
竹村 […]そこで、阿頼耶識と天皇とを、三島は同等に見ていたと井上さんは言われるわけですが、しかし阿頼耶識は人人唯識で、一つだけではないし、唯一の中心とはだいぶ概念が異なるとしか思えないのですね。私は、阿頼耶識と天皇が、構造的に似た表現があるからと言って、ただちに結びつくとは思えません。というわけで、三島が、阿頼耶識に天皇を見ていたとは、私にはとても考えられないことです。
井上 ただ、三島が言う天皇は、必ずしも「唯一の中心」というわけではないんですね。「みやのまねび」をする者は、すべて天皇たりうる。そう考えれば、やはり重なるのではないでしょうか。人人天皇と言ってしまうと誤解を招くかと思いますが、例えば二・二六事件で処刑された磯部浅一は三島に言わせれば天皇なんですね。
竹村 興味深いですね。ただそのことの当否は私にはちょっとにわかには判断できないです。ともあれ丸山の論文は、日本の超国家主義がいかに無責任な体系であるかを批判するものですよね。その点については、三島はどのように受け止めていたのでしょうか。
本を読む職業についている以上、読書が誰にとってもいつもよいものだと決めるわけにはいかない。実際そんなことはないからだ。読書は世界を単に広げるものでも意味を確かにするものでもない。むしろその逆で我々の跛行を強いるものである。その跛行が未来のために重要である。
ある種の教養主義がくだらないとしたら、言葉の使いかた・意味を決めている時点で、思索的とは言えないからである。伝統みたいなものにたいしてもそうだ。つまり人間の行動による文脈の変化による言葉の不確かさ、意味の変容をみとめない意味において、ある種のテクノロジーが強いる効率的な世界とある種の近代の伝統主義者はそっくりなのである。女子高生言葉は修辞的で天才的なところがあって、ましだと思うが、意味は比較的はハッキリしすぎていて、かえって人々をその生きている現在にしばりつけるばかりか、案外時の空気を伝える事もない。場の空気というのは、時間的だからである。
浅野いにお氏の「MUSINA INTO THE DEEP」は第5巻になって、主人公の過去(子殺しの母親だった)が語られ、失われた「守るべき場所」を現在の年下の仲間に見出して、それがあるから絶対私は帰る、と決意する(わりといつもある)局面にさしかかっている。殺人マシーンとして働く主人公の来歴が不明だと、読者は不安である。だからこれ以上不安がらないようにこの作者は、いつも教育的=物語的なマンガとして自分の作品をつくっている。
過去は失われた。しかし思い出す事で、自分のすべきことの意味が変容する、いつもの物語だが、我々がそれを欲するのは、それほど我々の過去が「失われている」からにちがいない。いや、失われているのは意味の方なのである。
もっとも、このような変容は、変容としてではなく意味の回復として行われている。読書は、こういう変容を物語として経験させてしまう事がある。
高橋留美子の最高傑作は、「黄金の貧乏神(ゴールドヒンガー)」だと思う。息子を実験体にしようとするような夫婦の居る家庭に七福神達がやってきて、息子と一緒にスイスの銀行を襲う話である。こういうナンセンス劇には、宗教的伝統へのインティメイトと法の外へ出てしまう愉悦、家族的な価値への回帰などを全部同時に実現してしまう寛容さがあった。しかし、はたして、彼女の作を、八〇年代の経済的成熟と「常識」が安定していることに求めることが出来るであろうか。そうではなく、高橋留美子が凄かったのではないか?
しかしたしかに、高橋留美子に時代からの反映を読むことは可能だと思う。「るーみっくわーるど」は、学生叛乱の世界の、意趣返し的なうらがえしなのである。しかしこれが、井上氏の言う一種の「みやのまねび」ではなかったことは、確かかも知れない。しかしそれは当時の学生や高橋氏だって分かっていたはずで、三島や磯部浅一のようではなく、また連合赤軍のようではなく徹底して世俗的にやろうとすれば、「黄金の貧乏神」のようになるところがある。三島が丸山眞男の論文を換骨奪胎したのとは違った意味での「お祭り騒ぎ」――すなわち天皇やマルクスを心の支えにするのではなく、七福神を人物とともに暴走させることである。もっとも、お金をネタにしても誰にも怒られない雰囲気であったことは重要かも知れない。