
そして私は、出版社から送られてきた書類に目を通す。私の切り絵に、毎回、小説家や詩人が言葉を添えてワンシーンを作るという、雑誌連載の企画書だ。驚くほど著名な作家が候補に並んでいて、頭の中で早くも切り絵のイメージが湧いてくる。いずれ書籍化する前提とあり、私の何作目の本になるだろうかと思いめぐらす。
三枚に渡る文書を読み終えると、私は、かけていた老眼鏡を前髪の上に載せた。そして書類をとんと揃えたとき、くらり、とした。
めまいのような、小舟が揺れるような。どこかで味わったことのある、この感覚。
一瞬目を閉じて、再び開けると、花瓶の花が変わっている。
イエローのバラ。ピンクのダリア。オレンジのガーベラ。
ええ?青紫のリンドウだったはずなのに?
…………ああ、そうか。そういうことだったのか。
私は思わず笑みをこぼし、バッグに手を入れる。
あの日のご婦人は。
五十歳の私が見たあの日のご婦人は、私だったのだ。
花瓶のまわりの席には、誰もいない。
でも、私は確信した。
時空を超えたところで、あの頃の私が、今の私を見ている。
八十歳にもなれば、もう知っていた。そんなことぐらい、不思議でもなんでもないと。
――青山美智子「ストールは赤」
授業で最近の短篇小説のアンソロジーなんかをつかっているんだが、――なんか常体の使われる場所がおかしい、あと体言止めのセンスがおかしいなどと文句を言っているのはわたくしである。いったい、われわれのなかにある、イマージュというか想像というか、そんな物理的存在とは違うものとは一体何であろうか。三木清以来の問題はいまだに我々にリアリティを持っている。三木はこの問題をサルトルを引いて権威づけていた。わたくしはそうしたくない気分だ。
チャイコフスキーのバイオリン協奏曲の旋律をピアノでなぞっていたんだが、すごすぎてわたくしは論文がすすまない。わたくしにとっては、こういう感覚にこそイマージュがある。そういえば、モーツアルトの39番のメヌエットがわたくしの原風景で、喘息で入院してたときに歌ってた「およげたいやきくん」から転向させたのである。なんの転向なのかは知らない。今日も、ショスタコビチのピアノ五重奏曲を少し弾いた。妻が入院してるので。
わたくしにとってイマージュは、死や生の狭間に、言語と音楽の間にある。
以前、映画の「タイタニック」をみてておもったんだが、重大なのはデカプリオが画家だということだ。上流階級のおねえさんはここに境界を超えるイマージュを見たのであろう。というか、その絵画を貧乏画家から「贈られた」ことが重要であった。
例えば、年賀状を引退する人がおおいけど、――歳をとってきたひとは、近親者とのSNSにおける失礼なコミュニケーションに傷ついて絶望するより、ちゃんとした社交をやることで人間関係を整理していった方がよいと思う。年賀状は面倒になったらなんの理由もなく絶交が出来るすばらしいツールだぞ。
東浩紀の「ゲンロン」からは、会員に年賀状が来る。年賀状がコミュニケーションのために存在しているのではないことをわかっているだけでもスバラシいとおもう。年賀状は、お土産であり、蜜柑や林檎を送るようなものである。柄谷の交換Dとまではいかんが、イマージュはそこで発生する。
すぐ大仰な一般論の方向に解釈を持っていってしまう学生も太宰の「人間失格」に対してはそうなりにくい。太宰のすごさはこういうところにある。一般論を封じるんじゃなくて、一般論を変形させてしまうのが太宰の力である。太宰には、やはり読者に「贈る」気持ちがあって、それが日本浪曼派のほかのひとたちとはちがって、一度にたくさんのイマージュの贈与によって読者の快を誘発していた所が凄い。――考えてみると、更なる道徳的解釈を誘発しかねないところさえあった。太宰は、読者それぞれに「みんな違ってみんないい」みたいな思いをなにか内省的な茫洋さで与えてしまう。これが鳥とか金属の物理的存在を出しただけの金子みすゞとは根本的に異なっている。
教育業界が宗教じみたおかしな世界になっているからといって、エビデンスが有るのか、科学じゃないじゃないかといっても案外致命傷を与える批判になることはないのが不思議であるが、当然でもある。手続きの厳密さを啓蒙してもたいがいうまくいかないのは、教育業界のおかしさの半分は、そういうエビデンス手続き主義からも導かれているからだ。根拠に基づくべしというのは正しい場合もあるが、この根拠には文科省教育委員会親子どもカネなどなんでも代入可能であって、結局、根拠?に基づけという命令が自由を失わせていることが大問題なのである。だいたい、「自由には理由がないのがよいのだ」という感覚の叛乱(トランプのあれ)が起こっているのにはやく気付くべきだ。