そういちコラム

数百文字~3000文字で森羅万象を語る。挿絵も描いてます。世界史ブログ「そういち総研」もお願いします。

数千年の進歩の速度を可視化するグラフ

つい先日、noteに新しい記事を投稿しました。過去数千年にわたる、各年代の「世界で最も大きな(最大級の)都市の人口規模」を片対数の目盛りに落としたグラフについて。「最大級の都市の変遷グラフ」と名づけました。

この記事は、私にとっては「20年かけて書いた」ともいえる、とくに重要なものです。ぜひお読みいただければ。

グラフはつぎのようなものです。ここには、メソポタミア文明のウルク、バビロン、ローマ、唐の長安、バグダード、ロンドン、ニューヨーク等々の、各時代を代表する歴史的な都市のデータが落とし込まれています。詳しい説明は、リンクのnote記事をご覧ください。

最大級の都市の変遷グラフ ©Soichiro Akita 2025

なぜこのようなグラフを描いたのか。「世界史において、進歩・変化の速度が時代によってどのような変遷をたどったか」を可視化するためです。グラフは、さまざまな変化の過程を可視化するための代表的な表現方法です。

「世界史の各時代において、進歩や変化の速度がどうだったか」ということは、世界史の概説や入門的な話のなかでは、めったに取り上げられません。しかし、本来は重要な事柄だと思っています。

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このグラフは、つぎの前提に立っています。

・最大級の都市の人口規模は、その時代の技術や社会運営の能力によって制約を受けている。

・そこで、最大級の都市の規模が急速に大きくなっている時期(グラフは急勾配の右肩上がり)は、技術革新が盛んな時期であり、規模拡大が停滞していれば(グラフの傾きはゆるやか、または平坦)、それは技術革新などの停滞を示している。

・つまり、各時代を代表する最大級の都市の規模は、その時代の文明が到達した技術や生産力の総合的な水準を示している。

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「進歩・変化の推移を示す数量的指標であれば、世界の人口やGDPの数千年の移り変わりをたどればいいのでは」と思う人もいるかもしれません。

しかし、世界の人口やGDPを数千年間にわたってたどることのできる、信頼のおけるデータは存在しません。

その手の数値を述べた文献もありますが、それはきわめて強引な推定を重ねたものです。それで数千年を追いかけても、その数値を算出した人の世界史像をなぞるだけになります。つまり客観性におおいに問題がある。

しかし、各時代の最大級の都市ならば、大ざっぱではありますが、それなりの客観的な推定が可能なのです。紀元前の都市であっても、遺跡調査から面積や建造物の状況などがわかるので、そこからある程度人口を推定できたりする。

私は、いろんな専門家・歴史家の本から、さまざまな時代の都市についての情報を拾って、このグラフを描きました。

そして、このような「最大級の都市の変遷」グラフを描くと、世界史についての一般的なイメ―ジとは異なるストーリーが浮かび上がってきます。

よくあるイメージは「古代・中世は進歩がゆっくりで、近代になって加速し、近年はさらに加速」というものでしょう。グラフ的に描けば、つぎのような感じ。

しかし、それはちがうのではないか、じつは、世界はこの数千年で数百年単位の長期的な加速と減速をくり返してきたのではないか。グラフ的に描けば、つぎのような階段状の発展、あるいは複数のS字曲線がつながったイメージです。

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以上のような考え方に基づくグラフを描くことや関連する世界史についての議論を、私は20年ほど前から続けていて、長文のレポート(グラフ含む)を私的な研究会で発表したり、以前にやっていたブログに記事をアップしたりしてきました。

世界史における加速・減速という視点であれば、1990年代末からのテーマで、2000年代初頭にやはり長文のレポートを書いて、仲間内で発表しています。

しかし、どれもいろいろと至らない点があって、読んだ人から思わしい反応を得るのはむずかしかったです。読んでもらうこと自体、むずかしかった(ありがたい例外もありましたが)。

ただし、このような「加速と減速の世界史」を追究するなかで、スピンアウト的に、私の著書(秋田総一郎『一気に流れがわかる世界史』PHP文庫)も生まれたのでした。

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今回は、長年のテーマを、かなりの手ごたえでまとめることができたと思っています。この記事を書くために、背景的なことも含め、相当な時間をかけてきました。

そして、日本語の文献しか知りませんが、私のような問題意識や考え方に基づいて、この記事のようなグラフや議論を打ち出している人は、どうも見当たらない……少なくとも私くらいに熱心に追及している人は見当たらないようだ……

そう言うと、素人・アマチュアの思い込みや誇大妄想と思われそうです。まあ、アマチュアによる世界史の大風呂敷な議論の「これはちょっと…」という感じのものを私もみてきましたので、そう思われても仕方ないとも思います。

でも、それなりにこのテーマについて調べたり考えたりしてきたので、「思い込み」でもないのでは、という自信もあります。

この記事は、世界史や歴史が好きだという人にかぎらず、むしろ理系の方にとってのほうが読みやすいところもあるかもしれません。

2万文字余りの非常に長い記事ですが、最初の数千文字(全体の3分の1)でだいたいの内容はわかります。

正月に読書したいという方、その読書の予定に、この記事もぜひ加えていただければ。世界史についての新しい見方を提供できると自負しています。

私は、やはりこういう大風呂敷な世界史の話が一番好きですね。自分の「本業」だと思います。取り組んでいると、幸せとワクワクを確かに感じます。来年(2026年)はもっとこのテーマに時間を割きたいと思っております。

(以上)

優等生的な発想の限界・今回の自民党総裁選挙

新しい自民党総裁に高市さんが決まりました。マスコミの予想は、だいたい外れました。私も、外れました。

最近、重要な選挙で、マスコミの予想・見立てが外れることが増えていると思います。

たとえば都知事選における石丸旋風、兵庫県知事の出直し選挙などはそうでした。先のアメリカ大統領選挙のトランプ氏の圧勝についても、同じことがいえるでしょう。

優等生の正統派知識人が理解しにくい動きが、今の政治にはあるということです。

もう少しいえば、優等生の知識人が普段接しない、社会的に距離のある人たちの考えを、これまで以上に読めなくなっているということです。それは「社会の分断」ということの一側面です。

ここで「優等生」というのは、「社会のなかで権威や正統性が認められた知識や価値観を高いレベルで習得し、使いこなせる人」という意味で使っています。

そういう人たちは、当然ながら社会の中枢に多くいます。大手のマスコミで働く人たちの主流も、上記の意味での優等生にあたります。

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そこで、マスコミ人に今必要なのは「自分たちは優等生である」ということを率直に認め、自身のなかの「優等生の限界、認識のバイアス」に真剣に向き合うことではないでしょうか。そうでないと、今の社会の動きは理解できないのではないか。

あたり前のことを言っているようですが、これは簡単ではないはずです。

「自分たちは優等生だ(それゆえの限界を有している)」と認めることは、マスコミ人にとっては心理的なハードルがかなりあるでしょう。

たとえば、大手新聞の記者の方に「あなたは優等生ですね」と言ったら、きっと不快に思うはずです。「私はそんなんじゃない」というわけです。

私自身にも、大手マスコミ人のような優秀さには遠く及びませんが、似たような「優等生」の部分があります(今はダメな感じのおじさんですが、子どもの頃は成績も良く、学級委員とかよくやっていました)。だから、その気持ち(心理的ハードル)がなんとなくわかる。

要するに、優等生であると自分で認めることは、優等生的な発想(つまり品行方正な価値観)では恥ずべきことなのです。

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さて、大方の優等生たちの予想に反し、選挙に勝利した高市さんは、どういう人なのか。

その最大の特徴は、女性であること以外では、庶民の出身であることです。彼女は、普通のサラリーマン家庭の出身です。もちろん世襲とは無縁。

そして、タレント・クリエイター・実業家・スポーツ選手などとして成功した経歴もない(テレビなどに出演したことはあっても、成功したとはいえない)。その意味でも「庶民出身」といえるかもしれません。

そういう女性政治家が、ここまでのぼり詰めたのは、歴史の新しい展開を示すものだと思います。

しかし一方で、庶民出身の、他分野での成功者でもない女性が、ここまで来るためには権力の中枢にいる「昭和的な保守のおじさん」の価値観に寄っていかねばならなかった。おじさんたちに忠誠心を認めてもらい、その人たちの後押しをおおいに得る必要があったわけです。それは男性でも大変なことですが、さらに大変だったでしょう。

その方向性を選ぶことなく、多くの「優等生」的な発想で「中道」「リベラル」の立ち位置を選んでいたら(たとえば蓮舫さんのように)、ここまでの政治的成功はなかったはずです。

高市さんは、総裁選のあとに「ワークライフバランスを捨てて頑張る」という、昭和のおじさんでも最近は公には言わないようなことを述べていました。

そこには、これまでの彼女の女性政治家としての苦闘(手強いおじさんに認められるための必死の戦い)がにじみ出ていると感じます。これまで積み重ねてきた「過剰適応(おじさんの価値観に対する)」のあらわれであるともいえる。

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日本初の女性総理が誕生するとしたら、たしかに歴史の前進です。

でも、その女性総理候補は昭和のおじさんのようなことを(今回のワークライフバランスのことにかぎらず)常々言っている。中高年男性の多い自民党員や国会議員の多くも、そんな彼女を選んだ。そこには、麻生さんという昭和的な長老政治家の後押しも、強く作用した。

歴史というのは、単純にわかりやすく前進するわけではないということです。また同時に、単純に古い価値観への反動が起こっているというわけでもない。

新しいことと古いことがごっちゃになって化学反応をおこしながら展開しているといったらいいでしょうか。

優等生的な発想に凝り固まると、そういう「わけのわからない」感じがなかなかのみこめないのではないか。自戒をこめて、そんなふうに最近とくに思います。

それにしても、津田梅子や平塚らいてうや市川房枝や土井たか子が、今の状況をみたら、感銘を受けるとともにいろんな意味で驚くだろうなあ。

 

 

「あの戦争」を考えるための当ブログの記事まとめ

私は、このブログで戦争や平和について考えるための記事を、かなり書いてきました。

私そういちは、歴史関連をおもなテーマとする(ほかの仕事と兼業の)売れない物書きで、世界史を概説した商業出版の著書もあります(『一気に流れがわかる世界史』PHP文庫)。

私が得意とするのは、歴史についての基礎知識を、初心者にもわかりやすいかたちで要約して述べることです。あの戦争――第二次世界大戦や太平洋戦争についても、このブログなどで、その得意とするアプローチで取り組んできました。

ただし、「やかりやすく」といっても、「教科書にない歴史」的な、一般向けの歴史読みものに時々みられるある種の傾向に対しては、はっきりと背を向けてきました。

私が書いているのは、教科書的な知識を補完し、さらに整理・再構成することで、読者の視野や関心を広げることをめざしたもの。

書くためのおもな材料は、教科書的な知識と、そのベースである専門家・歴史家による著書(概説書・専門書の両方を含む)です。

近年のネット上にある記事のなかには、「教科書」を憎悪しているものがかなりあります。その憎悪は、教科書を教える先生、優等生、さらに教科書的知識の源泉である権威ある知識人への嫌悪や反発心といってもいいでしょう。

「教科書にある歴史なんてみんなウソ」という「歴史家」が、今のネット上には、かなりいます。そういう人たちによる記事が、結構な「いいね」を集めていたりする。

「あの虐殺はなかった」「あの戦争は侵略ではなかった」といった記事は、歴史系のネット記事のなかでは、「いいね」を集めやすいです。

多くの「いいね」があれば、書き手はますますその方向へのめり込み、そのような書き手の新規参入は増えていく。

教科書をうのみしないで、疑ってみること自体は、主体的に考えるうえで大事なことだと私も思います。

しかし、その「疑い」が、憎悪につよく後押しされて、どんどんあらぬ方向にいってしまうことがあります。世の中では、そういう傾向が強くなっている。

教科書や教師に反発し、権威に抵抗するうちに、「地球はほんとうは平面である」という「真理」にたどりつく人もいるのです。歴史認識でも、「地球平面説」的なトンデモな方向に惹かれる人はいるし、その数は増えている。

私はおおいに心配しています。

歴史に対し、いろんな解釈や捉え方があるのは、当然です。しかし、「見たいものしかみない」ばかりになってはならないはず。

多くの人のあいだで共有できる、最低ラインや基盤といえるような認識を、なんとか明確にできないものか、と思います。

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前置きが長くなってしまいました。私が書いた、このブログとnoteにおける、戦争を考える記事を紹介します。ここでは太平洋戦争や第二次世界大戦についての記事をとりあげます。

1.まず、第二次世界大戦の犠牲者数(全体・国別)を総括した記事。

この大戦の全世界での犠牲者は、推定の仕方によって違いがありますが、控えめな推定で5000数百万人、最近主流の、犠牲者をより広くとった推定では7000~8000万人にのぼります。

 

2.アメリカとの戦争を始めた当時、アメリカのGDPは日本の12倍、粗鋼生産量も12倍、自動車保有台数は161倍、原油生産量は500数十倍……やはり、どうみても無謀な戦争でした。そのような基本的前提を確認・整理しています。

 

3.「太平洋戦争」「第二次世界大戦」「大東亜戦争」「アジア・太平洋戦争」「十五年戦争」など、「あの戦争」に関わるさまざまな名称を取り上げ、解説した記事。

政治的立場や歴史観によって「あの戦争をどう呼ぶか」はちがいます。戦争の名称のような基本的なことでさえ、共通の基盤を確立することは難しい。でも、なんとかしたいものです。

 

4.太平洋戦争による破壊によって、多くの人命が失われるとともに、ばく大なインフラや資本・資産が破壊されました。それによって、過酷な格差社会だった戦前日本の支配階級や富裕層も大きなダメージを受け、多くが没落していきました。

そこで「戦争という巨大な破壊が平等化をもたらした」ともいえます。もちろん、「だから戦争には良いところもあった」などというのではありません。「それだけすさまじい破壊があった」ということを伝えたくて書いた記事です。

 

5.戦前の社会のひとつの側面について述べた記事。昭和の戦前期において、エリート軍人は、じつは安月給にあえぐ貧乏サラリーマンでした。しかし、「そこで社会に不満を抱き、軍国主義や戦争による変革をめざした」というのは短絡的すぎる説明です。ただし、軍の一部が主導した暴走を多くの軍人が許容したことと「エリート軍人の低待遇」は、やはり関係があるのではないか。

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6.昭和の日本はなぜ戦争へと突き進んでいったのか?

これについては、「①満州事変や、その展開といえる日中戦争へとつながった社会的要因」 という視点と、「②日中戦争の泥沼化から、その事態を打開しようとする動きの結果、アメリカとの戦争に突入していった過程」という2つの視点でみる必要があります。

①の「社会的要因」に関しては、つぎのような説明ができると、私は考えています。
「戦前昭和の日本は、激しい格差社会であった。格差・貧困などの社会問題の解決手段として、“満州・中国を支配して土地や資源を手に入れることで国を富裕にする”という選択肢が力を持つようになり、日本を戦争へと導く要因となった」

以下は、その視点について簡単に説明した記事です。

7.上記は短い記事ですが、「戦前の格差社会と戦争」というテーマについて、さまざまな側面から論じた長文(2万数千文字)の記事も、noteにアップしています。戦前の昭和社会と戦争の関係について、かなり深く知ることのできる記事だと自負しています。

 

8.上記で述べた、①満州事変→日中戦争の開始 ②日中戦争の泥沼化→日米開戦 という一連の経緯についてまとめたnoteの記事もあります。全2回合計で3万文字余りの長文ですが、初心者にも読みやすいように書かれていると自負しています。

日米開戦に至った決定的局面にとくに関心のある方は、第2回のほうから読んでいただいてもよいでしょう。

第1回 満州事変→日中戦争の開始

第2回 日中戦争の泥沼化→日米開戦

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9.こちらの記事は、さまざまな戦争の終結過程について論じた千々和泰明さんの著書から、とくに太平洋戦争の終結過程(ポツダム宣言の受託)について論じた部分を取り上げたもの。

そして、「ポツダム宣言の受託に至った要因として、広島・長崎への原爆投下よりも、ソ連の対日参戦のほうがより重要だった」という、近年の歴史研究に基づいた同書の見解について紹介しています。つまり、当時の日本のリーダーたちは「ソ連の仲介によってアメリカと条件の良い講和を結ぶ」という、今からみれば「幻想」でしかないプランに期待をかけていたというのです。

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10.ヨーロッパにおける第二次世界大戦については、私たち日本人は限られたことしか知らないのがふつうです。しかし、現代世界を理解するうえでは、ぜひもっと知っておくといいと思います。

そして、とくに重要なのが独ソ戦(ナチス・ドイツとソ連の戦争)です。独ソ戦は、アジアも含めた第二次世界大戦全体のなかで最大の戦いがくり広げられた「主戦場」です。以下の記事は、独ソ戦について解説した大木毅さんの著書を紹介しながら、この戦いについての基礎的な知識や視点について述べています。

 

11.また、noteでは全7回で、ヨーロッパにおける第二次世界大戦の経緯をまとめた記事もアップしています。

ヒトラーの登場、ナチス・ドイツによる近隣諸国の併合、ドイツのポーランド侵攻による第二次世界大戦の開始、ドイツによるフランス侵攻、ドイツとイギリスの戦い、第二次世界大戦の「主戦場」といえる独ソ戦の開始と展開、ホロコースト……

それらの基本的な経緯について、教科書的な知識をベースに、専門家による著書に基づいて解説を加えた記事。

全7回で合計6万数千文字になる長文の記事ですが、本1冊(10~20万文字が一般的)を読むよりはかなりコンパクトです。この記事から、第二次世界大戦を扱ったより詳しい著書、映像作品などを理解するうえで有効な基礎知識が得られるはずです。

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12.このほか、アンネ・フランクについて取り上げた記事。彼女の「日記」につぎの一節があります。

戦争の責任は、偉い人たちや政治家、資本家にだけにあるのではありません。名もない一般の人たちにもあるのです。

この言葉から、アンネについての基礎知識を述べつつ、戦争を考える記事。

 

13.最後に、小松左京のデビュー作『地には平和を』についての記事。

この作品はSFの中編(長めの短編小説)で、「歴史改変もの」の古典です。日本が1945年8月に降伏することなく、本土決戦となったパラレルワールド。そこでくり広げられる出来事を、1人の少年兵を主人公に描いています。フィクションですが、初心者が戦争について生き生きとイメージするひとつの手がかりとして、つまり「戦争入門」としてすぐれた作品だと、私は考えています。

以上、どれかひとつでも目を通していただければ、たいへんうれしいです。

「基本的人権」のことを忘れない

参議院選挙が近くなってきました。私は投票に行くつもりです。みなさんにも「選挙に行こう」とおすすめしたいです。

ただ、選挙に行くとしても「基本的人権のことを忘れないで欲しい」と願っています。今回はとくに。

基本的人権とは、要するに、命や財産の安全や、行動や発言の自由が守られるということ。

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幅広い事柄をカバーした基本的人権が、社会の構成員全員に対し保障されていること。

そして、誰が保障の対象であるか、つまり「誰が国民・市民として守られるか」について、権力の側が恣意的に決めることができない(政府に対し、いろいろな強い縛りがある)。

この大原則を、当然の守るべき前提としている政党や候補者であることが、投票に値する最低条件だと、私は思っています。

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もしも、ある政治家・候補者が「人権」を声高に主張していなかったとしても、憲法による権力への縛りを確かに感じており、窮屈ではあってもそれを無視することは「やってはいけない」という前提に立っていれば、一応は「最低条件」を満たしているでしょう。

しかし、「窮屈な憲法の縛りなど、壊してしまおう」と考えているなら、とんでもないことです。

でも、最近は、支持する政治家に縛りのない権力を与えるのは望ましいことだと考える人も増えているようです。

その政治家が圧倒的な力で自分の支持する政策を断行し、自分の気に入らない誰かを「退治」「排除」してくれることを望んでいるわけです。

そういう考えが一部で力を持つようになっていますが、恐ろしいことだと思います。

「縛りのない強い権力」は、強大な怪獣を鎖から解き放つようなもの。怪獣は、自分の「敵」を食べてくれるかもしれません。しかし、自分だっていつ怪獣に襲われるか、わからないのでは?

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政策についての公約の前に、前提として「基本的人権」について、その政党や候補者がどう考えているか。

そのことを忘れないようにしたい。そのうえで、政党や候補者の政策面での主張について考えたい。

「人権は大事」なんて、選挙のまえにそんなことを確認しないといけない状況が来るなんて、以前は思っていませんでした……

ほんとうは、大事な政策的課題が山積しているわけですが。

そして、ここで書いたようなことを「古臭い教師の説教」のように感じて嫌悪する人が相当数いることも事実。

でも、私としては自分にも言い聞かせておきたいと思って、書いております。

民主主義の優位を主張する「歴史の終わり」論は、まちがっていたのか?

ソ連などの社会主義体制が崩壊した「冷戦終結」の頃(1990年代初頭)のこと。西欧やアメリカの体制を典型とする「リベラルな民主主義」の優位性を主張する「歴史の終わり」論が、話題になったことがあります。

フランシス・フクヤマ(1952~)というアメリカの思想家が打ち出したもので、簡単にいうと、つぎのような主張です。

リベラルな民主主義こそが究極の政治体制であり、ほかの体制はそれよりも不完全で重大な欠陥があったことが、冷戦終結で明らかになった。なにしろ、共産主義というリベラルな民主主義の最大の強敵が敗北したのだから。

これはイデオロギーの進歩の歴史において、重要なコンセンサス(最終的な答え)が成立したということで、「歴史の終わり」と呼びうるものだ……

なお、フクヤマのいう「歴史」とは、「歴史における原理的な進歩」のことです。それが「終わり」をむかえるからといって、もう大事件が起きないとか、社会問題が全部解決されたなどど言っているのではありません。

また、よく勘違いされるのですが、「歴史の終わり」論は、「今後はアメリカが世界を圧倒的に支配し続ける」ことをうたった勝利宣言ではありません。あくまで、リベラルな民主主義の制度としての優位性について述べているのです。

これは、フクヤマの主著『歴史の終わり』(原著1992年、翻訳は三笠書房刊)をきちんと読めばわかるはずですが、同書の主張については「本が読まれないまま語られる」ことが多いです。

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そして、この「歴史の終わり」論は、今は評判が悪いです。知識人が取り上げるときも「そういうのがあったけど、まちがっていた」と一蹴されることが多い。

でも、私は「歴史の終わり」論は、基本的にはまちがっていなかったと、今も思います。

たしかに、今の世界では「民主主義の危機・後退」ということが、現実に起こっています。

なにしろ、民主主義の総本山だと思っていたアメリカがああいう状態です。大統領が選挙や司法などの民主主義を支える制度、言論や学問の自由を公然と攻撃したりしている。そして、それを支持する多くのアメリカ国民がいる。

そして、民主主義と鋭く対立する独裁体制(権威主義体制ともいわれる)の中国が超大国として世界に大きな影響をおよぼしている。同じく独裁体制のロシアも、中国ほどの力はないとしても、現在の国際秩序に対する重大な脅威となっている。

でも、その影響力が強くなっているとしても、中国やロシアの体制が、国家の政治体制として「望ましい・あるべき姿」と思っている人は、どれだけいるのでしょうか? 外国からみればもちろんのこと、中国やロシアの内部でもどうなのか? 

中国やロシアの権力者・富裕層のあいだでは、自分の子供を欧米に留学させることは一般的ですし、留学後は欧米に永住することもあるわけです。また、資産の重要な部分が欧米にあったりもする。

おそらく、中国やロシアの権力者の多くは(狂信的な例外はあるにせよ)、本音では「自国の体制が正しいものだ」とは思っていないのです。

また、欧米や日本などの先進国で「民主主義」に批判的な人たちもいます。今の体制のもとでの社会の問題と民主主義を結び付けて批判するわけです。

でも、民主主義がそんなに気にいらないなら、結局「独裁」しかない(個人による独裁もあれば、政党や軍などの集団による独裁もある)はずですが、そこは明確には言わないのです。それは結局「民主主義にかわる、説得力のある体制の構想」を示すことができないということ。

それはそうでしょう。民主主義以外に、今や何があるというのか? たとえ民主主義にいろんな問題や欠陥があるとしてもです。

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結局、私たちはリベラルな民主主義、つまり自由主義・民主主義・資本主義といった基本要素がセットとなった体制を、いろいろ調整しながらやっていくしかないのだと思います。

近代の歴史をみわたすかぎり、リベラルな民主主義に反発・抵抗する、王政などの旧体制の復活、ファシズム、共産主義などの試みは、一時勢いがあったとしても全部失敗しました。今の中国もずっとこのままで行けるとは、私には到底思えません。数十年のうちに何らかの動揺や激変があると、私はみています。

安定した政治体制(リベラルな民主主義)のもとで暮らす私たち先進国の人間は、海外の独裁国家についても、その体制がそれなりに(問題を抱えながらも)保たれている様子をみていると、ばくぜんとこの体制がずっと続くと思ってしまいます。自分たちの社会のような「安定」が、自分たちとは異質な社会においても成立すると、つい考えてしまう。

1970~80年代のにおける、ソ連に対する西側の見方も、まさにそうでした。

その当時(70~80年代)の、21世紀やさらにその先の未来世界を描いたSF作品をみても、その未来において、大抵はソ連はずっと続いていることになっています(私は子ども時代にそういう作品にいろいろ触れてきました)。まさか10年先にソ連が崩壊するなんて、1980年頃の人たちは、ソ連に批判的な識者も含め、まず考えていませんでした。

だから、中国やロシアの今も体制も「今はともかく(いつかはわからないけど)そのうちどうなるかわからない」という目線で見続けることは大事だと思います。

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将来において中国やロシアの権威主義体制が衰退・崩壊したらどうなるか?

あるいは、アメリカにおけるトランプ的な政治が「結局、ダメだった」ということが明らかになるときが来たら? それはおそらく、さんざんいろんな混乱や問題をひきおこし、深い傷あとを残した末のことになると思いますが。

そんな「シン冷戦終結」があれば、リベラルな民主主義の優位が再確認されることになるでしょう。「歴史の終わり」的なことをいう識者が、またいろいろあらわれるのです。

そのなかには、今現在「“歴史の終わり“なんて、まちがいだったね」と言っている「識者」も含まれるでしょう。

ただし、「リベラルな民主主義の優位に関するコンセンサス」が再確認されたところで、格差などの社会問題や、世界の環境や安全保障の問題などが一挙に解決されるわけもありません。

だから、「現体制の基本原理」「正統とされる価値観」である「リベラルな民主主義」への批判や反発も続いていくのです。そして、情勢しだいで、また強大な権威主義国家があらわれたり(一番考えられるのは、中国がまた権威主義に戻ること)、「新しいトランプ」といえるような有力な政治家が、欧米などの先進国にあらわれたりするわけです。

このような、「リベラルな民主主義」が「正統」とされながらも、絶えずそれに反発する勢力から批判や挑戦を受け続ける状態が、これから100年200年は続くと、私は思っています。

そういう、すっきりしない、混沌とした状況が「歴史の終わり」の正体なのではないか。

今、私は20代や30代の頃に熱心に読んだフクヤマの『歴史の終わり』を読みかえしているのですが、以上のようなことを考えています。この問題については、今後も考えていきます。

 

 

アメリカの鎖国を描いた「マンハッタンの黒船」という1970年代のマンガ

諸星大二郎のマンガで「マンハッタンの黒船」という短編があります。1978年に『別冊少年ジャンプ』に掲載された作品。

198X年に、アメリカ合衆国は鎖国を断行。その99年後に縁井(へりい)提督率いる日本の黒船(巨大な原子力艦)がマンハッタンに来航して開国を迫る。鎖国下のアメリカは、謎の「永世大統領」が支配している。

このマンガは、つぎの説明で始まります。

《アメリカが
鎖国を断行したのは
一九八X年のことである。

その原因については
ドル防衛、貿易規制、 不況への国家対策…など
いろいろ言われてはきたが
決定的要因は
歴史学者の間でも
一致をみない》

《とにかくアメリカは
その最盛期の状態で
太平の眠りに入ったのである。
それと同時に国外には
ミスター・プレジデント
としてしか知られていない
大統領が、永世就任した。(以下略)》

そして、物語の冒頭では、マンハッタンに入港しようとする日本の「黒船」の側に「不自由の女神」という、「自由の女神」を改造したような大きな像が建っている様子が描かれる。

また、物語がすすむなかで、「永世大統領」による、こんなセリフも出てきます。

《…人民の人民による
人民のための鎖国だ》

ストーリーのなかで説明されますが(ネタバレにならないよう、抽象的にしかいいませんが)「鎖国」は独裁者が押し付けたものではなく、基本的には民意に基づくものでした。

***

私はこのマンガをほぼリアルタイムで(高校生だった1980年代前半に)読んでいますが、そのときにはもちろん「荒唐無稽な冗談の世界」だと受けとめました。でも、諸星大二郎の不思議な世界に引き込まれ、印象に残るマンガだったことも確か。

この作品の発表から40数年が経ちましたが、今や「あり得ない」と思っていた世界が、マンガの空想のまま実現したわけではないけど、ある種のリアリティを感じさせるようになっています。

ご存じのように、今のアメリカ政府は、多国間の枠組みに背を向けたり、異常な関税を設定しようとしたり、一部の移民を非人道的なかたちで国外退去させたり、あるいは自国の名門大学の留学生を追放しようとしたりしているわけです。

これらの動きを一言で集約するなら「鎖国」的な動きといえるでしょう。

そして、この方向性は、相当な民意に基づいている。

さらに、今の大統領が、現行の合衆国憲法で禁止されている「3期」を目指している可能性もやはり否定できない(大統領はあとで否定はしているが、3期目に前向きな関心を示したことはあった)。つまり「永世」ではないけど、「終身大統領」を志向している可能性がある、ということです。

今のアメリカは、「自由の女神」じゃなくて、ほんとうに「不自由の女神」が似合うようになりつつあります。今の方向性がさらに進めば、たしかにそうなる。

「マンハッタンの黒船」を、こんなかたちで語るときが来るとは。

そして、当時はまだ若かった諸星大二郎という大マンガ家のイマジネーションのすごさにも、あらためて感心します。

また、1970年代の「少年ジャンプ(別冊)」で、こういう社会的・歴史的な視点を含んだ、相当に尖った内容のマンガが掲載されているのも、なかなかすごいと思います(もっとも、このマンガのすごさが当時どれだけ理解されていたかは、わかりませんが)。

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なお、「アメリカの鎖国」をモチーフとしたものとしては、小松左京の短編「アメリカの壁」 もあります。こちらは1977年の作品で「マンハッタンの黒船」よりも少し前です。未確認ですが、諸星は「アメリカの壁」に影響を受けているのかもしれません。

「アメリカの壁」では、ある驚異的なSF的テクノロジーを用いて「鎖国」するアメリカが描かれています。

ただし、「アメリカの壁」は、アメリカが「鎖国」に入っていくその瞬間を(そのときアメリカに居合わせた日本人ビジネスマンの視点で)描いたものです。これに対し、諸星が描いたのは、鎖国から約100年後の世界。基本設定は共通していても、2つの作品の趣向や視点は異なっています。

小松左京の「アメリカの壁」も、そのイマジネーションや先見性に驚かされます。

私は1980年代後半の大学生のときに初めてこの作品を読み、やはり引き込まれはしましたが、リアリティ(現実化の可能性)を感じることはありませんでした。

しかし、今読み返すと「これは現代の話だ」と思えます。

たとえば、1970年代当時における近未来のアメリカについて、主人公たちがこんなことを語り合っています。少し長くなりますが、引用します。「ほんとうにこれは現代の話だ」と驚くので。

《〔今の大統領になってから〕アメリカは、“外”の問題について、ほとんど完全に冷めてしまったみたいだ。そのリーダー意識も、使命感も……。かつて、アメリカは、この地球上で、人類がうみ出した一番大きな国だった。というのは、アメリカ社会と、社会意識の中には、いつも“世界性”があったからだ。アメリカに来れば、“人類の未来”や、“地球時代”というものが、ほかの地域にいるより、はるかに直接的に見えていた……。だけど、どういうわけか、今の大統領が当選する前夜から、アメリカはいやに小さくなりはじめた。内向的になり、外の世界に冷淡になり……センチメンタルなまでに自愛的になり……》(主人公の日本人の台詞)

(これに対するアメリカ人の登場人物の、アメリカを弁護する立場の台詞)

《…それもやむを得ないんじゃないかな。…“外の世界”はあまりに長い間、アメリカにぶら下がりすぎた。アメリカに言わせれば、あまりに長い間、むしられすぎた。いくら巨大な鯨でも、これだけいろんな連中にむしられりゃ……しかも、むこうには、自由世界と全く体制のちがう、まわりに対してきわめて非情な行動のとれる、巨大な相手がいて、どんどん強大になっている……》

以上の台詞の最後に出てきた「自由世界と体制のちがう、巨大な相手」というのは、1970年代当時ではソ連を指していたはずですが、今はまさに中国が、当時のソ連以上にあてはまります。

くりかえしますが、諸星大二郎の作品も、小松左京の作品も、今から50年近く前のものなのです。

***

私たちは、すぐれた漫画家や作家の想像力に、もっと学ばないといけないと思いますが、どうでしょうか。

とはいえ、作家のイマジネーションは、超能力的な予言ではありません。ここで紹介した、すぐれた作家たちの描く未来は、おそらく彼らの時代(1970年代)にすでにあった現実に根差しています。つまり、同時代の現実が「元ネタ」なのです。

「内向きになりつつあるアメリカ」の萌芽は、ここでは立ち入りませんが、ベトナム戦争で失敗した直後の頃のアメリカにすでにあったはずです。ただし、それはやはりまだ萌芽のレベルだった。小松左京は、SF的な空想のレンズでその限定的な現実を拡大したり、デフォルメしたりして、1970年代の時点で私たちの前に映し出してみせたわけです。

そして、2020年代現在、かつての萌芽的現象は、リアルで大きなものとなって、誰の目にもはっきりみえるようになった。

しかし、大きく、はっきりとみえる現象の陰で、つぎの未来をかたちづくる何かが、目立たないかたちで、すでに姿をあらわしているはずです。自分自身の「レンズ」でその「何か」を認識して描き出せるものなら、やってみたいものだとは思います。でも、なかなかむずかしい。

それが無理でも、現代において往年の小松左京や諸星大二郎クラスのイマジネーションの「レンズ」を持つ人がいたら、それを正しく評価できるようではありたいものです。

そして、おそらく今も人類の未来は、アメリカのなかにあるはずです。

小松左京が作中の人物に語らせたとおり「アメリカに来れば、“人類の未来”がみえる」ということは、今でも有効のはずです。

たしかに、小松の小説で述べられていた「内向的になり、外の世界に冷淡になり、センチメンタルなまでに自愛的になり……」ということが、これからますますアメリカ以外の世界各地でみられるということでしょう……

想像力をたいして働かせなくても、それはかなり明らかではないかと思います。

 

 

「マンハッタンの黒船」所収の、諸星の短編集のひとつ

「アメリカの壁」所収の、小松の短編集のひとつ

カルトの「説明力」という魅力にご用心

オウムによる地下鉄サリン事件から30年。

私は当時若いサラリーマンで、仕事の傍ら哲学や歴史の本を読むのが、大事な生きがいや逃げ場でした。一応は会社生活になじんでいましたが、違和感もかなり感じていました(のちに40代の時、私は起業するために会社を辞めています)。

そんな私にとって、あの事件は大きな関心をひくものでした。とくに「有名大学出身者などの、かなりのエリートたちが、なぜあんなカルトにひっかかったのか?」ということは気になっていました。

その問いに対しては、いろんな説明があり得るでしょうが、20年数年前の私が仮説的に考えたのは、要約するとつぎのようなことでした。

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カルトの魅力のひとつに、一応は体系だった世界観を与えてくれるということがある。教祖の立てた原理がまずあって、そこから世界のいろんなことを説明していく。さまざまな悩みについて、示唆もあたえてくれる。

そのようなカルトの「説明力」は大きな魅力である。ただし、どの程度手の込んだ、説得力のある「体系」をつくれるかは、場合によるが……

一方、学校教育は体系だった世界観をなかなか与えてくれない。

高校の教科書をみると、すごい分量の知識が詰まっている。その知識を消化してまとまった世界観を得るのは、非常にむずかしい。たとえば世界史の教科書をみても、出てくる事件や人名が多すぎて、世界史の全体像はなかなかみえてこない。

大学に行っでも、状況は変わらない。多くの講義は担当教官の専門に関する限定された範囲のことだけ。「世界は全体としてどうなっているか」「人間とは何か」といった大きな問いにはなかなか答えてくれない。

それが学校への不信にとどまらず、授業内容の源泉である科学や学問そのものへの失望につながることがあるはずだ。

まじめで思いつめやすい人は、とくにそうなるかもしれない。失望して、世界観を与えてくれる教祖様にひかれる人もいることだろう。科学や学問の代用品に走るのである……

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でも、少し勉強すればわかるはずですが、そんな代用品よりも、本物の科学や学問が描き出す自然や人間や歴史のほうが、ずっと奥が深くて魅力的です。そのことをわからせてくれる教育や発信がもっと必要だと思っています。

私は、世界史の入門書を出版したことがあります(『一気に流れがわかる世界史』PHP文庫)。それは「世界史の全体像を初心者にもわかりやすく伝え、より本格的な歴史の学びへの橋渡しになるものを」という思いで書いたものです。つまり、上記で考えた「必要」にこたえようと、ささやかに取り組んだのです。

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そして、ご存じのように、今の時代には、カルト的なものの浸透力・影響力は、インターネットによってさらに強くなっているわけです。

たとえば「陰謀論」というのは、まさにカルト的な体系をもっており、インターネットというメディアによっておおいに力を得ました。

また、「体系」というほどのものでなくても、個別的な事柄について「根拠があやしいが、わかりやすく感情的に飲み込みやすい説明」が、どんどん発信されている。

今の社会では、ニセモノの「説明力」が、すごく大きな力を持ってしまいました。少なくとも、力を持ちやすい条件があることはたしかです。

カルト的な説明力の魅力に対し、私たちはほんとうに用心しないといけないのでしょう。

そういう状況ですので、以上で述べた、地下鉄サリン事件の頃に若い私が考えた、以上のような問題意識(カルトの説明力という魅力にご用心)は、今も古くなっていないと思っています。

 

現代や未来を考えるための世界史の記事

今年の新しい取り組みで、2週間ほど前にnoteをはじめました。「現代や未来を考えるための世界史の記事」ということをうたっています。それを、世界史に詳しくない人にもわかりやすく。すでに10本近い記事を投稿しています。

それらのnoteの記事は、これまでやってきたブログ記事の大幅な増補・改訂です(元の記事の2倍~数倍の分量になっています)。

そのような、過去に書いたものの再検討・完成版のような記事を今後も投稿していく予定です。この数年、そのような「再検討」の文章をかなり書き溜めていました。

新しい記事を、既存の別ブログ「そういち総研」(はてなブログ、世界史専門)にアップすることも、ある程度は考えました。

しかし、それらの記事は「そういち総研」の記事の増補改訂版であり、大幅に重複するものです。そこで、noteという新しい別の場所に載せることにしました。

noteでのこれまでの記事も、これから投稿する記事も、1回で1万文字かそれ以上の、かなりの長文になりますが、お読みいただければ、たいへんうれしいです。

どの記事も、専門家によるいろいろな本をふまえた「まとめ記事」といえるものですので、読んでいただけると、「新書などの一般向けの歴史書を何冊か読んだような視野」がひらけるものと自負しています。それが「まとめ」の効用です。

noteのアカウントがなくても「いいね(スキ)」ができますので、「いいね」していただければ、おおいに励みになります。

noteでの自己紹介


(これまでに投稿した記事)

その1

最初の投稿は、昭和戦前期の格差社会と戦争の関係について。

「格差社会を是正したい」という正義は、戦争と結びつくことがあります。昭和の日本の戦争にも「戦争による社会改造を通じて、格差・貧困などの問題を解決する」という発想が強く影響を及ぼしています。

そのような視点で、「戦前昭和の日本は、なぜ戦争へと突き進んだのか」を論じています。

戦前昭和の日本は人口過剰の、きびしい格差社会でした。そのなかで起こる貧困などの問題を解決する選択肢として、資本主義の枠内の改善ではなく、共産主義(左)と軍国主義(右)が有力になりました。そして、「軍国主義による領土拡大で、さまざまな問題を解決する」という道を日本は選んだのです。

その2

2回目の投稿は、ゲルマン人の侵入と西ローマ帝国の崩壊についてです(前編・後編があります)。

「民族大移動」といわれるこの事件は、現代世界を考える参考になります。ローマ帝国とゲルマン人の関係は、現代でいえば、ローマは欧米に、ゲルマンはアラブやヒスパニックなどにあたるはず。

ローマ帝国は、民族大移動以前からゲルマン人を受け入れ、ゲルマン化が進んでいましたが、混乱と衰退の中で反ゲルマンの傾向が強くなっていきました。これは、移民大国である現代アメリカが辿りつつある道と似ています。

その3

3回目は、「文明の始まり」の時代のメソポタミアの都市を扱っています(これも前・後編)。

4000数百年前、メソポタミアでは数万人規模の都市がすでにいくつかできていました。そのなかで最古・最大級の都市であるウルクから、「文明とは」「都市とは」について考えます。

前編では、おもに、すでに高度に発達していた文明社会としてのウルクについて、基本的な知識・情報を述べています。都市や文明の定義について、私なりの考えも述べました。

後編では、「文明や都市への批判」について、それを批判的に論じています。「都市は異常」とか「文明(農業)は詐欺」といった主張は、魅力的なところもありますが、私は賛同しません。文明や都市に問題があることはたしかですが、私たちは、それを大事にして改良・発展させていくしかないのだと思っています。

その4

昨日(3月8日に)投稿した4回目は、第二次世界大戦(ヨーロッパの戦争に限定、日本の戦争は扱わない)の入門的な概説の記事。全7回のうちの第1回~第3回。

この「概説」は、全7回で計6~7万文字の分量になります。一般的な書籍だと100数十ページになる、本1冊にやや満たない分量、あるいは長めの中編小説くらい。

じつは、このくらいの分量で、初心者(大人向けですが)にも読める第二次世界大戦の概説は、あまりないはずです。

しかし、第二次世界大戦についての本では主流の、特定テーマを扱ったものや、「全何巻」といった大部の概説書では、初心者には全体像をつかみにくいです。一方で、ごく簡潔な教科書的記述では、第二次世界大戦という事件の巨大さや複雑さが伝わらない、と思っています。

大きな・むずかしいテーマですが、かなりの時間やエネルギーを費やして、それなりの効用のあるものを書くことができたと思っております(とくに、3~4年前から一昨年にかけて書いていた)。ご一読いただければうれしいです。

日本の戦争(アジア・太平洋戦争)についての概説も手をつけてはいるのですが、いろいろな理由で困難さのレベルが高く、今後の宿題です。

私の「団地の書斎」。ここで書いてます。

「管理者」「中間管理職」たちの記者会見

さきほどまで16時頃から3時間くらい、まだ続いているフジテレビの記者会見の放送をみていました。

私がとくに感じたのは、「この社会では、“ほんとうの権力者”は、きわめて稀な存在である」ということです。

つまり、真の意味で「自分だけが自分の主人であり、誰かに自分を委ねる必要がない人間」は滅多にいないのだと。

この会見で説明していたメディアグループの社長・会長を含む経営幹部の人たちは、何かを恐れている感じがしました。つまり、自分たちの実質上の「上司」にあたる「相談役」をです。その相談役(会見には欠席)の責任や進退についての質問になると、ほんとうにぎこちなくなる。

この方たちは、真の意味でのリーダーや経営者ではなく、「真の経営者」から任命された「管理者」「中間管理職」なのだと、はっきりと思いました。つまり、「上位の誰かに身をゆだねている」人たちだと。

これに対し相談役は、「ほんとうの権力者」であり「自分自身だけが自分の主人である」といえるでしょう。

***

また、つぎのようなこともありました。それは、「第三者委員会」にかかわる発言です。

これまでも、そして今回の会見でもフジ側が否定している「トラブルがあった際の会食に対する社員の関与」ということについて、第三者委員会の調査によって関与が明らかになったとしたら、それを受け入れる覚悟はあるのかという質問がありました。

これに対し、受け入れるつもりだ、というニュアンスの回答があったのです。

この発言について「本気でそう思っているのか?」と感じる人もいると思います。

私は、「本気だ」と思います。「第三者委員会の調査結果は、厳しいことであっても受け入れる」ということは、この会見に出席した経営層の人たちのホンネとしてあるのではないかと思っています。

しかし、それはこの回答者たちの「誠意」を示す面もあるかもしれませんが、そればかりではないはずです。

この人たちは、自分たちで主体的に厳しい真実を明らかにすることは恐ろしくて嫌だが、第三者委員会が明らかにしたことなら、それが自分や会社にとってきわめて不利益となる内容であっても受け入れていい、と思っているのはないか。

パンドラの箱を自分で開けるのは自分には重すぎるが、第三者委員会のような、外部の特別な権威が開けるならいっそ気が楽だ、というわけです。

このような心理は、「管理者」「中間管理職」的なものです(私は企業で中間管理職をしてきたせいか、こういう気持ちは想像がつきます)。

有名な大企業で最高の地位にある人でさえ、こういうことがあるのではないか。

くり返しになりますが、「管理者」「中間管理職」的な心理とは、自分よりも上位にある何かに自分をゆだねる感覚です。

何万人の部下がいたとしても、このような感覚がある人は、ほんとうの権力者ではありません。

「管理者」「中間管理職」的なメンタリティが、きわめて地位の高いトップリーダー層にまで根をおろしているというのは、ほかの国にもあることですが、日本社会ではとくに顕著なように思います。

「メンタリティが中間管理職的なトップリーダー」の有名な事例としては、第二次大戦のときのわが国の首相や閣僚、軍の指導者があげられるでしょう。彼らは、天皇の「聖断」がなければ、大戦争を始めたり終わらせたりできなかったのです。

また、第三者委員会は、外部からの超越的な権威という意味で、GHQのようなものかもしれません。いずれにしても、スケールは全然ちがいますが……

***

この会見は、大企業の社長、会長という名の「管理者」「中間管理職」による会見です。

そして、「管理者」にとって何よりも優先すべきは、社会のなかの普遍性のある価値(たとえば人権)よりも、自分に高い地位をあたえてくれる「誰か」や「体制」なのではないか。

会見はまだ続いています。この人たちは、自分の上位にある誰かを守る、自社の現体制の根本を守るという任務を果たし切ることができるのか……

今のところ、少なくともこの会見においては、かなり頑張って「使命」をまっとうされているようです。ときには手ごたえや自信を感じている様子さえあるようにも思います。

しかし、それでほんとうに「現体制」をこれからも守り切れるのかどうかは、わからないでしょう。だがしかし、守り切れるかどうかも、最終的には「どうでもいい」と思っているかもしれません。「中間管理職」には、やはりそういう面があると思います。

そして、中間管理職のメンタリティで運営される傾向というのは、この会社あるいは企業レベルにかぎったことではなく、日本社会全体のレベルでもあてはまるのではないでしょうか。

デマに騙されないための大事な考え方

デマに騙されないための考え方について、科学史家・教育学者の板倉聖宣(1930~2018)は、1964年に高校生向けの雑誌に掲載された文章で、こんなことを述べています。

“相手のデマや宣伝にひっかからないためには,相手の言い分にのって,こまごました議論や行動にインチキがないかどうか、一つ一つ緻密にたしかめていっても,なかなかそのまちがいに気づかないことが多いものですが,おおまかでもよいから,もっと広い視野にたって問題を考え直してみると,案外相手のまちがいがみつかるものなのです。”(「デマ宣伝を見破るには」『板倉聖宣セレクション1 いま、民主主義とは』仮説社)

そして、板倉は「広い視野で問題を考え直す」ことの事例として、科学史におけるコペルニクスの天動説などをあげて論じているのですが、もっと簡単な、子どもにもわかるシンプルな例として、こんなことも述べています。

“手品のトリックを解きあかすことは多くの場合むずかしいことです。しかし,それが手品であり,インチキであることだけは,ちょっと視野広く考えなおしてみれば明らかです。弁当箱からいくらでも卵がでてくるものなら,手品師は,卵屋になった方がもうかるはずですから!”(前掲「デマ宣伝を見破るには」)

「弁当箱から卵を出す手品」の例は、1960年代前半という時代を感じさせます。ここを現代風にいえば「手のひらからお金をいくらでも出すことができるなら、マジシャンは大金持ちだ!」といった感じでしょうか。

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この板倉の言葉を、私たちは肝に銘じたほうがいいでしょう。

つまり、情報に向き合ってその真偽について真剣に考えようとするとき、「おおまかでもよいから、もっと広い視野で問題を考え直す」ということを心がけ、実践してみるとよいと思います。

たとえば、「あなたや限られた人にだけ、特別な投資案件を教えます」という話には、「なぜ、その投資話をこの人は独り占めしようとしないのだろう?そのほうが儲かるのでは?」ということを、まず考えてみるわけです。

***

では、「兵庫県知事は、既得権を牛耳る闇の支配者たちと戦ったために、陰謀によって失職に追い込まれた」というストーリーは、どうでしょうか? 

そのストーリーは、こまかいことも含むさまざまな説明によって、真実らしく感じられるのかもしれません。

しかし、一市民である私たちは、その具体的な内容の真偽を直接にたしかめることはできません。それができるのは、現場取材のリソース(組織・ノウハウ・時間など)を持つ報道機関やジャーナリスト・研究者といった専門家です。

ここでは、できる範囲でおおまかに「もっと広い視野で問題を考え直す」ことをしてみましょう。

たとえば、つぎのようなことを考えてみるわけです――「県議会において、全会派が一致して知事に対する不信任を突きつける」「一知事を失脚させるために、マスコミを片端から動かして世論を操作する」などということを工作できる強大な権力は、はたして今の日本に存在しうるのか?

今の中国における共産党やその指導者のような権力なら、自国内においてそれは可能かもしれません。

しかし、中国共産党は「闇の権力」などではなく、その存在じたいは誰の目にも明らかです。社会の隅々まで支配する強大な権力というのは、おおいに目立つものです。

ただし、中国のような国家においては、地方の首長くらいは、まわりくどい工作などしなくても、ストレートに権力を発動させて失脚させることになるのでしょう……ここでは、「強大な権力は目立ってしまう」ということを言いたいわけです。

だから、今回のように兵庫県知事を失脚させ得る強大な権力が仮に存在するとしても、私たちがその姿を捉えにくい、これまで気がつかなかったような存在であるとは、ちょっと考えにくい。

だとすると、知事が議会から不信任となったのは、闇の権力の陰謀ではなく、やはり議員たちがそう判断するに足る、それなりの問題・不祥事があったことを示すのではないか……

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たとえば以上のように考えてみる、ということです。

ただし、これは陰謀論を論破しようとしているのでありません。自分とはちがう考えの人を説得して、その考えを変えさせるのは、きわめて難しいことです。それはまた別次元の話になります。

ここでは、他者の論破・説得ではなく、「自分が騙されない」「騙されないように自分の考えを整理・確認する」ための考え方について述べているのです。

そのテーマについて、板倉という学者は、今から60年も前に非常に大事なことをわかりやすく述べてくれていると思います。よかったら、参考にしてみてください。