2025-01-01から1ヶ月間の記事一覧
「いや。若い者なんぞに二度とは見せないという、お前さんの注意は至極好い。蛇位はわたしだって掴まえる。毒のある蛇だと棒が一本いる。それで頸を押えて、項まで棒を転がして行って、頭の直ぐ根の処を掴むのです。これは俗に云う青大将だ。棒なんぞはいら…
現実の人間や事実や感情と、創作された作品と、どちらがより深く人の心を捉えるであろうか。この答えは、両者の性質によって、また答者によって、さまざまであろうが、結論に飛べば、現実同様の或はそれ以上の迫力を持てと作品に要求されている。同じように…
吉田と会見した後の健三の胸には、ふとこうした幼時の記憶が続々湧いて来る事があった。凡てそれらの記憶は、断片的な割に鮮明に彼の心に映るものばかりであった。そうして断片的ではあるが、どれもこれも決してその人と引き離す事は出来なかった。零砕の事…
石神豊氏の論文を三本一気に読みくだす。わからないことがどんどんふえてゆく。逆に学生のレジメがあまりに明晰なので躊躇うこともあるが、今日は、モーリス・ブランショの「カフカ論」がとつぜん引用されていたし、よいことにするか。。。 わたくしもポスト…
近くの栗林公園もマンションやらに囲まれているが、神社も囲まれている。
献身とは、ただ、やたらに絶望的な感傷でわが身を殺す事では決してない。大違いである。献身とは、わが身を、最も華やかに永遠に生かす事である。人間は、この純粋の献身に依ってのみ不滅である。しかし献身には、何の身支度も要らない。今日ただいま、この…
在來一切の社會の歴史は、階級鬪爭の歴史である。 自由民と奴隷、貴族と平民、領主と農奴、ギルド(同業組合)の親方と徒弟職人、一言にすれば壓伏者と被壓伏者とが、古來常に相對立して、或ひは公然の、或ひは隱然の鬪爭を繼續してゐた。そしてその鬪爭はい…
木曽いろいろ2025
猫様とわたくし3
キチガイもはいれる アンポンタンもはいれる オンナもはいれる シスター・ボーイもはいれる ケイカンもはいれる ゴロツキもはいれる ヨクバリの穴 政治の穴 革マルの穴 民青の穴 無関心の穴 教授の穴 伝統ある早稲田大学総長は 諸君の不満と断固たたかう バ…
然しながら、無きに如かざるの冷酷なる批評精神は存在しても、無きに如かざるの芸術というものは存在することが出来ない。存在しない芸術などが有る筈はないのである。そうして、無きに如かざるの精神から、それはそれとして、とにかく一応有形の美に復帰し…
それは厚い唇をもった口であった。そしてその口が皿の上で濡れて赤く輝いている。とその男の口が、彼が戦場でなぐり殺した豚のあのつき出た口に変った。そして彼の体のどこか片隅から、いやな堪えがたい感情があつい熱を伴って上ってきた。『ああ、いやだ。…
一群の「老大家」というものがある。私は、その者たちの一人とも面接の機会を得たことがない。私は、その者たちの自信の強さにあきれている。彼らの、その確信は、どこから出ているのだろう。所謂、彼らの神は何だろう。私は、やっとこの頃それを知った。 家…
受験生の夜明け 野戦病院の寝台の上で蘇生をしたイワノウィッチは、激しい熱病から覚めた人間のように、清霊な、静かな心持を持っていた。 彼には、なんらの悔恨もなかった。なんらの興奮もなかった。彼が歓楽の瞬間も、罪悪の瞬間も、戦線で奮闘した瞬間も…
私はしばしば若い人々にいうのであるが、偉大な思想家の書を読むには、その人の骨というようなものを掴まねばならない。そして多少とも自分がそれを使用し得るようにならなければならない。偉大な思想家には必ず骨というようなものがある。大なる彫刻家に鑿…
家へ入ると、通し庭の壁側に据ゑた小形の竈の前に小さく蹲んで、干菜でも煮るらしく、鍋の下を焚いてゐた母親が、 『帰つたか。お腹が減つたつたべアな?』 と、強ひて作つた様な笑顔を見せた。今が今まで我家の将来でも考へて、胸が塞つてゐたのであらう。 …
学問への郷愁に似たものが、いつも私の心の片隅にくすぶっているのだ。「私の好きなもの」というある雑誌のアンケートに中野重治氏が「学問」と答えているのを見て、自分の気持を代って言われたような気がしたものだ。 ――山本健吉「詩の自覚の歴史」 まだ読…
お道化なんてのは、卑屈な男子のする事だ。お道化を演じて、人に可愛がられる、あの淋しさ、たまらない。空虚だ。人間は、もっと真面目に生きなければならぬものである。男子は、人に可愛がられようと思ったりしては、いけない。男子は、人に「尊敬」される…
純粋なライト・ヴァースは、日本やイギリスのように、比較的最近まで文化が固定した国においてのみ成立する。洗練され、成熟し、固定した文化を持つのは、それ自体確かに素晴らしいことだ。だが本当の意味で、果してその国にとって、それは名誉なことだろう…
戦後アメリカから輸入した個人主義は、都合の良い個人主義であった。 個人主義とは個人的主体各員が共同体の政治的決定に参加することで初めて成り立つ。個人として意思を表明した結果、それが全体になるという構図が本来の姿だ。しかし日本はアメリカから個…
その程なく九月八日になりて、「この売掛とれ」などいひて、十四五人の手代、この物縫屋へ行く事をあらそひける。その中に年がまへなる男、恋も情もわきまへず、夢にも十露盤、現にも掛硯をわすれず、京の旦那のために白鼠といはれて、大黒柱に寄添ひて、人…
魚の国ではどこの部落も、よく神様にお祈りをあげました。神様が、みんなを可愛がって下さるからです。 竜宮の鯛の王様も、お祈りが好きです。ひらめの学校からは、毎年、竜宮へ留学生を出しますけれど、しばらくして戻って来るひらめの学校の生徒は、みんな…
幼年時 私の上に降る雪は 真綿のやうでありました 少年時 私の上に降る雪は 霙のやうでありました 十七―十九 私の上に降る雪は 霰のやうに散りました 二十―二十二 私の上に降る雪は 雹であるかと思はれた 二十三 私の上に降る雪は ひどい吹雪とみえました 二…
ストア派の人々も、賢者ならば、幻覚や妄想がやにわに立ち現れても、はね返せなくてはいけないと述べているわけではない。むしろ彼らは、人間はそうしたものから逃れられないのだとして、たとえば天にとどろく轟音とか、建物の崩壊には抗しきれずに、青ざめ…
以前、高知市を訪ねたときに撮った写真の中にあった。はりまや橋の東にある土佐橋の南側にあるのがこの有馬神社である。 有馬神社の由緒としては、県神社台帳に依ると、御祭神は安徳天皇二位禅尼であり、昔より浦戸町土佐橋南詰に鎮座ましまし、付近の崇敬神…
赤い着物の女の子は俥の幌の中へ消えてしまった。山は雲の中に煙っていた。雨垂れはいつまでも落ちていた。郵便脚夫は灸の姉の所へ重い良人の手紙を投げ込んだ。 夕暮れになると、またいつものように点燈夫が灸の家の門へ来た。献燈には新らしい油が注ぎ込ま…
自ら、幾所か介添して見およびしに、恋の外、さまざま心のはづかしき世間気、いづれの人も替る事なし。ある時、中の島何屋とかやへ介添せしが、この子息ばかり、我に近寄りたまはず、見掛けより諸事をうちばにして、初枕の夜も何のつくろひなしに、首尾調ひ…
だれにも、あらゆる魅力がひとしなみに与えられたことなど一度もなかった。(ラ・ボエシー『フランス語詩集』一四) というわけで、弁舌の才に関しても、次のようなことがよく見受けられる。 いとも容易に、ぽんぽんとことばをくり出して、闊達自在であって、…
結局、人間の目標とは、それを認識するものがじぶんしかないので、あらゆる自己欺瞞が可能である。しかし、そこに神頼み(神仏への依存)が挟まると、信仰の程度にも因るだろうがあるていど、その認識が自分から自分への循環だけでなく、神仏からの贈与や直…