日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

肌身離さず

今はそんな人は見ないだろう。首からお守りをぶら下げた姿など。映画・男はつらいよの寅さんくらいだろうか。が、これがロザリオとなると話は違うだろう。カトリック教徒ならば誰もが首から下げている。住んでいた横浜の街に数棟の大きな公団住宅があった。そこには中国人もインド系の方も居れば中東系やトルコ人もいらしたが特にフィリピンから来た女性が多く住んでいた。近くの公園で数組の親子が遊んでいた。タガログ語だろうか自分にはわからぬ言葉を喋るお母さんの首元に光るものがあった。それはロザリオだった。そうだった、フィリピンはクリスチャンの国だった。ああ、やはり十字架は肌身離せないのだな、とその時思ったのだった。

ミサ、カンタータ、モテット、受難曲、オラトリオ、レクイエム…。キリスト教に伴う音楽は荘厳で美しく好きであるけれど、いつも一緒にいるわけにはいかない。ロザリオを首にすればいつもそんな音楽が日常の中で我が身の傍にいるのだろうか。ならば僕も付けたいと考えるが、不遜だろうか。

朝、高原は霧に包まれた。近所の丘に犬の散歩に出かけた。そこは見晴らしがよく晴れていれば甲斐駒ケ岳北岳鳳凰三山、富士山、そして金峰山、八ケ岳と労せずして六座の名山に触れることが出来る。しかし今日は只ミルク色の霧が支配しているだけだった。犬にリードされながら霧の中を泳いでいるとそれは突然晴れて視界が伸びた。一瞬の光の戯れを僕はカメラに収めたくなった。しかしスマートフォンしか持ち合わせていないのだった。何故カメラを持ってこなかったのかを悔いた。じっくりと絞り値とシャッター速度を決めてカシャリと風景を切り取りたい、そんな思いが強かった。無いものは取りに行くしかない。

カメラを手にしてきた。霧と光の状態は変わっていた。あの風景はもう来ない。しかし新しい眺めが広がった。水を張った水田だった。その奥には小さなログハウスが一軒、林を背に立っている。木々が鏡のような水面に写り込んでいる。残っているフィルムは三カットしかない。無尽蔵に撮影できるデジタルカメラではないのだ。露出を変えて何枚かとるわけにもいかない。構図も露出もピントもすべてが一発勝負だった。中央重点測光なのだからファインダーの中の一番外の円の明るさを測って露出値を決めている。カメラの露出計を信じるか、欲しいものを写し込むのに露出を1/2ほど絞るのか、迷う。自分の頭がニコンマイコンの計算値よりも良いのだろうか?自分はずっとアンダーな色調が好きだった。光が写し込めると思うから。しかしそんな写真はいつも暗い色調になってしまい何を撮りたいのかがわからくなってしまうのだ。手に取れるような被写体を綺麗に取りたいのならばもしかしたら僅かにオーバーにしてみたらどうだろう。そんな思いを自由に実現できるものがデジタルカメラだった。ローキーもハイキ―もこれなら気にしないで何枚でも取れる。勝手に段階別に露出を変えてくれるオートブラケットを使えば楽だった。メモリーカードが満杯になるまで、電池が無くなるまで果て無く撮影が出来る。それは便利だが撮った写真が頭の中にあまり残らない。不思議だった。ここ最近になり再び始めたフィルムカメラ。デジタル時代になり棚の奥で埃を被っていたがまたやってみようという気になった。フィルムでは上限三十六枚のカット迄しか撮影できない。何枚撮ろうと自由だが、自分はワン・シーンをワン・ショットでやってみようと決めている。機械式のシャッターの持つ重さはまさに鋭利な肉切り包丁で塊の肉を剥がし、それを一口大に切るという快感がある。肉を剥がすのが絞りリングでありさばくのがシャッターだった。刃物ならば鋭利に一発で仕留めたい。

選んだ三ショットだった。フィルムを巻き取って裏ブタを開けた。保険ではないがデジタル一眼も持ってきた。こちらもフィルムカメラと同じ絞りとシャッター速度で撮影してみた。しかし奥の手である絞りのブラケットをローキーとハイキーにそれぞれ使った。

さてどんな三十六枚が写っているのか楽しみだ。フィルムカメラは結果がすぐには分からない。現像ラボも減ってしまった。今から自分で現像しようとも思わないし自分はフィルムを高解像度のスキャナで読み取ってデータをCDで貰いたいのだった。それならばデジタルカメラで撮影してレタッチソフトで白黒にすればよい・・そうではない。白黒には何処か懐かしさがある。そしてアナログカメラを触る感覚が好きなのだろう。フィルムをセットして裏ブタを閉じる。数枚空シャッターを切る。フィルム感度ダイアルをフィルムのその値に合わせる。ジリッとシャッターを巻く感触はデジタルでは味わえない。ボルトアクションのライフル銃だ。そしてシャッターはまるでスナイパーの引き金に思える。撃鉄が弾薬を叩くように、機械仕掛けでフォーカルプレーンのチタン幕が1/4000秒で動くのだ。他にこんな世界があるのだろうか。

今使っているフィルムのニコンは二台ある。手に入れて三十年かそれ以上か。幸いに現役だ。今日持って行ったFM2。これはフォーカスはもちろんだが絞りとシャッター速度の全てを自分で決めるマニュアル機だ。そして絞りを自分で決めるとシャッター速度が自動に追随する絞り優先オート機のFG20。後者は1/1000が最高速のシャッターがだがその分カメラは軽くてコンパクトで使い勝手が良い。次に買ってきたフィルムはコイツに入れてみるか。

狙いはロザリオだった。敬虔なクリスチャンが肌身は出さずに首からかけている。ロザリオと同じと言えば怒られる。それほどに身近に持ち歩ければ、と言う事だ。スマートフォンを常時持ち歩いているのだからいつもカメラは我が身から離れないが、あれはメモを撮るものだろう。この頃のカメラはやはり重たいしレンズも然り。しかしさっと身軽に撮影できれば一回しか出会えない風景を気に入ったように切り取れる・・・だろう。

アサヒカメラ誌に載っていたライトニコン・FG20が売り出された時のキャッチフレーズはこうだったか。「風になろうよ、明るく撮ろうよ」と。そう、風のように気楽に、ひらりひらりと。それはカメラだけの話でもない。ライフスタイルを謳っているとしたらまさに今の自分に必要な名キャッチコピーだろう。

二台のニコン。さて白黒フィルムをまた買おう。今度は右の小型軽量かな。奥の黒いオリンパスデジタルも併用する。一撃必殺は簡単ではないから。それでよいのだ。