さちゅりこん2――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ブーレーズを我等の手に



音楽について勉強不足で、死去したブーレーズについてちゃんと語れないのが悲しい。人間ちゃんと勉強しておかないと、無駄に歳を重ねても嫌なものだけでなく理解不能なものまで増えてしまう。音楽や文学はそりゃ個人的に楽しめりゃそれでいいのかもしれない。いや、違う。我々は他人とコミュニケーションする生き物であり、音楽なり文学が非常に高度なものになっていた場合、それがどんなものか理解しようとする必要があるのである。しかし、その理解をする方法について、ラテン語を解する者だけがそれを解する式のやり方に限界があったというのが、重要である。ブーレーズジョイス石川淳も何もかも、みんなが母語の頭で触れる必要がある。それが文化の豊かさを生むので、わたくしが常々ナショナルなものから目を背けてはならないと言っているのはそういう意味である。大学が、専門学校になってしまうと、当然グローバル化のために英語や中国語で授業をやるべきだから、そんな機会は失われてしまう。

ブーレーズが現代音楽だけでなく、マーラーブルックナーまで演奏して人気者になっていったことの評価はいろいろあるだろうけれども、ブーレーズの演奏を聴かなければ、音楽が「知」であることに気がつかなかった人は多いのではないだろうか。音楽家音楽学者だけが分かっていればいいのではない。理解の程度はいろいろあっても、少しは理解する必要があるのである。それで我々はようやく近代以降の「人間」になれるのではなかろうか。それは多くの人にとっては「国民」化を潜らなければ無理だったし、これからも多分無理である。しかも、言うまでもなく、その理解には、きちんとした学習の後の、理解の異なる人間とのおしゃべりが必要だ。解釈の多様性を言い訳に、自分の理解だけを正当化し理解できない側面を抹殺しようとする方向に向かう人の大量発生を防ぐためである。