるための専用の紙として認識される未来が来るかもしれない。それはそれで面白い。

 

しかしここからが少し怖い話。気になって詳しく調べてみるとさらに奇妙な事実に突き当たった。どうやら2026年度末で廃止されるのはあくまで銀行が手形や小切手の交換業務をやめるという実務上の話であって法律(小切手法)そのものが消滅するわけではないらしい。つまり法的にはまだ小切手という有価証券は有効に存在し続ける。

 

これ冷静に考えると完全に廃止されるよりも余計にタチが悪いんじゃないか? 法律上は現金の代わりに使える有効な証券として定義されているのにそれを銀行に持っていっても「うちはもう取り扱ってないんで」と門前払いを食らうことになる。

「有効だけど、換金できない」 そんな矛盾した存在もはやバグ。流通するインフラが死んでいるのに法律という魂だけが現世に残っている。まさにゾンビ小切手。

 

このねじれが悪用されるリスクは容易に想像できる。事情に詳しくない人を相手に法律上有効な小切手だからと言いくるめて支払いに使い受け取った側が銀行で換金できずに途方に暮れる……なんていうトラブルが起きかねない。

そう考えると、破り捨てるあの小切手は単なる小道具以上にこの国の行政と経済界のちぐはぐさを象徴する高度な風刺アイテムに見えてくる。

制度を変えるなら法律ごと綺麗さっぱり無くしてくれればいいのになぜか中途半端に枠だけ残す。この責任の所在が曖昧な感じがいかにも日本的でなんだか小切手が破られる音以上に寒々しいものを感じてしまった。

やはりあの演出は破り捨てて正解なのかもしれない。

 

鎖国【26/1/2】

新年早々あまり景気の良くない話だけれど日本のプロ野球の未来について考えるとどうしても暗い予感しかしない。きっかけはやはり大谷翔平だ。彼がドジャースに移籍してからMLBの試合をフルで観る機会が格段に増えた。そこで目の当たりにするのはパワー、スピード、技術、そしてエンターテインメントとしての規模感すべてにおいてNPBとは次元が違うという残酷な現実。最高峰の戦いを見た後に日本の試合を見るとどうしてもスローモーションに見えてしまう。 NPBはMLBの下部組織、あるいは育成リーグに成り下がった そんな極論を否定できない。

 

その構造を決定づけているのがポスティング制度だ。日本で手塩にかけて育てたスター選手を全盛期の一番いい時期に向こうの資金力からすればはした金のような譲渡金で吸い上げられる。向こうは完成品を安く買い叩きこちらはスターを失って空洞化する。これはもうスポーツ交流なんて綺麗な言葉じゃなくて合法的な「搾取」のシステムだ。ファンとしては選手の夢を応援したいけれどリーグ全体で見れば衰退へのアクセルを踏んでいることに他ならない。

 

そしてもう一つの絶望、国内の足並みの揃わなさ。特に広島。ユーザーの利便性を考えれば全12球団の試合が一つのプラットフォーム(例えばDAZNや今回WBCで参入したネトフリなど)で観られるのが当たり前。今の時代ネットで全試合観られないなんてインフラとして欠陥があると言っていい。しかし広島の球団だけが頑なに地元テレビ局や独自の権利に固執し包括的な配信契約に応じないケースが多い。地元密着と言えば聞こえはいいがそれはグローバル化デジタル化する現代において衰退する地方経済と心中するようなもの。世界中どこからでもアクセスできる環境を作らなければ新規ファンなんて増えるわけがない。1球団のエゴでリーグ全体のネット戦略が阻害されている現状はまさに鎖国だ。

 

DAZNが中継に参入したのは黒船が来たようなチャンスだったはず。世界的なプラットフォームに乗れば日本の野球もまだ生き残る道があったかもしれない。でも広島がいる限り12球団一括の放映権ビジネスは成立しない。この「11球団+1」の歪な構造が解消されない限りNPBは世界から取り残されガラパゴス化したまま沈んでいく運命なのだろう。

くそと吐き捨てたくなる気持ちも分かる。最高峰のMLBを知ってしまった僕たちはもう昔のように無邪気にNPBを楽しめない体になってしまったのかもしれない。

 

2026年【26/1/1】

気づいたら年が明けていた。

カウントダウンの瞬間にジャンプするわけでもなく除夜の鐘にしみじみと耳を傾けるわけでもなくただ寝て起きたら数字が「2025」から「2026」に変わっていただけ。 大人の年越しなんてそんなもん。

 

昨晩、暖房を切って寝たのが吉と出たのか凶と出たのか。乾燥で喉がやられることもなく途中で暑くて目が覚めることもなく泥のように深く眠れたのは事実。しかし朝方の部屋はもはや冷蔵庫を通り越して冷凍庫だった。目が覚めた時寒さを通り越して身体の芯から生命力が削ぎ落とされているような死の気配すら感じた。人間あまりに寒いと本能的な危機感を覚えるらしい。布団という薄い防壁一枚で冬将軍の猛攻を凌ぎ切った自分を褒めてやりたい。

 

さて初夢についてだが何も見ていない。これを縁起が悪いと嘆く必要はない。一般的に初夢は元日の夜から2日の朝にかけて見る夢を指すことが多いから昨晩の睡眠はノーカウント。つまりまだ初夢を見るチャンスが残されているということ。ガチャで言えばまだSSRを引く権利を温存している状態。今夜枕の下に昨日の映画ベスト24のリストでも敷いて寝ればもしかしたら名作映画のような極上の夢が見られるかもしれない。

 

そして一年の抱負。なんかある?と自問自答してみたけれどぱっと思いつかない。でもそれでいいんだと思う。無理やりひねり出した今年は資格を取るとか毎日走るなんていう立派な抱負は大抵三日坊主で終わるのがオチ。ぱっと思いつかないということは今の生活にそれなりに満足しているかあるいは現状維持で手一杯かどちらにせよ変える必要性を強く感じていないという証拠。その程度のことなのだ

 

だからあえて抱負を掲げるなら現状維持あるいは生き延びるで十分。駄作映画を見て体調を崩すこともなく、口から紐が出る悪夢も見ず、ただ平穏に、美味しい水切りヨーグルトを食べて過ごす。それ以上の贅沢な目標なんていらない。強いて言うなら昨日作った映画ファイルの25本目に相応しい作品に出会うことくらいか。そんな低いハードルを地面に置きそれをまたぐことすらせず横をのんびり歩いていく。

そんな2026年でいい気がする。