雨の音を聞くというのはとても心が休まる。小学校に入るよりも前、当時住んでいた家の南側の縁側に面したガラス戸越しに、庭に降る雨を飽きもせず見入っていた。水はけが悪く水がよくたまっていた。山吹の濃い黄色の花がその水溜りに垂れるように咲いていた。
もう使われていない井戸のコンクリート製の円筒形の枠にかけられた丸い板の蓋にも水がたまっていた。気がつくと、焦げ茶色の板塀が雨に完全にぬれ、いつの間にか滴がたれるまでになっていた。
聞こえないはずだが、小さな山吹の花や葉に当たる雨の不規則な音が聞こえていた。屋根の樋から洩れ落ちる水の音とは別の音のように聞こえた。
庭の水溜りの波紋も見飽きなかった。
自然というのは不思議なもので、時間や距離の尺度によって、同じ現象も規則的に見えたり不規則に感じたりする。1年365日を、1日ずつ並べても同じ1日は繰り返すことはない。しかしこれを10年並べれば、365日の繰り返しが10回並ぶ。どの1月1日も10回とも違う1月1日である。30年、同じ仕事を続けてみれば、30年同じ日々を繰り返したと思うときと、違う1年が30回続けたように思うときもある。
庭の水溜りに絶え間なく繰り返す波紋も、同じ波紋が複雑であっても規則的な繰り返しで生じるように見えるときもあるが、不規則の連鎖で生じるようにも見えて、飽きることはなかった。
不思議なもので、規則的なものはすぐにあきる。不規則なものの連続は、聞いても見ても飽きることがない。
台風18号の雨、7日の夜から降り始めて8日の午前中まで続いた。8日の朝からは風が強くなったが、それまでは風の音よりも雨の音が一晩中勝っていた。それを心地よく聞いていた。かなり激しい雨であったが、私の住んでいる団地は冠水することも、がけ崩れになることもない地形である。鉄筋コンクリート住宅という安心感もあり、台風の雨の音であっても心が緩やかになったような気分を味わい続けた。
もともと動物には水の音に対しては親和と恐怖とが混ざった感情があるのだろう。原初の動物の発生に始まったかすかな記憶とともに。緩やかな音には同調する安心感があり、ある一定以上の速さを持つ流れの音は身の危険を知らせる警報音へと、身体の認知が瞬時に変異する。
鉄筋コンクリートの壁も40数年人が住み続ければ、無機質な物体から変化して、危険の予知を緩和してくれる衣をかぶるようになるのかもしれない。激しい水の動きをもたらす危険な兆候、ぎすぎすした振動音を滑らかな音に変えてくれているようにも思える。
迷走台風17号はルソン島北部を幾度も行き来し、台湾に大量の雨をふらせたようで、迷惑この上ない台風であろう。台風には意識はないが‥。台風18号は大型の割には被害が少なかった。なくなった方には申し訳ないと思いつつ、17号と18号が持つ性質があたかもそれぞれの人格のように見えるのも不思議だ。人間は、自然というものを人格ある人間のようだと認知している。
私が台風についてこんなことを感じたのは、30数年ぶりでもある。就職して以来、台風・大雨・降雪のたびにひたすら災害対応に追われて、こんな余裕はなかった。もうそろそろ年齢的にもこれは卒業して、次の世代に引き継がなければならない。口出しせずに任せてしまうことも必要。ここ2年、大きな災害は私の町では発生していないこともあり、これまでとは違って、台風も大雨も我が家で、受身でやり過ごすことにしている。
2年目だから気持ちにゆとりができてきたのだろう。去年はそれなりにやきもきしたり、俺だったらこうしたのに、などという思いが翌日あったが、今年はずいぶんとちがう。60の定年までの後2年半、どのように気持ちは変化していくのだう。