
(対談の設定)
場所: 東京の古本喫茶 — 2025年冬
登場人物:
高市政権誕生――連立という「現代民主主義のかたち」
漱石:福沢先生、まずはこの高市政権というものの「実像」をつかみましょう。今の日本では、自民党と日本維新の会が連立を組み、高市早苗総裁(初の女性首相)を中心とした政権が成立しています。
この連立は、自民が公明党も与党を離脱し単独で過半数を失った後の新しい枠組みであり、維新は閣僚を出さず言わば「閣外協力」という形で支えるという少し独特なものです。
福沢:なるほど。それはまさに揺れ動く現代の民主主義の一端ですね。国の舵取りが決まらなければ、政治も国民も不安に揺れる。しかし一方で、この連立には国内外から様々な視点の評価が出ています。たとえば、世界の大手通信社・ロイターやイギリス『The Guardian』は、この連立によって高市氏が女性として初の首相に近づいたことを強調しています。
漱石:言葉にすると、どこか理想的に聞こえますが、実際の政策や評価はどうなっていますか。
福沢:世論調査を見ますと、高市内閣支持率は70%台から75%台という高水準で推移しています。これは政権発足からの支持率としては高い値で、支持の理由としては物価高対策や経済政策への期待が大きいようです。
また、連立に対しても6割以上の人が「良かった」と評価しているとの調査結果もあります。
政治に映る人間の内面――不安と希望の心理構造
漱石:
ふむ、人々が一つの政権や政策にこれほどまでに期待を寄せるという現象は、単なる政治的賛否を超えて、人間そのものの心理構造を映し出しているように私には思われます。
私が『こころ』という小説で繰り返し描こうとしたのは、英雄的な人物でも、明快な善悪でもなく、ごく普通の人間が、内面で抱え込む矛盾と揺らぎでありました。
人間という存在は、理屈の上では「こうあるべきだ」と理解していても、感情や生活の現実においては、必ずしもその理想通りには動けません。
具体的に申しますと、人は常に 「安心を求めながら、同時に変化を恐れ」、また 「高い理想を語りながら、現実の制約に縛られる」という、相反する感情のあいだで揺れ動いています。
私はこれを、人間が避けがたく背負う 二律背反的な内面構造だと考えています。
政治に対する評価も、決して理性的な計算だけで成り立っているわけではありません。
むしろそこには、「この先どうなるのだろうか」「自分の生活は守られるのか」「子どもや老後は大丈夫なのか」といった、言葉にしづらい不安と、同時に「少しは良くなるかもしれない」というかすかな希望とが、複雑に混ざり合っています。
人々が政権に向ける視線は、政策文書を読む目というよりも、自分自身の未来を映す鏡をのぞき込む視線に近いのではないでしょうか。
たとえば、物価の上昇、年金制度の持続性、医療や介護を含む社会保障の行方といった問題は、新聞の紙面では抽象的な「政策課題」として扱われますが、実際の生活ではきわめて具体的です。
毎月の食費がいくら増えたのか、電気代や家賃が家計をどれほど圧迫しているのか、病気になったときに十分な医療を受けられるのか――こうした問いは、一日の暮らしの中で、沈黙のうちに人々の心を締めつけます。
人間は、理念やスローガンだけでは生きていけません。
「改革」や「成長」や「国家戦略」といった抽象語が、どれほど立派に響こうとも、自分の食卓や通帳や老後の見通しと結びつかなければ、心からの安心にはならないのです。
だからこそ、高市政権が前面に掲げる「経済の安定」「暮らしの安心」といった言葉が、多くの人の感情に直接触れるのだと思われます。
それは必ずしも思想的に賛同しているからではなく、不安を少しでも和らげたいという、人間としてごく自然な欲求の表れなのでしょう。
福沢:
まことにその通りでして、近代社会を考える上で、「人間の自立」と「生活の安定」という二つの価値は、切り離して論じることができません。
私が『学問のすすめ』などで説いた「独立自尊」という言葉は、しばしば精神論として誤解されがちですが、本来は極めて現実的な概念です。
独立とは、単に気概や志の問題ではありません。
衣食住を自らの力で確保し、他人の恣意に振り回されずに生きられる基盤を持つこと、それがあって初めて、人は自らを尊び、他者とも対等に向き合うことができます。
生活が不安定で、明日の見通しも立たない状態では、いかに高尚な理想を語ろうとも、人は心のどこかで怯え、依存し、思考を狭めてしまうものです。
したがって、政治が「生活の安定」を掲げること自体は、決して卑小なことではありません。むしろそれは、人間が理性を保ち、自由に考え、社会に参加するための前提条件なのです。
自立した市民を育てるためには、まず市民が安心して生きられる土台を整えねばならない――この点において、漱石先生の指摘と私の考えは、深いところで一致しているように思われます。

世界史の中の日本政治――連立政権の安定と脆弱性
福沢:
さて、ここで視線を国内から一歩引き、世界の側から日本の現状を眺めてみたいと思います。世界の主要メディアは、日本の高市政権、そして自民党と維新の会による連立体制を、決して「日本国内の一政局」としてのみ扱ってはいません。
むしろ、「アジア太平洋地域の安定」「民主主義国家における統治のあり方」という、より大きな枠組みの中で論じています。
たとえば、国際報道で信頼性が高いとされるロイター通信や、外交・安全保障を専門的に分析する『The Diplomat』では、この連立の成立によって、少なくとも短期的には、日本政治が混乱状態から一応の安定を取り戻した、という評価が示されています。
これは「政策の中身がすべて評価された」という意味ではなく、「政権が決まり、意思決定の主体が明確になったこと自体」が、国際社会にとって重要だ、という判断です。
世界史的に見れば、これは極めて理解しやすい反応です。
国際社会において最も嫌われるのは、理念の違いよりも、誰が責任を持つのか分からない状態、すなわち政治的空白や統治不能の兆候だからです。
その意味で、連立政権の発足は、日本が「当面は予測可能な国家であり続ける」というシグナルを世界に送った、と解釈されています。
しかし同時に、国際メディアは決して楽観一色ではありません。
『The Diplomat』や中国・東アジア情勢を扱う分析系メディアでは、この連立が本質的に不安定な構造を内包していることも、はっきりと指摘されています。
その最大の理由は、連立相手である日本維新の会が、閣僚を出さない「閣外協力」という立場にとどまっていること、政策合意が包括的ではなく、テーマごとに限定的であることにあります。
つまり、連立は成立しているものの、政権運営の責任を完全に共有しているわけではないのです。
この点は、国内政治として見ると「柔軟な協力関係」とも言えますが、国際政治、とりわけ外交・安全保障の観点から見ると、重大な意味を持ちます。
なぜなら、外交や安全保障は、突発的な危機――たとえば周辺国との緊張、軍事的衝突、経済制裁――に対して、迅速かつ一貫した意思決定が求められる分野だからです。
海外の分析では、「政策の優先順位をめぐって自民と維新の見解が分かれた場合、連立はどこまで踏みとどまれるのか」「安全保障や憲法、対中・対米政策で意見のズレが表面化したとき、政権の統一性は保たれるのか」といった疑問が、繰り返し提起されています。
これは日本を批判するというより、連立政権という制度そのものが持つ宿命的な課題を確認しているに過ぎません。
漱石:
それはまさに、世界史の流れの中に位置づけて理解すべき現象ですね。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ列強が複雑な同盟や協商を結びながら勢力均衡を保とうとした時代を思い起こします。
当時も、国家は単独で行動することが難しくなり、複数の意思と利害を調整しながら統治を行う必要に迫られていました。
現代の民主国家における「連立政権」も、その意味ではよく似ています。
一つの政党、一つの思想だけで社会全体を統合することが難しくなった結果、異なる価値観や支持層を持つ勢力が、完全な一致ではなく、妥協と調整によって共存する。それが連立という政治形態の本質でしょう。
この形態が常に抱えるのが、安定性と脆弱性が同時に存在するという矛盾です。
協力することで一時的な安定は得られるが、利害が衝突した瞬間、その基盤は揺らぎやすい。これは日本に限らず、ドイツ、イタリア、イスラエルなど、多くの民主国家が歴史的に経験してきた普遍的な問題です。
つまり、現在の日本政治は、「特殊な例外」なのではなく、成熟した民主社会が必然的に直面する段階に差しかかっている、とも言えるでしょう。その意味で、高市政権とこの連立体制は、日本国内の問題であると同時に、世界史的に見ても決して珍しくない、人類共通の政治的試行錯誤の一局面なのです。
市井の生活から考える政治――孤独と連帯のあいだで
漱石:
先生、ここで少し視点を下げて、「市井の人々」の声に耳を澄ませてみましょう。
政治を語るとき、どうしても私たちは理念や制度、政党間の力学といった抽象的な話に引き寄せられがちですが、実際に政治の影響を最も直接に受けるのは、名もなき日常を生きる人々です。
ニュースや世論調査、とりわけFNNプライムオンラインなどが伝える街頭の声や意識調査を見ますと、人々が最も強く反応しているのは、憲法論争や外交戦略よりも、物価高にどう対応するのか、今の暮らしが本当に楽になるのかという、極めて切実な問題であることが分かります。
たとえば、
・スーパーでの食品価格が一年前と比べてどれほど上がったのか
・電気代やガス代の請求書を見て、ため息をつく回数が増えたのではないか
・将来、年金だけで生活できるのか、それとも働き続けなければならないのか
こうした問いは、演説会場では語られにくいものの、夕食の食卓や家計簿の前で、静かに繰り返されている現実の政治問題です。
ここから読み取れるのは、極めて単純で、しかし見落とされがちな事実です。すなわち、政治は決して自分の生活から切り離された遠い世界の出来事ではないということです。
法律や予算、税制や社会保障は、形を変えて、必ず人々の生活の細部に染み込んできます。人は選挙の時だけ政治を意識するのではなく、実は毎日の買い物や通勤、老後への不安を通じて、無意識のうちに政治と向き合っているのです。
私が小説で描いてきた「市井の人間」とは、大義名分を振りかざす英雄ではなく、日々の不安を抱えながらも、なんとか折り合いをつけて生きる存在でした。その人々が政治に期待するのも、理想の国家像ではなく、明日の生活が今日より少しでも見通せるようになることなのだと思われます。
福沢:
まったく同感であります。
私が明治の初めに『学問のすすめ』を通じて人々に伝えようとしたのも、学問とは机上の知識を誇るためのものではなく、自分の生活を理解し、社会の仕組みを見抜き、主体的に関わるための道具だという考えでした。
人は、政治を「偉い人たちの権力争い」として遠ざけてしまうと、知らぬ間に自分の生活の重要な決定を他人に委ねることになります。
税の負担、教育の方向性、働き方の制度、老後の保障――これらはすべて、政治を通じて決まるにもかかわらず、無関心であればあるほど、選択の余地は狭まっていきます。
だから私は、政治を単なる権力闘争として見るのではなく、市民一人ひとりが、自分の人生と将来をどう形づくるかという共同作業として捉えるべきだと考えました。
それは特別な思想を持つことを意味するのではありません。自分の暮らしと社会の制度がどう結びついているのかを知り、疑問を持ち、考え、必要であれば声を上げる――
その姿勢そのものが、市民としての成熟なのです。
この価値は、明治の日本においても、現代の日本においても、本質的には変わっておりません。時代が変わり、政治の形が変わっても、生活に根ざした関心から政治を考えることこそが、社会を健全に保つ最も確かな道であると、私は今も確信しています。

漱石:
ここまでの議論を振り返りますと、今日の政治を通じて、私たちは単に政権の是非や政策の成否を論じているのではない、ということが次第にはっきりしてまいります。
むしろ、政治というものを媒介として、人間が社会の中でどのように生きる存在なのか、その根本を問い直しているのではないでしょうか。
私が小説を書く中で、繰り返し描こうとした主題は、人間は本質的に孤独でありながら、同時に他者とのつながりを求めずにはいられない、という矛盾した存在だという点でした。
『こころ』においても、『それから』や『門』においても、人は自分の内面だけを見つめていると孤立し、しかし社会や他人と関わろうとすると、摩擦や誤解、葛藤を避けられない姿が描かれています。
社会における連立という政治の形も、まさにこの人間的条件をそのまま映し出しています。連立とは、異なる考え、異なる立場、異なる支持基盤を持つ主体が、「完全な一致」ではなく、「妥協と調整」によって一つの方向を目指す試みです。
そこには、理想的な調和も、絶対的な正解もありません。必ず不満が残り、誰かが我慢し、どこかに歪みが生じます。
しかし、それでも連立が選ばれるのは、人は孤立したままでは社会を運営できないからです。一人で生きることと、共に生きることの間で揺れる人間の姿が、政治の制度として表れたもの――それが連立なのだと、私は考えています。
重要なのは、連立が「不完全だから失敗だ」と短絡的に結論づけるのではなく、不完全であることを前提に、どう折り合いをつけ続けるのかという態度です。それは政治に限らず、人間関係、職場、家庭、地域社会においても共通する、生の問題ではないでしょうか。
福沢:
そのご指摘を受けて申しますと、私が生涯にわたり説いてきた「独立自尊」という考えも、決して孤高の個人主義を意味するものではありません。
独立とは、国家や社会から切り離されて一人で生きることではなく、制度や環境の中に身を置きながらも、思考と判断を他人任せにしないことです。
自尊とは、他者を見下すことではなく、自らの判断と行動に責任を持つ覚悟を指しています。
この意味において、「独立自尊」は、他者と共に生きる社会を前提とした思想です。人は一人では教育も、経済も、安全も成り立たせることができません。
だからこそ、公共の制度をどう作り、どう運営するのかに、市民一人ひとりが関心を持ち、関与する必要があるのです。
政治とは、そのための公共的な舞台にほかなりません。政治家だけが主役なのではなく、選び、評価し、ときに批判する市民もまた、不可欠な登場人物です。社会の重要な選択を「誰かがうまくやってくれるだろう」と他人任せにすれば、結果として、自分の人生の一部を他人に委ねることになります。
だからこそ、自ら考え、判断し、選挙や言論を通じて参加し、異なる意見とも対話を続けることが重要なのです。それは声高な主張を意味しません。情報を学び、他者の立場を理解し、自分なりの結論を持ち続けるという、静かで持続的な態度こそが、成熟した市民社会を支えます。
漱石:
結局のところ、政治とは、「正しい答えを一度出して終わり」というものではなく、人間が孤独と連帯のあいだで揺れながら、よりましな選択を繰り返し模索し続ける過程なのかもしれません。
その過程に無関心でいることは楽ですが、それは同時に、自分の生き方の一部を放棄することでもあります。政治に関わるという行為は、自分がどのような社会で、どのような他者と、どのように生きたいのかを問い続ける行為なのだと、私はそう考えています。