あれはたしかショパンだったか。一枚のLPを買った。
かつての私は、感情を最前面に押し出すヴィルトゥオーゾの音楽がどうも苦手だった。ノクターンならまだしも、ポロネーズや「ラ・カンパネラ」の放つ光彩には、どこか気恥ずかしさが先に立っていた。しかし、時に人生には陰影が欲しい夜もある。そんな時、私はブラームスの間奏曲・作品118-2 を手に取る。深い思索の奥底に沈んでいくような、少ない音数を愛おしむように紡ぐピアノ。それは老境の人が、暮れていく西日を浴びながら過去を顧みて、いつか微睡みに落ちていくような趣があった。
しかし、そんな静謐な世界へいきなり辿り着いたわけではない。始まりは、やはりあの「初恋」だった。 ピアノの前でアンニュイな表情を浮かべる、黒髪の美しい女性。一瞬にして恋に落ちた。それが、ショパン・コンクールで優勝したばかりのマルタ・アルゲリッチだった。
ジャケット写真に惹かれて次に手にしたのは、ロストロポーヴィチ指揮によるシューマンのピアノ協奏曲だった。この鮮烈さは比類ない。私の中でブラームスの第2番と並び、ピアノ協奏曲の双璧となった。
恩人であるシューマンの奥方・クララに成就せぬ恋をしてしまい、生涯独身で終わってしまったブラームス。そんな男の、枯淡な晦渋の中におき火のようなロマンを秘めた旋律。これに比べてシューマンの曲は情熱的だ。特に彼女の録音は激しく燃える。第三楽章、天に向けて駆けていくあの様は、愛妻クララへのあまりに純粋な告白のようで、聴くたびに胸を突かれる。
あるいはアバドと組んだラヴェルの協奏曲はどうだろう。鍵盤を前にアバドと曲の解釈をしているのだろうか、そんなジャケットも素敵だった。針を落とそう。ムチの音が空気を割くと、ピアノは万華鏡となり、オーケストラは風に揺れる花壇となる。若き才能たちがぶつかり合うその火花は、永遠に瑞々しい。
動画サイトには若い二人が出ている。彼女が小澤征爾と二人でラヴェルのリハーサルをしているのだ。豊かな黒髪を揺らしながら鍵盤の上を指が躍る。しかし小澤の注文に、「わたし、できるかしら。わからないわ」と、地中海の香りのする英語で答える。なんというチャーミングさだろう。
世界を股に掛ける彼女の演奏を、この目で見ることなどないと思っていた。しかし、機運は巡ってきた。小澤征爾が手掛けた水戸の楽団。小さなホールに長いドレスの裾を両手でつまんで現れたのは、あのアルゲリッチだった。
席に着く時、私は老眼鏡をかけて何度もチケットを見返し、椅子を手で確認して座った。すっかり老境に入った彼女の髪は、かつての黒から美しい白へと変わっていた。しかし、座るや否や放たれた一閃の音。それは「老熟」という、誰にも真似できない技法に裏打ちされた凄絶な響きだった。
カーテンコールは長く続く。何度も彼女はお辞儀をする。そして椅子に座って手を伸ばす。ああ、「見知らぬ国々」か。晩年に精神の均衡を失いライン川に身を投じたシューマンの、小さくやわらかな掌編。そんな繊細を極めた音のタペストリー。その中に自分自身が編み込まれていくのを感じた。私の初恋は、この時ようやく成就したのだと。
もう五十年もの間、私はバッハという宇宙に惹かれている。グレン・グールドが解き明かした構造美。惑星探査船・ボイジャーに載って宇宙を旅するような、感情とは無縁の精密で堅牢な建築物。 けれど、アルゲリッチが弾くバッハ――わずか一枚しかないパルティータやトッカータ、イギリス組曲から選んだ三曲を聴いて驚いた。彼女は、緻密なはずの宇宙建築を、自らの熱量で溶かしていくのだ。そこに宿る「情熱的」という三文字。それは彼女にしか成し得ない、血の通った宇宙だった。
だからこそ、私は願わずにいられない。 彼女の手で、バッハの「平均律全集」を是非、録音してほしい。あの四十八曲の、手のひらに載る大宇宙を、彼女の熾火のような情熱で満たしてほしい。
もしそれが叶うなら、私はその録音を、そこから下巻の第二十四曲を自分の葬式で流し、墓に入れてくれと頼むだろう。 アルゲリッチの平均律があればな。
